最終更新日 2025-08-31

津久井城の戦い(1590)

天正十八年 津久井城、不戦の開城 ― 巨城小田原の落日を早めた一週間の記録

序章:天下、小田原に集う

天正十八年(1590年)春、日本の戦国時代は、その最終局面を迎えようとしていた。天下統一を目前にした関白・豊臣秀吉は、関東に独立王国を築き上げていた後北条氏に対し、最後の服従を迫っていた。秀吉が発した「惣無事令」、すなわち大名間の私闘を禁じる法令に後北条氏が違反したとされる名胡桃城事件を口実に、20万を超える未曾有の大軍が、後北条氏の本拠地・小田原城へと進軍を開始したのである 1

これに対し、五代当主・北条氏直とその父・氏政が率いる後北条氏は、関東一円に広がる240万石の広大な領国と、それを守る堅固な支城ネットワークを恃みとしていた 2 。その戦略の基本は、難攻不落と謳われた小田原城に主力を集めて籠城し、関東各地に配置された支城群が豊臣軍の進攻を遅滞させ、補給線を断ち、敵の疲弊を待って反撃に転ずるというものであった。この壮大な防衛構想において、各支城は単なる前哨基地ではなく、敵の足を止め、時間を稼ぐための重要な駒として位置づけられていた。

しかし、この後北条氏の防衛戦略は、甲斐の武田氏や越後の上杉氏といった、同格の戦国大名との抗争を前提に、長年にわたり練り上げられたものであった。彼らが直面した豊臣秀吉という存在は、全国の大名を動員する圧倒的な物量と、長期戦をものともしない盤石の兵站能力を持つ、規格外の「天下人」であった。後北条氏が想定していた戦国大名同士の抗争と、秀吉が現実にもたらした天下統一戦争とでは、その規模も質も、もはや次元が異なっていたのである。この戦略思想の根本的な齟齬が、結果として後北条氏の滅亡を早めることになる。

本報告書で詳述する「津久井城の戦い」は、この巨大な歴史の転換点において、後北条氏の支城ネットワークの一翼を担った城が、如何なる運命を辿ったのかを記録するものである。それは、火花散る合戦の物語ではなく、圧倒的な力の前に、戦わずして城を開くという苦渋の決断に至るまでの、濃密な数日間のドキュメントである。

第一章:西方の守り、津久井城 ― 戦略拠点としての価値

津久井城が後北条氏の防衛網において重要な位置を占めていた理由は、その地理的、軍事的、そして経済的な価値にあった。

地理・軍事的要衝として

津久井城は、相模国(現在の神奈川県)の西部に位置し、甲斐(山梨県)、駿河(静岡県)へと通じる街道を押さえる絶好の立地にあった 3 。この地理的特性から、津久井城は後北条氏にとって、西方の最大の脅威であった甲斐の武田信玄に対する最前線基地として、極めて重要な役割を担っていた 4 。武田氏が相模へ侵攻する際には、津久井城がその進路を阻む最初の障壁となり、後北条氏の信頼も厚かったことがうかがえる 6

永禄十二年(1569年)の三増峠の戦いでは、小田原城攻めから甲斐へ引き上げる武田信玄軍を、北条氏照・氏邦の軍勢が迎え撃った。この時、津久井城の内藤氏と津久井衆は、武田軍の一部隊に牽制され、直接戦闘には参加できなかったものの、その存在自体が武田軍にとって無視できない脅威であったことを物語っている 7 。このように、津久井城は対武田戦略の要として、長年にわたり後北条領の西方の守りを固めてきたのである。

経済・統治の拠点として

津久井城の価値は、単なる軍事拠点に留まらなかった。津久井地域は豊かな山林資源に恵まれ、相模川の水運を利用した交易の拠点としても機能していた 3 。後北条氏が小田原城の櫓を普請する際に、その用材を津久井に求めたという記録も残っており、この地域が後北条氏の領国経営にとって重要な資源供給地であったことがわかる 9

しかし、天正十年(1582年)に武田氏が滅亡すると、津久井城が対峙すべき最大の軍事的脅威は消滅した。それ以降の約8年間、津久井城の役割は、純軍事的な拠点から、地域の経済活動や領民の統治を司る行政拠点としての側面を強めていったと考えられる。この時代の変化は、天正十八年(1590年)に城を守ることになった在地武士団「津久井衆」の意識にも影響を与えた可能性は高い。彼らにとって城とは、単に主君のために死守すべき砦であるだけでなく、自分たちの生活基盤そのものであった。この在地領主的な視点が、後の開城という決断に繋がる伏線となる。

第二章:城郭の貌 ― 難攻不落と謳われた要塞の構造

津久井城は、戦国末期の築城技術の粋を集めた、堅固な「根小屋式山城」であった。これは、山麓に城主の居館や家臣団の屋敷地である「根小屋」を構え、有事の際には背後の山頂部に築かれた「詰城」に立て籠もるという形式の城郭である 7 。『新編相模国風土記稿』などの近世の地誌に加え、近年の発掘調査によって、その巧妙な縄張りと堅牢さが明らかになっている 4

山頂の詰城 ― 多層的な防御ライン

標高375mの城山山頂に築かれた詰城は、主に「本城曲輪」「太鼓曲輪」「飯綱曲輪」「鷹射場」の四つの曲輪群から構成されていた 7

  • 本城曲輪: 城の中核であり、指揮所が置かれたと考えられる。周囲を土塁で固め、虎口(出入り口)には門が設けられていた痕跡が確認されている 7
  • 飯綱曲輪: 「天狗山」とも呼ばれ、山頂には飯綱権現が祀られていた 7 。信仰の場であると同時に、城の水の手(水源)である「宝ヶ池」を有する重要な区画であった 11
  • 太鼓曲輪: 本城曲輪と飯綱曲輪の間に位置し、連絡および防御の結節点としての役割を担っていた 12
  • 防御施設: これらの主要曲輪群は、尾根筋を断ち切る巨大な「大堀切」や、山の斜面を垂直に掘り下げて敵の移動を阻む「竪堀」によって厳重に守られていた 3 。これらの防御施設は、小規模な兵力で大軍の侵攻を遅滞させることを目的とした、戦国山城の典型的な特徴を示している。

山麓の根小屋 ― 城の中枢機能

城の日常生活や統治機能の中心は、山麓に広がる根小屋地区にあった。ここには城主の居館である「御屋敷」跡を中心に、家臣たちの侍屋敷が建ち並んでいた 12 。発掘調査では、火薬を保管していたと考えられる煙硝蔵の跡も発見されており、兵站機能もこの根小屋地区が担っていたことがわかる 7

津久井城の構造概要

エリア

主要曲輪・施設

詰城部(山頂)

本城曲輪、米曲輪

飯綱曲輪、宝ヶ池

太鼓曲輪、鷹射場

大堀切、竪堀群

根小屋地区(山麓)

御屋敷跡、侍屋敷跡

煙硝蔵跡

このように、津久井城は物理的には極めて堅固な要塞であった。その防御思想は、敵の補給が困難になるのを待ち、長期の籠城戦を耐え抜くという、戦国中期の常識に基づいていた。しかし、この城の構造的堅固さは、豊臣軍が展開した「圧倒的な兵力による完全包囲と、それを支える兵站の確立」という新たな戦争の形態の前では、その戦略的意味を失うことになった。城の堅固さが、落城をわずかに遅らせるだけの効果しか持たないことを、籠城した者たちは早期に悟らざるを得なかったのである。

第三章:守将なき城 ― 内藤氏と津久井衆の苦境

津久井城の運命を決定づけたのは、城の物理的な構造以上に、守城側の人的要因、すなわち指揮系統の不在と兵力の脆弱さにあった。

城主・内藤氏の不在

津久井城主の内藤氏は、元々は扇谷上杉氏に仕える国人領主であったが、後北条氏の関東進出に伴い、その支配下に入った家柄である 4 。以降、後北条氏の家臣として、甲斐方面の抑えという重責を担い、津久井衆を率いる筆頭として厚い信頼を得ていた 6

天正十八年(1590年)の合戦当時、城主の座にあったのは内藤直行であったが、後北条氏の総力籠城策に基づき、彼は小田原城に詰めていた 15 。これにより、津久井城は最も重要な意思決定者である城主を欠いた、「守将なき城」という極めて脆弱な状態に置かれたのである。城の守備は、老臣や在地武士団である「津久井衆」に委ねられていた 16

後北条氏の主力を小田原城に集中させるという戦略は、一見理に適っているように思えるが、各支城の指揮系統を麻痺させ、在地性の強い国衆の動揺を誘うという致命的な欠陥を内包していた。彼らの忠誠心は、遠い小田原の北条本家よりも、自らの土地と直接の主君である内藤氏に強く向けられていた可能性が高い。城主不在という状況は、彼らが「後北条家のために玉砕する」という選択肢を取りにくくさせ、より現実的な判断へと傾かせる大きな要因となった。

圧倒的な兵力差

津久井城に残された兵力は、史料によれば「百五十騎」程度であったとされ、中には縁者から兵を借りて何とか体裁を整えるような有様だったとも伝えられている 13 。騎馬武者一騎につき数人の歩兵が随伴することを考慮しても、城兵の総数は数百人規模であったと推測される。

これに対して、津久井城の包囲に向かったのは、徳川家康配下の精鋭部隊であった。その軍勢は、徳川四天王の一人である本多忠勝を筆頭に、平岩親吉、鳥居元忠といった歴戦の将が率いる12,000の大軍であった 7 。数百対12,000という、絶望的としか言いようのない兵力差が、開戦前から津久井城の運命を大きく規定していたのである。

第四章:包囲下の刻一刻 ― 天正十八年六月、運命の一週間

津久井城が開城に至るまでの最後の一週間は、緊迫した情報戦と心理戦の連続であった。以下に、その経緯を時系列で再現する。

津久井城の戦い 関連年表(天正十八年)

日付

小田原合戦全体の動向

津久井城及び周辺の動向

3月29日

山中城落城、韮山城包囲開始 18

4月4日

豊臣軍、小田原城の包囲を開始 18

6月14日

鉢形城(北条氏邦)、開城 9

6月中旬

徳川軍(本多忠勝ら)、津久井方面へ進軍

6月19日頃

徳川軍、津久井城の包囲を完了

6月23日

八王子城(北条氏照)、僅か一日で落城 19

八王子城落城の報がもたらされる

6月24日

城内で開城に向けた最終評定

6月25日

津久井城、無血開城 16

7月5日

小田原城、開城。北条氏直が降伏

六月十九日頃:包囲網の完成

六月中旬、徳川家康の軍勢は小田原城の包囲を固めると同時に、後北条氏の各支城の制圧へと動き出した。本多忠勝、平岩親吉らが率いる12,000の部隊は津久井領へ進駐し、六月十九日頃までには津久井城を完全に包囲した 7 。城内の数百の籠城兵は、眼下に展開する徳川軍の大軍勢を目の当たりにし、外部との連絡を完全に遮断された。城内には、絶望的な緊張感が漂っていたと想像に難くない。

六月二十日から二十二日:膠着と情報戦

包囲完成後、数日間は大きな動きのないまま時が過ぎた。徳川軍は積極的な攻撃を仕掛けることなく、圧倒的な兵力で威圧を続けた。一方、城内では連日評定が開かれ、今後の対応が議論されていたであろう。しかし、城主不在の中で方針は定まらず、ただ籠城を続けることしかできなかった。この膠着状態は、籠城衆の不安と疲労を増大させていった。

六月二十三日:運命の転換点、八王子城落城

六月二十三日、津久井城の運命を決定づける情報がもたらされた。北条氏照の居城であり、関東屈指の堅城とされた八王子城が、前田利家・上杉景勝らの北国勢15,000の猛攻を受け、僅か一日で陥落したというのである 19 。しかもその結末は、城主の正室をはじめとする婦女子が自害、あるいは御主殿の滝に身を投げるなど、凄惨を極めたと伝えられる 20

この八王子城の悲劇は、単なる一城の陥落ではなかった。それは、抵抗を続ける後北条氏の支城に対する、豊臣秀吉による意図的な「見せしめ」であり、戦意を根底から打ち砕くための巧妙な心理戦であった。八王子城の運命は、「抵抗すれば根絶やしにする。しかし、賢明な判断をすれば命は助かる」という、豊臣方からの強烈なメッセージとして、他の支城に伝播したのである。津久井城の籠城衆がこの報に接した時の衝撃は、計り知れないものであった 15

六月二十四日:最後の評定

八王子城の悲劇は、津久井城の籠城衆に冷徹な現実を突きつけた。「このまま抵抗を続ければ、我々も同じ運命を辿る」。六月二十四日、城内では最後の評定が開かれた。もはや後北条家のために玉砕するという選択肢は、現実味を失っていた。議論の焦点は、兵士やその家族、そして津久井領の民の命をいかにして救うか、という点に移っていたはずである。そして、彼らは降伏、すなわち開城という決断を下した。

六月二十五日:不戦の開城

六月二十五日、津久井城は静かに城門を開いた。徳川軍との間で大規模な戦闘が行われることは一切なく、城は無血で明け渡された 7 。この結末は、一部の史料で「自落(じらく)」と表現されている 13 。これは、敵の攻撃によって陥落したのではなく、城方が自らの主体的な判断によって城を出たことを意味する。それは単なる敗北ではなく、共同体の存続を最優先した、苦渋に満ちた政治的決断の瞬間であった。

第五章:なぜ戦わなかったのか ― 無血開城の深層分析

津久井城の無血開城は、単一の理由によるものではなく、物理的、心理的、組織的、そして社会的な要因が複合的に絡み合った結果であった。

第一に、 物理的要因 として、前述の通り12,000対数百という絶望的な兵力差が存在した 7 。籠城したとしても、豊臣軍の盤石な兵站体制を考えれば、兵糧が尽きて全滅するのは時間の問題であり、戦術的な勝利の可能性は皆無であった。

第二に、 心理的要因 として、八王子城の凄惨な落城が与えたインパクトは決定的であった 15 。あれほどの堅城ですら一日で陥落し、婦女子に至るまで悲劇的な最期を遂げたという事実は、籠城衆の戦意を完全に喪失させ、抵抗の無意味さを痛感させた 20

第三に、 組織的要因 として、城主・内藤直行の不在は、城内の求心力を著しく低下させた 15 。強力なリーダーシップが不在の中では、玉砕覚悟の徹底抗戦というような強硬な方針を打ち出すことは困難であり、より現実的な判断へと傾きやすかった。

そして第四に、 社会的要因 として、城を守っていた津久井衆の在地領主としての側面が挙げられる。彼らは後北条家の家臣であると同時に、津久井という土地に根差した共同体のリーダーであった。彼らにとっては、遠い主君への忠義を貫いて玉砕することよりも、自分たちの土地と領民を守り、生き残ることの方が優先順位の高い課題であった。一部の資料が示唆するように、彼らの判断には、戦乱の世を終わらせるであろう新たな支配者(徳川氏)の統治下で、平和な生活を期待する意図があった可能性も否定できない 13

津久井城の開城は、戦国時代の価値観が大きく転換する瞬間を象徴している。「武名のために玉砕する」という中世的な武士の美学から、「新たな秩序の下で所領と共同体を安堵され、生き残る」という、近世へと続く現実主義への移行が、この決断の背後にはあったのである。それは臆病や裏切りではなく、時代の終わりを敏感に察知した者たちによる、次代への適応戦略であったと言えるだろう。

終章:城は消え、人は生きる

天正十八年(1590年)七月五日、本城である小田原城もついに開城し、戦国大名・後北条氏は滅亡した。関東一円は徳川家康の所領となり、津久井城もその歴史的役割を終え、廃城となった 16 。堅固を誇った城郭は、やがて自然に還っていった。

しかし、城に関わった人々の物語はそこで終わらなかった。小田原城に籠城していた城主・内藤直行は、主君・北条氏直の高野山行きに随行した後、流転の末に加賀の大大名・前田利長、利常に仕官するという道を見出した 9 。名を助左衛門直政と改め、加賀藩士として200石を与えられ、内藤家はその地で存続した 9 。これは、旧敵の有能な家臣を登用することで自家の力を強化しようとした新時代の支配者たちと、新たな主君に仕えることで家名を保とうとした戦国武将たちの、現実的な処世術の一例である。城は滅びても、武家の「家」は存続を模索し続けたのである。

結論として、津久井城の戦いは、大規模な戦闘こそなかったものの、後北条氏が誇った支城ネットワークの脆弱性を露呈させ、巨城・小田原の孤立化を決定的にした重要な出来事であった。それはまた、豊臣秀吉の圧倒的な軍事力と巧みな心理戦の前に、戦国の雄が為すすべもなく崩壊していく過程を象徴する、静かな、しかし極めて重い一断面であったと言えるだろう。

引用文献

  1. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
  2. 後北条氏のすごい支配体制だった小田原城下町~神奈川県の歴史~ (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/523/?pg=2
  3. 津久井湖城山公園 津久井城について - 神奈川県公園協会 https://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/history.html
  4. 津久井城ものがたり - 神奈川県公園協会 https://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/pamph/monogatari1.pdf
  5. こちら - さがみはらの公民館 https://www.sagamihara-kouminkan.jp/shiroyama-k/kanpou/tanteidan/rekisimeguri2.html
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  7. 津久井城~小田原北条氏の支城!DELLパソ兄さん登城記 https://www.pasonisan.com/rvw_trip/kanagawa/tukui-jou.html
  8. 津久井城ガイド https://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/tsukuijouguide/03.html
  9. 謎の津久井城主内藤氏は何処に http://yanenonaihakubutukan.net/4/tukuijyounonazo.html
  10. お城EXPO 2020⑧ テーマ展示「城郭の役割―実用と表象―」徹底解説!【第2回】 https://shirobito.jp/article/1231
  11. monogatari2.pdf - 神奈川県公園協会 https://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/pamph/monogatari2.pdf
  12. 津久井城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kanagawa/siroyamamati.htm
  13. こちら https://www.sagamihara-kouminkan.jp/shiroyama-k/rekisi/2018rekisi.html
  14. 相模 津久井城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/sagami/tsukui-jyo/
  15. 武家家伝_津久井内藤氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tuk_naito.html
  16. 津久井城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E4%B9%85%E4%BA%95%E5%9F%8E
  17. 津久井城 https://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.tsukui.htm
  18. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  19. 八王子城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E
  20. 北条氏照と八王子城落城~天地の 清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4039
  21. 発掘調査の裏話も 津久井城開城記念の日 | さがみはら緑区 - タウンニュース https://www.townnews.co.jp/0303/2019/06/20/485749.html
  22. 一日で殲滅されたといわれる八王子城跡 | きままな旅人 https://blog.eotona.com/hachiojijyoshi/
  23. 【東京都】八王子城の歴史 悲惨な籠城戦の舞台となった関東随一の山城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2442
  24. こちら https://www.sagamihara-kouminkan.jp/shiroyama-k/rekisi/2015rekisi2.html