烏山城の戦い(1600)
慶長五年 幻の下野決戦 ― 烏山城の対峙、関ヶ原の隠された北関東戦線
序章:もう一つの関ヶ原 ― 北関東における東西両軍の対峙
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原において、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突した。この天下分け目の決戦は、わずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わり、その後の日本の歴史を決定づけた。しかし、「関ヶ原の戦い」をこの一日決戦のみで語ることは、事象の一側面を捉えるに過ぎない。この戦役は、日本全土を巻き込んだ広範なものであり、各地で本戦の帰趨に重大な影響を与える前哨戦が繰り広げられていた。伊勢では安濃津城が西軍の猛攻に晒され 1 、出羽では最上義光と上杉景勝の軍勢が長谷堂城を舞台に死闘を演じた 2 。
本報告書では、これら数多の前哨戦の中でも、特に史料が断片的でありながら、徳川家康の戦略上、極めて重要な意味を持った下野国における「烏山城の戦い」に焦点を当てる。この呼称は、必ずしも大規模な攻城戦や野戦を意味するものではない。むしろその本質は、会津120万石の大大名・上杉景勝が企図した関東侵攻の脅威を、国境地帯である那須口で「封じ込めた」一連の戦略的対峙にあった。物理的な衝突を未然に防ぎ、戦線を膠着させたこと自体が、東軍にとっての紛れもない「勝利」だったのである。本稿では、この「戦われなかった戦い」の全貌を、当時のリアルタイムな状況に迫りつつ、時系列に沿って徹底的に解明する。
第一部:戦いの序曲 ― 会津征伐と上杉景勝の戦略
第一節:徳川と上杉、宿命の対峙
慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を終えると、豊臣政権内部の権力均衡は急速に崩壊し始めた。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を半ば無視する形で諸大名との婚姻政策を進めるなど、その政治的影響力を飛躍的に増大させていった 3 。これに対し、同じく五大老の一人であり、越後から会津120万石へ移封されたばかりの上杉景勝は、家臣の直江兼続と共に領国経営の安定化と軍備増強に邁進していた。神指城の築城をはじめとする景勝の動向は、家康の目には豊臣家への、ひいては自らへの挑戦と映った 3 。
両者の緊張関係は、慶長五年に入ると決定的なものとなる。家康は景勝に対し、謀反の疑いを釈明するため上洛するよう再三にわたり要求した。これに対し、上杉家家老・直江兼続が返信したとされるのが、世に名高い「直江状」である。この書状は、家康の詰問に対し理路整然と反論しつつも、挑発的な文言を含んでいたとされ、家康を激怒させたと伝わる 5 。現在、この直江状の原本は存在せず、後世の創作とする説も有力であるが 6 、いずれにせよ、上杉氏が家康の上洛命令を公然と拒否した事実は動かない。これは、家康にとって上杉討伐の口実を与えるに十分なものであった 7 。
第二節:上杉軍の戦略構想 ― 北の関ヶ原
慶長五年五月三日、直江状(あるいはそれに類する上杉方の返答)を受け取った家康は、諸将を集め、上杉景勝の征伐を正式に決定する 3 。家康は自ら総大将として江戸を出陣し、東国諸大名を動員して会津へと軍を進めた。
これに対する上杉軍の戦略は、単なる籠城による防衛に留まるものではなかった。その構想は、二正面、あるいは三正面作戦とも言うべき壮大なものであった。第一に、直江兼続率いる主力部隊が北へ向かい、家康に与する出羽の最上義光を攻撃する(慶長出羽合戦)。第二に、景勝自身は会津若松城に籠もり、南下してくる家康本隊を領内で迎え撃つ。そして第三の矢として、別働隊を南進させ、下野国から関東平野へ侵攻することにあった。
この南進部隊に与えられた任務は、複合的なものであったと推察される。第一の目的は、家康の本拠地である江戸を脅かし、関東の諸大名を牽制すること。第二に、家康軍の兵力を会津への集中から逸らし、戦力を分散させる陽動の役割。そして第三に、常陸の佐竹義宣など、豊臣方への忠誠心が厚く、去就を決めかねている大名と連携し、関東における反徳川の狼煙を上げる布石としての意味合いも含まれていた。この上杉軍の南進計画において、その侵攻ルートの喉元に位置する戦略的要衝こそが、下野国那須郡であり、その中心拠点たる烏山城だったのである。
第二部:戦場の舞台 ― 下野国衆の錯綜と思惑
第一節:那須口の地政学的重要性
下野国那須郡、特に烏山城が位置する地域は、会津と広大な関東平野を結ぶ回廊地帯の入り口にあたる。山地が狭まり、那珂川が流れるこの地は、軍事的には天然の隘路を形成しており、古来より「那須口」と呼ばれ、南関東を防衛する上での最重要拠点と見なされてきた。ここを敵軍に突破されることは、すなわち関東一円が直接的な脅威に晒されることを意味した。慶長五年の役において、上杉軍の南進を食い止める防衛線として、この那須口が選ばれたのは必然であった。
第二節:没落の名門・那須氏の執念
この重要な防衛戦の一翼を担うことになったのが、那須氏である。那須氏は、治承・寿永の乱における屋島の戦いで扇の的を射抜いた那須与一を祖とする、下野の名門武家であった 8 。戦国時代には烏山城を本拠とし、一族や重臣である芦野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大関氏、大田原氏ら「那須七騎」と称される武士団を束ね、北関東に勢力を誇った 9 。しかし、度重なる内紛や、佐竹氏、宇都宮氏といった周辺勢力との抗争により、強大な戦国大名へと飛躍することは叶わなかった 9 。
那須氏にとって決定的な転機となったのが、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐である。当時の当主・那須資晴は、北条氏との関係から秀吉への参陣が遅れ、これを「遅参」と咎められた。結果、那須氏は先祖伝来の所領八万石を全て没収され、改易という最も厳しい処分を受けた 11 。本拠であった烏山城は織田信長の次男・信雄に与えられ、資晴は逼塞を余儀なくされた 11 。
この「改易」という屈辱的な経験こそが、慶長五年の那須資晴の行動原理を理解する上で最も重要な鍵となる。彼にとってこの戦は、単に東軍に味方するという政治的選択以上に、徳川家康という新たな覇者に己の武威と存在価値を示し、悲願である旧領回復と那須家の再興を果たすための、文字通り千載一遇の機会だったのである。
第三節:徳川方防衛線の担い手たち
慶長五年当時、那須口防衛の最前線となる烏山城の城主は、成田長忠であった 13 。彼は徳川方の大名として、家康より直接、上杉軍の南下に備えるよう命じられていた 13 。
一方で、かつて那須氏の支配下にあった那須七騎の諸将も、東軍としてこの防衛戦に参加した。大田原氏、芦野氏、伊王野氏らは、先の宇都宮仕置によって那須宗家から独立した領主として、秀吉から直接所領を安堵されていた 11 。彼らにとっては、徳川の新体制下で自家の存続を図ることが最優先課題であり、家康の命令に応じて馳せ参じた。
このように、下野国に形成された東軍の防衛線は、決して一枚岩の組織ではなかった。正式な城主である成田氏、失地回復の執念に燃える旧領主・那須資晴、そしてそれぞれの家の安堵を願う旧那須七騎の諸将。彼らは「打倒上杉」という共通の目的の下に集ってはいたが、その内には様々な思惑が交錯していた。この複雑な連合軍の内部事情が、防衛戦の展開に微妙な影響を与えることになる。
第三部:両軍の布陣 ― 那須口に集う将兵
慶長五年夏、下野国北部の那須口には、南下を目指す上杉軍と、それを阻止せんとする徳川方の軍勢が対峙した。両軍の戦力と戦略目的を比較すると、この戦いの性格がより明確になる。
表1:慶長五年 下野国境における両軍の推定戦力比較
項目 |
東軍(下野防衛軍) |
西軍(上杉軍南進部隊) |
総大将/責任者 |
徳川家康(名目上)、下野国衆 |
上杉景勝 |
主要武将 |
成田長忠(烏山城主) 那須資晴(旧領主) 大田原晴清(大田原城主) 他、芦野氏、伊王野氏など那須衆 |
(史料不明、推定) 水原親憲、志駄義秀など 会津衆の有力武将 |
推定兵力 |
2,000~3,000 |
3,000~5,000 |
拠点 |
烏山城、大田原城、黒羽城など 那須口一帯の城砦群 |
会津若松城、白河小峰城 |
主な目的 |
上杉軍の南下阻止 那須口の絶対防衛 関東の後方安定確保 |
関東への圧力と攪乱 徳川軍の戦力分散(陽動) 宇都宮・江戸方面への進出機会の窺探 |
東軍は、各家の兵力を結集した寄せ集めの軍であり、総兵力では上杉軍に劣っていた可能性が高い。しかし、彼らは地の利を熟知しており、自領を防衛するという極めて高い士気を持っていた。特に那須資晴は、旧臣たちを率いており、その結束力は侮れないものであった。彼らの戦略は明確であり、烏山城を中心とする防衛ラインを固守し、上杉軍の侵攻を遅滞・阻止することに特化していた。
対する上杉軍は、会津120万石という強大な国力から動員された兵力の一部であり 15 、統一された指揮系統の下で行動していた。その目的は、下野防衛軍を撃破して関東平野へ進出することにあったが、これはあくまで上杉軍全体の戦略の一部であった。主戦場はあくまで最上領が広がる出羽方面であり、南進部隊の行動は、北の戦況と密接に連動するものであった。この戦略的優先順位の違いが、両軍の兵力差にもかかわらず、大規模な決戦に至らなかった要因の一つとなる。
第四部:烏山城の攻防 ― 慶長五年・夏の陣(時系列による再構成)
【慶長五年六月】 戦雲、北関東へ
六月上旬、徳川家康は上杉征伐のため、大軍を率いて江戸城を出発した。これに先立ち、下野国の諸大名、すなわち烏山城主・成田長忠や大田原城主・大田原晴清らに対し、上杉の南下に備え、国境の守りを固めるよう厳命が下されていた。
この機を逃さず、浪々の身であった那須資晴が動く。家康の許可を得た彼は、旧領であった那須郡に入り、「上杉を討つべし」との檄を飛ばして旧臣たちの参集を促した。かつて那須氏に仕えた武士たちは、旧主の呼びかけに呼応し、資晴の下に馳せ参じた。かつての薄葉原の合戦で見せたような那須武士団の動員力が、再び発揮されたのである 16 。こうして、那須資晴は独自の軍勢を組織し、東軍の防衛戦力として加わった。
下旬になると、家康の進軍を察知した上杉方も行動を開始する。景勝は会津若松城に、兼続は米沢城に入り、臨戦態勢を整えた。そして、南進計画に基づき、別働隊が編成され、国境の要衝である白河方面へと移動を開始した。那須口の緊張は、日増しに高まっていった。
【慶長五年七月】 睨み合いと情報戦 ― 那須口の対峙
七月に入ると、上杉軍の先遣隊が那須郡の北端、芦野・伊王野といった地域に姿を現し始めた。これに対し、大田原晴清が守る大田原城、成田長忠が守る烏山城、そして那須資晴の軍勢が展開する防衛ラインが本格的に機能を開始する。
しかし、予想されたような大規模な軍事衝突は発生しなかった。この時期の「戦い」の実態は、互いの兵力、配置、そして戦略意図を探り合う、熾烈な情報戦であった。斥候同士の小規模な戦闘は頻発したであろうが、両軍ともに主力部隊を投入しての決戦は避けていた。東軍は堅固な防衛線を突破されるリスクを、上杉軍は家康本隊が迫る中で深入りするリスクを、それぞれ警戒していたのである。那須口は、一触即発の緊張をはらんだまま、静かな「睨み合い」の状態に陥った。
【慶長五年七月二十五日】 小山評定 ― 戦局の転換点
七月下旬、家康は本隊を率いて下野国小山に着陣した。ここで、彼の元に上方から驚くべき急報がもたらされる。石田三成が、毛利輝元を総大将に担ぎ、反徳川の兵を挙げたというのである。この報を受け、家康は諸将を集めて軍議を開き、上杉征伐を中止して全軍を西へ反転させ、三成らを討つという歴史的決断を下した。世に言う「小山評定」である。
この決断は、北関東の戦線に二重の、そして決定的な意味をもたらした。
第一に、下野国衆ら東軍にとって、その任務の性格が根本から変わった。これまでは家康本隊の前衛として上杉軍を牽制する役割であったが、今や家康不在の関東を、そして江戸を、上杉の脅威から死守する「留守居役」という、より重大な責任を負うことになった。彼らの背後には、もはや家康本隊はいない。防衛ラインを絶対に突破させてはならないという使命感は、以前にも増して強固なものとなった。
第二に、上杉軍にとって、家康の西上は関東侵攻の絶好機到来と映ったかもしれない。しかし、前述の通り、上杉軍の戦略的重点はあくまで北の最上義光を殲滅し、背後の憂いを断つことに置かれていた 3 。家康という最大の標的が去ったことで、下野への南進作戦の戦略的価値は相対的に低下した。ここで無理な侵攻を試みて戦力を損耗するよりも、まずは確実に最上領を制圧することが優先されたのである。
【慶長五年八月~九月】 膠着と静寂
小山評定以降、日本の主要な戦場は、北の出羽(長谷堂城の戦い)と西の美濃(関ヶ原へ向かう東西両軍の諸城戦)へと移った。その間、下野国境は完全な膠着状態に陥る。東軍防衛部隊は、息を潜めて防備を固め、上杉軍のいかなる動きにも即応できるよう警戒を続けた。一方の上杉軍も、下野国衆を牽制しつつ、決定的な軍事行動を起こすことはなかった。あたかも時が止まったかのような、静かで張り詰めた対峙が続いた。この「静寂」こそが、那須資晴らが遂行した「抑え」の任務が成功していたことの証左であった。
九月十五日、関ヶ原で東西両軍が激突。そして東軍が勝利を収めた。この報が遠く離れた下野国境に届くまでには、なお数日を要した。
九月下旬、関ヶ原における西軍壊滅の報が伝わると、上杉軍は南進計画を完全に断念。部隊を会津領内へと撤退させた。これをもって、血を流す決戦なき「烏山城の戦い」は、実質的に東軍の勝利として終結したのである。
第五部:戦後の論功行賞 ― 下野国の新秩序
第一節:那須資晴、悲願の成就
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、戦後、東軍に参加した諸将の功績を評価し、大規模な領地の再編、すなわち「論功行賞」を行った 17 。
この中で、下野国における那須資晴の功績は高く評価された。彼は、家康本隊が西上して不在の中、上杉軍の南下という重大な脅威を国境で食い止めるという大任を果たした。この功により、資晴は一万七千石を与えられ、那須藩の初代藩主として大名への復帰を許された 14 。天正十八年の改易から十年、失地回復と家名再興という彼の執念が、ついに実を結んだ瞬間であった。
第二節:報いられた者、安堵された者
烏山城を守り抜いた城主・成田長忠も、その功績を認められ、本領を安堵された 13 。また、大田原晴清をはじめ、那須資晴と共に防衛戦に参加した他の那須衆も、それぞれの所領を安堵され、徳川の治世下での存続を許された。
「烏山城の戦い」における論功行賞は、徳川家康の巧みな人事政策を象徴している。最大の功労者の一人である那須資晴を大名として復活させることで、その執念と忠誠に報いると同時に、他の国衆に対しても「徳川に従えば必ず報われる」という明確な見本を示した。これにより、家康は北関東における人心を掌握し、徳川の支配体制を盤石なものとしていったのである。
結論:歴史の転換点における「抑え」の価値
「烏山城の戦い」は、後世に語り継がれるような血で血を洗う激戦ではなかった。戦場の主役は、鳴り響く鉄砲や鬨の声ではなく、張り詰めた静寂であった。しかし、その戦略的価値は計り知れない。それは、上杉軍の関東侵攻という、関ヶ原の戦局全体を根底から覆しかねない危険な可能性の芽を、発生以前に摘み取った「予防的勝利」であったと言える。
もし、那須資晴ら下野国衆の防衛線が突破されていたならば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。上杉軍が関東平野に乱入すれば、家康は背後を脅かされ、西上して関ヶ原で決戦に臨むという戦略そのものが成り立たなくなる。江戸に残された徳川秀忠の軍勢も、上杉軍への対処に追われ、関ヶ原への遅参はより深刻なものとなっていただろう。
那須資晴、成田長忠、大田原晴清ら、下野の武将たちによる献身的な「抑え」があったからこそ、徳川家康は後顧の憂いなく西へ向かい、天下分け目の決戦に勝利し、二百六十年に及ぶ泰平の世、すなわち江戸幕府の礎を築くことができた。烏山城周辺での静かなる対峙は、関ヶ原という壮大な歴史劇の裏で演じられた、決して忘れてはならない重要な一幕である。北関東の武将たちの決断と行動が、日本の歴史を動かした一つの確かな要因であったことは、疑いようのない事実である。
引用文献
- 絶体絶命のピンチに駆けつけたのは…白馬に乗った嫁⁉︎「関ヶ原の戦い」前哨戦の驚きの結末とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/111649/
- 【関ヶ原の舞台をゆく⑤】日本中で行なわれた「関ヶ原の戦い」~北と南の関ヶ原はどう終結したのか - 城びと https://shirobito.jp/article/519
- 会津征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%BE%81%E4%BC%90
- file-17 直江兼続の謎 その2~上杉家の関ヶ原~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/17/
- 没後400年上杉景勝と関ヶ原合戦 - 伝統屋 暁 https://www.dentoyaakatsuki.com/post/230413
- 「上杉景勝 謀反の意あり」徳川家康の警戒心から始まった会津討幕【どうする家康】:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/200893/2
- 思ってたんと違う(13)どうする家康!?誤算だらけの関ヶ原の戦い。 - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/chigau13_sekigahara
- 那須氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E6%B0%8F
- 戦国時代において有数の巨大城郭として知られた栃木の名城「烏山城」【栃木県那須烏山市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26443
- 栃木県那須烏山市 烏山城跡 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/13375
- 【1 那須資晴】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021090/
- 烏山城主年表 https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1615024938_doc_3_0.pdf
- 烏山城主年表 https://www.tochigiji.or.jp/wp-content/uploads/pamphlet219.pdf
- 下野 烏山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shimotsuke/karasuyama-jyo/
- 13話-霞城最上義光と慶長出羽合戦|saintex - note https://note.com/saintex/n/nedd6cd2d5ee1
- 【(11)那須、宇都宮と再度の戦い(薄葉原の合戦)】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021070
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84