最終更新日 2025-09-03

渡川(四万十川)の戦い(1575)

天正三年、長宗我部元親は土佐統一を賭け、一条兼定と渡川で激突。元親は陽動と精鋭「一領具足」で一条軍を翻弄し、短時間で勝利。この戦いは土佐の権力構造を転換させ、元親の四国制覇への礎となった。
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渡川(四万十川)の戦い:長宗我部元親、土佐統一を賭けた最終決戦の詳報

序章:天正三年の土佐、運命を決する川

天正3年(1575年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、中央では織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破り、天下布武への歩みを確固たるものとしていた 1 。しかし、その喧騒から遠く離れた四国の土佐国(現在の高知県)でもまた、一国の未来を決定づける宿命の対決が始まろうとしていた。

この物語の主役は二人。一人は、応仁の乱を逃れて土佐に下向した公家を祖とし、「土佐の小京都」中村を拠点に国司として君臨してきた名門・土佐一条家の当主、一条兼定。もう一人は、土佐の一国衆に過ぎなかった身から、知略と武勇をもって次々と敵を打ち破り、破竹の勢いで版図を拡大してきた新興勢力の旗頭、「土佐の出来人」こと長宗我部元親である。

両者の間には、かつて元親の父・国親が一条氏の庇護を受けて家を再興したという恩義があった 3 。しかし、戦国の世において、恩義は野望の前にはかなく、旧来の権威は実力の前には脆い。元親の土佐統一という野望は、もはや一条氏との全面衝突を避けられない段階にまで達していた。

そして天正3年7月、国を追われた兼定が再起を期して土佐に帰還したことで、ついに両雄は雌雄を決する時を迎える。その舞台となったのが、土佐西部を悠々と流れる四万十川、当時の名でいう「渡川(わたりがわ)」であった 5 。この川は単なる地理的な境界線ではない。それは、公家の権威に象徴される旧秩序と、実力主義が支配する新時代のうねりを分かつ、歴史の分水嶺そのものであった。本報告書は、この「渡川の戦い」の全貌を、合戦に至る背景から戦術の展開、そして歴史的影響に至るまで、時系列に沿って徹底的に解き明かすものである。

第一部:合戦前夜 ― 交錯する恩讐と野望

渡川での激突は、突発的な事件ではなかった。それは、十数年にわたる両家の愛憎、そして長宗我部元親による周到な計画の最終幕であった。

第一章:土佐一条氏の栄光と翳り

土佐一条氏は、もともと京都の五摂家筆頭という最高位の公家であった。その祖、一条教房が応仁の乱の戦火を避けるため、自らの荘園であった幡多郡に下向したことに始まる 6 。教房は幡多郡中村に京の都を模した町並みを築き、その地は「土佐の小京都」と称されるほどの繁栄を見せた。一条家は、その圧倒的な権威をもって土佐国司として君臨し、在地領主間の紛争を調停するなど、地域権力としての基盤を固めていった 8

しかし、その栄光は四代目当主・一条兼定の代になると、次第に翳りを見せ始める。各種の史料は、兼定の人物像を酷評している。『土佐物語』には「生質軽薄にして常に放蕩を好み、人の嘲りを顧みず、日夜只酒宴遊興に耽り」とあり、『海南志』では「軍国の大事はすてて問はず」「将を御するの道は督責を加ふるに在りとて刑罰を苛酷にし」と記されている 3 。これらの記述が示すように、兼定は政務を疎かにして遊興にふけり、些細なことで家臣に厳しい罰を下すなど、次第に人心の離反を招いていった。

その治世における最大の失策が、一条家の屋台骨を支えていた筆頭家老・土居宗珊の粛清であった 3 。宗珊は内政・外交・軍事の全てに長けた名臣であり、彼の存在こそが、長宗我部元親の幡多郡への侵攻を躊躇させる最大の要因であった。しかし元亀3年(1572年)頃、兼定はこの宗珊を、元親との内通を疑う讒言を信じた、あるいは自身の素行を諫められたことに激怒したなどの理由で、自ら手討ちにしてしまう 9 。この事件の背後には、元親が意図的に宗珊内通の噂を流したという調略があったとも言われる 9 。理由はどうであれ、この致命的な粛清は一条家家臣団の結束を崩壊させ、内部からの崩壊を決定づけた。

そして天正2年(1574年)、ついに家臣団によるクーデターが勃発。羽生、安並といった重臣たちに見限られた兼定は、土佐から追放され、妻の実家である豊後の大友氏を頼って落ち延びていった 3 。公家大名・土佐一条氏の支配は、ここに事実上、終焉を迎えたのである。

第二章:「土佐の出来人」長宗我部元親の台頭

一方、一条氏の権威が揺らぐのを尻目に、土佐中央部で着実に勢力を拡大していたのが長宗我部元親であった。皮肉なことに、長宗我部氏もまた、かつて存亡の危機にあった。元親の祖父・兼序の代に、本山氏ら他の国衆の攻撃を受けて本拠の岡豊城を追われ、兼序は自害。その遺児である国親(元親の父)は、一条房家に保護されて育ったのである 3 。一条氏の庇護がなければ、長宗我部氏の再興はあり得なかった。この「恩」が、後の両家の関係に複雑な影を落とすことになる。

家督を継いだ元親は、幼少期、色白で物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されていた 13 。しかし、永禄3年(1560年)の初陣(長浜の戦い)で自ら槍を振るって奮戦し、目覚ましい武功を挙げると、その評価は一変。「鬼若子」と畏怖されるようになる 13 。父・国親の急死により家督を相続してからは、その軍事的才能を遺憾なく発揮していく。

元親の土佐統一戦は、周到かつ冷徹であった。まず、長年の宿敵であった本山氏を激しい戦いの末に降伏させ、土佐中央部を平定 6 。次に矛先を東に向け、永禄12年(1569年)の「八流の戦い」で安芸国虎を滅ぼし、土佐東部を完全に掌握した 3

この間、元親は西の大勢力である一条氏に対し、細心の注意を払っていた。永禄7年(1564年)、父・国親が一条領を侵した非礼を詫び、弟を人質として差し出して臣従を誓うという低姿勢を見せている 3 。しかし、これは東の安芸氏を滅ぼすための時間稼ぎに他ならなかった。二正面作戦を避けるため、一方には和を装い、もう一方を確実に叩く。安芸氏を滅ぼして後顧の憂いを断った後、今度は一条氏との約束を破って高岡郡の蓮池城を調略で奪取する 3 。元親の行動は、土佐統一という明確な目標から逆算された、極めて合理的な戦略に基づいていた。一条氏の内紛と兼定の追放は、彼にとって計画の最終段階を仕上げるための絶好の機会だったのである。

第三章:再起を賭けた帰還

土佐を追われた一条兼定は、妻の実家である九州の戦国大名・大友宗麟のもとへ身を寄せた 8 。宗麟が兼定を迎え入れたのは、単なる縁戚関係からだけではない。四国で急速に勢力を拡大する長宗我部元親を牽制し、いずれは四国への影響力を確保したいという政治的思惑があった 19

豊後での亡命生活中、兼定の身には大きな変化があった。イエズス会の宣教師と接する中でキリスト教に深く帰依し、洗礼を受けて「ドン・パウロ」という洗礼名を授かったのである 20 。これが失意の中での純粋な精神的救済を求めたものか、あるいはキリシタン大名である宗麟の歓心を買い、西欧の軍事技術や支援を得るための政治的行動であったかは定かではないが、彼の再起への執念を物語る出来事であった。

そして天正3年(1575年)7月、ついにその機会が訪れる。兼定は大友氏から兵を借り、伊予宇和島を経由して土佐へ侵攻。旧本拠地である中村への帰還を果たした 5 。この報が伝わると、長宗我部氏の支配を快く思わず、一条家への旧恩を感じていた幡多郡の土豪たちが次々と馳せ参じ、兼定の軍勢は瞬く間に3,500にまで膨れ上がった 5 。旧領主の劇的な帰還は、土佐西部に最後の動乱を巻き起こし、元親との軍事的衝突を不可避のものとした。

第二部:両軍対峙 ― 渡川を挟む攻防

兼定の中村帰還という事態は、元親の土佐統一シナリオにおける最後の障害であった。これを排除すべく、両軍は渡川を挟んで対峙する。勝敗の行方は、開戦前の両軍の状況にすでに暗示されていた。

第一章:戦場の地政学

主戦場となったのは、四万十川下流域、中村周辺の平野部である。当時「渡川」と呼ばれたこの川は、川幅が広く、満潮時には海水が遡上するほどの水量があった 24 。川の流れは比較的緩やかだが、渡河可能な浅瀬は限られており、防御側にとっては天然の巨大な堀として機能する。一方で、周辺は平野が広がり、大軍の展開も可能であった 25

一条軍は、渡川の西岸に位置する栗本城に本陣を置いた 11 。栗本城は川に面した丘陵に築かれた城で、川を挟んで東岸の中村城と対峙する戦略的要衝である 7 。川を防衛線とし、背後の城で態勢を立て直すことができる、防御には理想的な布陣であった。対する長宗我部軍は、すでに制圧していた東岸の中村城を拠点とし、渡川を越えて栗本城を攻略する必要があった 3 。この地理的条件が、一条軍には「渡河阻止」、長宗我部軍には「渡河作戦」という、それぞれの基本戦術を決定づけた。

第二章:軍勢の比較分析

この戦いにおける両軍の戦力には、決的な差が存在した。

兵力において、長宗我部軍が約7,300、一条軍が約3,500と、長宗我部側が倍以上の数的優位を誇っていた 5 。この圧倒的な兵力差は、元親が後述するような大胆な陽動作戦を採ることを可能にした。

兵の質においても、その差は歴然としていた。長宗我部軍の中核を成すのは、「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半兵の兵士たちであった 27 。彼らは、普段は田畑を耕しつつ、召集がかかれば一領の具足(鎧)を携えて戦場に駆けつける。これまでの本山氏や安芸氏との数々の戦いで鍛え上げられた実戦経験豊富な精鋭であり、「死生知らずの野武士」と評されるほどの戦闘意欲を誇った 28 。元親からの恩賞としての土地を期待しており、その士気は極めて高かったと考えられる。

対する一条軍は、大友氏からの援軍と、兼定の帰還に呼応して集まった旧臣や在地土豪たちによる「寄せ集め」の軍勢であった 4 。主君への忠誠心はあったであろうが、軍としての統一された指揮系統や連携、練度の面では、百戦錬磨の長宗我部軍に大きく劣っていたことは想像に難くない。

そして何よりも、両軍の総大将の器量に大きな隔たりがあった。元親は「土佐の出来人」として、外交、調略、そして合戦指揮の全てにおいて非凡な才能を示してきた実戦派の指揮官である。一方の兼定は、一度は国を追われた身であり、軍事指導者としての実績には乏しい。この指導者の質の差が、戦いの趨勢を決定づける最大の要因となった。

第三章:開戦前の布陣と戦略

両軍の戦略は、それぞれの置かれた状況を色濃く反映していた。

一条兼定の戦略は、防御に徹することであった。彼は栗本城を背に、渡川を天然の要害として活用する。史料によれば、川中に杭を打ち込むなどして、長宗我部軍の渡河を物理的に妨害しようと試みた 3 。一条軍に残された唯一の勝機は、兵力で勝る敵が渡河を試みる混乱の最中に攻撃を集中させ、これを撃退することにあった。そのため、一条軍は川岸から少し下がった位置に布陣し、敵が川に入ったところを狙い撃つ態勢を整えていた 26

一方、長宗我部元親の戦略は、殲滅を目的とした攻撃であった。彼は、敵が川岸での迎撃に集中することを見越していた。単純な正面からの力押しだけではなく、数的優位を最大限に活かした多角的な攻撃を計画していた。その核心は、敵の意表を突く奇策にあった。

渡川の戦いにおける両軍戦力比較

項目

長宗我部軍

一条軍

総大将

長宗我部元親

一条兼定

主要武将

吉良親貞、久武親信、山川親徳

(旧臣の土豪層)

総兵力

約7,300

約3,500(大友援軍含む)

兵士構成・士気

・一領具足を中心とした常備兵 ・練度、士気ともに高い

・旧臣、土豪による寄せ集め ・指揮系統に不安、士気は局所的

戦術目標

敵軍の殲滅と土佐の完全統一

渡河阻止による敵の撃退と中村の確保

第三部:合戦詳報 ― 渡川、血戦の刻

天正3年7月、土佐の未来を決する一日が幕を開ける。元親の周到な計略と、一領具足の力が、渡川の戦場で炸裂する。

第一章:急行軍と対峙

時刻:天正3年7月中旬某日 未明~早朝

一条兼定挙兵の報は、直ちに岡豊城の元親のもとへ届けられた。元親の対応は迅速を極めた。彼は即座に弟の吉良親貞を総大将に任命し、久武親信、山川親徳といった重臣たちを添え、7,300の軍勢を編成 26 。岡豊城から中村までの険しい道のりを、わずか3日という驚異的な速さで踏破し、渡川の東岸に到着した 7 。この迅速な軍事行動は、一条軍が幡多郡全域で支持を固める前に決戦を挑むという、元親の強い意志の表れであった。

夜が明け、川霧が立ち込める中、長宗我部軍は渡川東岸に布陣を完了する。対岸には、再起を賭ける一条兼定率いる3,500の軍勢が栗本城を背に陣を構えている。川の流れの音だけが響く中、両軍は互いの出方を窺い、静かで張り詰めた対峙の時間を迎えた。

第二章:元親の奇策 ― 陽動

時刻:同日 午前

戦況が膠着する中、先に動いたのは元親であった。彼は単純な正面突破の不利を理解しており、敵の防御態勢を崩すための策を講じる。軍勢の中から精鋭を選りすぐり、別働隊を編成すると、川の上流に向かって大きく移動を開始させた 26 。この動きは、一条軍の注意を主戦場から逸らすための巧妙な陽動であった。

この陽動作戦の具体的な内容については、主要な軍記物である『元親記』と『土佐物語』で記述に若干の差異が見られる。

  • 『元親記』の説: 別働隊を率いた吉良親貞が、川上から渡河を敢行し、一条軍の側面に奇襲を仕掛けて打ち破った、と記されている 3 。これは、別働隊そのものが決定打となったとする見方である。
  • 『土佐物語』の説: 長宗我部軍が川上に別働隊を派遣し、渡河するそぶりを見せることで一条軍の注意をそちらに引きつけた。そして、敵の陣形が上流に移動して手薄になった隙を突き、主力が本来の渡河地点である川下から渡り、挟撃して勝利した、というものである 3 。また、一説にはこの陽動部隊は福留儀重が率いる騎馬隊であったとも伝わる 29

両説には細かな違いこそあれ、「陽動によって敵の注意を引きつけ、防御態勢に隙を作り出す」という戦術の核心部分では共通している。この別働隊の動きは、一条軍の将兵の目に「敵は上流から回り込んでくるのではないか」という疑念を植え付けた。一条軍は、この陽動にまんまと釣られ、迎撃のために陣形を上流へと動かし始める。元親の罠は、完璧に機能した。

第三章:勝敗を決した渡河

時刻:同日 正午前

一条軍の主力が上流の陽動部隊に気を取られ、本来守るべき正面の川岸への警戒が手薄になった。元親が待ち望んでいた、千載一遇の好機である。

その瞬間、渡川の東岸から凄まじい鬨の声が上がった。元親が率いる長宗我部軍の本隊が、一斉に川の浅瀬へと突入を開始したのである 26 。数千の兵士たちが上げる水ししぶきが陽光を反射し、怒涛の勢いで対岸を目指す光景は、一条軍の兵士たちを震撼させた。

予期せぬ場所からの大規模な渡河に、一条軍の指揮系統は混乱に陥った。慌てて弓矢を射かけるが、陽動に釣られて主力を移動させていたため、その迎撃は散発的で、長宗我部軍の勢いを止めるには至らない 7 。元親の狙い通り、一条軍は限られた戦力をさらに分散させられ、最も重要な正面防御を疎かにしてしまったのである。

第四章:崩壊する戦線

時刻:同日 昼過ぎ

長宗我部軍の先鋒は、一条軍からの有効な抵抗をほとんど受けることなく、ほぼ無傷で渡川の西岸への上陸に成功した 26

上陸を果たした一領具足たちは、息つく間もなく、いまだ混乱の最中にある一条軍の側面へと猛然と襲いかかった。寄せ集めであり、統一された指揮のもとで動くことに不慣れな一条軍は、この精強な部隊による側面からの突撃に耐えきれなかった。前線は瞬く間に突き破られ、指揮系統は完全に麻痺。兵士たちは我先にと逃げ惑い、戦線はあっという間に総崩れとなった 4

この戦いは、元親の戦術が完璧に嵌った結果、驚くほど短時間で決着した。わずか数刻で勝敗は決し、夕刻になる前には討ち取った敵兵の首実検を終えることができた、という記録が、いかに一方的な戦いであったかを物語っている 4 。元親の戦術は、孫子の兵法でいう「奇正の兵」—陽動という「奇策」を用いて、本隊の突撃という「正攻法」を成功させる—の典型例であり、彼の戦術家としての非凡さを見せつけるものであった。

第五章:追撃と栗本城の陥落

時刻:同日 午後~三日後

元親は、崩れ落ちた敵兵への追撃の手を緩めなかった。敗走する一条軍は、長宗我部軍の追撃によって200名以上の死者を出し、本陣である栗本城へと逃げ込んだ 5

勢いに乗る長宗我部軍は、間髪入れずに栗本城を包囲する。城兵は抵抗を試みるが、野戦での大敗によって士気は低く、もはや組織的な防御は不可能であった。三日間にわたる攻城戦の末、栗本城はついに陥落した 26

総大将の一条兼定は、落城を前に、僅かな供回りに守られながら城を脱出。伊予方面へと落ち延びていった 7 。彼の土佐奪還の夢は、渡川の濁流の中に、はかなく消え去ったのである。

第四部:戦後の帰趨 ― 土佐統一と四国制覇への道

渡川の一戦は、単に一つの合戦の勝敗を決しただけではなかった。それは土佐の歴史を大きく転換させ、四国全体のパワーバランスをも塗り替える、重大な一歩であった。

第一章:土佐の平定

この決定的な勝利により、長宗我部元親は、西は伊予国境の宿毛から南は足摺岬に至るまで、かつて一条氏の所領であった幡多郡一円を完全にその手中に収めた 3 。元親は戦後処理も迅速に行い、国境に近い吉奈城や宿毛城に細川定輔や野田甚左衛門といった信頼の置ける家臣を配置し、伊予方面からの脅威に備えさせた 26

本山氏を降し、安芸氏を滅ぼし、そしてこの渡川の戦いで一条氏を事実上滅亡させたことで、長宗我部元親は名実ともに土佐一国を統一した覇者となった 4 。これは、彼が家督を継いで以来、追い求め続けた最初の大きな目標の達成であり、次なる野望へと飛躍するための盤石な基盤が、ここに築かれたのである。

第二章:新たなる野望の幕開け

土佐統一という国内問題を完全に解決した元親の視線は、もはや土佐一国に留まらなかった。彼の野望は、四国全土の制覇へと向けられる。渡川の戦いの翌年、天正4年(1576年)から、元親は土佐の全兵力を動員し、阿波(徳島県)や伊予(愛媛県)への本格的な侵攻を開始した 32

この時期、元親は中央の覇者である織田信長と友好関係を築いており、「四国の儀、切り取り次第」という、四国における自由な領土拡大を認めるお墨付きを得ていたとされる 33 。土佐統一は、この中央の権威を後ろ盾とした、より大きなスケールの領土拡大政策の第一歩であった。渡川の戦いの勝利は、長宗我部氏を「土佐の地方勢力」から、「四国の覇権を争う有力大名」へと押し上げる、決定的な跳躍台となったのである。

しかし、この急激な勢力拡大こそが、後に中央の巨大な力—織田信長、そして豊臣秀吉—の警戒を招き、長宗我部氏の運命を大きく左右することになる。渡川での勝利が、皮肉にも、より大きな歴史の渦に飲み込まれる序曲となったのである。

第三章:敗者のその後

一方、渡川で全てを失った一条兼定の後半生は、悲哀に満ちたものであった。伊予へ逃れた彼は、二度と土佐の地を踏むことはなかった。瀬戸内海に浮かぶ戸島などで隠遁生活を送る中、長宗我部方の刺客と思われる旧臣に襲われて重傷を負うなど、苦難の日々が続いた 9

そして天正13年(1585年)、奇しくも元親が四国統一をほぼ成し遂げたその年に、兼定は43歳でその波乱の生涯を閉じた 5 。彼の敗北と死により、応仁の乱以来、約1世紀にわたって土佐に君臨した戦国大名・土佐一条氏は、完全に歴史の舞台から姿を消した。公家の権威を背景とした旧勢力が、実力主義の新興勢力によって取って代わられるという、戦国乱世を象徴する結末であった。

結論:土佐史の転換点としての一戦

天正3年(1575年)7月の渡川(四万十川)の戦いは、長宗我部元親の土佐統一事業を完成させた、画期的な合戦であった。この一戦は、単なる軍事衝突に留まらず、様々な側面において土佐史、ひいては四国史における重大な転換点として位置づけられる。

第一に、この戦いは指揮官の力量差が勝敗を分けた典型例であった。一条兼定が旧来の権威と寄せ集めの兵力に依存したのに対し、長宗我部元親は周到な情報収集と調略で敵の内部を切り崩し、合戦本番では兵力差を活かした巧妙な陽動作戦で敵を翻弄した。その卓越した戦略・戦術眼は、彼が単なる勇将ではなく、戦国時代屈指の将帥であったことを証明している。

第二に、渡川の戦いは、土佐における権力構造の完全な変革を意味した。公家を出自とする一条氏の支配が終わり、在地の一国衆から成り上がった長宗我部氏が、実力をもって土佐全土を掌握した。これは、血統や権威よりも力が全てを決定するという、戦国時代の価値観が土佐においても完全に確立されたことを示す象徴的な出来事であった。

そして最も重要な点は、この勝利が長宗我部氏を次なるステージへと押し上げたことである。土佐という強固な地盤を得た元親は、その全力を四国全土の経略に注ぎ込むことが可能となった。渡川の戦いは、長宗我部氏が「土佐の覇者」から「四国の覇者」へと飛躍するための、決定的な springboard となったのである。この戦いがなければ、その後の長宗我部氏による四国統一も、そして豊臣秀吉による四国征伐という、より大きな歴史の展開も、全く異なる様相を呈していたであろう。

総じて、渡川(四万十川)の戦いは、長宗我部元親の覇業の礎を築き、土佐の歴史を新たな時代へと導いた、まさに分水嶺と呼ぶにふさわしい一戦であったと言える。

引用文献

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  31. 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 https://shirobito.jp/article/1562
  32. 二 南予の戦雲 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7858
  33. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
  34. 「本能寺の変」の真相 高島孫右衛門『元親記』「信長卿与元親被申通事、付、御朱印の面御違却之事」 - note https://note.com/senmi/n/nae376f7ffb37
  35. 中世編-一条氏と宿毛 https://www.city.sukumo.kochi.jp/sisi/014001.html
  36. 一条兼定 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/retuden/icijyo_kanesada.html