最終更新日 2025-09-07

沼田城の戦い(1589~90)

天正17年、秀吉の裁定で北条氏に渡った沼田城。だが城代が真田領の名胡桃城を奪取。これが惣無事令違反と見なされ、秀吉の小田原征伐を招き、北条氏滅亡の引き金となった。

沼田城を巡る攻防(1589-90年)- 名胡桃城事件から小田原征伐へ至る道程

序章:天下統一の奔流と沼田領問題

天正17年(1589年)、日本の歴史が大きく動く一つの事件が、上野国(現在の群馬県)の小さな城、名胡桃城で発生した。この事件は、単なる国境紛争に留まらず、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げである小田原征伐の直接的な引き金となった。本報告書は、この「名胡桃城事件」を発端とする沼田城を巡る一連の攻防を、その背景から結末に至るまで、時系列に沿って詳細に分析するものである。

上野国沼田の地理的・戦略的重要性

上野国北部に位置する沼田は、関東平野の北端にあたり、越後と信濃、そして関東を結ぶ交通の要衝であった 1 。その中心である沼田城は、利根川と薄根川が合流する地点の河岸段丘上に築かれ、三方を約70メートルの断崖に囲まれた天然の要害であった 1 。この地理的・戦略的重要性から、沼田の地は長年にわたり、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして関東の北条氏という三大勢力の草刈り場となり、熾烈な争奪戦が繰り広げられてきたのである 1

天正壬午の乱以降の真田氏と北条氏による熾烈な領有権争いの経緯

天正10年(1582年)、武田氏が織田・徳川連合軍によって滅亡すると、上野国は織田家臣・滝川一益の所領となるが、同年の本能寺の変を契機に、再び権力の空白地帯と化した 1 。この「天正壬午の乱」と呼ばれる混乱の中、武田旧臣であった真田昌幸は、巧みな外交と軍事行動によって沼田領をその手中に収める 1

しかし、関東の覇者である北条氏もまた、沼田領の領有を強く望んでいた。徳川家康と北条氏が和睦した際、その条件として沼田領の北条氏への引き渡しが決められたが、昌幸はこれを断固として拒否 3 。主君を徳川氏から上杉氏へと乗り換えるという大胆な外交策を敢行し、自らの独立を維持しようと試みた 1 。この昌幸の決断は、天正13年(1585年)の第一次上田合戦で徳川軍を、同時期に侵攻してきた北条軍をも撃退するという輝かしい戦果に繋がったが、同時に沼田領を巡る真田・北条両氏の対立を決定的なものとした 4

この一連の動きは、単なる領土紛争という側面だけでは捉えきれない。それは、真田昌幸という新興勢力が、徳川、北条という巨大勢力の思惑が渦巻く中で、いかにして自らの独立を保ち、大名としての地位を確立するかという、極めて高度な地政学的生存戦略であった。沼田という土地の価値以上に、昌幸にとっては自らの存在意義を賭けた戦いであったのである。

豊臣秀吉の天下統一事業と「惣無事令」の衝撃

その頃、中央では豊臣秀吉が天下統一事業を急速に進めていた。九州、四国を平定した秀吉は、天正15年(1587年)に関東・奥羽の大名に対し、「惣無事令(そうぶじれい)」を発令する 5 。これは、大名間の私的な領土紛争(私戦)を禁じ、領地の境界に関する問題はすべて豊臣政権が裁定するという、画期的な法令であった。

自らの実力で領土を切り拓いてきた戦国大名、とりわけ関東に巨大な独立王国を築き上げていた北条氏にとって、この惣無事令は自らの存在基盤を揺るがすものであった。もはや、力ずくで領土問題を解決する時代は終わりを告げようとしていた。長年にわたる真田氏と北条氏の係争地であった沼田領は、この「旧来の秩序」と秀吉がもたらす「新しい秩序」とが激突する、象徴的な舞台となる運命にあったのである。

第一章:豊臣政権による「沼田裁定」- 束の間の平穏(天正17年/1589年2月~10月)

惣無事令という新たな秩序の下、膠着状態にあった沼田領問題は、天下人・豊臣秀吉の手に委ねられることとなった。これは、武力ではなく、中央政権の権威による紛争解決という、新しい時代の到来を告げる出来事であった。

秀吉による仲裁と裁定内容の確定

北条氏当主・氏直は、秀吉への臣従と上洛の条件として、長年の懸案であった沼田領問題の解決を求めた 7 。これを受け、天正17年(1589年)2月、氏直は家老の板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)を上洛させ、正式に秀吉の裁定を仰いだ 8

数ヶ月にわたる審議の末、秀吉は裁定を下す。その内容は、沼田領を分割し、全体の3分の2にあたる沼田城本体とその周辺地域(利根川以東)を北条氏に与える一方、残る3分の1にあたる名胡桃城とその周辺地域を真田氏の所領として安堵するというものであった 6 。この裁定は、北条氏の面子を立てて上洛を促すという政治的配慮と、関東の地に惣無事令を徹底させるという秀吉の強い意志の表れであった。

徳川家康の役割と真田氏への代替地

この裁定において、真田氏が失う領地は決して小さくなかった。その不満を和らげるため、秀吉は真田氏が当時従属していた徳川家康に対し、真田氏への代替地提供を命じた。これにより、家康は自らの領地であった信濃国伊那郡の一部を真田氏に与えることとなった 8

この措置は、秀吉の巧みな政治手腕を如実に示している。秀吉にとって最大の関心事は、沼田の帰属そのものよりも、関東の覇者である北条氏を豊臣政権の序列に組み込むことであった。沼田問題は、そのための最も効果的な「楔」であり、北条が裁定を受け入れれば臣従への道が開かれ、拒否すれば討伐の大義名分となる。一方で、長年抵抗してきた真田氏の不満を抑えるため、直接の主筋である家康に補償の役割を負わせた。これにより、家康の顔を立てさせ、真田の不満を吸収し、かつ豊臣政権の絶対的な権威を示すという、一石三鳥の効果を狙ったのである。この裁定は、単なる領土分割ではなく、秀吉、家康、北条、真田の力関係を再定義する、高度な政治工作であった。

現地での引き渡し作業と両者の動向

裁定を受け、天正17年(1589年)7月、現地では城の引き渡し作業が開始された。秀吉の上使として津田盛月(つだもりつき)と富田一白(とみたいっぱく)、そして徳川家からの立会人として重臣・榊原康政が沼田に赴いた 8 。彼らの監督の下、7月21日、沼田城は真田方から北条方へと無事に引き渡された 9

真田昌幸は、苦渋の決断の末に沼田城を明け渡し、防衛線を名胡桃城まで後退させた 2 。一方、北条方は猪俣邦憲(いのまたくにのり)を城代として沼田城に入城させ、長年の悲願であった沼田支配を現実のものとした 1 。この時点では、真田・北条双方が裁定を受諾し、長きにわたった沼田を巡る争いは、ついに終結したかのように見えた 8 。しかし、この平穏は、わずか3ヶ月余りで破られることになる。

第二章:名胡桃城事件の勃発 - 謀略と悲劇の連鎖(天正17年/1589年10月下旬~11月上旬)

豊臣秀吉の裁定によってもたらされた束の間の平穏は、秋の訪れと共に突如として破られた。沼田城に入った北条方の将が、真田領として安堵されたはずの名胡桃城を武力で奪取するという、天下の秩序を揺るがす事件が勃発したのである。

事件の勃発と時系列

天正17年(1589年)10月下旬、沼田城代・猪俣邦憲が軍勢を動かし、真田領の名胡桃城を攻撃、これを占拠した 13 。この行為は、秀吉自らが下した裁定を一方的に武力で覆すものであり、何よりも大名間の私戦を禁じた「惣無事令」に対する公然たる挑戦であった 5 。戦国乱世の終焉を告げる、歴史の転換点となる事件の幕開けであった。

事件の経緯に関する諸説の比較検討

この名胡桃城奪取の経緯については、主に二つの説が存在する。一つは軍記物などに伝わる通説、もう一つは近年の研究で指摘されている異説である。

【通説:猪俣邦憲主導の謀略説】

広く知られている説は、猪俣邦憲が周到な謀略をもって名胡桃城を乗っ取ったというものである。この説によれば、猪俣は名胡桃城の守将であった鈴木主水(すずきもんど、名は重則)の義理の兄(姉婿)にあたる中山九郎兵衛を内応させた 3 。そして天正17年10月、中山は鈴木に対し「主君である真田昌幸様がお呼びである」と偽の召喚命令を伝え、鈴木を城外の上田城へと向かわせた 3 。鈴木が城を留守にした隙を突き、中山は城門を固く閉ざし、猪俣の軍勢を城内に招き入れたとされる 3 。これは、猪俣の主導による典型的な調略であったとする見方である。

【異説:名胡桃城内の内紛利用説】

一方、近年の研究では、事件の引き金は真田方の内部にあったとする説も有力視されている。この説では、まず名胡桃城内で城代の鈴木重則と、その家臣であった中山実光(中山九郎兵衛と同一人物かは議論がある)との間に対立が生じ、内紛に発展したとされる 7 。中山が鈴木を城から追放した後、中山は「真田が越後(上杉)の援軍を領内に引き入れようとしている」という名目で、隣接する沼田城の猪俣邦憲に救援を要請したという 7 。猪俣は、この要請に応える形で軍を派遣し、結果として名胡桃城を占拠するに至ったとする。この場合、猪俣の行動は一方的な侵略というよりも、内紛への「介入」という側面を持つことになる。しかし、いずれの説を取るにせよ、秀吉の許可なく軍事行動を起こした時点で、惣無事令に違反することに変わりはなかった。

事件の真相は、一次史料が乏しいことから断定は困難であるが、以下の表に両説の要点を整理する。

比較項目

通説(猪俣主導の謀略説)

異説(内紛利用説)

事件の主導者

猪俣邦憲

中山実光

猪俣の役割

侵略の首謀者

内紛への介入者

事件の引き金

北条方の領土的野心

真田方の内紛

根拠となる情報源

軍記物中心の伝承 3

近年の研究、書状の解釈 7

城代・鈴木重則の悲劇的な結末

謀略によって、あるいは内紛の果てに城を奪われた城代・鈴木重則の最期は悲劇的であった。自らの不覚により主君の城を失ったことを深く恥じた重則は、沼田城下にある正覚寺(しょうかくじ)において、その責を一身に負い自害して果てた 5 。伝承によれば、その最期は、立ったまま己の腹を切り裂く「立腹(たちばら)」という壮絶なものであり、武士としての忠義と無念を後世に伝えている 15

第三章:天下人・秀吉の激怒と北条氏の誤算(天正17年/1589年11月)

名胡桃城で起きた一連の事件は、瞬く間に関係諸将の知るところとなり、やがて京の豊臣秀吉の耳に達する。一地方の城の奪取という行為が、天下人の逆鱗に触れ、関東の雄・北条氏を滅亡へと導く巨大な政治問題へと発展していくのに、多くの時間はかからなかった。

情報伝達と各勢力の初動

事件の一報は、まず真田昌幸の嫡男・信幸から、徳川家康へと迅速に報告された 12 。この報告を受けた家康の対応は、極めて冷静かつ政治的であった。彼は真田氏に直接的な軍事加勢をすることはせず、まずは沼田城引き渡しに立ち会った秀吉の上使、津田盛月と富田一白に事実を報告するよう指示したのである 12 。これは、この問題を真田と北条の局地的な紛争に留めるのではなく、豊臣政権全体の公式な案件として処理させることで、自らは仲介者としての立場を保ちつつ、事態の解決を天下人である秀吉に委ねるという、巧妙な政治判断であった。

秀吉の反応と北条討伐の決意

家康を経由して報告を受けた秀吉は、これに激怒した。自らが下した裁定が、そして天下の静謐を期して発令した惣無事令が、いとも容易く破られたことは、秀吉の権威に対する許しがたい挑戦であった。その怒りは、現存する書状から生々しく伝わってくる。

天正17年11月21日、秀吉はまず被害者である真田昌幸に書状を送った。その中で秀吉は、「名胡桃城を攻めた者共を成敗しない限り、北条を赦免することはありえない」と断言し、「来春まで国境の諸城に兵を入れ、堅固に守りを固めるように。もし北条が攻めてくるようならば、小笠原(貞慶)や川中島(上杉景勝)へも援軍を出すよう申し遣わす」と、真田氏への全面的な支援と、北条氏に対する断固たる姿勢を明確に示した 12 。この時点で、もはや北条氏の弁明は意味をなさず、討伐は既定路線となっていた。

さらにその3日後の11月24日、秀吉は北条氏直に詰問状、事実上の宣戦布告を突きつける。その文面は苛烈を極め、度重なる上洛命令の無視や今回の名胡桃城奪取を「表裏ある所業」と厳しく糾弾し、「来歳必ず節旄(軍権の象徴)を携へ進発せしめ、氏直が首を刎ぬべき事、踵を廻らすべからざる者也(来年には必ず出兵し、氏直の首を刎ねる。もはや決定を覆すことはない)」と、極めて強い言葉で討伐の意志を宣告したのである 17

北条氏の弁明と致命的な状況認識の欠如

この秀吉の怒りに対し、北条氏の対応は致命的なまでに状況認識を欠いていた。彼らは秀吉に対し、「名胡桃城の占拠は、城代の猪俣邦憲が独断で行ったことであり、北条家としては関知していない」という弁明書を送った 12 。さらに重臣の石巻康敬を上洛させ、直接弁明を試みたが、秀吉は面会すら拒絶し、一切聞き入れなかった 12

最大の問題は、北条氏がその弁明を裏付ける行動、すなわち猪俣邦憲の処罰を全く行わなかったことである 7 。それどころか、事件後も猪俣を沼田城代に留任させ、前当主の氏政に至っては、猪俣に対し激励の書状と贈り物をしていた記録さえ残っている 12 。これは、名胡桃城奪取が猪俣の独断ではなく、北条上層部の意向、あるいは少なくとも黙認の下に行われたことを強く示唆している 7

北条氏の滅亡は、軍事的な敗北以前に、この情報戦と政治的認識の完全な敗北に起因する。彼らは「名胡桃城」という物理的な土地の奪い合いとして事件を捉えていたが、秀吉は自らが定めた「惣無事令」という国家の法秩序が破壊されたと捉えていた。この視点の絶望的な乖離が、両者の運命を分けたのである。北条氏は、戦国時代以来の「国境の小競り合いは、謝罪や弁明で解決できる」という旧来の価値観から抜け出せなかった。しかし秀吉にとって、これは政権の威信を賭けた問題であり、絶対に看過できるものではなかった。結果として、北条氏は秀吉に「法を破り、反省もせず、虚偽の弁明をする許しがたい反逆者」という、討伐のための完璧な大義名分を自ら与えてしまったのである。

第四章:小田原征伐と沼田城の帰趨(天正17年/1589年12月~天正18年/1590年7月)

名胡桃城事件を口実とし、豊臣秀吉はついに最後の独立勢力である北条氏の討伐を決定した。天下統一事業の最終章、戦国時代最大規模の軍事行動となる小田原征伐の火蓋が切って落とされた。

秀吉による全国大名への動員令

天正17年(1589年)12月、秀吉は全国の諸大名に対し、北条討伐のための動員令を発した 13 。徳川家康、前田利家、上杉景勝といった東国の大名はもちろん、西国の毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘に至るまで、豊臣政権に服属するほぼすべての大名が動員された。その総勢は22万ともいわれ、陸路と海路から関東へ向かう大軍は、まさに日本の軍事力を結集したものであった 19

「小田原評定」と北条氏の抗戦決断

圧倒的な豊臣軍の侵攻を前に、北条氏は本拠地である小田原城で評定を開いた。しかし、この評定は結論が出ないまま議論が紛糾し、いたずらに時間を浪費したことから、後に「小田原評定」という故事成語の語源となった 20

城内では、徹底抗戦を主張する主戦派(前当主・氏政やその弟・氏照ら)と、秀吉との和睦を模索する穏健派(当主・氏直や叔父・氏規ら)との間で意見が激しく対立した 22 。有効な戦略を打ち出せないまま、北条指導部は、難攻不落と謳われた小田原城と関東各地の支城ネットワークに頼る籠城策を選択する 23 。しかし、これは秀吉の圧倒的な物量と兵站能力を前に、あまりにも時代遅れな戦略であった。

小田原城の開城と北条氏の滅亡

天正18年(1590年)4月、小田原城は豊臣の大軍によって完全に包囲された。秀吉は力攻めを避け、城を見下ろす笠懸山に、石垣を備えた本格的な城(石垣山一夜城)を短期間で築城し、北条方の戦意を削ぐという心理戦を展開した 24 。その間にも、北条方の重要支城であった山中城はわずか半日で陥落し、下田城なども次々と豊臣軍の手に落ちていった 13

約3ヶ月にわたる包囲の末、兵糧の欠乏と味方の相次ぐ降伏により、城内の士気は完全に尽きた。同年7月5日、当主・氏直は降伏を決断し、小田"原城は無血開城した 8 。戦後処理において、開戦の責任を問われた氏政と氏照は切腹を命じられ、氏直は高野山への追放処分となった 24 。これにより、約100年にわたり関東に君臨した戦国大名・後北条氏は、その歴史に幕を閉じた。

戦後処理:沼田領の真田氏への全面返還

小田原征伐の戦後処理において、一連の事件の発端となった沼田領の帰趨も決定された。秀吉は、惣無事令に従い、自らに忠誠を尽くした真田氏の功績を認め、係争地であった沼田領全域(名胡桃領含む)を真田氏の所領として正式に安堵した 1

そして、新たな沼田城主には、真田昌幸の嫡男・信幸が就任した 1 。信幸は、徳川家康の重臣・本多忠勝の娘である小松姫を正室に迎えており、徳川家との繋がりも深い人物であった 1 。この人事は、真田家が豊臣政権下の大名として公的に認められただけでなく、関東の新領主となる徳川家康との関係を円滑にする上でも重要な意味を持っていた。

この一連の帰結は、名胡桃城事件が単なるきっかけに過ぎなかったことを示している。秀吉の真の目的は、日本最後の独立勢力である北条氏を解体し、その広大な領地を再配分することによって、豊臣政権の支配体制を盤石にすることであった。その過程で、北条の旧領である関東には徳川家康が移封され、日本の権力構造は大きく再編される。真田氏への沼田領安堵は、この巨大な政治的地殻変動の中で行われた一つの「報酬」であり、惣無事令という新たな秩序に従う者には恩賞が与えられることを天下に示す、象徴的な措置であった。

終章:戦後の沼田と関係者たちのその後

小田原征伐によって戦国乱世は事実上の終焉を迎え、日本は新たな時代へと移行する。その発端となった沼田の地もまた、真田氏の下で新たな歴史を歩み始めた。

真田氏による沼田統治の始まり

沼田城主となった真田信幸(後に関ヶ原の戦いの後に信之と改名)は、長年の戦乱で荒廃した城と城下町の復興に力を注いだ。城郭を近世的な様式に改修・整備し、領国経営の基礎を固めていった 1 。天正18年(1590年)以降、沼田は真田氏の北関東における拠点として、安定した統治の時代を迎える。後の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と弟・信繁(幸村)が西軍に与する中、信幸は東軍に属し、戦後、父の旧領であった信州上田をも継承。9万5千石の大名として、真田家の礎を盤石なものとした 1

事件の当事者、猪俣邦憲の意外なその後

一方、名胡桃城事件を引き起こし、結果的に北条家滅亡の直接的な原因を作った猪俣邦憲は、意外な後半生を送った。彼は戦後、処刑されることなく、北国方面軍を率いた前田利家に仕官し、その家臣となったのである 7 。これは、彼の政治的な判断の誤りとは別に、一人の武将としての能力や経験が、新たな主君の下で評価されたことを示唆している。敵方の将であっても有能な人材は登用するという、戦国時代から続く武家の価値観を示す興味深い事例といえる。

歴史的意義:名胡桃城事件が戦国時代の終焉を決定づけた一因としての評価

上野国の一支城で起きた名胡桃城事件は、その規模に比して、日本の歴史に極めて大きな影響を与えた。この事件がなければ、北条氏の上洛が実現し、その滅亡は避けられたかもしれない。しかし、猪俣邦憲の行動と、それを咎めなかった北条指導部の判断は、豊臣秀吉に討伐の完璧な大義名分を与えてしまった 14

結果として、この事件は100年以上にわたって続いた戦国乱世の終焉を告げる、小田原征伐の導火線となった 25 。それは、個々の武将が自らの武力によって領土を拡大するという旧時代の論理が、中央集権的な権力と「法」に基づく新しい時代の秩序によって、完全に否定された瞬間を象徴する出来事であった。沼田城を巡る一連の攻防は、戦国という時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる、日本史の大きな転換点として記憶されるべきである。

巻末付録:関連年表

年月

出来事

関連人物

天正10年 (1582)

3月、武田氏滅亡。6月、本能寺の変。武田遺領を巡り「天正壬午の乱」勃発。

織田信長, 徳川家康, 真田昌幸

真田昌幸、北条氏に一時属し、その後独立して沼田領を掌握。

天正13年 (1585)

第一次上田合戦。真田昌幸、徳川・北条連合軍を撃退。

真田昌幸, 徳川家康

天正17年 (1589)

2月、北条氏、板部岡江雪斎を上洛させ、沼田領問題の裁定を秀吉に委ねる。

北条氏直, 板部岡江雪斎

7月、秀吉による「沼田裁定」が執行される。沼田城は北条氏へ、名胡桃城は真田氏へ引き渡される。

豊臣秀吉, 榊原康政

沼田城代として猪俣邦憲が入城。

10月下旬、名胡桃城事件勃発。猪俣邦憲が名胡桃城を奪取。

猪俣邦憲, 鈴木重則

11月上旬、城代・鈴木重則が正覚寺で自害。

鈴木重則

真田信幸、徳川家康へ事件を報告。

11月21日、秀吉、真田昌幸に書状を送り、北条討伐の意向と真田への支援を約束。

豊臣秀吉, 真田昌幸

11月24日、秀吉、北条氏直に詰問状(事実上の宣戦布告)を送付。

豊臣秀吉, 北条氏直

12月、秀吉、全国の諸大名に北条討伐の動員令を発令。

豊臣秀吉

天正18年 (1590)

1月~3月、豊臣軍が各地から出陣。

4月3日、豊臣軍が小田原城を包囲。

豊臣秀吉

7月5日、小田原城が開城。北条氏が降伏し、事実上滅亡。

北条氏政, 北条氏直

7月以降、戦後処理。沼田領全域が真田氏に安堵される。

真田信幸が沼田城主となる。

引用文献

  1. 沼田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E5%9F%8E
  2. 沼田城 ~武田・上杉・北条が奪い合った上州の要衝 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/116_numata-html.html
  3. 「調略戦」敵を内部から切り崩す効果的な戦法|戦国の城攻め - 日本 ... https://japan-castle.website/battle/shirozeme-choryaku/
  4. 秀吉による沼田領問題の裁定 - 櫛渕史研究会 - Ameba Ownd https://kushibuchi.amebaownd.com/posts/6109112/
  5. 名胡桃城(名胡桃城址)の歴史や見どころなどを紹介しています - 戦国時代を巡る旅 https://www.sengoku.jp.net/kanto/shiro/nagurumi-jo/
  6. 豊臣秀吉による小田原征伐 いかにして北条氏政・氏直親子は滅ぼされたのか? https://sengoku-his.com/2554
  7. 名胡桃城奪取事件|北条左京大夫氏直 - note https://note.com/shinkuroujinao/n/ne7f8503a615d
  8. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  9. 秀吉が指示した沼田領の分割がのちの紛争の火種となる ... https://wheatbaku.exblog.jp/33108000/
  10. 【沼田領の分割裁定】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096200
  11. 沼田城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/160/memo/2702.html
  12. 「名胡桃城事件(1589年)」とは?北条氏が滅んだきっかけとなった一大事件! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/461
  13. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  14. 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
  15. sanadango.jp http://sanadango.jp/syoukakuji.html#:~:text=%E6%AD%A3%E8%A6%9A%E5%AF%BA%E3%81%AF%E3%80%81%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%AE%B6%E3%81%AE,%E8%A8%98%E9%8C%B2%E3%81%8C%E6%AE%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  16. 【北条の兵、名胡桃城を奪取】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096210
  17. 【北条氏討伐へ】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096220
  18. 豊臣秀吉 北条氏宛宣戦布告状/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-calligraphy/art0006240/
  19. 名胡桃城 ~戦国時代が終わるきっかけを作った真田の城 https://sengoku-yamajiro.com/archives/115_nagurumijo-html.html
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