浪岡城の戦い(1578)
天正六年、津軽為信は謀略と奇襲で浪岡城を陥落させ、名門北畠氏を滅ぼした。これは津軽統一への転換点であり、為信の冷徹な智謀を示す戦いとして歴史に刻まれた。
天正陸奥騒乱:浪岡城落城の真実と津軽為信の謀略
序章:津軽統一の黎明、浪岡城に迫る影
戦国時代の日本列島が統一へと向かう激動の天正年間、その波は遠く北の地、陸奥国津軽地方にも容赦なく押し寄せていた。この地は長らく、糠部郡を本拠とする南部氏の宗主権のもと、緩やかな支配体制が敷かれていた。しかし、応仁の乱以降続く下克上の風潮は、中央から遠く離れたこの地においても例外ではなかった。南部宗家の統制力は次第に弱まり、津軽は事実上、在地領主たちが割拠する群雄割拠の状態を呈していた 1 。
中でも津軽平野においては、南部氏の一族である大光寺氏、そして名門の血を引く浪岡北畠氏、そして西部に位置する大浦氏が三大勢力として鼎立していた 1 。彼らは互いに牽制し合い、一進一退の攻防を繰り広げていたが、この均衡を打ち破り、歴史の主役へと躍り出ようとする人物が登場する。後の津軽藩初代藩主、津軽為信である 2 。
為信の台頭を許した背景には、宗主である南部氏内部の深刻な亀裂があった。当主・南部晴政と、その養嗣子であり石川高信の子である南部信直との間には、家督を巡る根深い対立が存在し、宗家は一枚岩ではなかった 4 。この内部抗争は、南部氏が津軽の情勢に効果的に介入することを困難にし、為信のような野心家にとっては、またとない好機をもたらした。
南部氏の庶流、あるいは被官という立場に甘んじることを良しとしない為信は 5 、南部氏からの完全な独立と、津軽一円を自らの実力で統一するという壮大な野望を抱いていた 2 。その野望を実現するための次なる一手として、彼の視線は津軽平野の中央に位置し、衰退の色を隠せない名門・浪岡北畠氏の居城、浪岡城へと注がれていたのである。本稿では、この「浪岡城の戦い」を、津軽統一史における画期的な出来事として捉え、その背景、戦闘の経過、そして歴史的意義について、多角的な視点から徹底的に詳述する。
第一章:合戦前夜 – 没落する名門と台頭する梟雄
天正6年(1578年)の浪岡城落城は、突如として起こった軍事衝突ではない。それは、長年にわたる浪岡北畠氏の内部崩壊と、それとは対照的な大浦為信の着実な勢力拡大という、二つの歴史的潮流が交差した必然的な帰結であった。合戦の真実を理解するためには、まず両陣営が置かれていた状況を深く掘り下げる必要がある。
第一節:名門・浪岡北畠氏の栄光と衰退
浪岡北畠氏は、南北朝時代に南朝の忠臣としてその名を馳せた鎮守府大将軍・北畠顕家の子孫を称する、奥州屈指の名門であった 7 。その居城は「浪岡御所」と尊称され、城主は公家大名の格式を持つ存在として、津軽において特別な権威を誇っていた 1 。最盛期には京都の中央政界とも繋がりを持ち、公家・山科言継を介して叙爵を受けるなど、津軽における文化的中心地としての役割も担っていた 1 。しかし、為信が台頭する頃には、その栄光は過去のものとなり、一族は深刻な衰退期に入っていた。この「貴種」としての高いプライドと、衰えゆく実力との乖離が、後の悲劇を招く一因となる。
第二節:内紛「川原御所の変」が残した致命的な傷痕
浪岡北畠氏の衰退を決定づけたのが、落城の16年前にあたる永禄5年(1562年)に発生した、一族内の凄惨な内紛「川原御所の変」である 7 。これは、一門の最有力者であった川原御所の主・北畠具信が、所領問題を巡る対立から、宗家当主である北畠具運を居城内で殺害するという、前代未聞の事件であった 12 。
具信父子は、具運の弟・北畠顕範らによって即座に討伐され、川原北畠氏は滅亡するものの 13 、この事件が浪岡一族に与えたダメージは計り知れないものであった。主君が有力な親族に殺害されるという事態は、家臣団の忠誠心を根底から揺るがし、組織の結束を著しく乱した。事件後、家臣の離反が相次ぎ、浪岡北畠氏の求心力と軍事力は急速に低下していったのである 11 。
この政治的・社会的な衰退は、物理的な痕跡としても確認されている。浪岡城跡の発掘調査では、この「川原御所の変」を境にして、城内の建物の数が明らかに減少していることが判明している 16 。これは、一族の経済力が低下し、広大な城郭を維持管理する能力さえも失われつつあったことを物語る動かぬ証拠である。したがって、1578年の為信による攻撃は、堅固な城塞を攻め落としたというよりも、内部から崩壊しつつあった組織の息の根を止める「最後の一押し」であったと解釈できる。この戦いの本質は、純粋な軍事衝突以上に、構造的に弱体化した組織への浸透と破壊工作にあった。
第三節:野心家・大浦為信の台頭と津軽平定の野望
浪岡北畠氏が内紛によって自壊していく一方で、大浦為信は着実にその牙を研いでいた。為信の出自については、南部氏支流の久慈氏出身説など諸説あるが、いずれにせよ大浦氏の養子となって家督を継ぐと、その類稀なる知略と、目的のためには手段を選ばない非情な行動力で、瞬く間に頭角を現した 4 。彼は敵対勢力から「梟雄」と恐れられ、調略や暗殺をも駆使して自らの道を切り拓いていった 18 。
為信は、前述の南部宗家の内紛という好機を逃さなかった。元亀2年(1571年)、南部信直の父である石川高信が守る石川城を奇襲によって攻略 4 。さらに天正4年(1576年)には、津軽のもう一つの有力勢力であった大光寺城を攻め落とし、津軽における地歩を固めていった 4 。そして、次なる標的として、かつては津軽の盟主でありながら、今や内紛によって弱体化した名門・浪岡北畠氏に狙いを定めたのである。
第二章:戦いの舞台 – 難攻不落の平城「浪岡城」
合戦のリアルタイムな様相を理解するためには、その舞台となった浪岡城の特異な構造を把握することが不可欠である。この城の縄張りは、為信が採用した戦術の巧みさと、籠城側の混乱を解き明かす鍵を握っている。
第一節:縄張りと防御構想 – 八つの郭と二重堀が織りなす迷宮
浪岡城は、単一の郭で構成される城ではない。城主の居館があった内館(主郭)を中心に、西館、北館、東館、猿楽館、検校館、新館など、記録上8つもの郭(館)が、浪岡川北岸の段丘上に扇状に広がる、広大かつ複雑な「群郭式」の平城であった 9 。
各郭は、幅が最大で20メートル、深さ5メートルにも達する大規模な空堀によって厳重に区画されていた 21 。そして、この城の最大の特徴は、堀の中央部に「中土塁」と呼ばれる通路状の土塁を設けることで、事実上の「二重堀」を形成していた点にある 22 。この中土塁は、単なる郭間の連絡通路としてだけでなく、敵が一方の堀に侵入した際に、土塁上から側面攻撃を加える「横矢掛かり」の機能を備えていた 22 。城全体が、侵入した敵を複雑な通路網に誘い込み、方向感覚を失わせ、各個撃破するための巧妙な防御システム、すなわち一種の「迷宮」として設計されていたのである。
第二節:城郭の構造から読み解く籠城戦術
浪岡城の防御思想は、正面からの正攻法に対しては絶大な効果を発揮したであろう。敵が大手口を突破したとしても、次々と現れる堀と独立した郭に行く手を阻まれ、進軍は停滞する。籠城側は、郭ごとに独立した防衛線を展開し、時間を稼ぎながら敵の兵力と士気を消耗させることが可能であった。
しかし、この堅固な防御構造は、同時に致命的な弱点を内包していた。その複雑さゆえに、郭間の迅速な連携や情報伝達が困難であり、城全体の統一的な指揮が難しい。特に、予期せぬ方向からの奇襲や、複数箇所での同時攻撃、そして内部からの攪乱工作といった「非対称戦」に対しては、指揮系統が容易に混乱し、麻痺しやすいというアキレス腱を抱えていた。
為信が選択したのは、まさにこの弱点を突く戦術であった。彼は浪岡城の物理的な堅固さを正面から攻略するのではなく、内部攪乱と多方面からの同時奇襲を組み合わせることで、城の「強み」である複雑さを、逆に「弱み」である指揮系統の麻痺へと転化させた。浪岡城の迷宮のような構造は、正規の攻城戦には強固であったが、為信が仕掛けた心理戦と情報戦を伴う奇襲の前には、守備側の混乱を増幅させる罠と化したのである。
第三章:天正六年七月 – 浪岡城、炎上
『津軽一統志』によれば、運命の日は天正6年(1578年)7月20日と記録されている。この日、津軽の名門・浪岡北畠氏の歴史に終止符が打たれた。断片的な史料と城郭構造の知見を組み合わせることで、落城に至るまでの緊迫した時間を時系列に沿って再構築する。
【開戦前夜】為信の謀略:内応と攪乱工作
為信の攻撃は、決して衝動的なものではなかった。それは、周到に張り巡らされた謀略の網が、機が熟すのを待って一気に引き絞られるかのように実行された。天正6年7月、浪岡氏の重臣であり、政務を補佐していた北畠顕則が所用で外ヶ浜(現在の青森市北部から東津軽郡一帯)へ赴き、城の守りが手薄になるという絶好の機会が訪れた 8 。
為信はこの好機を逃さなかった。彼はそれ以前から、諜報活動を活発化させていた。浪岡氏の家臣である葦町弥右衛門を内応させ、城内の情報を手に入れていたとされる 27 。さらに、津軽藩の公式史書『津軽一統志』には、為信が「忍びの者」を介して城下の博奕打ちといった「無頼の徒輩」を味方に引き入れ、攪乱部隊として城内に潜入させていたことが記されている 4 。これらの調略により、為信は攻撃と同時に内部から混乱を引き起こす万全の態勢を整えていた。これは単なる軍事作戦の枠を超えた、高度な諜報戦・心理戦であった。
【攻撃開始】三手に分かれた大浦軍の進撃
7月20日、為信は満を持して行動を開始した。軍勢を三手に分け、浪岡城へ向けて電撃的に侵攻した 11 。城の縄張りから推測すると、その攻撃は一点集中ではなく、複数の方向から同時に仕掛けられた可能性が高い。西側へ抜ける豆坂街道に面した北館方面、そして東館や西館方面など、多角的な攻撃によって守備側の注意を分散させ、防御を困難にさせる狙いがあったと考えられる 22 。
【城内】混乱と抵抗:予期せぬ奇襲と防戦のリアルタイム描写
大浦軍の鬨の声が上がるのと時を同じくして、城内では予期せぬ事態が発生した。潜伏していた協力者たちが、城の各所で一斉に放火したのである 4 。突如として城内から立ち上る黒煙と炎は、守備兵たちを大混乱に陥れた。
外部からの猛攻と、内部からの火災という二重の危機に直面し、浪岡城の指揮系統は完全に麻痺した。どの郭が主戦場なのか、火災はどこまで燃え広がっているのか、正確な情報が錯綜し、有効な防衛組織を組むことができない。さらに、内応者・葦町弥右衛門の手引きによって、堅固なはずの城門がやすやすと開けられた可能性も否定できない 27 。
こうなると、浪岡城の複雑な構造は完全に裏目に出た。各郭の守備隊は、他の郭の状況がわからぬまま孤立。連携を絶たれ、迷宮のような城内で右往左往するうちに、統制の取れた大浦軍の前に次々と撃破されていった。横矢を掛けるはずの中土塁も、組織的な抵抗がなければ単なる通路でしかなく、その防御機能を発揮することはできなかった。
【落城】北畠顕村の最期と浪岡北畠氏の滅亡
城内の混乱に乗じ、大浦軍の主力は城の中枢である内館へと殺到した。残された兵たちによる必死の抵抗も、大勢を覆すには至らない。やがて内館は陥落し、城主・北畠顕村はもはやこれまでと覚悟を決め、自刃して果てたと伝えられている 4 。
この瞬間、南北朝の動乱期から約150年にわたり津軽に君臨した名門・浪岡北畠氏は、為信の謀略と武力の前に、その歴史の幕を閉じた 1 。城は炎に包まれ、為信は津軽統一への大きな一歩を、灰燼の中から踏み出したのである。
第四章:歴史の交差点 – 史料に見る「落城」の異説
歴史はしばしば勝者によって語られる。浪岡城の戦いは、その典型例と言えるだろう。この合戦の発生年については、勝利者である津軽氏側の記録と、為信を謀反人と見なす南部氏側の記録との間に、11年もの著しい食い違いが存在する。この相違は単なる記録ミスではなく、当時の熾烈な政治闘争を反映した「歴史戦」の様相を呈している。
第一節:津軽氏側の記録『津軽一統志』が語る天正六年(1578年)説
後の弘前藩によって編纂された公式史書『津軽一統志』は、浪岡城の落城を天正6年(1578年)7月20日の出来事として明確に記述している 11 。この年代設定は、為信が南部氏の支配が及ばない津軽地方を、自らの実力によって平定していく過程を正当化し、その独立が長年にわたる既成事実であったことを示すための、極めて政治的な意図に基づいた公式見解である。
第二節:南部氏側の記録に見る天正十七・十八年(1589-90年)説とその背景
一方、為信と敵対した南部氏側の史料、例えば『南部根元記』などでは、浪岡城の落城を天正17年(1589年)あるいは天正18年(1590年)のこととしている 8 。これは津軽側の記録とは11年もの隔たりがあり、単なる記憶違いでは説明がつかない。この年代は、為信の津軽領有を断じて認めず、彼をあくまで「主家に対する謀反人」「領土の不当な簒奪者」と位置づける南部氏の強い意志の表れであった。
第三節:専門的見地からの考察:なぜ記録は食い違うのか
現在の歴史研究においては、様々な状況証拠を総合的に判断し、津軽氏側の天正6年(1578年)説が、より事実に近いものとして有力視されている 8 。では、なぜこれほど大きな記録の食い違いが生まれたのか。その鍵は、天正18年(1590年)という年が持つ、戦国史における決定的な意味にある。
この年、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げ、全国の大名に対して領地の安堵(公的な所有権の承認)を行う「奥州仕置」を実施した 2 。この新たな中央権力に対し、自らの領地の正当性をいかにアピールするかが、各大名の死活問題となった。
為信は、主家である南部氏を介さず、石田三成らを通じて直接秀吉に働きかけ、津軽地方の領有を公的に認めさせるという外交的勝利を収めた 2 。これに対し、南部氏は「為信の津軽支配は、秀吉様による天下統一の直前に起きた、どさくさ紛れの不法占拠に過ぎない」と中央政権に訴えるため、浪岡城の落城を1589年や1590年という、奥州仕置の直前の出来事として記録したのである。
逆に津軽氏は、1578年説を主張することで、「我々の津軽支配は10年以上前からの既成事実であり、南部氏の支配が実質的に及んでいなかった実態を、秀吉様に追認していただいたに過ぎない」という論理を構築した。つまり、この日付論争は、過去の事実を巡る学術的な議論ではなく、当時のリアルタイムな政治闘争における「法的・外交的武器」として機能していたのである。歴史記録そのものが、戦国末期の政治力学を色濃く反映する鏡となっている。
項目 |
津軽氏側史料『津軽一統志』 |
南部氏側史料『南部根元記』など |
政治的背景・意図 |
合戦発生年 |
天正6年(1578年)7月 11 |
天正17年(1589年)または18年(1590年) 11 |
為信の長年にわたる実効支配を主張 vs 為信を直近の謀反人と位置づけ |
城主 |
北畠顕村 4 |
浪岡具運(御所様) 11 |
具体的な人物名の違いは、記録の混乱を示唆 |
合戦の経緯 |
三面攻撃と内部放火による電撃戦 4 |
為信により滅ぼされる(詳細は少ない) 11 |
為信の武功と智謀を強調 vs 謀略による簒奪のイメージを強調 |
結果 |
顕村自害、浪岡氏滅亡 4 |
浪岡氏滅亡後、津軽諸将は南部氏に服属 11 |
津軽平定の画期と位置づけ vs 南部氏の宗主権が依然として有効であったと主張 |
第五章:戦後の津軽と浪岡一族の行方
一つの合戦の終結は、新たな歴史の始まりを意味する。浪岡城の落城は、津軽地方の勢力図を塗り替え、滅びた一族の運命を大きく左右する分水嶺となった。
第一節:津軽統一への道 – 為信の次なる一手
津軽平野の中核に位置する戦略的要衝・浪岡城を手中に収めたことで、大浦為信の津軽統一事業は決定的な段階に入った 2 。最大のライバルの一つを排除した為信は、その勢いを駆って津軽平定を加速させる。この後、彼は津軽東部の外ヶ浜地域へと進出し、油川城などを攻略 18 。為信に反抗する勢力は一掃され、津軽地方のほぼ全域がその支配下に置かれることになった。浪岡城の攻略は、まさに津軽統一における「王手」と呼ぶべき一手だったのである。
第二節:離散した北畠一族のその後
主家を失った浪岡北畠一族は、各地へ四散することを余儀なくされた 31 。その後の運命は様々であった。城主・顕村の正室が秋田安東氏の娘であった縁から、舅の安東愛季を頼って秋田へ落ち延びた者たちは、後に三春藩秋田氏の家老職を世襲し、明治維新後に浪岡姓に復したという 1 。また、旧主筋である南部氏に仕え、岡氏を名乗った者もいた 1 。
皮肉なことに、仇であるはずの津軽為信に仕えた一族も存在する。「川原御所の変」で唯一生き残ったとされる北畠利顕や、家臣であった原子平内兵衛などがその例である 27 。彼らは姓を変え、あるいは旧領に隠棲しながらも、武士や医者、庄屋などとしてそれぞれの地で北畠氏の血脈を後世に伝えていった 27 。名門の滅亡は悲劇であったが、その血統は絶えることなく、新たな時代を生き抜いたのである。
第三節:遺された城跡が語るもの
戦いの舞台となった浪岡城は、落城後に廃城となった。しかし、その広大な城跡は奇跡的に良好な状態で保存され、1940年(昭和15年)には青森県で初めて国の史跡に指定された 23 。現在、城跡は公園として整備され、訪れる者は幾重にも巡らされた堀や土塁の跡を辿ることで、往時の城の壮大さと、ここで繰り広げられた攻防の激しさを肌で感じることができる 1 。
城跡に隣接して建てられた「青森市中世の館」では、発掘調査によって出土した5万点以上もの遺物が展示されている 10 。そこには、中国産の陶磁器や武具、日用品などが含まれており、浪岡北畠氏が津軽の政治・文化の中心として繁栄していた頃の様子を今に伝えている。400年以上の時を超えて遺された城跡と出土品は、この地で繰り広げられた謀略と栄枯盛衰の歴史を、静かに、しかし雄弁に物語る証人なのである。
結論:浪岡城の戦いが津軽史に残した意味
天正6年(1578年)の浪岡城の戦いは、単なる一地方の城の攻防戦にとどまらない、津軽の歴史、ひいては戦国時代そのものを象徴する深い意義を持つ出来事であった。
第一に、この戦いは北畠氏という「貴種の権威」が、為信という下克上の体現者の「実力」によって打ち破られた、戦国時代の力学を象徴する出来事であった。南北朝以来の名門という血統の権威も、内紛による組織の弱体化と、時代の変化を読み切る新たな実力者の前には無力であった。
第二に、浪岡北畠氏の滅亡と為信による津軽統一は、江戸時代を通じてこの地を治めることになる弘前藩成立へと直結する、津軽史における最大の転換点であった。この戦いがなければ、現在の青森県西部の歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。それは、津軽という地域が、南部氏の支配圏から独立した一個の政治的単位として確立されるための、産みの苦しみであった。
最後に、この戦いは津軽為信という武将の評価を決定づけた。彼は、旧主を裏切り、謀略を駆使して領土を切り取った「梟雄」として、特に南部氏の視点からは長く非難され続けた 5 。しかし同時に、時代の趨勢を的確に読み、中央政権との交渉を巧みに進め、一代で大名の地位を築き上げた卓越した戦略家でもあった 2 。浪岡城の戦いは、そんな彼の冷徹なリアリズムと類稀なる智謀という両面性を、最も鮮やかに映し出した攻防戦として、奥州の戦国史にその名を刻んでいる。
引用文献
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- 津軽為信(つがる ためのぶ) 拙者の履歴書 Vol.263~南部から自立、津軽の礎を築く - note https://note.com/digitaljokers/n/n19002500b580
- 津軽氏は津軽為信の時代に北東北最大勢力の南部氏から独立し弘前藩を築いた - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/20728/
- 津軽為信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1
- 南部と津軽の仲が悪い歴史的な理由を、部外者があらためて整理してみた|北条高時 - note https://note.com/takatoki_hojo/n/nbb50ef2cb976
- 津軽氏と南部氏の関係史(戦国時代について)|伊達胆振守(旧:呉王夫差)の活動報告 https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/377473/blogkey/1616870/
- 第13話 浪岡城 - 青森県の歴史街道と史跡巡り http://aomori-kaido.com/rekishi-kaido/contents_tu/13.html
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- 緩衝地帯に消えた名族|浪岡城(青森市)vol.2【城跡紀行】 - note https://note.com/kabosda_chi/n/n5f8b135cadad
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- 梟雄・津軽為信も、密かに「女」の怨念を恐れていた!? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4953
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- 名城詳細データ | 浪岡城 - 日本百名城塗りつぶし同好会 http://kum.dyndns.org/shiro/castle.php?csid=103&page=6
- 浪岡城の写真:国史跡 浪岡城跡配置図[きゃみさんさん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/358/photo/184704.html
- 浪岡北畠氏 http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/lineage/kakikukeko/namiokakitabatake.html
- No.156【2015年5月1日配信】 戦国時代の「いくさ」(担当:工藤) https://www.library.city.aomori.aomori.jp/aomoricity_history/trivia/101-/156.pdf
- 【城めぐり】浪岡北畠氏の居城 浪岡城 青森県【攻略ルート】 | かわせれいとブログ https://ameblo.jp/kawasereito/entry-12829054169.html
- 旅 1194 浪岡八幡宮 浪岡城跡 北畠氏累代の墓 - ハッシー27のブログ - Seesaa https://0743sh0927sh.seesaa.net/article/202105article_4.html
- 浪岡氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E6%B0%8F
- 油川城跡~西田沢・奥内・後潟の地域マップ https://www4.hp-ez.com/hp/hokubumap/page59
- 浪岡(北畠)氏 http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/meizoku/namioka.htm
- 青森市中世の館(特定非営利活動法人NPO婆裟羅凡人舎) https://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1002403.html
- 中世の館|スポット・体験|【公式】青森県観光情報サイト Amazing AOMORI https://aomori-tourism.com/spot/detail_273.html
- 【津軽為信】情報力と行動力で独立に成功した弘前藩の創業者 - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-tsugarutamenobu/