最終更新日 2025-08-30

津和野城の戦い(1569)

永禄十二年、毛利氏が三正面の危機に瀕する中、津和野城主・吉見正頼は堅城を守り、尼子再興軍の西進を阻んだ。戦わずして毛利氏の窮地を救う戦略的抑止力となった。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

永禄十二年(1569)の動乱と石見津和野城:尼子再興の烽火と毛利氏の西の守護

序章: 永禄十二年、中国地方の戦略地図

本報告書の目的と問題提起

永禄十二年(1569年)、石見国津和野城を舞台に繰り広げられたとされる「津和野城の戦い」。この呼称が指し示す歴史的実像は、単一の攻城戦という枠組みでは捉えきれない、より広大で複雑な戦略的文脈の中に存在する。同年、中国地方の覇者であった毛利氏は、その版図全域を揺るがす未曾有の危機に直面していた。本報告書は、この「津和野城の戦い」という事象を出発点とし、大規模な攻防の記録こそ確認されないものの、毛利氏の支配圏が存亡の機に瀕したこの激動の一年において、津和野城が「静かなる最前線」として果たした極めて重要な戦略的役割を、中国地方全域を覆った動乱の文脈の中で解明することを目的とする。

毛利氏の最大版図と潜在的脅威

永禄九年(1566年)に宿敵であった出雲の尼子義久を降伏させ 1 、また弘治三年(1557年)には周防・長門の大内氏を滅亡に追い込んだ毛利元就は 2 、名実ともに中国地方の覇者としての地位を確立していた。その版図は山陽・山陰の広範囲に及び、一見、その権勢は盤石であるかのように見えた。しかし、その急激な勢力拡大は、構造的な脆弱性を内包していた。広大な領国は、それだけ長い防衛線を意味し、服属させたばかりの国人領主たちの忠誠心は未だ確固たるものではなかった。旧尼子・大内領には、毛利氏の支配を快く思わない潜在的な反抗勢力が広範に存在しており、ひとたび火種が投じられれば、瞬く間に燃え広がる危険性をはらんでいたのである 3 。この成功の裏面に潜む危うさこそが、永禄十二年の動乱の根本的な原因であった。

石見国の地政学的重要性

毛利氏の支配圏において、石見国は経済的・戦略的に不可欠な価値を持っていた。その中核をなすのが、世界遺産としても知られる石見銀山である。戦国大名にとって、銀は兵糧や鉄砲を買い付け、軍を維持するための莫大な資金を供給する生命線であった 4 。最盛期には世界の産銀量のかなりの部分を占めたとされる日本銀の主要な供給源であり 5 、その支配は毛利氏の覇権を経済的に支える大動脈に他ならなかった。

この経済的価値に加え、石見国、とりわけ津和野は、軍事戦略上の要衝でもあった。津和野は、石見銀山と毛利氏の本拠地である安芸・周防を結ぶ西の回廊に位置し、山陰と山陽を結ぶ交通路を扼する要地であった。津和野城(当時は三本松城とも呼ばれた)は、この戦略的要地を堅守するための鍵であり、その堅牢さは広く知られていた 6

滅亡したはずの尼子氏:再興にかける執念

永禄九年の月山富田城開城により、大名としての尼子氏は滅亡した。しかし、尼子一族の血と、その家臣たちの忠義の炎は消えていなかった。その中心にいたのが、「山陰の麒麟児」と称された猛将・山中幸盛(通称、鹿介)である 7 。幸盛をはじめとする尼子遺臣団は、主家滅亡後も牢人となり、各地に潜伏しながら再興の機会を密かに窺っていた 7 。彼らは、尼子一族の生き残りであり、京の東福寺で僧籍にあった尼子誠久の子・勝久を還俗させ、再興軍の大将として奉戴した 9 。幸盛が三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという逸話は、彼らの不屈の闘志を象徴している 8 。この遺臣団の常軌を逸した執念こそが、永禄十二年の大動乱の直接的な引き金となるのであった。


表1:永禄十二年(1569) 主要登場人物と所属勢力

勢力

主要人物

役職・立場

永禄十二年における主な動向

毛利方

毛利元就

毛利家当主(隠居)

吉田郡山城にて全軍を指揮。九州からの撤退を決断。

毛利輝元

毛利家当主

元就の後継者として、防衛戦に参加。

吉川元春

元就の次男

毛利軍の主力を率い九州に出陣。後に転進し、大内・尼子軍を撃破。

小早川隆景

元就の三男

元春と共に九州戦線を指揮。知略に長ける。

天野隆重

毛利家臣

月山富田城の城将として、尼子再興軍の猛攻を耐え抜く。

吉見氏

吉見正頼

津和野城主

毛利氏の重臣。石見西部を守り、尼子方の進軍を抑止。大内輝弘の乱では救援軍を派遣。

尼子再興軍

尼子勝久

再興軍総大将

遺臣団に擁立され、尼子家再興の旗頭となる。

山中幸盛(鹿介)

再興軍の中心武将

智勇兼備の将として再興軍を実質的に主導。出雲侵攻を成功させる。

立原久綱

再興軍の重臣

幸盛と共に再興運動の中核を担う。

大友方

大友宗麟

豊後国の大名

九州で毛利軍と対峙。尼子・大内と連携し、毛利包囲網を形成。

大内再興軍

大内輝弘

大内義隆の従兄弟

大友氏の支援を受け、周防山口に侵攻し、毛利領国を震撼させる。


第一章: 毛利氏の二正面作戦 — 九州での泥沼化

北九州への野心:大友宗麟との衝突

中国地方の統一をほぼ成し遂げた毛利元就が次なる目標として見据えたのは、関門海峡の対岸、北九州の豊かな土地であった 10 。しかし、その地には長年にわたり覇を唱えてきた豊後の戦国大名・大友宗麟が存在した。両者の衝突は、もはや時間の問題であった。永禄十二年(1569年)3月、元就は次男・吉川元春と三男・小早川隆景を総大将とする、実に4万ともいわれる大軍を北九州へ派兵する 11 。これは毛利軍が動員しうる主力のほとんどを投入した、文字通りの国家事業であり、その目的は筑前国、とりわけ国際貿易港である博多津の奪取にあった。

立花城攻防戦と戦線の膠着

同年4月15日、毛利軍は博多の東方に聳える要衝・立花山城を包囲した 12 。元春・隆景の猛攻に対し、城将・戸次鑑連(後の立花道雪)らは頑強に抵抗し、戦いは一進一退の攻防となった。毛利軍は圧倒的な兵力を有しながらも、大友方の巧みな防衛戦術と、後方からのゲリラ的な攻撃に苦しめられ、戦線は完全に膠着状態に陥った。この九州における泥沼化こそが、毛利本国の防備に致命的な空白を生み出す最大の要因となったのである。元就は、背後で蠢く不穏な動きを察知し、山陰の城番らに注意を促す書状を送るなど警戒はしていたが、九州に釘付けにされた主力を動かすことはできず、深刻なジレンマに陥っていた 10

大友宗麟の深謀:反毛利包囲網の形成

大友宗麟は、単に九州で防戦一方に徹していたわけではなかった。彼は戦況を大局的に捉え、毛利氏の弱点を突くための高度な外交戦略を展開していた。宗麟は、九州で毛利軍主力を引きつけておく一方で、密かに尼子遺臣団や、大内氏の血を引く大内輝弘と連絡を取り、彼らの蜂起を支援したのである 3 。尼子勝久に鉄砲を供与するなど、その支援は具体的かつ直接的なものであった 13 。これは、毛利氏の領国の東西から同時に攻撃を仕掛け、挟撃することで、九州からの撤退を余儀なくさせることを狙った壮大なグランドストラテジーであった。1569年の中国地方における動乱は、九州を主戦場とする「毛利対大友」という、より大きな戦争の一部として理解しなければ、その本質を見誤ることになる。山中幸盛らの蜂起は、大友宗麟の描いた反毛利包囲網という大きな絵図の中に、巧みに組み込まれた「第二戦線」だったのである。

第二章: 麒麟児、動く — 尼子再興軍、出雲に上陸

好機の到来と決起

毛利軍主力が九州の戦線に深く引き込まれているという情報は、出雲国内に潜伏する旧尼子家臣たちにとって、千載一遇の好機であった。出雲の神魂神社の社家であった秋上三郎右衛門尉(秋上幸益)は、この情勢を尼子家再興の絶好の機会と捉え、密かに京に上り、山中幸盛らに決起を促した 10 。これに応じた幸盛らは、大将として尼子勝久を奉じ、但馬の国人・山名祐豊や、日本海の海賊衆・奈佐日本之介の協力を取り付け、まずは隠岐国へと渡海した 10 。隠岐為清に歓迎された一行は、そこで最終的な準備を整え、故国・出雲への帰還の時を待った。

電撃的な出雲侵攻:リアルタイムでの再現

永禄十二年(1569年)夏、尼子再興の烽火がついに上がる。その侵攻は、周到な計画と毛利方の油断、そして出雲民衆の期待を背景に、驚くべき速度で展開された。

  • 6月23日(旧暦) : 尼子再興軍は、数百艘の軽舟に分乗し、隠岐国から島根半島北岸の千酌湾(現在の松江市美保関町)への上陸を敢行した 10 。当初の兵力は数百名に過ぎなかった。
  • 6月下旬 : 上陸後、ただちに近傍の忠山の砦を占拠。ここで尼子勝久の名の下に再興の檄を飛ばすと、奇跡が起こる。毛利氏の支配に不満を抱き、旧主の帰還を待ち望んでいた出雲国内の旧臣や浪人たちが、この報に呼応して雲霞のごとく集結。わずか5日の間に、その軍勢は3,000余にまで膨れ上がった 10 。これは単なる軍事行動ではなく、民衆の心を掴んだ「解放」の始まりであった。
  • 6月末〜7月初旬 : 勢いに乗った再興軍は、島根半島の戦略拠点である真山城へ進軍。この城は、毛利氏が出雲支配の拠点として整備していた重要拠点であった。しかし、城将・多賀元龍は再興軍の予想外の勢いに狼狽し、一戦にして敗走。再興軍はわずか一日で真山城を奪取することに成功した 10
  • 7月中旬以降 : 真山城を確保した再興軍は、宍道湖北岸の末次(現在の松江城の地)に新たな城を築き、ここを本拠とした。さらに、かつての尼子氏の居城・月山富田城の周囲に十数箇所の向城(包囲用の砦)を築き、兵糧路を遮断する構えを見せた 16 。並行して、周辺の毛利方の城を次々と攻略。わずか1ヶ月の間に8つの城を陥落させ、出雲・伯耆の国人衆に対し、所領を安堵する書状を次々と発給した 3 。これは、軍事力だけでなく統治の正当性をアピールし、支持基盤を固めるための巧みな政治工作であった。
  • 8月〜 : 準備を整えた再興軍は、ついに月山富田城への本格的な攻撃を開始する。城内には毛利方の名将・天野隆重が寡兵で籠もっており、両者の間で熾烈な攻防戦が繰り広げられた 14

この電撃的な成功は、山中幸盛の卓越した軍事的才能もさることながら、毛利氏の支配に対する出雲国内の根強い反発と、旧主尼子氏への郷愁という「人心」を巧みに掌握した結果であった。彼らの進軍は、単なるゲリラ戦ではなく、民衆の支持を背景とした領国回復戦争の様相を呈していたのである。

第三章: 西方の堅城、津和野 — 吉見正頼の不動

城主・吉見正頼:毛利氏との絆

尼子再興軍が出雲を席巻し、その勢いが石見国にも波及しようとしていた時、毛利氏の西の国境線で巨大な防波堤として立ちはだかったのが、津和野城主・吉見正頼であった。彼の毛利氏への忠誠は、単なる主従関係を超えた、血と硝煙の中で結ばれた固い絆に根差していた。

正頼は、周防大内氏の第15代当主・大内義隆の姉を妻としており、義隆を謀反によって死に追いやった家臣・陶晴賢とは不倶戴天の敵であった 18 。天文二十三年(1554年)、正頼は晴賢打倒の兵を挙げ、津和野城(三本松城)に籠城。2万ともいわれる陶の大軍を相手に、わずかな兵で5ヶ月以上も持ちこたえた 19 。この「三本松城の戦い」こそが、毛利元就に陶晴賢との対決を決意させ、後の厳島の戦いへと繋がる重要な転換点となったのである 23 。共通の敵を打倒したこの戦いを通じて、正頼と元就の間には、単なる利害を超えた戦友としての強固な信頼関係が築かれた。毛利氏の麾下に属した後も、正頼はその功を第一とされ 25 、元就の死後は嫡孫・輝元の補佐役を依頼されるほどの重鎮であった 27

1569年、津和野城の戦略的役割

永禄十二年、尼子再興の嵐が吹き荒れる中で、吉見正頼と彼が守る津和野城は、毛利氏の支配体制を維持するための「重石」として、計り知れない戦略的価値を発揮した。

第一に、津和野城は尼子軍の勢いが石見国西部に波及するのを防ぐ物理的な障壁であった。出雲から南下、あるいは西進しようとする尼子軍にとって、歴戦の将・吉見正頼が守る天下の堅城・津和野城は、あまりにも巨大な障害であった。

第二に、石見国内の動揺を抑える精神的な支柱であった。事実、石見国内の国人領主の中には、尼子再興軍の勢いに乗り、毛利氏に反旗を翻す者も現れた(周布氏など) 28 。このような不安定な状況下で、毛利氏譜代の重臣でもない吉見正頼が微動だにしない姿勢を示したことは、他の毛利方国人たちの離反を防ぎ、戦線の崩壊を食い止める上で極めて重要な意味を持った。

「戦われなかった戦い」の意義

史料上、永禄十二年に津和野城で大規模な攻城戦が行われたという記録は見当たらない。しかし、それはこの地が平和であったことを意味しない。むしろ、戦いが起こらなかったこと自体が、津和野城と吉見正頼の戦略的価値を雄弁に物語っている。山中幸盛率いる尼子再興軍は、出雲の平定を最優先課題としており、攻略に多大な時間と兵力を要することが確実な津和野城への直接攻撃を避けたのは、極めて合理的な判断であった。

したがって、「津和野城の戦い(1569)」の実態とは、火花散る白兵戦ではなく、尼子方の南下・西進をその存在だけで抑止した「戦略的対峙」そのものであったと結論づけられる。津和野城は、戦わずして毛利氏の西の守りを固めるという、最大の貢献を果たしたのである。

第四章: 危機は連鎖する — 大内輝弘の乱と毛利領国の震撼

第三の脅威:大内輝弘の周防侵攻

尼子再興軍が出雲を席巻し、毛利軍主力が九州に釘付けにされているという情報は、もう一人の復讐者に好機をもたらした。大内義隆の従兄弟にあたる大内輝弘である。彼は大友宗麟の全面的な支援を受け、毛利領国の心臓部である周防国への侵攻を開始した 3 。九州、出雲に続き、第三の戦線が、最も手薄なはずの本拠地で開かれたのである。

  • 10月12日(旧暦) : 大内輝弘の軍勢は、秋穂から上陸し、電光石火の勢いで山口に侵入。市街は占拠され、毛利方が置いた町奉行・井上就貞は激戦の末に討死した 29

この報は、九州の元春・隆景、出雲で奮戦する諸将、そして吉田郡山城で全軍を指揮する元就に、最大の衝撃を与えた。毛利氏は、尼子、大友、そして大内という三つの敵と、三つの戦線で同時に戦うという、まさに国家存亡の危機に立たされたのであった。

毛利本国の混乱と吉見正頼の役割

本拠地が脅かされたことで、毛利領国はパニックに陥った。特に、輝弘が侵攻した周防に隣接する長門国や、石見国西部の動揺は激しかった。この危機的状況において、再び津和野城の戦略的重要性が際立つ。津和野城は、輝弘の乱が西へ波及するのを防ぐ防波堤として機能した。

さらに、吉見正頼は単に城を守るだけではなかった。彼はこの乱に際して、毛利方を救援するための軍勢を派遣している 30 。これは、正頼が受動的な守りに徹していたのではなく、毛利氏の危機を自らの危機と捉え、積極的に行動する能動的な同盟者であったことを示す、極めて重要な事実である。彼のこの行動は、毛利氏の支配の正当性を揺るがすという、大内輝弘の乱が持つ象徴的な意味合いを打ち消す上でも大きな効果があった。大内氏の縁者である正頼が、輝弘ではなく毛利氏に味方したことは、毛利氏の支配が旧主を裏切った簒奪ではなく、正当な後継者であることを内外に示すものだったからである。

同時進行する危機の時系列再構成

永禄十二年10月という一ヶ月間は、毛利氏にとってまさに悪夢であった。出雲では、山中幸盛率いる尼子軍が月山富田城に猛攻を加え、落城は時間の問題かと思われた 16 。周防では、大内輝弘が山口を占拠し、旧大内家臣の蜂起を促していた 29 。そして九州では、吉川元春・小早川隆景率いる主力軍が立花城に釘付けにされ、身動きが取れない 12 。この息詰まるような三正面作戦の強要こそ、大友宗麟が描いた戦略の頂点であり、毛利元就が生涯で経験した最大の危機であった。

第五章: 反撃の狼煙 — 吉川元春、九州より転進

毛利元就の決断

三正面での危機という絶体絶命の状況に直面し、老練な strategist 毛利元就は、苦渋の、しかし迅速な決断を下す。最大の目標であった北九州の制圧を断念し、全軍に九州からの撤退を命令したのである 12 。これは、目先の領土拡大よりも、本国の防衛と支配体制の維持を優先するという、現実的な判断であった。

  • 10月15日(旧暦) : 立花城の包囲を解き、毛利軍が撤退を開始する 10
  • 11月21日(旧暦) : 門司城などに守備兵を残し、毛利軍の主力が九州から完全に撤退を完了した 10

吉川元春の電撃戦

九州から帰還した吉川元春の軍は、休む間もなく反撃に転じた。その用兵は、まさに電光石火であった。まず周防に上陸すると、後詰のない大内輝弘軍に襲いかかった。輝弘軍はたちまちのうちに撃破され、輝弘自身も追い詰められて自刃。周防の危機は、瞬く間に鎮圧された 3

次いで、元春は全軍を率いて北上。最大の脅威である出雲の尼子再興軍との決戦に臨んだ。この迅速な転進と反撃を可能にした背景には、吉見正頼が石見西部を固め、元春軍の背後を完全に安定させていたという事実があった。

布部山の戦いと尼子軍の後退

年が明けた永禄十三年(元亀元年、1570年)2月、元春率いる毛利軍本隊は、出雲の布部山に陣を敷く尼子再興軍の主力と激突した 31 。当初、山頂に布陣し地の利を得た尼子軍は優勢に戦いを進めた。しかし、吉川元春は一部隊を迂回させて尼子軍本陣を奇襲するという、得意の戦術で戦局を一変させる。本陣を突かれた尼子軍は混乱に陥り、総崩れとなって大敗を喫した 31

この布部山の戦いでの決定的な敗北により、尼子再興の勢いは大きく削がれることとなった。再興軍は月山富田城の包囲を解いて後退を余儀なくされ、戦いの主導権は完全に毛利氏の手に戻った。永禄十二年から続いた毛利氏の危機は、ここにようやく終息へと向かうのである。


表2:永禄十二年(1569) 中国・九州地方 主要関連年表

月 (旧暦)

九州戦線 (毛利 vs 大友)

出雲戦線 (毛利 vs 尼子)

周防戦線 (毛利 vs 大内)

石見・津和野城の動向

3月

毛利軍(元春・隆景)、4万の兵で北九州へ侵攻 11

吉見正頼、毛利本国の西の守りとして津和野城を固守。

4月

15日、立花山城を包囲。戦線は膠着状態に 12

5月

大内輝弘、山口侵攻の準備を開始 3

6月

立花城攻防、続く。毛利主力、九州に釘付け。

23日、尼子再興軍、出雲・千酌湾に上陸。旧臣が集結し3,000の兵に 10

尼子軍の蜂起を受け、吉見正頼は警戒を強化。石見西部の防波堤となる。

7月

真山城を奪取。末次城を築き、月山富田城の包囲網を形成 10

8月

月山富田城への攻撃を開始。城将・天野隆重が籠城 17

石見国内の親尼子派の動きを牽制。

9月

出雲・伯耆の大部分を制圧。毛利方、守勢に回る。

10月

毛利元就、九州からの撤退を決断。

月山富田城への猛攻、続く。

12日、大内輝弘、山口に侵攻し占拠 29

輝弘の乱に対し、毛利方への救援軍を派遣 30

11月

15日、立花城の包囲を解き、撤退開始。21日、主力軍が九州から完全撤退 10

吉川元春、帰還後ただちに輝弘軍を撃破。輝弘は自刃し、乱は鎮圧 3

元春軍の迅速な反攻作戦の背後を固める。

12月

毛利軍、反攻の準備を整える。


結論: 「津和野城の戦い(1569)」の再評価

「戦い」の実像の総括

本報告書で詳述してきた通り、永禄十二年(1569年)に津和野城において、大規模な攻城戦は発生しなかった。利用者様が当初想定されていたような、両軍が激しく衝突する「合戦」は、この年には記録されていない。しかし、それは津和野城がこの年の動乱において重要でなかったことを意味するものでは決してない。むしろ、「津和野城の戦い」とは、尼子再興軍の脅威が石見国に迫る中、城主・吉見正頼が毛利方として断固たる姿勢を維持し、その存在感と堅城の威光をもって尼子方の南下・西進を抑止した「戦略的対峙」そのものであったと再定義すべきである。火花を散らす戦闘がなくとも、国家の存亡を左右する「戦い」は存在するのである。

津和野城と吉見正頼が果たした貢献

毛利氏が九州、出雲、周防という三正面作戦を強いられ、まさに滅亡の淵に立たされた際、吉見正頼の不動の忠誠は、石見西部という第四の戦線が出現するのを防いだ。もし正頼が日和見を決め込んだり、あるいは尼子方に寝返ったりしていれば、毛利氏の防衛線は完全に崩壊し、九州から主力を引き抜くことすらままならなかったであろう。吉見正頼の存在は、毛利氏が九州から主力を転進させ、大内・尼子という二つの脅威に戦力を集中させることを可能にした、目には見えない、しかし決定的に重要な戦略的貢献であった。

永禄十二年の歴史的意義

永禄十二年という一年は、中国地方の戦国史における極めて重要な転換点であった。尼子再興軍にとって、この年は主家再興を成し遂げる最大の好機であったが、毛利氏の底力と吉川元春の武勇の前に、その夢は打ち砕かれた。一方で毛利氏にとっては、支配体制の脆弱性を痛感させられた最大の危機であった。しかし、この国難を乗り越えたことで、かえって領国支配は強化され、吉川・小早川を両翼とする「毛利両川体制」の有効性が証明される結果となった。

そして、その危機の渦中にあって、戦わずして敵を抑え、主家の窮地を救った津和野城と吉見正頼の存在は、戦国時代の戦いが単なる兵力の衝突だけでなく、信頼、忠誠、そして戦略的抑止力といった要素によっても左右されることを、我々に教えてくれるのである。

引用文献

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  23. 【津和野歴史】NHK 最強の城SPで津和野城が第一位に https://japan-heritage-tsuwano.jp/jp-news/diary/8426/
  24. 津和野城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/tsuwano-castle/
  25. 津和野の太守 吉見 正頼 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/yosimi-masayori.htm
  26. 武家家伝_石見吉見氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yosimi_k.html
  27. 吉見正頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%A6%8B%E6%AD%A3%E9%A0%BC
  28. 石見の豪族 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/iwami-gozoku.htm
  29. 大内輝弘の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E8%BC%9D%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1
  30. 名門・大内氏復活を掲げた大内輝弘の乱!それを取り巻く諸将の思惑 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Zv3_nOcGSqw
  31. 「布部山の戦い(1570年)」月山富田をめざす尼子再興軍が挙兵、毛利と対決! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/176
  32. 岩国市史 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images11/3.html