最終更新日 2025-09-01

河越城の戦い(1537~38)

関東の天秤、河越に傾く ― 天文六・七年 河越城攻防戦の徹底分析

序章:権威の黄昏、新興勢力の黎明 ― 合戦前夜の関東

天文年間(1532-1555)の関東は、長きにわたる動乱の末、旧来の秩序が崩壊し、新たな覇者を待望する混沌の時代であった。この時代の転換を象徴する戦いこそ、天文6年(1537年)から翌7年にかけて繰り広げられた「河越城の戦い」である。これは、後に日本三大奇襲の一つとして語り継がれる天文15年(1546年)の「河越夜戦」とは別の、後北条氏による武蔵国支配を決定づけた、より根源的な意味を持つ合戦であった。この戦いの本質を理解するためには、まず、その舞台となった関東の複雑な政治情勢を解き明かす必要がある。

第一節:形骸化する古河公方と関東管領

室町幕府の東国統治機関であった鎌倉府は、15世紀半ばの享徳の乱以降、その権威を著しく失墜させていた。鎌倉公方は下総国古河を拠点とする古河公方となり、その補佐役である関東管領(山内上杉氏)との対立は常態化していた 1 。さらに、関東管領を世襲する山内上杉氏と、その分家でありながら勢力を拡大した扇谷上杉氏との間にも、「長享の乱」と呼ばれる深刻な内紛が発生し、両上杉氏は互いにその力を削り合っていた 1

このような状況は、関東に統一された政治的・軍事的な意思決定機関が存在しないことを意味していた。古河公方と両上杉氏という三つの旧権威は、互いに牽制し、反目し合うことで、関東全域に「権力の真空」を生み出していたのである。後北条氏の台頭は、単なる一地方勢力の軍事的な成功物語ではなく、この旧権威が自壊していく過程で生まれた構造的欠陥を巧みに突いた、必然的な帰結であった。彼らの敵は単一の強大な勢力ではなく、内部分裂によって連携を欠く複数の旧勢力であり、後北条氏はこの複雑な関係性を利用し、外交と軍事を駆使して各個撃破の戦略を推進することが可能だったのである。

第二節:相模からの侵食 ― 北条氏綱の武蔵経略

伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆・相模を平定して築いた礎の上で、二代当主・北条氏綱は、関東の心臓部である武蔵国へとその触手を伸ばし始めた 1 。その戦略における画期となったのが、大永4年(1524年)の江戸城攻略である。扇谷上杉氏の重臣であった太田資高の内応を得て、氏綱は武蔵における扇谷上杉氏の拠点であった江戸城を奪取した 1 。これにより、扇谷上杉家当主・上杉朝興は、本拠を武蔵北部の河越城へ移さざるを得なくなり、後北条氏は武蔵南部への確固たる足掛かりを築くことに成功した。

さらに氏綱は、大永3年(1523年)に姓を「伊勢」から「北条」へと改めている。これは、鎌倉幕府の執権であった北条氏の名跡を継ぐことで、自らを関東の正統な支配者として位置づけようとする野心の表れであり、旧来の支配者である上杉氏に対する明確な敵対表明でもあった 6 。氏綱の戦略は、武力による領土拡大と、権威の簒奪を両輪として進められていたのである。

第三節:複雑な同盟と婚姻関係

後北条氏の巧みさは、その外交戦略にも見て取れる。氏綱は、古河公方・足利晴氏と一時的に同盟を結び、共通の敵であった房総の小弓公方・足利義明と対峙した 7 。この関係をさらに強固なものとするため、氏綱は自らの娘(後の芳春院)を晴氏の正室として嫁がせる約束を取り付けていた 7

この婚姻政策は、単なる同盟強化以上の意味を持っていた。古河公方家との姻戚関係を結ぶことで、後北条氏は自らを足利氏の「御一家」と位置づけ、関東の伝統的秩序の中に組み込むことが可能となる 9 。これにより、「成り上がり者」という新興勢力につきまとう評価を払拭し、他の国人衆を従わせるための「大義名分」と正統性を獲得する、極めて高度な戦略であった。武力で土地を奪い、婚姻で権威を吸収する。この二段構えの戦略こそ、後北条氏が急速に関東での影響力を増大させた要因の一つであった。

第一章:扇谷上杉家の悲運 ― 当主の死と若き後継者

天文6年(1537年)、関東の勢力図を塗り替える直接的な引き金が引かれた。それは、扇谷上杉家の屋台骨を揺るがす、一つの死であった。長年にわたり対北条氏の防波堤であり続けた当主の死と、経験の浅い若き後継者の登場は、虎視眈々と機会を窺っていた北条氏綱に、千載一遇の好機を与えることになった。

第一節:歴戦の将、上杉朝興の死

天文6年4月27日、扇谷上杉家当主・上杉朝興は、その生涯を閉じた。死の場所は、江戸城を追われて以来、対北条氏との戦いの拠点としてきた河越城であった 1 。享年50。朝興は、江戸城を失った後も決して屈することなく、大永5年(1525年)の白子原の戦いでは北条軍を破るなど、一貫して後北条氏への抵抗を続けた歴戦の将であった 13 。彼の存在そのものが、扇谷上杉家の抵抗の象徴であり、その死は家臣団に計り知れない動揺を与え、軍事的な支柱を失うに等しい打撃であった。

第二節:十三歳の当主、上杉朝定の船出

父・朝興の死を受け、家督を継承したのは、嫡男の五郎、後の上杉朝定であった。時に、わずか13歳 1 。戦国乱世において、若年の当主による家督相続は、しばしば家中の内紛や敵国の侵攻を招く最大の危機であった。朝定は家臣の離反を防ぎ、新当主としての威厳を示すため、初陣として北条方の関戸城を攻め、さらに深大寺城を改修するなど、積極的な軍事行動を見せた 14

しかし、この家督継承がもたらした危機の本質は、単に当主が若返ったという事実以上に深刻であった。それは、対北条氏の最前線で長年にわたって蓄積されてきた指揮官としての経験、戦況を的確に判断する能力、そして家臣団を一つにまとめる求心力といった、目に見えない無形の戦闘力が一挙に失われたことを意味していた。北条氏綱が、駿河国で今川氏と対峙する「河東一乱」の最中であったにもかかわらず、即座に武蔵への侵攻を決断した背景には、この扇谷上杉家の「指揮系統の脆弱化」という決定的弱点を、彼の優れた情報網が正確に見抜いていたからに他ならない 16 。氏綱にとって、多少のリスクを冒してでも、この好機を逃す手はなかったのである。

第二章:相模の獅子、動く ― 北条氏綱の武蔵侵攻

扇谷上杉家の内情を正確に把握した北条氏綱の行動は、迅速かつ果断であった。彼は関東の覇権を確立するためには、まず武蔵国の中核を抑えることが最優先であるという明確な戦略ビジョンに基づき、迷うことなく兵を動かした。

年月

出来事

関連勢力

備考

天文6年 (1537) 4月

上杉朝興、河越城にて病死。子の上杉朝定(13歳)が家督継承。

扇谷上杉氏

北条氏綱にとっての絶好の機会となる。

天文6年 (1537) 7月

北条氏綱、河越城へ侵攻開始。

後北条氏、扇谷上杉氏

三木の戦いで扇谷上杉軍が敗北。

天文6年 (1537) 7月16日

河越城、落城。

後北条氏、扇谷上杉氏

『快元僧都記』に「河越没落」と記録される。朝定は松山城へ敗走。

天文6年 (1537) 7月20日

難波田善銀(弾正)、松山城周辺の戦いで討死。

扇谷上杉氏

『快元僧都記』の記録。扇谷上杉氏にとって決定的な打撃。

天文7年 (1538) 1月

上杉朝定、河越城奪還のため出兵するも敗北。

扇谷上杉氏

自力での勢力回復が不可能となる。

天文7年 (1538) 2月

北条氏綱、下総・葛西城を攻略。

後北条氏

扇谷上杉氏の拠点をさらに削る。

天文7年 (1538) 10月

第一次国府台合戦。北条氏綱が小弓公方・足利義明を滅ぼす。

後北条氏、小弓公方

北条氏の房総方面への進出が本格化。

第一節:氏綱の決断と出陣

天文6年の夏、氏綱は河越城攻略の軍を発した。当時、北条氏は東の駿河国において今川氏との間で「河東一乱」と呼ばれる領土紛争の渦中にあり、二つの戦線を同時に抱えることは軍事上の常識からは逸脱した危険な賭けであった 16 。しかし、氏綱の戦略眼は、二正面作戦の回避と優先順位の確立にあった。彼は、今川との戦線は膠着状態に持ち込みつつ、当主交代で著しく弱体化した扇谷上杉氏を短期決戦で叩くことを選んだ。関東における覇権を握るためには、まずその中心地である武蔵国を完全に掌握することが不可欠であるという、彼の冷徹な情勢分析がこの決断を支えていた。

第二節:吉兆の鰹 ― 士気を高める演出

『北条五代記』には、この出陣に際しての興味深い逸話が記されている。氏綱が船に乗っていたところ、一匹の鰹が船中に飛び込んできた。これを見た氏綱は、「『かつうお』とは、勝つ魚なり。これぞまさに出陣の吉兆」と大いに喜び、兵たちの士気は天を衝くほどに高まったという 18 。この出来事が史実であるか否かは定かではない。しかし、これが単なる偶然や迷信として片付けられるべきではない。優れた指揮官は、時にこのような逸話を利用して兵士たちの心理を巧みに操り、戦いに臨む勢いと大義名分を創り出す。この「吉兆の鰹」は、氏綱の将器の大きさを物語るエピソードと見ることもできよう。

第三章:落日の攻防 ― 河越城、陥落のリアルタイム詳報

天文6年7月、北条氏綱率いる軍勢が武蔵国に侵入し、扇谷上杉氏の命運を懸けた攻防戦の火蓋が切られた。この章では、信頼性の高い史料に基づき、戦闘の推移を可能な限りリアルタイムに近い形で再構築する。

役職

北条方

扇谷上杉方

総大将

北条氏綱

上杉朝定

主要武将

北条為昌、北条綱成(福島綱成)

難波田憲重(善銀)、太田資正

拠点

小田原城

河越城、松山城

第一節:天文6年7月、戦端開かる

北条軍の侵攻に対し、若き当主・上杉朝定は防衛体制を固める。彼は重臣の難波田憲重(善銀)に命じ、対北条の拠点として深大寺城の改修を進めていた 14 。しかし、北条軍の進撃は上杉方の予想を上回る速さであった。

北条軍は深大寺城のような末端の拠点を攻略することに時間を費やさず、本丸である河越城へ直接進軍したとされる 19 。これに対し、上杉朝定は籠城策を選ばず、城から打って出て迎撃するという決断を下した。新当主として父・朝興のような武勇を示し、家臣団の求心力を高めたいという焦りが、この判断の背景にあったのかもしれない。しかし、この決断は致命的な結果を招く。河越城近郊の三木(あるいは三保ヶ原)で行われた野戦において、経験と兵力で勝る北条軍の前に扇谷上杉軍はなすすべなく大敗を喫した 12 。この初戦での惨敗により、上杉軍は野戦での抵抗を諦め、河越城での籠城を余儀なくされた。それは同時に、籠城兵の士気を著しく低下させ、来るべき落城の運命を早めることになったのである。

第二節:河越城包囲と落城の瞬間

野戦での勝利の後、北条軍は河越城を完全に包囲した。後北条氏が得意とした土木技術を駆使し、城の周囲には幾重にもわたる包囲網が築かれたと推察される 20 。井楼(せいろう)と呼ばれる物見櫓が建てられ、城内の動きは逐一監視され、竹を束ねた「竹束」で身を守りながら、鉄砲や弓による攻撃が断続的に加えられたであろう 22

城内では難波田一族を中心に必死の抵抗が続いたが、野戦での敗北による士気の低下と、長期化する包囲による兵糧の欠乏は、籠城兵の心身を確実に蝕んでいった。そして、運命の日が訪れる。

同時代の僧侶の日記であり、一次史料として極めて信頼性が高い『快元僧都記』には、こう記されている。「天文六年七月十六日、河越没落」 1 。わずか七文字のこの記述は、この日に河越城が北条氏の手に落ちたことを明確に示している。城内での降伏の決断、城兵の処遇、そして当主・上杉朝定がいかにして城を脱出したか、その詳細な記録は残されていない。しかし、彼が一部の家臣に守られながら、この難攻不落とされた本拠地を捨て、北方の松山城へと落ち延びていったことだけは確かである 1

第三節:史料の交差点 ― 難波田弾正の死

河越城の落城は、扇谷上杉家にとって悲劇の序章に過ぎなかった。同じく『快元僧都記』は、落城からわずか6日後の7月22日の条に、さらに衝撃的な事実を記録している。「一昨日廿日、松山之働・・・難波田弾正入道善銀同名隼人、佐々木并子息三人打死」 1 。これは、河越城を脱出した上杉朝定を追撃する北条軍との間で、松山城周辺で戦闘が発生し、7月20日に扇谷上杉家の重臣中の重臣であった難波田善銀(弾正)とその一族が討死したことを示している。

この一次史料の記述は、歴史の通説に重大な一石を投じる。なぜなら、江戸時代に成立した『北条記』などの軍記物では、難波田弾正は9年後の天文15年(1546年)の「河越夜戦」において、主君・朝定と共に壮絶な討死を遂げたと描かれているからである 19 。この明確な矛盾は、歴史が後世に「物語化」されていく過程を如実に示している。より劇的で英雄的な物語として知られる「河越夜戦」を盛り上げるため、本来はこの天文6年の戦いで命を落としていたはずの悲劇の名将・難波田弾正が、その物語の重要な登場人物として「復活」させられた可能性が極めて高い。

本報告書では、同時代の記録である『快元僧都記』の記述を重視する。すなわち、天文6年7月の河越城落城は、扇谷上杉家にとって単に本拠地を失っただけでなく、最も頼りとしていた軍事指導者をも失うという、再起不能に近いほどの決定的な打撃であった。この時点で、扇谷上杉家の命運は、事実上尽きていたと言っても過言ではないのである。

第四章:覇権への布石 ― 戦後の北条氏と失意の上杉氏

河越城の奪取は、後北条氏にとって終着点ではなく、関東制覇という壮大な目標に向けた新たな出発点であった。一つの勝利を次の戦略目標達成への足掛かりとする、彼らの巧みな戦争術が、この戦後の展開において遺憾なく発揮されることになる。

第一節:上杉朝定、決死の反攻

松山城へと逃れた上杉朝定は、失意の底にありながらも、失地回復の望みを捨ててはいなかった。年が明けた天文7年(1538年)1月、彼は残された兵力を結集し、河越城奪還のための軍を挙げる。しかし、この決死の反攻も、既に万全の防備を固めていた北条軍の前に再び敗北を喫した 12 。この敗北は、扇谷上杉氏がもはや自力で勢力を回復することが不可能であることを、誰の目にも明らかにした。

第二節:北条氏の追撃と勢力拡大

上杉朝定の反撃を退けた北条軍は、その勢いを駆って追撃戦に転じた。河越城という背後の憂いを断ったことで、彼らは武蔵から下総へと、その支配領域を面として拡大させるための連続した作戦行動を開始した。

まず、天文7年2月、扇谷上杉方の数少ない拠点として残っていた下総国の葛西城を攻略 12 。これにより、武蔵国内における扇谷上杉氏の拠点は、松山城と岩付城のみとなり、その勢力は完全に封じ込められた。

さらに同年10月、氏綱は軍を東に進め、房総半島に独自の勢力を築いていた小弓公方・足利義明と下総国府台で激突する(第一次国府台合戦)。この戦いで北条軍は圧勝し、足利義明を討ち取って小弓公方を滅亡させた 1 。天文6年の河越城落城から始まった一連の軍事行動は、わずか1年あまりで扇谷上杉氏を無力化し、同時に新たな敵対勢力をも排除するという、驚くべき成果を上げたのである。

第三節:河越城の新たな役割

一方、北条氏の支配下に入った河越城は、その戦略的重要性を一変させた。かつては北条氏の侵攻を阻む扇谷上杉氏の牙城であったが、今や両上杉氏の残存勢力を抑え込むための最前線基地、そして武蔵国支配の拠点として、その防備はさらに固められた 1 。城代には、氏綱の子である北条為昌、後には「地黄八幡」の旗印でその勇猛さを敵味方に知らしめることになる猛将・北条綱成(当時は福島姓か)が配置された 1 。この人選からも、北条家がこの城をいかに重視していたかが窺える。

第五章:戦術と城郭の分析 ― なぜ河越城は落ちたのか

天文6年の河越城攻防戦は、なぜこれほどまでに一方的な結果に終わったのか。本章では、戦いの舞台となった城郭の構造、そして両陣営の戦略・戦術を分析し、その勝敗を分けた要因を多角的に考察する。

第一節:戦いの舞台 ― 天文年間の河越城

16世紀前半の河越城は、長禄元年(1457年)に太田道灌によって築城された中世城郭の姿を色濃く残していた。城は、周辺に広がる湿地帯という自然地形を巧みに利用し、土塁や堀で区切られた曲輪を直線的に並べる「連郭式」の縄張りであったと推定される 29 。この築城法は、築城者になぞらえて「道灌がかり」とも称された 29

特筆すべきは、石垣を多用せず、土を盛り上げた土塁と、深く掘られた堀(特に水堀)を防御の主軸としていた点である 29 。これは当時の関東の城郭に共通する特徴であり、大軍による力攻めに対しては高い防御力を発揮した。しかし、一度野戦で敗れて包囲され、兵糧攻めに持ち込まれると、その堅牢さも意味をなさなくなるという脆弱性を内包していた。

第二節:扇谷上杉氏の敗因

扇谷上杉氏の敗因は、複合的な要因によるものであったが、その根源は一つに集約される。

  • 指導者の不在と若年化: 最大の敗因は、経験豊富な指導者であった上杉朝興の死と、わずか13歳の上杉朝定による家督継承という、指導者層の決定的な弱体化にあった 1 。これにより、家臣団の統率に乱れが生じ、北条氏の侵攻という国家的な危機に対して、一貫した戦略を立てることができなかった。
  • 戦略的後手: 北条氏の迅速な侵攻に対し、有効な迎撃策や、宿敵であった山内上杉氏との連携といった外交戦略を構築する時間的猶予も、それを実行する政治力も欠いていた。初戦で野戦を選択し大敗したことは、その戦略的未熟さを象徴している。
  • 国力の消耗: 長年にわたる山内上杉氏との内紛、そして後北条氏との断続的な戦闘は、扇谷上杉氏の国力を確実に疲弊させていた 3 。決戦の時点において、もはや北条氏の総力を受け止めるだけの余力は残されていなかったのである。

第三節:北条氏綱の勝因

対照的に、北条氏綱の戦略は、周到かつ合理的であった。

  • 好機の的確な捕捉: 敵の当主交代という、またとない好機を見逃さなかった情報収集能力と、それを即座に行動に移す決断力は、戦国大名としての氏綱の非凡さを示している。
  • 一点集中の原則: 駿河方面に今川氏という敵を抱えながらも、二正面作戦のリスクを冷静に評価し、最も重要かつ脆弱な目標である河越城に戦力を集中させ、短期決戦で目的を達成した戦略眼は高く評価されるべきである 5
  • 外交と軍事の連携: 氏綱の強さは、単なる軍事力に留まらない。古河公方との婚姻関係を利用して自らの支配の正統性を高めるなど、武力一辺倒ではない、巧みな領国経営術と外交戦略が、彼の軍事行動を強力に後押ししていた 5

終章:関東の歴史が変わった日 ― 河越城落城の歴史的意義

天文6年(1537年)7月16日の河越城落城は、単なる一つの城の陥落に終わる事件ではなかった。それは、室町時代から続いてきた関東の旧秩序が崩壊し、後北条氏という新たな覇者が誕生する時代の分水嶺となる、決定的な一日であった。

第一節:扇谷上杉氏の没落決定

この敗北により、扇谷上杉氏は武蔵国における中心的な支配権を完全に喪失し、一地方勢力へと転落した。当主・上杉朝定は9年後の天文15年(1546年)、「河越夜戦」で討死し、扇谷上杉氏は名実ともに滅亡する 12 。しかし、その命運は、本拠地と最有力家臣を同時に失ったこの天文6年の時点で、既に決していたと言える 31

第二節:後北条氏の覇権確立

武蔵国という関東の中心地を手中に収めたことで、後北条氏は名実ともに関東の覇者へと躍進する強固な礎を築いた 24 。この勝利は、古河公方と関東管領が権威を競い合っていた室町時代以来の旧秩序を完全に過去のものとし、実力を持つ戦国大名が新たな支配体制を確立する時代の到来を告げるものであった 1 。関東の天秤は、この日を境に、後北条氏へと不可逆的に傾いたのである。

第三節:九年後の「河越夜戦」への伏線

そして、この戦いは、日本戦国史にその名を刻む「河越夜戦」へと直接繋がっていく。天文15年(1546年)に起こるこの著名な戦いは、天文6年の敗北で失われた河越城を奪還するために、山内・扇谷の両上杉氏が、古河公方をも巻き込んで総力を結集した、雪辱を期す「リターンマッチ」であった。

これまで「河越夜戦」の影に隠れがちであった天文6年の「河越城の戦い」は、単なる前哨戦ではない。それは、関東の勢力図を塗り替えた「原因」となる戦いであった。そして、日本三大奇襲として名高い「河越夜戦」は、その「結果」として引き起こされた、旧勢力による最後の、そして絶望的な抵抗であった。この因果関係を理解することなくして、関東戦国史の大きな流れを正しく把握することはできない。天文6年7月16日、河越城が落城したその日こそ、関東の歴史が大きく動いた一日だったのである。

引用文献

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  2. 関東管領上杉氏 - 吾妻の歴史を語る https://denno2488.com/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E7%AE%A1%E9%A0%98%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F/
  3. 河越城 奇襲によって大軍を破った戦い - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2017/09/30/000000
  4. 大まかな歴史の流れ 4 中世 3伊勢宗瑞・氏綱~武蔵制覇 | 東大和の歴史 https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/1231
  5. 北条氏綱(ほうじょう うじつな) 拙者の履歴書 Vol.178~北条から関東の礎を築く - note https://note.com/digitaljokers/n/n40c903ee8573
  6. 北条氏綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%B6%B1
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  8. 栃木の小大名が幕府から厚遇されていた理由…下野・喜連川に受け継がれた「足利の血脈」 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8293?p=1
  9. 古河公方とは 5.上杉と北条、二人の関東管領 - 古河史楽会 http://www.koga-shigakukai.com/column/column_kubou/kubou-06.html
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  13. 上杉朝興 Uesugi Tomooki - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/uesugi-tomooki
  14. 上杉朝定 (扇谷上杉家) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%9C%9D%E5%AE%9A_(%E6%89%87%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%B6)
  15. 閑話 第一章まとめ・現時点での人物紹介、扇谷上杉編 - 落ち目の小大名、河越城から復活出来るか?(木沢左京亮) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16818093086012835770/episodes/16818093086166530647
  16. 籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する 第3回 河越城の戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/1329
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  19. 歴史ロマン探訪〜河越城を巡る闘いと難波田(なんばた)氏〜 | カワゴエ・マス・メディア https://koedo.info/160122nanbata/
  20. 後北条氏のすごい支配体制だった小田原城下町~神奈川県の歴史~ (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/523/?pg=2
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