淀城の戦い(1600)
慶長五年、淀城の戦いは戦闘なき戦略戦。西軍は淀川水運の要を確保するも、東軍の圧力と小早川秀秋の内通により孤立。無益な損害を避け、淀を放棄した西軍は関ヶ原での短期決戦を強いられ、天下の趨勢を決した。
慶長五年 淀城の「戦い」- 関ヶ原を決した、沈黙の戦略拠点-
序章:淀城の戦いとは何か-通説と実像の乖離-
慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに先立ち、畿内各地で繰り広げられた前哨戦。その中に「淀城の戦い」として語られる一局面が存在する。通説では「西軍の拠点となるも、東軍圧力下で開城。淀川水運の要が中立化し、畿内の決戦地集中を促した」と要約されるこの出来事は、しかしながら、その実像を深く探ると、鬨の声も刃の交わる音も聞こえてこない、静かなる戦略的攻防であったことが浮かび上がってくる。本報告書は、この「戦闘なき戦い」の全貌を、当時の畿内の軍事情勢と複雑に絡み合う諸将の思惑を時系列で丹念に追うことで解き明かし、その沈黙の攻防がいかにして関ヶ原の帰趨を決する一因となったのかを徹底的に論証するものである。
まず、歴史的誤解を解くために、慶長五年時点での「淀城」の正体を明確にせねばならない。この時期に戦略拠点として言及されるのは、豊臣秀吉がその側室・茶々(後の淀殿)に産所として与えた「淀古城」である 1 。しかし、この淀古城は、秀吉が伏見城を新たな政治の中心として築城するに伴い、文禄三年(1594年)頃には破却されていたとする記録が有力である 1 。したがって、1600年当時、西軍が拠点とした「淀」とは、堅固な天守や石垣を備えた要塞ではなく、その比類なき地政学的価値を持つ戦略「地点」そのものであったと理解すべきである。後年、徳川幕府によって築かれ、稲葉氏らが城主を務めることになる近世城郭としての「淀城」とは、全く別の存在なのである 6 。
では、なぜ城郭としての実体を失った淀が、天下分け目の争乱においてかくも重要な意味を持ったのか。その答えは、当時の地形にある。淀は、宇治川、桂川、木津川という三つの大河が合流する、まさに水運の心臓部であった 1 。豊臣政権の政治的中心地である京都と、経済と兵站の拠点である大坂城を結ぶ物流・交通の大動脈であり、この地を掌握することは、畿内における人、物資、そして情報の流れを完全に支配することを意味した 12 。この絶対的な戦略的重要性こそが、淀を「戦闘なき戦い」の舞台へと押し上げた根源的な理由に他ならない。
第一部:天下分け目の序曲-畿内を巡る攻防-
第一章:発端-家康の会津征伐と三成の挙兵-
豊臣秀吉が慶長三年(1598年)にその波乱の生涯を閉じると 14 、豊臣政権内部に潜在していた権力闘争の火種が燻り始めた。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を半ば無視する形で影響力を急速に拡大させ、これに五奉行の石田三成らが強く反発。政権は、家康を中心とする勢力と、三成を中心とする反家康派閥へと二分されていった 15 。
慶長五年(1600年)六月、家康は、上洛命令に従わない会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いてその討伐に赴く 17 。この家康の畿内不在という千載一遇の好機を捉え、石田三成は行動を開始する。七月、三成は盟友の大谷吉継らと謀り、毛利輝元を西軍の総大将として擁立。家康に対する弾劾状である「内府ちかひの条々」を諸大名に発し、ここに天下を二分する戦いの火蓋が切られたのである 15 。
第二章:西軍の電撃作戦-畿内制圧と防衛線の構築-
挙兵した西軍の初動は迅速であった。彼らの当面の目標は、家康が東国へ去った後の「空き家」同然となった畿内を完全に掌握し、強固な防衛線を構築することにあった。その象徴的な戦いが、家康の譜代の臣・鳥居元忠がわずか1800の兵で守る伏見城への攻撃であった 18 。西軍は四万の大軍でこれを包囲。元忠は壮絶な籠城戦の末に玉砕し、八月一日、伏見城は落城する 18 。この戦いは、西軍の進軍を十日以上にわたって遅滞させるという戦略的成果を東軍にもたらしたものの、畿内における西軍の軍事的優位を内外に示すには十分なものであった。
伏見城攻略と並行して、西軍は畿内各地に点在する東軍方大名の拠点を次々と制圧していく。細川幽斎が籠る田辺城への攻撃などがその代表例である 21 。この一連の作戦の中で、京都と大坂を結ぶ最重要拠点である淀にも、当然ながら西軍の部隊が配置されたと考えるのが自然である。具体的な指揮官や兵力に関する直接的な史料は乏しいが、畿内全体の防衛網を構築する上で、淀の確保は不可欠の要素であった。
第三章:東軍先鋒の逆襲-岐阜城陥落と西進-
一方、下野国小山で三成挙兵の報に接した家康は、会津征伐を中止。諸将を集めて軍議を開き(小山評定)、反転して西へ向かうことを決定する。この時、福島正則や池田輝政といった、秀吉子飼いの武断派大名たちが、三成への反感からいち早く家康支持を表明し、東軍の先鋒として西上を開始した 17 。彼らが東軍の中核を担ったことは、この戦いが単なる徳川対豊臣の構図ではなく、豊臣家臣団内部の対立という側面を色濃く持っていたことを示している。
慶長五年八月二十一日から二十二日にかけて、池田輝政、福島正則らの東軍先鋒部隊は木曽川を渡河 24 。織田信長の孫・秀信が守る岐阜城に猛攻を加え、米野の戦いを経て、わずか一日でこれを陥落させた 16 。この岐阜城の早期陥落は、西軍の防衛構想に大きな動揺を与えた。東軍先鋒は勢いに乗り、石田三成ら西軍主力が本拠とする大垣城を睨みつつ、一部の部隊はさらに西進。垂井や関ヶ原一帯まで進出して焼き働きを行うなど、美濃における軍事的優位を確立した 18 。この東軍の破竹の進撃は、遠く畿内に布陣する西軍の各拠点に対し、強烈な無言の圧力となってのしかかっていくことになる。
第二部:時系列で見る「淀城開城」-圧力と交渉の記録-
淀城の「戦い」は、単独の事象としてではなく、畿内で同時多発的に進行していた複数の前哨戦、そして水面下で進む調略活動との連動の中で理解されねばならない。以下の時系列対照表は、その複雑な状況を俯瞰するためのものである。
日付(慶長五年) |
伏見城の戦い |
大津城の戦い |
東軍先鋒(美濃) |
淀城(推定)と周辺情勢 |
7月19日 |
西軍、攻撃開始 |
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西軍、畿内制圧を開始。淀にも部隊配置か。 |
8月1日 |
鳥居元忠討死、落城 |
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畿内における西軍の優位が確立。 |
8月22日 |
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木曽川渡河、米野の戦い |
東軍の反攻が本格化。 |
8月23日 |
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岐阜城、落城 |
美濃の戦況が淀にも伝わり、緊張が高まる。 |
9月7日 |
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京極高次籠城、攻防戦開始 |
大垣城周辺で西軍主力と対峙 |
西軍主力1万5千が大津に釘付けとなる。 |
9月8日~14日 |
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激しい攻防が続く |
赤坂に家康本隊到着(14日) |
東軍の圧力が南下。小早川秀秋の東軍内通工作が進展。淀は孤立の危機に。 |
9月15日 |
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総攻撃の末、開城 |
関ヶ原決戦 |
戦闘なくして西軍部隊が撤退・開城。戦略拠点としての機能を喪失。 |
第一章:膠着する戦線-大津城攻防戦の激化(九月七日~)-
美濃での敗報が続く中、西軍の畿内戦略に更なる混乱をもたらす事件が起こる。近江大津城主・京極高次の東軍への寝返りである。高次の妻・お初は淀殿の実妹であり、豊臣方とは極めて深い閨閥関係にあった 4 。それにも関わらず、彼は徳川方につくことを決断し、手勢三千と共に大津城に籠城したのである 26 。
大津は琵琶湖水運と東国へ至る街道を抑える要衝であり、西軍にとって看過できる存在ではなかった。九月七日、西軍は毛利元康を総大将に、九州の猛将・立花宗茂、小早川秀包らを含む一万五千という大軍を差し向け、大津城を完全に包囲した 21 。高次と城兵は五倍以上の敵を相手に奮戦し、戦線は膠着状態に陥った。
この大津城攻防戦は、戦術的には西軍の勝利に終わるものの、戦略的には西軍にとって致命的な失策であった。関ヶ原の決戦当日である九月十五日まで、西軍の精鋭部隊一万五千が、主戦場から遠く離れた大津の地に釘付けにされたのである 21 。この膨大な兵力がもし関ヶ原に投入されていれば、戦いの趨勢は大きく変わっていた可能性が高い。さらに重要なのは、この主力部隊が大津に拘束されたことで、淀を含む他の畿内拠点への増援や連携が不可能となり、一種の「力の空白」が生じたことである。この状況が、淀城の運命を静かに決定づけていく。
第二章:迫る東軍の影-淀城への無言の圧力(九月八日~十四日)-
大津城で激戦が続く傍ら、美濃を制圧した東軍の圧力は、着実に南へと及んでいた。福島正則や池田輝政らの主力は大垣城の石田三成と対峙していたが、その一部が別動隊として南下し、近江から山城国境方面へ示威行動や偵察を行っていた可能性は極めて高い。山内一豊の書状が示すように、岐阜城攻略後に垂井・関ヶ原まで進軍している事実からも 18 、東軍の活動範囲が広範にわたっていたことがうかがえる。
まさにこの時期、戦局全体を左右する水面下の動きが活発化していた。西軍に属しながらも去就を明らかにしていなかった小早川秀秋と、その家老である稲葉正成、平岡頼勝らによる東軍への内通工作である 29 。彼らは黒田長政を仲介役として家康と連絡を取り合い、寝返りの密約を進めていた 18 。九月十四日には、家康から秀秋に対し、内応を確約させる起請文が送られている 18 。
この時点で、淀に駐留していたであろう西軍部隊は、絶望的な状況に置かれていた。東からは美濃を制圧した東軍の影が迫り、西には味方であるはずの小早川秀秋の一万五千の大軍が不穏な動きを見せている。そして、北の大津では主力部隊が釘付けにされ、救援は期待できない。まさに四面楚歌、挟撃されかねない戦略的孤立状態に陥っていたのである。
第三章:決断の刻-淀城、開城す(九月十五日前後)-
このような極限状況下で、淀の西軍部隊が取り得た選択肢は限られていた。籠城して玉砕覚悟で戦うことは、戦術的には可能であったかもしれない。しかし、援軍の望みが絶たれ、戦略的に完全に孤立した拠点を守り抜くことに、もはや何の意味も見いだせなかったであろう。
淀城の「開城」に関する直接的な戦闘記録や降伏交渉の史料は、今日まで発見されていない。この事実は、物理的な戦闘がほとんど、あるいは全く行われなかったことを強く示唆している。むしろ、戦況の全体像を冷静に分析した現地の指揮官、あるいは大坂城の首脳部が、無益な損害を避けるために兵力を温存し、大坂城や関ヶ原の主力部隊へと合流させるべく、戦略的な「拠点放棄」を断行したと考えるのが最も合理的である。
この決断が下されたのは、関ヶ原で決戦の火蓋が切られた九月十五日、あるいはその直前であったと推定される。奇しくも、この日は大津城が高次の奮戦の末に開城した日でもあった 21 。畿内における西軍の組織的抵抗は、美濃で天下分け目の決戦が行われているまさにその瞬間に、音もなく終焉を迎えたのである。この事実を裏付けるように、戦後の九月二十五日から二十六日にかけて、勝利した徳川家康自身が淀城に入っている記録が『当代記』や『関原始末記』に見られる 31 。これは、淀が戦闘を経ることなく、完全に東軍の管理下に移っていたことの動かぬ証拠と言えよう。
人物名 |
所属(慶長五年九月) |
石高(推定) |
慶長五年九月の主な動向 |
淀城への関与 |
稲葉正成 |
西軍(東軍へ内通) |
5万石(小早川家家老として) |
主君・小早川秀秋と共に関ヶ原へ布陣。黒田長政を介し東軍との内通工作を主導。 |
間接的:秀秋の動向を通じて畿内全体の戦況に影響を与えた。 |
小早川秀秋 |
西軍(東軍へ内通) |
35万7千石 |
関ヶ原西方の松尾山に布陣。去就を曖昧にし、決戦当日に東軍へ寝返る。 |
間接的:その大軍の存在が、淀の西軍部隊にとって背後からの脅威となった。 |
福島正則 |
東軍 |
20万石 |
東軍先鋒として岐阜城を攻略後、関ヶ原の最前線で宇喜多秀家隊と激突。 |
間接的:美濃での快進撃が、淀を含む畿内西軍拠点への軍事的圧力となった。 |
池田輝政 |
東軍 |
15万2千石 |
福島正則と共に東軍先鋒の中核を担い、岐阜城を攻略。 |
間接的:美濃制圧の主導者として、淀の戦略的孤立を深める一因を作った。 |
京極高次 |
東軍 |
6万石 |
大津城に籠城し、西軍主力一万五千を関ヶ原決戦当日まで足止めする。 |
間接的:彼の奮戦が淀への援軍を不可能にし、開城の遠因となった。 |
立花宗茂 |
西軍 |
13万2千石(本領) |
大津城攻城軍の中核として奮戦。関ヶ原決戦には参加できず。 |
間接的:大津城に拘束されたことで、淀の防衛を不可能にした。 |
第三部:淀城開城の戦略的価値と歴史的意義
第一章:畿内水運の掌握と兵站線の確保
淀の無血開城がもたらした最も直接的かつ決定的な影響は、東軍による淀川水系の完全掌握であった。これにより、大坂湾から京都へ至る兵站線が確保され、仮に戦いが長期化した場合でも、東軍は物資の補給に窮することなく作戦を継続できるという圧倒的優位を手にした。
逆に西軍にとって、これは致命的な打撃であった。美濃で決戦に臨む主力軍と、総大将・毛利輝元が座す大坂城との間の、最も重要かつ迅速な連絡・補給ルートが完全に遮断されたことを意味する 16 。情報は寸断され、兵糧や弾薬の補給も困難となる。この兵站線の分断は、西軍の戦略遂行能力を根底から揺るがすものであった。
第二章:関ヶ原への道程-両軍、決戦の地へ-
淀の失陥は、大垣城に籠る石田三成の戦略にも決定的な影響を及ぼした。三成の当初の計画は、堅城である大垣城に籠城し、東軍を城攻めに釘付けにするというものであった 16 。長期戦に持ち込むことで東軍の疲弊を誘い、その間に大坂から毛利本隊の増援を得て、背後の南宮山に布陣する毛利秀元・吉川広家らの部隊と連携して東軍を挟撃するという、計算された防衛戦略であった。
しかし、この戦略は根底から覆される。九月十四日、態度を決めかねていた小早川秀秋が、大垣城と畿内を結ぶ要衝、関ヶ原西方の松尾山に布陣したのである 16 。これにより、大垣城は背後を脅かされる形となった。そして、それに追い打ちをかけるように、淀の無力化という報がもたらされる。畿内との連絡線が完全に断たれたことで 16 、大垣城は敵中に孤立する危険性が現実のものとなった。兵站線が確保されてこそ有効な籠城戦術も、生命線を断たれては自滅への道程に他ならない。
この状況に至り、三成は籠城策の破綻を悟らざるを得なかった。彼は、家康本隊が美濃赤坂に着陣した機を捉え、九月十四日の夜半、全軍を率いて大垣城を出陣。関ヶ原での野戦に一挙に勝敗を決するという、極めてリスクの高い賭けに出ることを決断した。淀における沈黙の攻防は、図らずも石田三成に籠城という選択肢を奪い、関ヶ原という決戦の舞台そのものを設定する上で、間接的ながら決定的な役割を果たしたのである。
第三章:歴史の皮肉-稲葉正成と後の淀藩-
この天下分け目の戦いにおいて、小早川秀秋の寝返りを演出し、東軍勝利の立役者の一人となったのが、家老の稲葉正成であった 29 。彼は関ヶ原の戦いの後、主君・秀秋と対立して小早川家を去るが、その妻・福(後の春日局)が三代将軍・徳川家光の乳母となった縁もあり、後に徳川家の大名として見事に返り咲く 37 。
そして、時代は下り、徳川幕府が西国への睨みを利かせるために、かつての淀古城の地に新たに築城した壮麗な近世城郭「淀城」。その城主として、享保八年(1723年)以降、幕末の動乱に至るまで百数十年にわたり在封し続けたのが、他ならぬ稲葉正成の子孫たちであった 5 。
関ヶ原の勝敗を分ける重要な一因となった淀の地を、その勝利の功労者である稲葉正成の子孫が、勝利者である徳川幕府の譜代大名として長きにわたり守護し続ける。歴史の皮肉とも、また必然の巡り合わせとも言えるこの事実は、淀という土地が持つ数奇な運命を象徴しているかのようである。
結論:沈黙の戦いが語るもの
慶長五年九月の「淀城の戦い」は、火花を散らす戦闘こそなかったものの、関ヶ原の戦い全体の帰趨を左右した、極めて重要な戦略的転換点であった。それは、武力による直接的な衝突ではなく、地政学的優位の確保、兵站線の分断、そして水面下での調略活動が織りなす、高度な戦略戦であった。
東軍の迅速な美濃制圧と、それによって生じた軍事的圧力。西軍の大津城攻めに固執したことによる、畿内における致命的な兵力不足。そして、小早川秀秋の不穏な動向がもたらした心理的動揺。これら複数の要因が複雑に絡み合い、西軍は畿内の心臓部とも言うべき淀を、一戦も交えることなく手放さざるを得なかった。
この淀の無力化は、西軍の兵站と指揮系統を麻痺させ、石田三成に大垣城での籠城策を放棄させ、関ヶ原での短期決戦へと駆り立てた。派手な合戦の影に隠れがちなこの「沈黙の戦い」こそ、戦国時代の合戦が単なる兵力の衝突だけでなく、情報、兵站、戦略的判断といった、より高度な次元で勝敗が決せられることを示す、雄弁な証左なのである。
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- 城ぶら「淀古城」!悲劇の娘は秀吉の側室に…茶々から淀殿へ https://favoriteslibrary-castletour.com/kyoto-yodokojo/
- 【京都府】淀城の歴史 徳川によって築かれた京都守護の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2403
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- 城ぶら「淀城」!江戸幕府が築いた京の要衝!もう一つの淀城も? https://favoriteslibrary-castletour.com/yodojo/
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