浜田城の戦い(1600)
慶長五年 石見国における攻防の真相 ― 「浜田城の戦い」の実像と新たな秩序の誕生
序章: 「浜田城の戦い(1600)」という問いの再定義 ― 戦われなかった合戦の真相
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが繰り広げられた年、山陰地方の石見国で「浜田城の戦い」があったとする問いは、歴史探求において非常に興味深い視点を提供します。この戦いは、関ヶ原の戦いに連動した地方戦線の一つとして、日本海側の海運拠点の支配権を巡る攻防であったと認識されています。しかし、この問いに深く踏み込むと、我々はまず一つの決定的な史実に直面します。
それは、現在その名を知られる浜田城が、慶長5年(1600年)の時点では物理的に存在しなかったという事実です。史料によれば、浜田城は関ヶ原の戦いから約20年後の元和5年(1619年)、伊勢国松坂から古田重治が5万4千石で入封したことに伴い、翌元和6年(1620年)から築城が開始された近世城郭です 1 。したがって、1600年という時点において、この城を舞台とした攻防戦は起こり得ませんでした。
この歴史的矛盾は、しかしながら、調査の終わりを意味するものではありません。むしろ、より深く、本質的な問いへの入り口となります。本報告書は、この事実認識を起点とし、利用者様の真の関心事である**「慶長5年(1600年)の天下分け目の時期に、後の浜田藩が成立する石見国および山陰地方で、一体何が起こっていたのか」**を徹底的に解明することを目的とします。
石見国における1600年の物語は、城門を打ち破る槌音や鬨の声に彩られたものではありませんでした。その代わりに繰り広げられたのは、水面下での緊迫した外交交渉、情報戦、そして一族の存亡を賭けた一人の武将による深謀遠慮でした。物理的な戦闘が行われなかったこと、その「不戦」という事実こそが、この地域の運命を決定づけた「真の戦い」の帰結だったのです。本報告書は、なぜ浜田城の戦いが存在しなかったのかを解き明かし、その結果としていかにして新たな支配秩序が生まれ、後の浜田城誕生へと繋がっていったのか、その劇的な過程を時系列に沿って明らかにしていきます。
第一章: 関ヶ原前夜 ― 石見国と山陰地方の戦略的価値
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを前に、石見国を含む山陰地方が持つ戦略的重要性は、西国を支配する毛利氏と、天下統一の最終段階にあった徳川家康の双方にとって、決して無視できないものでした。この地域の価値を理解することは、なぜこの地で直接的な戦闘が回避されたのかを解明する上で不可欠です。
毛利氏の支配体制と国人領主
関ヶ原の戦いが勃発する直前、石見国は安芸国を本拠とする大大名・毛利氏の広大な領国の一部として、その支配下にありました 4 。当主である毛利輝元 5 を頂点に、毛利両川と称された吉川氏・小早川氏(当時は豊臣家養子の秀秋が継承)といった一門が領国を支え、さらに益田氏のような古くからの国人領主が毛利家の家臣団に組み込まれるという、重層的な支配体制が敷かれていました。石見国は、毛利氏にとって日本海側における重要な領土であり、経済的・軍事的な基盤の一部を成していました。
石見銀山の圧倒的重要性
石見国が持つ戦略的価値の中で、最も傑出していたのが石見銀山の存在です。この銀山は、当時、世界でも有数の産銀量を誇り、日本の経済、ひいては世界の交易にも影響を与えるほどの存在でした。
戦国時代において、合戦は経済力の勝負でもありました。兵士の動員、鉄砲や弾薬といった最新兵器の購入、兵糧の確保など、あらゆる軍事行動には莫大な資金が必要不可欠でした 6 。石見銀山を直接支配下に置いていた毛利氏は、この銀山から産出される良質な銀を財源とすることで、巨大な軍事力を維持し、西国随一の大名としての地位を確立していました 7 。豊臣政権下においても、輝元は秀吉に対して銀を運上しており、その経済的重要性が中央政権にも認められていたことがうかがえます 8 。
この銀山の価値は、徳川家康も痛いほど認識していました。関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めた後、家康が取った行動は、その執着ぶりを如実に物語っています。家康は、西軍総大将であった毛利輝元の本拠地・広島城の接収よりも優先し、勝利からわずか10日後という驚くべき速さで石見銀山に禁制を出し、支配下に置く手続きを開始したのです 9 。これは、家康が目指す新しい天下の秩序において、通貨制度の安定と幕府財政の確立がいかに重要であったかを示しています。石見銀山の確保は、単なる戦後処理の一環ではなく、新政権の経済的根幹を築くための、極めて迅速かつ戦略的な一手でした。石見国を巡る争いの本質は、軍事力そのものよりも、その軍事力を支える経済力の源泉、すなわち銀の支配権にあったのです。
日本海側の制海権と交通の要衝
石見国の沿岸部、後に浜田城が築かれる地域は、日本海航路における重要な中継地でした。北陸や畿内から九州北部へと至る物資や兵員の輸送、あるいは情報の伝達において、この地域の港湾を支配することは、日本海側の制海権を握る上で決定的な意味を持ちました。関ヶ原の戦いのような全国規模の内乱においては、敵対勢力の補給路を断ち、自軍の連絡線を確保するために、こうした海運拠点の支配が勝敗を左右する一因となり得たのです。
このように、石見国は毛利氏の経済的基盤であり、徳川家康にとっては新時代を築くための戦略的資産でした。この地の支配権を巡る対立は、本来であれば激しい軍事衝突を引き起こすに十分なものでした。しかし、現実に起こったのは、静かなる支配権の移行でした。その背景には、関ヶ原の主戦場から遠く離れた場所で繰り広げられた、毛利家内部の深刻な路線対立と、一人の武将による命懸けの外交工作が存在したのです。
第二章: 毛利家の分裂と吉川広家の「不戦」密約
石見国で戦闘が起こらなかった最大の理由は、毛利家そのものが関ヶ原の戦いにおいて一枚岩ではなかったことにあります。当主・毛利輝元が西軍の総大将に祭り上げられる一方で、一門の重鎮・吉川広家は徳川家康との間で極秘の交渉を進め、毛利家の戦闘参加を意図的に妨害しました。この水面下の「戦い」こそが、山陰地方の運命を決定づけたのです。
西軍総大将という名の桎梏
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が台頭する中、反家康派の石田三成は、毛利輝元を西軍の総大将として擁立することに成功します 10 。輝元は、秀吉亡き後の豊臣家への忠義と、家康への対抗心、そして毛利家の威信を示すため、この大役を引き受け、慶長5年7月17日には大坂城西ノ丸を占拠し、西軍の拠点としました 11 。しかし、この決断は輝元自身の強い意志というよりも、家臣である安国寺恵瓊らの強い勧めや、天下の情勢に流された側面が強く、毛利家全体を大きな賭けに晒すことになりました。
吉川広家の深謀遠慮と内通工作
毛利元就の孫であり、毛利一門の重鎮であった吉川広家 12 は、この状況を極めて冷静に、そして悲観的に見ていました。彼は、家康の圧倒的な実力と政治力を前に、毛利家が西軍に与して全面戦争に突入することは、家の滅亡に繋がりかねない無謀な選択だと判断します。広家の胸中にあったのは、ただ一つ、いかにして毛利本家をこの未曾有の危機から救い、存続させるかということでした 12 。
この目的を達成するため、広家は密かに家康との交渉ルートを模索します。彼は、旧知の間柄であった東軍の将、黒田長政や福島正則を仲介役として、家康との内通工作を開始しました 15 。広家の提案は、「毛利家は西軍に参加しているが、決して徳川殿に敵対する意志はない。本戦においては戦わず、戦闘に参加しないことを約束する。その代わり、戦後の毛利家の所領安堵を保証してほしい」というものでした 12 。
しかし、この密約の遂行は困難を極めました。広家は西軍の主要な将の一人であり、石田三成や安国寺恵瓊から常にその動向を注視されていました。疑念を抱かれれば、密約は露見し、全てが水泡に帰すだけでなく、自らの命も危うくなります。そこで広家は、巧妙な二重戦略を展開します。表向きは西軍の忠実な将として振る舞い、軍事行動にも積極的に参加したのです。特に8月下旬の伊勢・安濃津城攻めでは、広家率いる部隊は先鋒として激しく戦い、城を開城させるという大功を挙げました 11 。この戦いぶりはあまりに激しく、仲介役の黒田長政でさえ広家の真意を疑い、「本当に味方する気があるのか」と問いただす書状を送ったほどでした。これに対し広家は、「西軍内部で疑われないためにやむを得ず戦っている。内通の意志に変わりはない」と返答し、緊迫したやり取りが続けられました 15 。
南宮山の「宰相殿の空弁当」
関ヶ原決戦の前日、9月14日までに、広家と家康側の間で密約は最終的に成立します 16 。そして運命の9月15日、毛利輝元の名代である毛利秀元を総大将とする約1万5千の毛利本隊は、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの部隊と共に、関ヶ原の南に位置する南宮山に布陣しました 11 。
しかし、この毛利軍の最前線に陣取っていたのが、吉川広家の部隊でした。関ヶ原で戦闘の火蓋が切られ、西軍諸隊が奮戦する中、南宮山の麓に布陣する東軍の池田輝政隊や浅野幸長隊と対峙した広家は、家康との密約通り、一歩も動こうとしませんでした。後方からは、総大将の毛利秀元や、戦況を憂慮した長束正家、安国寺恵瓊から「なぜ進軍しないのか」「早く参戦せよ」との矢のような催促が届きます 11 。
これに対し、広家は「今、兵たちは弁当を食べている最中である(宰相殿の空弁当)」などと意味不明な返答を繰り返し、頑として進軍を拒否しました 11 。広家が最前線を塞いでいるため、後方の毛利本隊や長宗我部隊も動くことができず、南宮山に布陣した3万近い西軍の大部隊は、目の前で繰り広げられる決戦をただ傍観するしかありませんでした。この意図的なサボタージュにより、西軍は戦力的に最も頼りにしていた毛利軍を全く活用できないまま戦うことになり、小早川秀秋の裏切りと相まって、西軍の敗北を決定づける極めて大きな要因となったのです 16 。
広家のこの行動は、単に関ヶ原での毛利軍の損害を回避しただけではありませんでした。それは、毛利家が徳川家康と全面的に敵対する事態そのものを防ぐという、より大きな戦略的意図を含んでいました。もし毛利軍が全力で戦い、敗北していた場合、家康は戦後、毛利家の本領である安芸や周防、そして石見国に対して、容赦のない討伐軍を送っていた可能性が高いでしょう。そうなれば、石見国も必然的に戦場となり、各地の城で凄惨な攻防戦が繰り広げられたはずです。広家の南宮山での「不戦」は、関ヶ原での敗戦を確定させた一方で、毛利領全体が焦土と化す最悪の事態を防ぐための、苦渋に満ちた深謀遠慮だったのです。石見国の静寂は、この南宮山での「動かぬ戦い」によってもたらされた直接的な結果でした。
第三章: 慶長五年、石見国のリアルタイム・クロニクル
関ヶ原の主戦場や、大津城、田辺城で激しい戦闘が繰り広げられていた頃、石見国はどのような状況にあったのでしょうか。物理的な戦闘は存在しませんでしたが、そこには情報の錯綜、期待と不安、そして最終的な権力移行という、目に見えない「戦い」がリアルタイムで進行していました。以下の年表と解説は、当時の石見国で起きていたであろう出来事と思考を、情報の流れに沿って再構築するものです。
表1:関ヶ原の戦い 前後における山陰・石見国の動向年表
年月日 (慶長5年) |
中央の主要動向 |
吉川広家の動向 |
石見国および周辺の状況 |
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7月中旬 |
石田三成ら、打倒家康を掲げ挙兵 19 。 |
(表向き)西軍に与し、輝元を説得。 |
挙兵の報が伝わり、領内は臨戦態勢へ。 |
||
7月下旬 |
毛利輝元、西軍総大将として大坂城入城 11 。 |
黒田長政らを通じ、家康との内通工作を開始 16 。 |
銀山の警備強化。兵力の動員開始。 |
||
8月下旬 |
広家、伊勢・安濃津城を攻略 11 。 |
西軍への忠誠を偽装し、東軍を油断させる 15 。 |
丹後田辺城攻防戦開始 19 。西軍優勢の報が伝わる。 |
||
9月上旬 |
広家、美濃・南宮山に着陣 11 。 |
家康側と毛利家領地安堵の密約を最終調整 16 。 |
近江大津城攻防戦開始 10 。 |
||
9月15日 |
関ヶ原の戦い、勃発 20 。 |
|
南宮山にて毛利本隊の進軍を阻止 16 。 |
|
領内は静寂。城砦にて待機し、中央からの続報を待つ。 |
9月16日以降 |
西軍壊滅。三成ら首脳部が捕縛される 20 。 |
家康に戦功を認められるが、輝元の責任問題が浮上。 |
敗報が伝わり、領内に衝撃と混乱が走る。 |
||
9月下旬 |
家康、石見銀山に禁制を出す 9 。 |
輝元の謝罪と領地安堵交渉に奔走。 |
家康の使者が銀山を接収。毛利氏の支配が終わる。 |
||
10月以降 |
毛利氏、防長二国へ減封 12 。 |
交渉の結果、毛利家の存続を確定させる。 |
益田元祥ら毛利家臣が石見から退去 22 。 |
||
(戦後) |
- |
岩国3万石を与えられる 12 。 |
石見国は天領となり、大久保長安が奉行に着任 24 。 |
【慶長5年7月~8月】 挙兵と情報戦の開始
中央での石田三成の挙兵と、主君である毛利輝元が大坂城に入り西軍の総大将に就任したという報は、飛脚や船便によって石見国にもたらされました。この報を受け、現地の毛利氏の支配体制は即座に臨戦態勢に入ったと考えられます。
石見銀山を管理する代官たちは、警備を一層厳重にし、産出される銀を西軍の軍資金として大坂へ輸送する準備を急いだことでしょう。また、石見国における毛利方の有力国人領主、例えば七尾城を本拠とする益田元祥 25 らは、輝元の命令に基づき、領内の兵士を招集し、籠城の準備を固めました。三隅城 27 や山吹城 28 といった、戦国時代を通じて戦略的拠点とされてきた山城群でも、物資の搬入や防御施設の点検が慌ただしく行われていたはずです。
この時期、石見国の将兵の士気は決して低くはなかったと推測されます。周辺地域では、西軍が東軍方の城を次々と攻略していました。特に、隣国の丹後では、細川幽斎が籠る田辺城が1万5千の西軍に包囲され 29 、近江では京極高次が籠る大津城もまた、立花宗茂ら西軍の猛攻に晒されていました 10 。これらの情報は、断片的ながらも西軍の優勢を伝えるものとして石見国に届き、現地の将兵に勝利への期待を抱かせた可能性があります。しかし、彼らは知る由もありませんでした。これらの地方戦線での戦いが、結果的に関ヶ原の本戦に向かうべき西軍の貴重な兵力を釘付けにし、戦力を削いでいたという戦略的な実態を。
一方で、水面下では吉川広家による内通工作が進んでおり、彼に近い一部の重臣には、極秘の指示が与えられていた可能性も考えられます。「輝元公の表向きの意向は西軍にあるが、万一の事態に備えよ。徳川との全面対決は避けるべきである」といった、矛盾をはらんだ情報が、一部で混乱と憶測を生んでいたかもしれません。
【慶長5年9月15日】 関ヶ原決戦当日 ― 静寂の中の待機
美濃国関ヶ原で、日本の未来を決定づける大激戦が繰り広げられていたその日、石見国は不気味なほどの静寂に包まれていました 20 。動員された兵士たちは、それぞれの城や持ち場に留まり、ひたすら中央からの吉報を待つだけの状態でした。彼らにとっての「戦い」とは、物理的な衝突ではなく、領内を駆け巡る伝令の動向を追い、沿岸を監視する物見からの報告に一喜一憂し、領主たちの間で交わされる書状の内容を探るといった、「情報戦」そのものでした。
現地では、南宮山に布陣した毛利の大軍が今にも東軍の側面を突き、圧勝するだろうといった楽観的な情報や噂が飛び交っていたかもしれません。吉川広家が意図的に戦闘を回避し、毛利軍を遊兵化させているという最高機密は、ごく一部の人間しか知らず、現地の誰もが味方の勝利を信じて疑わなかったことでしょう。誰もが固唾をのみ、次の一手を決定づけるための確報を、東の空を眺めながら待ち続けていました。
【慶長5年9月下旬~10月】 敗報と支配権の移行
9月15日の夕刻から翌日にかけて、関ヶ原からの敗報が石見国にもたらされました。西軍の壊滅、石田三成、小西行長、そして毛利家の外交を担ってきた安国寺恵瓊といった首脳部が捕らえられたというニュースは、勝利を信じていた現地の将兵に絶望的な衝撃を与えました 20 。
この敗報とほぼ時を同じくして、勝者である徳川家康の迅速な行動が始まります。家康は勝利を確定させると、直ちに最重要戦略拠点である石見銀山の確保に動きました。9月25日頃には、家康の朱印状を携えた使者が銀山に到着し、一切の出入りを禁ずるとともに、毛利氏からの接収を一方的に宣言します 9 。これは軍事力による制圧ではなく、天下の新たな支配者としての権威に基づいた、行政的な支配権の移行でした。現地の毛利方代官や兵士たちに、もはや抵抗する術も意志も残されていませんでした。
戦後処理において、西軍総大将であった毛利輝元は、本来であれば改易、すなわち領地没収となってもおかしくない立場でした。しかし、吉川広家の必死の嘆願と、家康との密約がある程度考慮された結果、毛利家は改易を免れ、周防・長門の二国、約36万石への大減封という形で存続を許されました 12 。
この決定により、石見国は完全に毛利氏の手を離れることになります。代々石見国を本拠としてきた益田元祥のような毛利家臣は、先祖伝来の地を離れ、新たな領国である長門国須佐へ移ることを余儀なくされました 22 。家康は、元祥の武将としての器量を高く評価し、「毛利家を離れ、我が直臣となれば、石見の旧領1万石余をそのまま安堵しよう」という破格の条件で誘いをかけました 22 。しかし、元祥は「毛利家への恩義は捨てられない」として、この申し出を丁重に断り、主君と共に苦難の道を選んだと伝えられています 32 。この逸話は、戦国武将の忠義と気概を示すとともに、支配者が入れ替わる際に、その土地に生きてきた人々が経験した痛みと葛藤を象徴しています。
こうして、石見国における毛利氏の時代は、血を流すことなく、しかし劇的に終わりを告げたのです。
第四章: 戦後処理と浜田藩の誕生
関ヶ原の戦いが終結し、石見国における毛利氏の支配が終わると、この地域は徳川家康による新たな天下統一の枠組みの中に組み込まれていきました。戦闘が回避された石見国では、軍事的な占領ではなく、行政的・経済的な支配体制の再構築が迅速に進められました。このプロセスの中から、後の浜田藩、そして浜田城が誕生する土壌が形成されていったのです。
徳川幕府の直轄地へ
戦後処理の結果、石見国の大半、特に経済的に最も重要な石見銀山とその周辺地域は、毛利氏から没収され、徳川幕府の直轄地(天領)とされました 24 。これは、家康が新しい国家体制の財政基盤を確立する上で、銀山の価値を最優先事項と考えていたことの表れです。
この重要拠点を管理するため、家康は腹心の部下であり、鉱山経営や財政に卓越した手腕を持つ大久保長安を初代の石見銀山奉行に任命しました 24 。長安は、旧来の生産体制を改革し、最新の鉱山技術を導入するなど積極的な政策を展開しました。彼の統治下で石見銀山は再び活気を取り戻し、江戸時代初期における「シルバーラッシュ」と呼ばれるほどの増産を達成します 24 。これにより、石見国は戦国時代の毛利氏による軍事・経済支配の拠点から、徳川幕府による中央集権的な経済支配の象徴へと、その性格を完全に変えました。
浜田藩の立藩と浜田城の築城
関ヶ原の戦いからしばらくの間、石見国は天領として幕府の直接統治下にありましたが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川の天下が盤石になると、幕府は全国的な大名の再配置に着手します。
その一環として、元和5年(1619年)、大坂の陣などで武功を挙げた外様大名の古田重治が、伊勢国松坂から5万4千石で石見国に移封され、ここに浜田藩が立藩しました 2 。そして翌年の元和6年(1620年)2月、重治は藩の政治・経済の中心地として、浜田川の河口に近い亀山(現在の浜田城跡)に新たな城の築城を開始します 3 。
この浜田城の築城は、単に新しい藩主の居城を建設するという意味合いだけではありませんでした。それは、1600年の「不戦」が生み出した新たな政治秩序を、物理的な形でこの地に刻み込むという、極めて象徴的な意味を持っていました。戦国時代に石見国に点在していた三隅城や七尾城のような山城は、あくまで軍事的な防御拠点でした 25 。しかし、新たに築かれた浜田城は、梯郭式の平山城であり、城下町と一体となって藩の行政と経済を司る「近世城郭」でした 3 。
浜田城が担うべき役割は多岐にわたりました。第一に、西国の外様大名、特に減封されたとはいえ依然として大きな勢力を持つ隣国の長州藩(毛利氏)に対する「睨み」を効かせること。第二に、日本海側の海運を管理し、幕府の物流網を安定させること。そして第三に、背後にある幕府の最重要財源である石見銀山を間接的に監視・防衛することです。
このように、浜田城は過去の戦国時代の戦争を戦うために建てられたのではなく、徳川の平和(パックス・トクガワーナ)をこの地で管理・維持するために建設されたのです。その立地、構造、そして築城のタイミングの全てが、1600年の政治的帰結を象徴しています。吉川広家の密約によって始まった「不戦」という名の政治劇は、約20年の時を経て、浜田城という新たな秩序のシンボルの完成によって、建築的な終止符が打たれたと言えるでしょう。
結論: 「浜田城の戦い」の歴史的意義 ― 不戦が生んだ新たな秩序
本報告書が探求した「浜田城の戦い(1600)」は、最終的に、物理的な戦闘としては存在しなかったという結論に至ります。慶長5年(1600年)の時点で浜田城はまだ築城されておらず、石見国全域においても、関ヶ原の戦いに連動した大規模な軍事衝突は記録されていません。
しかし、この事実は歴史的な空白を意味するものではありません。むしろ、この地で戦いが起きなかったこと、すなわち「不戦」という事実そのものが、極めて重要な歴史的出来事でした。この「戦われなかった戦い」は、毛利一門の重鎮・吉川広家が、一族の存亡を賭して展開した高度な政治戦略と水面下の外交交渉によって、意図的に**「回避された戦い」**だったのです。
この「不戦」がもたらした歴史的意義は、以下の三点に集約されます。
第一に、吉川広家の行動は、関ヶ原の戦いにおいて毛利本隊の壊滅を防ぎ、結果として毛利家を改易という最悪の事態から救いました 12 。これにより、毛利氏は防長二国に減封されながらも大名として存続し、後の長州藩の基礎が築かれました。
第二に、この「不戦」は、石見国を含む山陰地方を戦火から守りました。もし毛利家が徳川家康と全面的に敵対していれば、この地域は間違いなく激しい戦闘の舞台となり、多くの人命と資産が失われていたことでしょう。
そして第三に、この「不戦」の結果として生じた徳川幕府による新たな支配体制が、後の浜田城の誕生に直結したという点です。関ヶ原の戦いの後、石見国は毛利氏の手を離れ、その心臓部である石見銀山は幕府の直轄地となりました。そして、この新たな秩序を西国において維持・管理する戦略的拠点として、浜田藩が創設され、その象徴として浜田城が築城されたのです。
結論として、「浜田城の戦い」は、起こらなかったからこそ、浜田城が誕生した、という逆説的な関係にあります。利用者様が当初認識されていた「海運拠点の支配が更新された」という結末は、まさにその通りであり、本報告書はその結論に至るまでの、血の流れない、しかし極めて劇的で複雑な政治的過程を明らかにするものでした。石見国における慶長5年の物語は、武力衝突の不在こそが最も雄弁に歴史の転換を物語る、稀有な事例と言えるでしょう。
引用文献
- 浜田城跡 (続日本100名城) | はまナビ 浜田市観光協会公式サイト https://kankou-hamada.or.jp/guidepost/6264
- 石見浜田 江戸初期藩主の外様古田重勝・重治(初代)・重恒(二代)並びに譜代松平周防守家一部藩主らを祀る「宝珠院・長安院」等散歩 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11912449
- 浜田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9F%8E
- 山陰の城館跡 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/saninshisekigaidobook.data/GuidebookNo.1_2021.pdf
- 毛利輝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
- 石見銀山を奪取せよ!! - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/publication/index.data/8-1_Japanese.pdf
- 石見銀山遺跡 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/publication.data/r1-2kirokusyu.pdf
- 石見銀山 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
- 石見銀山はどれだけ稼いでいたのか https://yamasan-aruku.com/aruku-281/
- 大津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 吉川広家に翻弄され、開戦に踏み切れず悩んだ「毛利秀元」(西軍) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/21643
- 吉川広家(きっかわ ひろいえ) 拙者の履歴書 Vol.269~二つの時代を生き抜いた智将 - note https://note.com/digitaljokers/n/n0c8c1c776a71
- 「吉川広家と天下人豊臣秀吉」展 https://www.kikkawa7.or.jp/schedule/20240924/
- 吉川広家(吉川広家と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/84/
- 関ケ原不戦の真意は? - 岩国吉川会 - Jimdo https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E3%81%A8%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9F/
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- 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-1/
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- なぜ田辺籠城戦は手強かった? 京都・舞鶴に受け継がれる「幽斎への崇敬の念」 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10582
- 関ヶ原前哨戦「大津城の戦い」!京極高次、懸命の籠城戦…猛将・立花宗茂を足止めす! https://favoriteslibrary-castletour.com/shiga-otsujo/
- 武家家伝_益田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/masuda.html
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