深志(松本)城の戦い(1550)
天文19年、武田信玄は塩尻峠の勝利と巧みな調略で小笠原長時を林城から追放。深志城を無血開城させ、信濃支配を確立し川中島への布石とした。
天文十九年 府中攻略戦の真相 ―「戦わずして勝つ」、武田信玄による深志城掌握の時系列分析―
序章:落日の信濃守護
天文19年(1550年)夏、信濃国の中央、筑摩郡に広がる松本平(府中)には、目に見えぬ緊張が満ちていた。この地の名目上の支配者は、信濃守護の職を世襲する名門・小笠原長時。長時は東の山麓に巨大な山城である林城を構え、その権威を示していた 1 。そして、その眼下に広がる平地には、防衛網の要として深志城が置かれていた 3 。しかし、その支配体制は既に砂上の楼閣と化していた。東の甲斐国から、若き虎・武田晴信(後の信玄)の圧力が、じわじわと、しかし確実にこの地を覆い尽くしつつあったのである。
一般に「深志城の戦い」として知られるこの出来事は、しかしながら、通説が想起させるような激しい攻城戦や壮絶な野戦を伴うものではなかった。むしろ、それは二年という歳月をかけて周到に張り巡らされた戦略、調略、そして心理戦の末に訪れた、一種の「無血開城」であり、一つの勢力圏が音を立てて崩壊していく政変劇であった。本報告書は、この天文19年7月の府中攻略戦を単独の事象としてではなく、その二年前に遡る天文17年(1548年)の「塩尻峠の戦い」を起点とする、連続した一つの軍事作戦として捉え直す。そして、武田晴信がいかにして「戦わずして勝つ」という理想を現出したのか、その静かなる戦いの全貌を、時系列に沿って詳細に再構築することを目的とする。
第一章:虎、信濃を望む ―侵攻の論理と情勢―
武田晴信の戦略的動機
甲斐の虎、武田晴信が執拗に信濃を狙った背景には、複合的かつ必然的な動機が存在した。第一に、それは経済的な渇望であった。山国である甲斐の国力には限界があった。後世の記録によれば、甲斐国の石高が約22万石であったのに対し、信濃国は40万石を超えていたとされ、その差は歴然であった 4 。国力を増強し、強大な軍団を維持するためには、より広く豊かな土地が不可欠であり、隣接する信濃は最も現実的な目標だったのである。
第二に、晴信の行動は単なる領土欲に留まらなかった。彼は、源氏の名門である甲斐源氏の嫡流として、傾きかけた室町幕府を支え、天下に秩序をもたらすという「王道」を意識していたとされる 4 。その壮大な構想の第一歩が、地理的にも重要な信濃の経略であった。信濃を完全に掌握することは、北の越後、西の美濃、そしてその先の京へと至る道を開くための戦略的要石を確保することを意味した 5 。
分裂する信濃国衆と小笠原氏の権威
当時の信濃は、統一された権力の下にはなく、北信の村上義清、東信の滋野一族、そして中信の小笠原長時といった有力な国人領主たちが割拠する、分裂状態にあった 5 。その中で小笠原長時は、鎌倉時代以来続く名門であり、室町幕府から正式に任命された「信濃守護」という最高の権威を保持していた 2 。彼の家系は、武田氏と同じく甲斐源氏の祖・源清光を始祖とする同族でもあった 9 。
しかし、戦国の世において、その伝統的な権威は既に名目だけのものとなりつつあった。長時は国内の国人衆を完全に統率する実力を欠いており、その支配は安曇・筑摩の二郡を中心とする限定的なものに過ぎなかった 7 。長時自身は、弓馬の術に優れ、後に「小笠原流礼法」として大成される武家故実にも通じた文化人であったが、兵を率いて戦陣を指揮する将器には恵まれていなかったとされる 7 。
この状況は、まさしく時代の転換点を象徴していた。小笠原長時が体現する室町時代的な「権威」に基づく旧来の支配体制と、武田晴信が推し進める経済力と軍事力に裏打ちされた「実力」本位の新たな秩序。深志城を巡る攻防の本質は、この二つの異なる時代のパラダイムが信濃府中という舞台で激突した、歴史の必然であったと言えるだろう。
第二章:全ての始まり ―天文十七年、塩尻峠の悪夢―
天文19年の府中崩壊を理解するためには、時計の針を二年前の天文17年(1548年)に戻さなければならない。この年に起きた「塩尻峠の戦い」こそが、事実上、小笠原氏の運命を決定づけたのである。
背景:上田原の敗戦と小笠原の好機
天文17年2月、武田晴信は北信の雄・村上義清との「上田原の戦い」において、生涯初と言われる大敗を喫した 9 。この一戦で、彼は宿老である板垣信方、甘利虎泰といった重臣を数多く失い、武田軍の不敗神話は崩壊した。この報は信濃全土に広がり、これまで武田の勢いに押さえつけられていた反武田勢力が一斉に蜂起する好機となった 9 。
信濃守護たる小笠原長時は、この千載一遇の好機を逃さなかった。彼は村上義清や安曇郡の仁科氏らと連携し、武田方の支配下にあった諏訪郡へと大々的に侵攻を開始した 9 。小笠原軍の兵力は5000、対する武田軍は3000と、数においても小笠原方が優位に立っていた 11 。
時系列で見る塩尻峠の戦い(天文17年7月10日~19日)
この戦いは、武田晴信の卓越した戦術眼と、小笠原長時の将器の欠如を浮き彫りにした。
- 7月10日: 長時は、武田方に与していた諏訪西方衆(諏訪地方の地侍たち)を調略によって寝返らせることに成功し、戦況をさらに有利に進めた 11 。
- 7月11日: 諏訪西方衆離反の報を受けた晴信は、ただちに甲府を出陣。しかし、彼は意図的に行軍速度を落とし、まるで戦況をためらっているかのように見せかけた。甲斐・信濃国境の大井森(現在の山梨県北杜市長坂町)に到着すると、18日までの長期間にわたって滞陣を続けた 9 。これは、敵の油断を誘うための巧妙な心理戦であった。
- 7月18日夜: 敵が完全に油断したことを見計らった晴信は、夜陰に乗じて密かに軍を動かし、諏訪郡の上原城へと入城した。
- 7月19日未明: 武田軍は音もなく塩尻峠へと進軍。夜明け前の闇の中、何の警戒もせずに眠りこけていた小笠原軍の陣営に、嵐の如く襲いかかった。
合戦の描写と敗戦の影響
奇襲は完璧に成功した。武田の遅い進軍に慢心しきっていた小笠原軍は、武具を解き、大半の兵がまだ就寝中であったという 9 。武田軍の鬨の声に叩き起こされた彼らは、組織的な抵抗を何一つ行えず、ただ混乱の中で逃げ惑うばかりであった。この一方的な戦闘で、小笠原軍は約1000人もの死者を出し、軍は完全に崩壊した 9 。長時自身も、命からがら本拠地である林城へと敗走するのがやっとであった 11 。
この一日での壊滅的敗北がもたらした影響は、計り知れなかった。小笠原氏は主力の軍事力を失っただけでなく、信濃守護としての権威と求心力を完全に失墜させた。家臣や周辺国衆からの信頼は地に落ち、もはや武田氏に対抗する気力も実力も残されていなかった 11 。天文19年の深志城「自落」は、この塩尻峠での悪夢の時点で、既に決定づけられていたのである。この戦いこそが、府中攻略戦における事実上の「決勝戦」であった。
第三章:静かなる侵攻 ―府中包囲網の形成(1548年~1550年)―
塩尻峠で圧勝した武田晴信であったが、彼はその勢いに乗って小笠原氏の本拠・林城へ即座に攻め込むことはしなかった。その背後には、依然として北信に村上義清という強敵が控えていたこと、そして何よりも、力攻めによる短期的な制圧よりも、より確実で支配の安定につながる間接的な侵略こそが、彼の真骨頂であったからだ 6 。
武田の戦略転換:直接攻撃から間接侵略へ
晴信はまず、小笠原氏の本拠地から指呼の間に位置する村井(現在の松本市村井)に城を築き、これを対小笠原の最前線基地とした 12 。これは、常に敵の喉元に刃を突きつけ続けるという、強力な軍事的・心理的圧力となった。林城に籠る小笠原の将兵は、眼前の村井城からいつ武田の大軍が押し寄せてくるかという恐怖に、日夜苛まれることになったのである。
調略と懐柔による切り崩し
村井城を拠点として、晴信は得意とする調略活動を本格化させた。塩尻峠の大敗で長時への忠誠心も信頼も失っていた小笠原配下の国衆や諸将に対し、武田方は執拗な働きかけを行った 12 。ある者には所領安堵を約束し、ある者には新たな恩賞をちらつかせ、またある者には武田の軍事力を背景に恫喝を加えた。二年という時間をかけて、晴信は小笠原氏の支配基盤を、まるで蟻が堤を蝕むように、内側から静かに、しかし着実に崩していった。
この二年間の「待ち」は、武田信玄の戦略思想の深さを示すものである。彼は、敵の結束が固い時には時間をかけて内部崩壊を誘い、敵が油断した時には電撃的に奇襲する(塩尻峠のように)、状況に応じて時間という資源を自在に操る柔軟性を持っていた。軍事力による制圧は、占領後の統治に遺恨を残す。しかし、調略によって敵を自壊させれば、その後の支配ははるかに容易となる。この期間は、晴信が府中という果実が熟して自ら落ちるのを待つ、高度な戦略を実行していた時期であった。小笠原長時は、知らぬ間に裸の王様へと変えられていったのである。
第四章:ドキュメント・天文十九年七月十五日
天文17年の塩尻峠での軍事的勝利と、その後の二年間にわたる執拗な調略活動。全ての布石が打たれた後、運命の日、天文19年(1550年)7月15日は訪れた。この一日の出来事は、もはや「合戦」ではなく、事前に仕組まれた「政変」と呼ぶのがふさわしいものであった。
【表1:府中攻略戦に至る主要年表】
年月 |
出来事 |
影響 |
天文17年2月 |
上田原の戦い |
武田軍が村上義清に大敗。武田の威信が揺らぐ。 |
天文17年7月19日 |
塩尻峠の戦い |
武田軍が奇襲で小笠原軍に圧勝。小笠原氏の軍事力が壊滅。 |
天文17年10月 |
村井城の拠点化 |
武田軍が府中攻略の最前線基地を確保。 |
天文17年~19年 |
調略活動 |
武田方が小笠原配下の国衆を切り崩し、支配体制を内部から弱体化。 |
天文19年7月15日 |
府中諸城の自落 |
武田軍の進軍を機に、小笠原方の城が戦わずして崩壊。 |
天文19年9月 |
砥石城攻め |
武田軍が掌握したばかりの府中を拠点に、すぐさま対村上戦線へ転進。 |
運命の一日の再構成
- 【午前】武田軍、村井城より進発: 全ての準備が整ったことを確認した武田晴信は、満を持して村井城から府中へ向けて軍を進発させた。その整然とした軍勢の威容は、もはや抵抗する気力さえ失っていた小笠原方の諸将に、最後の決断を迫るものであった。
- 【昼前】連鎖する離反: 武田軍の進軍開始という報は、事前に調略されていた国衆たちへの「合図」となった。彼らは次々と小笠原氏を見限り、武田方への恭順を表明。ある者は城門を開き、ある者は武田軍の先導役を買って出た。林城に籠る長時の元へは、各支城からの味方寝返りを告げる急報が、絶え間なくもたらされた。城内は完全なパニック状態に陥った。
- 【正午頃】長時、決断の時: 天文19年7月15日正午頃、長時はついに悟った 12 。もはや自分に忠誠を誓う兵はほとんど残っておらず、この巨大な山城で籠城戦を行うことなど到底不可能であると。抵抗は、無意味な死を招くだけであった。彼は、先祖代々の本拠である林城を捨て、落ち延びるという屈辱的な決断を下した。
- 【午後】ドミノ倒しの無血開城: 総大将である長時が本城を放棄したという事実は、かろうじて残っていた小笠原方の防衛網を完全に崩壊させた。平地の要であった深志城、そして岡田城、桐原城、山家城といった支城群は、将が逃亡するか、あるいは戦わずして武田方に降伏した 12 。まさに「戦わずして自落す」という、武田の戦略の完成を告げる瞬間であった。
- 【夕刻】深志城入城: 武田軍は、流血をほとんど見ることなく、府中の中心である深志城へと入城した。この日一日で、信濃中部の要衝である松本平の支配権は、完全に武田氏のものへと移ったのである。
この結果は、両者の指導者としての資質、戦略思想、そして組織力の差がもたらした必然であった。
【表2:天文十九年時点での武田・小笠原両勢力の比較】
項目 |
武田晴信 |
小笠原長時 |
指導力 |
実力主義、人心掌握に長ける |
権威主義、統率力に課題 9 |
戦略思想 |
攻勢的、拠点の前線化 14 |
守勢的、山城での籠城 3 |
主要戦術 |
奇襲、調略、心理戦 6 |
伝統的な正攻法 |
情報能力 |
諜報活動を重視 9 |
不明(劣勢) |
家臣団 |
結束が固い |
離反者が続出 12 |
士気 |
塩尻峠の勝利で回復 |
塩尻峠の敗北で崩壊状態 |
第五章:新時代の拠点 ―深志城の再生と馬場信春―
府中を手中に収めた武田晴信は、すぐさま次なる戦略へと移行した。その意志は、彼が新たな信濃経営の拠点としてどこを選んだか、そして誰をその責任者に任命したかに明確に表れていた。
なぜ深志城だったのか? ―戦略的拠点選定―
晴信は、小笠原氏が最後まで立て籠もっていた巨大な山城・林城を破却、あるいは放棄した 15 。そして、その代わりに平地に築かれた深志城を、信濃支配の中心拠点として選定したのである 17 。この選択は、極めて合理的かつ戦略的な判断であった。
林城のような山城は、防御には優れているが、政治や経済の中心、そして大規模な軍隊が駐留し、物資を補給する兵站基地としては機能性に欠ける。一方、深志城は松本平の中心に位置し、交通の要衝でもあった 18 。晴信の視線は、もはや府中の「防衛」ではなく、ここを拠点とした「北信濃への侵攻」に向けられていた。来るべき村上義清、そしてその背後にいる越後の長尾景虎(上杉謙信)との決戦を見据えた時、平城である深志城こそが、一大軍事拠点として最適だったのである 14 。
城代・馬場信春の任命
この新たな重要拠点・深志城の城代として、晴信は譜代の重臣であり、「武田四天王」の一人にも数えられる猛将・馬場信春(信房)を任命した 19 。信春は、戦場での勇猛さで知られるだけでなく、武田軍の軍師・山本勘助から直接「城取り」(築城術)の奥義を伝授された、当代屈指の築城の名手でもあった 19 。
この人事は、晴信が深志城を単なる占領地としてではなく、対北信濃、対越後のための最重要戦略拠点として、大規模に改修・強化する強い意志を持っていたことを示している。馬場信春の任命は、府中攻略という作戦の完了報告であると同時に、次なる「川中島」へと続く戦いの開始を告げる、極めて戦略的な一手であった。信春は深志城を拠点として筑摩・安曇両郡の支配を固め、武田の信濃経略を盤石なものとしていく役割を担うことになったのである 19 。
終章:勝者と敗者のその後
府中攻略戦の歴史的意義
天文19年の府中攻略戦は、武田氏の信濃平定における決定的な転換点となった。この勝利により、武田氏は信濃の中央部を完全に掌握し、北信と南信を分断する強力な楔を打ち込むことに成功した 17 。そして、馬場信春によって要塞化された深志城は、これ以降、十数年にわたって繰り広げられる「川中島の戦い」において、武田軍の最も重要な兵站基地として機能し続けることになる 14 。
この出来事は、信濃国内の勢力争いの構図を根底から変えた。府中という緩衝地帯を失った北信の村上義清や高梨政頼といった国衆は、物理的にも心理的にも追い詰められた 25 。彼らにとって、武田の圧倒的な力の前に独立を保つための最後の希望は、北の隣国、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ることだけであった。故郷を追われた信濃国衆の救済要請は、景虎にとって信濃へ出兵する絶好の大義名分となった 25 。すなわち、1550年の府中攻略戦こそが、信濃国内の紛争を、甲斐の武田と越後の上杉という二大戦国大名の直接対決へとエスカレートさせた、直接的な引き金だったのである。
敗者の流浪:小笠原長時の末路
一方、勝者である武田信玄の栄光とは対照的に、敗者・小笠原長時の後半生は流浪と悲運に満ちたものであった。林城を追われた長時は、まず北信の村上義清を頼った 12 。しかし、その村上氏もやがて武田に敗れ、越後へと逃れる。長時もそれに従い、上杉謙信の庇護下に入った。その後も彼は、京の三好長慶や会津の蘆名盛氏など、各地の有力者を頼って諸国を流浪する亡命君主となった 16 。
信濃守護という当代きっての名門の出自でありながら、故郷の土を再び踏むことは叶わなかった。そして天正11年(1583年)、寄食していた会津において、家臣の妻への不適切な行いが原因とされる私的なトラブルから、その家臣自身の手によって斬殺されるという、あまりにも悲劇的で不名誉な最期を遂げた 2 。
結論:時代の奔流の中で
深志城を巡る一連の出来事は、旧来の権威が実力によって打ち破られ、新たな秩序が形成されていく戦国時代のダイナミズムを鮮やかに映し出している。小笠原長時の悲劇は、時代の変化に対応できなかった旧勢力の末路を象徴し、武田信玄の冷徹なまでの現実主義と周到な戦略は、新時代の覇者の姿を我々に見せつける。
なお、長時自身は果たせなかったが、本領回復の夢は子の貞慶に引き継がれた。貞慶は本能寺の変後の混乱に乗じて深志城を奪還し、その名を「松本城」と改めた 1 。小笠原家の再興は、流離の果てに、次代の手によって成し遂げられるのである。
引用文献
- 松本城の歴史 https://www.matsumoto-castle.jp/about/history
- 小笠原長時 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82
- 国宝 松本城 - 新まつもと物語 https://visitmatsumoto.com/spot/matsumotocastle/
- 戦国で最も知られるライバル武田信玄vs上杉謙信!ふたりはなぜ戦ったのか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28277
- 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
- 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
- 小笠原長時(おがさわら ながとき) 拙者の履歴書 Vol.188~信濃守護の矜持と流離 - note https://note.com/digitaljokers/n/n21d450e8f19e
- 松尾・鈴岡小笠原氏略歴 - 飯田市ホームページ https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/ogasawarashi.html
- 「塩尻峠の戦い(1548年)」信玄の信濃国制圧の転機となった戦い ... https://sengoku-his.com/771
- 小笠原長時 | 戦国時代人物名鑑 - Merkmark Timelines https://www.merkmark.com/sengoku/meikan/05_o/ogasawara_nagatoki.html
- 塩尻峠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E5%B0%BB%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 3-1 松本城の城主(1) 武田氏と小笠原貞慶 https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/a3_1.pdf
- 武田信玄の信濃侵攻⑤ ~松本平の制圧~ | 歴史の宮殿 https://histomiyain.com/2018/02/27/post-298/
- 【長野県】松本城(深志城)の歴史 長野県松本市が誇る日本の美しき国宝! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/117
- [合戦解説] 10分でわかる塩尻峠の戦い 「武田晴信(信玄)が信濃守護小笠原長時を奇襲し快勝!!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7ScuAgayiqQ
- 小笠原長時 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82
- 松本城の歴史的価値 https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/13330.pdf
- 松本城 https://on-the-trip.net/indices/10115?locale=zh-Hant
- 四天王が一人・馬場信春の伝説を見よ!武田家三代に仕えた名将が長篠に散るまで【前編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/186153/2
- 【松本城】北アルプスと水堀とのコントラストが美しい!漆黒の国宝天守【深志城】(長野県松本市) https://rekishi-kun.com/album/matumotojyo/
- 「馬場信春(信房)」"不死身の馬場美濃"と評された猛将 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/545
- 馬場美濃守信房(信春) - 川中島の戦い・主要人物 https://kawanakajima.nagano.jp/character/baba-nobufusa/
- 馬場信春 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E4%BF%A1%E6%98%A5
- 【牧野島城と在城衆】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100020/ht003200
- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html
- 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
- 芥川城に滞在した信濃国守護・小笠原氏 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/32826.pdf
- 国宝松本城の歴史 https://www.oshiro-m.org/history/
- 【現存12天守に登閣しよう】松本城 国宝天守をもつ唯一の平城|小和田泰経 - 城びと https://shirobito.jp/article/259