湊合戦(1514)
出羽安東氏の内訌「湊合戦」の真相:永正十一年(1514年)の情勢と天正十七年(1589年)の激闘
序章:湊合戦を巡る歴史的視座の提示
日本の戦国時代、特に出羽国(現在の秋田県および山形県)の歴史において、「湊合戦」は安東氏の行く末を決定づけた重要な内訌として知られている。しかし、この合戦の発生年については、永正十一年(1514年)とする情報と、天正十七年(1589年)とする記録が混在し、歴史的理解に混乱を招くことがある。
本報告書は、この年代の齟齬を解き明かすことから筆を起こす。結論から述べれば、安東一族を二分し、大規模な海陸戦にまで発展した「湊合戦」の実態は、天正十七年(1589年)の出来事を指すのが通説である 1 。これは「湊騒動」と総称される一連の抗争の中でも最大規模のものであった 3 。
では、永正十一年(1514年)という年は、歴史的に無意味なのだろうか。決してそうではない。この年は、大規模な合戦こそなかったものの、後の内訌の構造的要因が形成されつつあった、極めて重要な画期であった。この年に、後の両家統一の鍵を握る安東舜季が誕生し 4 、当時の当主・安東尋季は権力基盤である北方世界(蝦夷地)の動乱への対応に追われていた 6 。
したがって、本報告書では二部構成のアプローチを取る。まず第一部では、永正十一年(1514年)時点での安東氏の権力構造と、彼らを取り巻く国内外の情勢を詳細に分析し、後の対立の遠因を探る。続く第二部では、ユーザーが真に求めるであろう「合戦のリアルタイムな状態」を再現すべく、天正十七年(1589年)に勃発した湊合戦の全貌を、開戦から終結まで緻密な時系列に沿って徹底的に解説する。これにより、単一の合戦記録に留まらず、安東氏という一族が内包した数十年にわたる対立の力学と、その最終的な帰結を立体的に描き出すことを目的とする。
第一部:永正十一年(1514年)に至る安東氏の権力構造
第一章:二つの安東氏 — 分裂の淵源
永正十一年(1514年)の状況を理解するためには、まず安東氏がなぜ二つの勢力に分裂していたのか、その歴史的経緯を遡る必要がある。
津軽からの南下と権力基盤の二元化
安東氏の起源は、陸奥国津軽地方の十三湊(とさみなと、現在の青森県五所川原市)を拠点とし、日本海交易、とりわけ蝦夷地との北方交易を掌握した「海の豪族」であった 7 。鎌倉時代には幕府より蝦夷管領に任じられ、その権勢は「日之本将軍」と称されるほどであった 10 。しかし、15世紀に入ると、南から勢力を拡大してきた三戸南部氏との抗争が激化する 12 。安東氏は嘉吉二年(1442年)頃に南部氏との戦いに敗れ、本拠地である十三湊を失陥、一族の多くは勢力圏であった蝦夷地(現在の北海道南部)へと一時的に退去を余儀なくされた 15 。
この津軽からの撤退と、それに続く出羽国への再南下が、安東氏の権力構造を二元化させる直接的な原因となった。
檜山安東氏(下国家)の成立
南部氏に追われた安東氏の惣領家(本家筋)は、蝦夷地を経由して再び本州へ南下し、出羽国河北郡(現在の秋田県能代市周辺)に新たな拠点を求めた。この系統は「下国家」とも称される。当主・安東政季の子である忠季は、明応四年(1495年)にこの地の要害である霧山に檜山城を築城し、ここを本拠とした 1 。彼らは米代川河口域を押さえ、蝦夷地への影響力を保持し続けることで、安東惣領家としての権威を主張した。
湊安東氏の成立
一方、惣領家が津軽で南部氏と争っていた時期、あるいはそれ以前の比較的早い段階で南下し、出羽国秋田郡に勢力を築いた分家が存在した。彼らは雄物川の河口に位置する良港・土崎湊(現在の秋田市土崎)に湊城を構え、一大拠点とした 2 。湊安東氏は、雄物川水系を利用した内陸との交易路を掌握することで、独自の強固な経済基盤を確立し、地域に深く根を下ろしていた。
両家の関係性 — 協調と対立の萌芽
当初、両家の関係は必ずしも敵対的ではなかった。伝承によれば、津軽を追われ流浪していた惣領家の政季を、先に秋田に定着していた湊安東氏が招き入れ、再興を助けたとされる 15 。湊安東氏は、惣領家を補完する勢力として、その権威を認めつつ共存を図ったのであろう。
しかし、惣領家が檜山城を拠点として確固たる勢力を築き、自立した領主として振る舞い始めると、両者の力関係は変化する。八郎潟を挟んで北の檜山(米代川水系)と南の湊(雄物川水系)に二つの権力が並立する状況が生まれた 2 。日本海と蝦夷地を舞台とする広域交易の利権、そして男鹿半島などの所領を巡る対立は、次第に顕在化していった。安東忠季の治世には、父・政季が試みた津軽への出兵負担などを巡り、湊安東家との間に不和が生じていたと伝えられている 7 。こうして、永正年間を迎える頃には、両家は協力と牽制が入り混じる、緊張をはらんだ「冷戦状態」にあったのである。
第二章:永正十一年(1514年)の北奥羽と安東尋季
このような背景の中、永正十一年(1514年)の安東氏はどのような状況にあったのか。この時代の主役は、檜山安東氏の第6代当主・安東尋季であった。
当主・安東尋季の治世
安東尋季は、永正八年(1511年)に父・忠季の死を受けて家督を継承した 6 。彼は「檜山屋形」あるいは「東海将軍」と称され、安東氏の当主として北奥羽および北方世界に君臨していた 6 。
北方世界での動乱と対応
1514年当時、尋季の最大の関心事は、国内の湊安東氏との対立よりも、権力の源泉である北方・蝦夷地にあった。永正九年(1512年)に始まったアイヌの首長、ショヤ(庶野)とコウジ(訇時)兄弟による大規模な蜂起が、蝦夷地の和人社会を揺るがす大事件に発展していたのである 6 。この戦乱で和人の館が次々と襲撃され、翌永正十年(1513年)には松前大館が陥落する事態に至った 6 。
安東氏の蝦夷地における代官的存在であった蠣崎光広は、この蜂起を鎮圧することに成功する。そして永正十一年(1514年)、光広は尋季に対し、従来の「上国守護」に加えて「松前守護」の地位を追認するよう再三にわたり要請した。尋季はこれを受け入れ、蠣崎氏に蝦夷地を訪れる和人商船からの徴税権(運上)を認め、その過半を檜山へ上納させるという形で、現地の支配体制を再構築した 6 。この一連の出来事は、尋季が蝦夷地交易の安定化と利権の確保を最優先課題としていたことを明確に示している。
湊安東氏との関係
北方での危機に対応するため、尋季は背後となる出羽国内の安定を求めた。父・忠季の代からの湊安東氏との緊張関係を緩和するため、尋季は武力ではなく外交、すなわち婚姻政策を選択した。彼の治世中に、嫡男である舜季と、湊安東家の当主・定季(または堯季)の娘との婚姻が結ばれ、両家の和睦が図られたのである 5 。これは、蝦夷地問題にリソースを集中させるため、湊家との全面衝突を回避しようとする、極めて現実的な戦略であったと言える。
次代への布石 — 安東舜季の誕生
そして、まさにこの永正十一年(1514年)、檜山と湊の融和の象徴となるべき人物、安東舜季が誕生した 4 。彼は檜山安東氏の嫡男でありながら、将来的に湊安東氏の血も受け入れることになる。皮肉にも、この融和策の結晶である舜季の子・愛季の代に、両家の統合が強引に進められ、最終的な破局である湊合戦へと繋がっていく。その意味で、1514年は合戦こそなかったものの、未来の紛争の種子が蒔かれた、安東氏の歴史における静かなる転換点であったと評価できる。
第二部:湊合戦(1589年)— 内訌の発生から終結までの時系列分析
永正十一年(1514年)から75年の歳月が流れた天正十七年(1589年)、安東氏が内包してきた対立のマグマはついに噴出し、出羽国北部を焦土と化す大戦乱「湊合戦」が勃発した。
第一章:戦乱への道程 — 統一の歪み
合戦の直接的な原因は、安東愛季の死によってもたらされた権力の空白にあったが、その根は愛季自身が進めた統一政策の歪みにあった。
安東愛季による両家統一
1514年に生まれた安東舜季は、予定通り湊安東堯季の娘を正室に迎えた。そして二人の間に生まれたのが、安東愛季である 5 。愛季は檜山・湊両家の血を引くという出自の正統性を背景に、長年分裂していた安東氏の統一を成し遂げ、一族の最盛期を現出した智勇兼備の名将であった 23 。
しかし、その統一の過程は決して平穏なものではなかった。湊家で後継者が不在となると、愛季は自身の弟・茂季を養子として送り込み、当主とした 24 。これは事実上、湊家を傀儡化するものであり、茂季の死後は愛季の嫡男・業季が湊城主となるなど、実質的には檜山家による湊家の吸収合併であった 3 。この強引な手法は、湊安東氏の旧臣や、その権威を頼ってきた国人衆の間に、深い不満と怨嗟を蓄積させていった。
利権の独占と不満の蓄積
対立を決定的にしたのは、経済利権の問題であった。従来、湊安東氏は雄物川上流域の国人領主たちが土崎湊で行う交易に対し、比較的低率の津料(通行税)を課すことで、緩やかな経済圏を形成していた 3 。しかし、両家を統一した愛季は、この交易を檜山家の直接統制下に置き、管理を強化しようとした。これは、安東氏全体の経済力を増強し、戦国大名としての支配体制を確立するための合理的な政策であったが、同時に湊家やその周辺国人たちの既得権益を著しく侵害するものであった 3 。この政策への反発が、元亀元年(1570年)の第二次湊騒動など、複数回にわたる武力衝突を引き起こす根本原因となった。
権力の空白 — 愛季の死と若き当主
天正十五年(1587年)、戸沢氏との戦いの最中、安東氏を一代で北出羽最大の大名に押し上げた英雄・愛季が陣中で病没する 25 。家督は、嫡男・業季が早世していたため、次男の実季が継承した。しかし、この時実季はわずか十二歳の少年に過ぎなかった 2 。偉大な当主の急死と、幼い後継者の登場は、安東氏の支配体制に深刻な動揺をもたらした。これまで愛季のカリスマと武威によって抑え込まれていた湊方旧臣たちの不満が、一気に噴出する機会を与えたのである。
第二章:合戦のリアルタイム詳解
天正十七年(1589年)二月、湊安東氏の血を引く安東通季は、この好機を逃さず、ついに実季打倒の兵を挙げた。
序盤(天正十七年二月):電撃的奇襲と檜山への退却
湊安東茂季の子である安東通季(高季とも呼ばれる)は、豊島氏をはじめとする湊家譜代の家臣団や、愛季の政策に不満を抱く秋田郡の国人衆を糾合した 2 。さらに、安東氏の勢力拡大を警戒する内陸の雄、戸沢氏や小野寺氏からの支援を取り付け、一大反乱勢力を形成した 25 。
通季率いる湊方は、実季が居城としていた湊城に電撃的な奇襲を敢行した。不意を突かれた実季方は緒戦で敗北を喫し、湊城はあっけなく陥落する 2 。幼い実季は、少数の家臣に守られながら、父祖伝来の本拠地であり、天然の要害として知られる山城・檜山城へと辛くも退却した 2 。この時点で、秋田平野の国人の大半は通季側になびいており、実季は絶体絶命の窮地に立たされた 2 。
中盤(同年春~夏):150日間の檜山城籠城戦
実季が檜山城に籠城すると、通季率いる湊方はこれを包囲した。その兵力は、実季方の10倍にも達したと伝えられる 1 。東西1500メートル、南北900メートルに及ぶ広大な城郭 1 を舞台に、安東氏の未来を決する壮絶な籠城戦が始まった。
数で圧倒的に劣る実季方であったが、彼らには切り札があった。それは、当時最新鋭の兵器であった鉄砲である。実季方はわずか300挺の鉄砲を最大限に活用し、急峻な地形と堅固な城郭の利を生かして、湊方の波状攻撃をことごとく撃退した 1 。攻防は150日間にも及び、その激しさは、城の南を流れる川が両軍将兵の血で赤く染まったという「むちりき川」の伝承として、今に語り継がれている 1 。大軍を擁しながらも檜山城を攻めあぐねた湊方は、次第に焦りを募らせ、戦線は膠着状態に陥った。
転換点(同年夏):由利衆の参戦
長期にわたる籠城戦で、兵糧や弾薬も尽きかけ、実季方がまさに落城の危機に瀕したその時、戦局を覆す出来事が起こる。南方の由利郡を支配する国人領主連合「由利十二頭」が、実季を支援するため援軍を派遣したのである 2 。特に赤尾津氏らの参戦は、包囲する湊方の背後を脅かし、その戦線を動揺させるのに十分な力を持っていた。
終盤(同年秋):湊城奪還と合戦の終結
由利衆の参戦によって勢いづいた実季方は、好機を逃さず城から打って出て、反攻に転じた。内外から攻撃を受ける形となった湊方の包囲網は崩壊し、敗走を始める。実季と由利衆の連合軍は、これを猛追し、逆に湊方の本拠地である湊城へと進軍した 2 。
実季方は、陸からの攻撃に加え、安東氏が伝統的に有する水軍を動員し、海からも湊城に迫ったと推測される。この陸海からの総攻撃の前に、湊城はついに陥落。首謀者であった安東通季は、命からがら城を脱出し、同盟者であった仙北の戸沢氏のもとへ落ち延びていった 2 。こうして、天正十七年二月に始まり、約半年にわたって北出羽を揺るがした湊合戦は、実季方の大逆転勝利という形で幕を閉じたのである。
第三章:参戦武将と各勢力の動向
この合戦は、単なる安東一族の内輪揉めではなかった。北出羽の国人領主たちが、それぞれの思惑から二つの陣営に分かれて戦った地域的大戦であった。その複雑な構図を以下に整理する。
陣営 |
主要武将 |
所属勢力・拠点 |
合戦における動向 |
檜山方 |
安東実季 |
檜山安東氏惣領家・檜山城 |
総大将。湊城を追われ檜山城に籠城するも、援軍を得て反攻に転じ勝利を収める。 |
|
(檜山譜代家臣団) |
檜山安東氏家臣 |
実季を支え、寡兵ながらも檜山城で150日間の防衛戦を戦い抜く。 |
|
赤尾津氏、羽川氏など |
由利十二頭(由利郡) |
籠城戦の終盤に実季方への援軍として参戦。戦局の転換点となる。 |
湊方 |
安東通季(高季) |
湊安東氏庶流・豊島城 |
総大将。湊家再興を掲げ、戸沢・小野寺氏の支援を得て挙兵。緒戦に勝利するも檜山城を落とせず敗北。 |
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豊島氏、大平氏、八柳氏、新城氏など |
秋田郡国人衆 |
湊安東氏旧臣、あるいは愛季の政策に不満を持つ勢力。反乱の中核を担う 2 。 |
|
戸沢盛安 |
仙北の戦国大名・角館城 |
湊方に加勢。安東氏の内訌に乗じ、勢力拡大を図ったと見られる 25 。 |
|
小野寺義道 |
仙北の戦国大名・横手城 |
湊方に加勢。戸沢氏と同様の思惑があったと考えられる 25 。 |
第三勢力 |
南部信直 |
陸奥の戦国大名・三戸城 |
安東氏の内乱を好機と見て、係争地であった比内郡に侵攻するが撃退される 32 。 |
この表から明らかなように、湊合戦は安東氏の内部対立を軸としながらも、戸沢・小野寺といった隣接する大名や、漁夫の利を狙う南部氏の動きが複雑に絡み合った、戦国末期の東北地方の縮図ともいえる様相を呈していた。
第三部:合戦後の秩序形成と安東氏の変容
湊合戦の勝利は、若き当主・安東実季の権力を確立しただけでなく、安東氏そのものの在り方を根底から変える画期的な出来事となった。
第一章:戦後処理と権力基盤の確立
秋田郡の一円支配
合戦に勝利した実季は、湊方に与した豊島氏をはじめとする国人領主たちの所領を没収、あるいは安堵を通じて再編し、秋田郡全域を完全に直接支配下に置いた 2 。これにより、長年続いた檜山・湊という二元的な支配体制は名実ともに終焉を迎え、安東氏の権力は初めて一元化された。この領国形成は、実季が単なる豪族連合の盟主ではなく、領域全体に権力を行使する戦国大名へと脱皮したことを意味する。
交易利権の独占
とりわけ決定的だったのは、土崎湊の交易利権を完全に掌握したことである 2 。雄物川水系の物流と、日本海を通じた広域交易の結節点である湊を独占したことで、安東氏の経済基盤は飛躍的に強化された。これにより、内陸の諸大名に対して経済的・軍事的に圧倒的な優位性を確保し、北出羽における覇権を確固たるものにしたのである。
第二章:中央政権との関係と「秋田氏」の誕生
実季が自らの力で内乱を鎮め、領国を統一したまさにその時、日本の歴史は中央で大きな転換点を迎えていた。豊臣秀吉による天下統一事業が大詰めを迎えていたのである。
「惣無事令」違反問題
湊合戦は、秀吉が全国の大名に発令していた「惣無事令」(大名間の私的な戦闘を禁じる法令)への明白な違反行為であった 29 。戦後、敗れた通季は南部信直を頼り、秀吉に家名の再興を願い出たが、これは認められなかった 3 。一方、勝利した実季も、その戦後処理を秀吉の裁定に委ねる必要があった。
近世大名への道
翌天正十八年(1590年)、実季は秀吉の小田原征伐に参陣し、その臣従を誓った。秀吉は実季の勝利を追認し、出羽国秋田郡を中心に5万2千石余の所領を安堵した 25 。ただし、領内の一部は太閤蔵入地(豊臣家の直轄領)として没収されており、安東氏が完全に独立した領主ではなく、豊臣政権という新たな全国秩序の一翼を担う存在として位置づけられたことを示している 3 。
この時、実季は伝統ある「安東」の姓を改め、本拠地の地名に由来する「秋田」を新たな名字とし、「秋田城介」を名乗った 3 。これは、津軽以来の歴史を持つ中世的な海の豪族「安東氏」が終わりを告げ、豊臣政権に公認された領国を治める近世大名「秋田氏」へと生まれ変わったことを象徴する、極めて重要な決断であった。湊合戦という内部の試練を乗り越えた安東氏は、結果として時代の大きな潮流に乗り、新たな支配者として生き残る道を選んだのである。
結論:湊合戦が戦国期北奥羽に与えた歴史的意義
永正十一年(1514年)の安東氏は、北方世界の動乱に対応しつつ、国内の二元的な権力構造を婚姻政策によって辛うじて維持していた。しかし、この時に生まれた安東舜季の子・愛季による強引な統一政策は、一族内に深刻な亀裂を生じさせた。その歪みが、愛季の死と幼い実季の家督継承という権力の空白期に、天正十七年(1589年)の湊合戦として爆発した。
この合戦が持つ歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、安東氏内部の権力統合を完成させた点である。実季の劇的な勝利は、長年にわたる檜山・湊両家の対立に最終的な終止符を打ち、安東氏を名実ともに統一された戦国大名へと昇華させた。
第二に、北日本の交易構造を大きく変革した点である。土崎湊と雄物川水系の交易利権が秋田氏の許に一元化されたことで、北出羽の経済・流通構造は大きく再編され、秋田氏の支配体制を盤石なものとした。
そして第三に、最も重要な点として、この合戦が中世から近世への移行を象徴する出来事であったことである。内乱の勝者である実季が、その戦後処理を豊臣秀吉という中央の統一権力に委ね、その公認を得て「秋田氏」と改姓したことは、東北地方の在地権力がもはや独立した存在ではありえず、全国的な政治秩序の中に組み込まれていく時代の大きな流れを明確に示している。
結論として、湊合戦は安東氏にとって、中世以来の伝統と分裂を乗り越えるための最後の、そして最大の試練であった。それは一族の血で血を洗う悲劇であったが、同時に近世大名「秋田氏」の誕生を告げる産みの苦しみでもあったと言えるだろう。
引用文献
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- 安東愛季 統一後、再度起きた湊合戦と“秋田”~『秋田家文書』『奥羽永慶軍記』『六郡郡邑記』を読み解く――「東北の戦国」こぼれ話 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9400
- 檜山安東氏城館跡(秋田県能代市) - 旅東北 https://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1006790.html
- 弘前市立弘前図書館-おくゆかしき津軽の古典籍:資料編1(古代・中世編) - ADEAC https://adeac.jp/hirosaki-lib/texthtml/d110010/mp000080-110010/ht000040