河渡口の戦い(1600)
慶長五年八月二十三日、美濃合渡川の激闘 ― 関ヶ原の前哨戦「河渡口の戦い」の戦術的・戦略的意義の再検証
序章:天下分け目への序曲
慶長五年(1600年)、豊臣秀吉の死から二年、日本は再び動乱の渦に巻き込まれようとしていた。五大老筆頭の徳川家康が、会津の上杉景勝討伐の軍を発すると、その政治的空白を突く形で、五奉行の一人である石田三成が反家康の兵を挙げた 1 。ここに、天下の諸大名を二分する「関ヶ原の戦役」の幕が切って落とされたのである。
この天下分け目の戦いにおいて、軍事戦略上の最重要拠点と目されたのが、美濃国(現在の岐阜県南部)であった。美濃は、東国から京・大坂へ至る主要街道である中山道と東海道が交錯する交通の要衝であり、西軍にとっては、東海道・東山道を進撃してくるであろう東軍主力を阻止するための、文字通り第一防衛線であった 3 。
そして、その防衛線の中核を成すのが、金華山に聳える名城・岐阜城であった。当時の城主は、織田信長の嫡孫であり、かつての清洲会議で豊臣家の後継者として擁立された三法師こと、織田秀信。彼は美濃に十三万石を領し、その去就は戦役の序盤を大きく左右するものであった 4 。秀信は当初、家康の会津征伐に従う姿勢を見せていたが、石田三成から「勝利の暁には尾張・三河の二国を与える」という破格の条件を提示され、家臣団との評議の末、西軍への参加を決断する 6 。
この決断は、単なる一万余の兵力が西軍に加わったという以上の、重大な意味を持っていた。それは、「織田信長の後継者」という、豊臣政権下においても特別な象徴性を持つ存在が、公然と反家康の旗幟を鮮明にしたことを意味したからである。豊臣家を守るという西軍の大義名分は、これにより一層の輝きを増した。しかし、それは同時に、東軍にとって岐阜城を「何としても早期に、かつ徹底的に叩き潰さねばならない象徴的な標的」へと変貌させることにもなった。特に、福島正則や池田輝政といった豊臣恩顧の将帥たちにとって、旧主・信長の孫が家康に弓を引いたという事実は、軍事的な必要性に加え、「織田家を裏切った秀信を許さない」という感情的な反発を呼び起こし、さらには日和見する諸大名の動向を牽制するためにも「織田家の権威を早期に無力化する」という高度な政治的判断を促すものであった。
かくして、美濃は関ヶ原の戦役における最初の主戦場となった。本報告書は、この美濃を巡る一連の攻防、特に慶長五年八月二十三日に行われた「河渡口の戦い」に焦点を当てる。この戦いは、しばしば岐阜城攻防戦の一局面に過ぎないと見なされがちであるが、その実態は、戦役全体の趨勢を決定づけた極めて重要な戦術的機動であった。本稿では、合戦の経過を時系列に沿って詳細に再現し、この一戦が持つ戦術的・戦略的意義を再検証することを目的とする。
第一章:戦端開かる ― 岐阜城攻略戦の前日譚(八月二十二日)
慶長五年八月、東軍の先鋒諸隊は尾張国清洲城に集結し、美濃攻略の機を窺っていた。彼らの作戦は、岐阜城を孤立させ、電撃的にこれを陥落させることにあった。そのために立案されたのが、木曽川を二方面から同時に渡河し、織田秀信の防衛網を突破するという、大規模かつ大胆な二正面作戦であった 4 。
【午前】池田輝政隊の渡河 ― 河田木曽川渡河の戦い
八月二十二日未明、作戦の火蓋は切られた。池田輝政を総大将とし、浅野幸長、山内一豊、堀尾忠氏、一柳直盛らを擁する約一万八千の主力部隊が、尾張国葉栗郡河田(現・愛知県一宮市)から木曽川の対岸、美濃国羽栗郡河田島(現・岐阜県各務原市)を目指して進軍を開始した 4 。
西軍の織田秀信軍は、この動きを察知し、木曽川の西岸から鉄砲隊による迎撃を行った 4 。しかし、東軍の勢いは止まらない。この渡河作戦の成功には、地元の土豪であった野々垣源兵衛が水先案内人として活躍し、安全な渡河地点へと導いたことが大きく寄与したと伝えられている 4 。東軍は西軍の銃火を物ともせず渡河を強行し、木曽川の中州である小屋場島(現・各務原市)に橋頭堡を確保することに成功した 9 。
【午後】池田隊の進撃 ― 米野の戦い
渡河を完了した池田隊一万八千は、勢いを駆って美濃国内へと進撃。彼らを待ち受けていたのは、美濃国羽栗郡米野村(現・岐阜県笠松町)に布陣していた西軍の百々綱家、飯沼長資、木造具政らの部隊であった 9 。しかし、ここに展開していた西軍の兵力はわずか三千。対する東軍は一万八千と、その兵力差は六倍にも達していた 13 。
戦いの趨勢は、始まる前から明らかであった。正午頃、両軍は米野で激突。圧倒的な兵力で押し寄せる東軍の前に、西軍の防衛線は瞬く間に崩壊した。西軍の将・飯沼長資は奮戦の末に討死し、総大将の百々綱家らは残存兵を率いて岐阜城へと敗走した 13 。この米野の戦いでの大敗により、織田秀信軍は岐阜城防衛の第一線を失うこととなった。
【並行作戦】福島正則隊の進撃 ― 竹ヶ鼻城の戦い
池田輝政隊が木曽川上流で戦闘を繰り広げている頃、その下流ではもう一つの作戦が進行していた。福島正則を総大将とし、黒田長政、藤堂高虎、田中吉政、細川忠興、加藤嘉明ら猛将を揃えた約一万六千の別働隊である 4 。
彼らは当初、尾張国中島郡起(現・一宮市)からの渡河を試みたが、西軍の守りが堅固であったためこれを断念。即座に計画を変更し、さらに下流へと南下、防御の手薄な東加賀野井から木曽川を渡った 4 。渡河に成功した福島隊は、すぐさま北上し、美濃における西軍の拠点の一つであった竹ヶ鼻城を包囲した 4 。城主の杉浦重勝は五百の兵で籠城し、果敢に抵抗を試みた 7 。しかし、頼みとしていた援軍は現れず、東軍の猛攻の前に城は炎上。重勝は自害し、竹ヶ鼻城は八月二十二日の夕刻までに陥落した 4 。
この八月二十二日の一日の戦闘は、西軍・織田秀信の防衛計画が抱える致命的な欠陥を露呈させた。秀信は、東軍の渡河地点を正確に予測できず、兵力を木曽川沿いの広範囲に分散配置せざるを得なかった 4 。これは、1600年当時の木曽川が、宝暦治水(1754年)以前の時代にあって、無数の分流と広大な河原を持つ、いわゆる乱流河川であった地理的状況を考慮すれば、ある意味で不可避の選択であった 17 。しかし、兵力で圧倒的に優る東軍は、この「兵力分散のジレンマ」を巧みに突き、二手に分かれて異なる地点から同時に渡河するという作戦によって、西軍の防衛線を各個に撃破した。秀信の敗因は、個々の戦術的ミスというよりも、広大な河川を防衛線とする上で避けられない構造的弱点を突かれ、完全に戦いの主導権を握られてしまった点にあると言えよう。
第二章:運命の一日 ― 河渡口の戦い(八月二十三日)
八月二十二日の戦闘で、東軍は美濃における西軍の防衛前線を完全に粉砕した。そして運命の八月二十三日、東軍は満を持して岐阜城への総攻撃を開始する。しかし、この日、岐阜城の攻防と並行して、戦役全体の流れを決定づけるもう一つの重要な戦いが、城の西、合渡川(ごうどがわ)の渡し場で行われようとしていた。それが「河渡口の戦い」である。
この戦闘における両軍の兵力と任務は、以下の通りであった。
軍 |
主要指揮官 |
推定兵力 |
部隊の戦略的任務 |
東軍 |
黒田長政、藤堂高虎、田中吉政 |
約5,000~6,000 |
大垣城からの西軍援軍・連絡の遮断、岐阜城の完全孤立化 |
西軍 |
舞兵庫(前野忠康) |
約1,000 |
中山道・合渡川渡河点の死守、岐阜城と大垣城の連絡線維持 |
【黎明】東軍別働隊の機動
八月二十三日早朝、前日に竹ヶ鼻城を攻略した福島正則隊の中から、黒田長政、藤堂高虎、田中吉政の三将が率いる部隊が、岐阜城への攻撃隊列から静かに離脱し、西へと進路を変えた 3 。彼らは岐阜城の総攻撃という目前の戦功に固執しなかった。彼らが見据えていたのは、より大きな戦略目標であった。
その目標とは、岐阜城の西、中山道が長良川(この付近では当時「合渡川」と呼ばれた)を渡る交通の要衝、「合渡の渡し」(現在の岐阜市河渡)の制圧である 3 。この地点は、岐阜城と、石田三成ら西軍本隊が布陣する大垣城とを結ぶ唯一の主要経路上にあり、西軍にとってはまさに生命線であった 20 。この連絡線を遮断することこそ、岐阜城を完全に孤立させ、迅速な陥落を確実にするための最善手であった。
【午前】合渡川の対峙
黒田隊らが合渡川に到着すると、そこには既に西軍の部隊が布陣していた。彼らは、石田三成が大垣城から派遣した精鋭部隊であり、その指揮を執っていたのは、かつて豊臣秀次に仕え、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と舞兵庫」とまで謳われた勇将・舞兵庫(本名:前野忠康)であった 20 。
舞兵庫は、東軍の進撃を予測し、約一千の兵を率いてこの重要拠点を固めていた 7 。彼の任務は、何としてもこの渡し場を死守し、岐阜城への連絡線を確保することにあった。長良川の岸辺で、両軍は静かに睨み合った。
【戦闘勃発】銃火と鬨の声
対峙は長くは続かなかった。黒田長政、藤堂高虎、田中吉政といった歴戦の将たちは、西軍の布陣を確認するや、躊躇なく攻撃命令を下した。彼らは直ちに機先を制し、圧倒的な兵力をもって西軍の防衛線に襲いかかったのである 3 。
戦闘は、激しい銃撃戦をもって開始された 3 。東軍は数に任せて正面から押し寄せるだけでなく、黒田長政配下の鉄砲隊が巧みに展開し、舞兵庫隊の側面を突くなど、戦術的な優位を存分に活かした攻撃を繰り広げたと推察される。鬨の声と銃声が、合渡の川面に木霊した。
【決着】西軍の潰走
舞兵庫隊は、五倍以上の兵力差にもかかわらず、勇猛果敢に戦った。しかし、東軍の波状攻撃の前に、次第にその防衛線は崩れ始める。黒田、藤堂、田中の三隊による連携の取れた猛攻は、西軍の抵抗力を徐々に削り取っていった。
ついに、舞兵庫隊の戦線は限界に達し、崩壊した 20 。多くの史料が西軍は「不意を突かれた」と記しているように 21 、彼らは東軍の主力が岐阜城に集中していると油断していた可能性が高い。その虚を突いた東軍別働隊の電撃的な攻撃の前に、西軍は総崩れとなり、大垣城を目指して敗走した 21 。
この勝利により、東軍は合渡川の渡し場を完全に制圧。彼らはその勢いのまま西進を続け、大垣城からわずか一里(約4km)の地点にある赤坂の岡山(後に徳川家康が本陣を置き、「勝山」と呼ばれることになる丘)に布陣した 7 。大垣城の目と鼻の先に、東軍の先鋒が突き刺さった瞬間であった。
この「河渡口の戦い」における東軍の勝利は、単なる兵力の優越だけがもたらしたものではない。それは、彼らの優れた「情報分析能力」と「意思決定の速さ」の賜物であった。黒田長政らは、八月二十二日の戦果を冷静に分析し、岐阜城の抵抗はもはや時間の問題であると正確に判断した。そして、目前の城攻めという戦術的目標から、より大きな戦略的価値を持つ「敵軍主力の封じ込め」へと、即座に目標を再設定した。主戦場から一部隊を引き抜き、新たな戦線を構築するという、この大胆かつ迅速な機動こそが、後手に回り、守勢に立たされた西軍を圧倒した根源であった。
第三章:戦後の波紋 ― 一戦がもたらした戦略的帰結
合渡川での一日足らずの戦闘は、関ヶ原の戦役全体に巨大な波紋を広げることとなった。それは、単なる一局地戦の勝利に留まらず、東西両軍の戦略的状況を根底から覆す、決定的な転換点となったのである。
岐阜城の完全孤立と陥落
河渡口の敗戦は、岐阜城に籠る織田秀信とその将兵にとって、死刑宣告に等しいものであった。西軍の本拠地・大垣城からの援軍という最後の望みは、完全に絶たれた 3 。この絶望的な報は、東軍の総攻撃に晒されていた城内の士気を著しく低下させた。もはや抵抗は無意味であると悟った秀信は、同日八月二十三日の夕刻、ついに降伏を決断。城を開け渡し、上加納の浄泉坊(現在の円徳寺)にて剃髪した 4 。かつて織田信長が天下布武の拠点とし、難攻不落と謳われた岐阜城は、東軍の攻撃開始からわずか一日で、あまりにもあっけなく陥落したのである 3 。
西軍首脳部への衝撃
この一連の出来事は、大垣城に本陣を構える石田三成ら西軍首脳部にとって、まさに青天の霹靂であった。三成は、岐阜城が少なくとも数日間は持ちこたえ、その間に東軍先鋒隊を消耗させ、自身は美濃・尾張の地で万全の迎撃態勢を整えるという防衛戦略を描いていたと推察される 4 。しかし、その戦略の根幹を成す岐阜城が一日で陥落し、さらに合渡川を突破した東軍の先鋒部隊が、今や大垣城の喉元にまで迫っている 20 。この事態は、三成の想定を完全に超えるものであった。
合渡川での敗報を聞いた三成は、大きく狼狽したと伝えられている 20 。戦略の前提が根底から崩れ去った今、西軍は防衛計画の根本的な練り直しを迫られることになった。彼らは、戦役の開始早々、致命的な戦略的劣勢に立たされたのである。
東軍の主導権確立
対照的に、東軍はこの電撃的な勝利によって、戦役の主導権を完全に掌握した。岐阜城とその周辺の支城(竹ヶ鼻城、犬山城など)を制圧したことで、美濃国における軍事行動の自由を確保。さらに、黒田・藤堂隊が赤坂に前線拠点を築いたことで、西軍本拠地である大垣城を直接圧迫し、来るべき決戦に向けた極めて有利な戦略的態勢を構築することに成功した 23 。
この美濃での圧倒的な勝利の報は、直ちに江戸の徳川家康の元へともたらされた。東軍先鋒隊が、家康本隊の到着を待たずして西軍の重要拠点を陥落させたという事実は、家康に西上の決意を固めさせる最後のひと押しとなった 24 。美濃での勝利が、東軍全体の進軍を加速させたのである。
岐阜城の早期陥落という「結果」は、関ヶ原の戦いの「場所」と「形態」そのものを決定づけたと言っても過言ではない。もし、三成の目論見通り岐阜城が持ちこたえ、戦いが長期化していれば、関ヶ原の戦役は美濃・尾張国境の広大な地域を舞台とした、長期的な攻城戦と消耗戦の様相を呈した可能性が高い。しかし、河渡口での勝利に端を発するこの電撃的な決着は、東軍が西軍本隊を、城という有利な拠点から、開けた野戦の場へと引きずり出すことを可能にした。
大垣城に籠城を続けても、やがて到着する家康本隊によって完全に包囲され、兵糧攻めに遭うことは明白であった。西軍に残された選択肢は、東軍の全軍が集結しきる前に、野戦によって一気に決着をつけること以外になくなった。そして、その決戦の場として選ばれたのが、西へ退きつつも、伊勢・北陸方面からの友軍と合流しやすい、関ヶ原の盆地であった。
すなわち、「河渡口の戦い」による連絡線の遮断が「岐阜城の即日陥落」を招き、それが「西軍の防衛戦略の破綻」に繋がり、最終的に「関ヶ原での野戦決意」へと至るという、一連の強固な因果関係がここに成立する。美濃の一河川で行われた局地戦が、天下分け目の決戦の舞台そのものを設定したのである。
結論:局地戦が決定づけた戦役の潮流
慶長五年八月二十三日の「河渡口の戦い」は、関ヶ原の戦役における数多の前哨戦の一つとして、その詳細が見過ごされがちである。しかし、本報告書で検証した通り、その実態は、岐阜城の運命を決定づけ、西軍の戦略的選択肢を奪い、戦役全体の主導権を東軍にもたらした、極めて重要な戦術的勝利であった。
この戦いは、黒田長政、藤堂高虎、田中吉政といった東軍の将帥たちが、目前の戦功に目を奪われることなく、大局を見据えて柔軟な判断を下した、その卓越した指揮能力の証左である。彼らは、岐阜城攻めという戦術的任務から、より高次の戦略目標である「敵連絡線の遮断」へと、機を逃さず兵力を転用した。この迅速かつ的確な意思決定こそが、勝利の最大の要因であった。
わずか二日間の美濃における電撃戦、その中でも特に八月二十三日の「河渡口の戦い」から岐阜城陥落に至る一連の流れは、情報、機動力、そして決定的地点(decisive point)への兵力集中という、近代戦にも通じる軍事原則の重要性を示す、戦国末期の戦術の好例として再評価されるべきである。
この合渡川の渡し場での一戦がなければ、岐阜城はさらに数日間持ちこたえ、関ヶ原の戦いは全く異なる様相を呈していた可能性が高い。その意味において、この長良川の岸辺で行われた半日の戦闘は、日本の歴史の潮流を、関ヶ原という決戦の地へと大きく押し流した、決定的な一因となったと結論づけることができる。
引用文献
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- 【河田木曽川渡河の戦い跡・木曽川文化資料館】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_21213af2179722067/
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- 関ヶ原の戦いと中山道 河渡川の戦い - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E3%80%80%E6%B2%B3%E6%B8%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
- わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06916/