牛久保城の戦い(1563)
永禄六年、家康は三河統一のため牛久保城を攻めるも、一向一揆で中断。今川氏真の撤退後、城主牧野保成が討死するも抵抗は続き、最終的に開城。家康の三河統一が完了した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
永禄六年の攻防:三河牛久保城の戦いと徳川家康の台頭
序章:桶狭間後の三河情勢と牛久保城の戦略的価値
永禄三年(1560年)五月、駿河・遠江・三河を支配下に置く海道一の弓取り、今川義元が尾張国桶狭間にて織田信長に討たれるという衝撃的な事件が発生した 1 。この一戦は、戦国時代の勢力図を塗り替える大きな転換点となった。特に、長年にわたり今川氏の支配下にあった三河国では、権力の空白が生じ、新たな時代の胎動が始まっていた。この混乱の中、今川方の人質として駿府にいた松平元康(後の徳川家康)は、主君を失った岡崎城への帰還を果たし、独立への道を歩み始める 1 。
元康の当面の目標は、祖父・清康以来の悲願である三河一国の統一であった。そのためには、今川氏の勢力を三河から完全に駆逐する必要があった。西三河の平定を着々と進める元康にとって、次なる障壁は今川方の国人領主が依然として強固な地盤を築く東三河であった。その中でも、吉田城と並び今川方の最重要拠点と目されていたのが、宝飯郡に位置する牛久保城である 1 。
牛久保城は、享禄二年(1529年)に牧野氏によって築かれた平城で、豊川の河岸段丘という自然の地形を巧みに利用し、二重の水堀を備えた堅城であった 4 。城郭を中心に武家屋敷や町屋、寺社が計画的に配置された城下町は、近世城下町の先駆けとも評されるほどの防御機能を有していた 6 。この城を拠点とする城主・牧野氏は、東三河に勢力を張る有力国人であり、寄騎や地侍衆から成る「牛久保衆」と呼ばれる強力な武士団を率いていた 4 。長らく今川氏の支配に服してきた牧野氏は、元康の独立と三河統一の動きに対して、今川方として抵抗する姿勢を明確にしていた 3 。
したがって、元康にとって牛久保城の攻略は、単に東三河の一拠点を制圧するという軍事行動に留まらなかった。それは、三河における今川氏の支配の象徴を打ち破り、地域の国人たちに松平氏こそが三河の新たな支配者であることを宣言する、極めて重要な政治的意味合いを持つ戦いであった。桶狭間の戦いを起点とする地政学的変動の中で、牛久保城は、独立したばかりの若き元康の前に立ちはだかる最初の、そして最大の試練の一つとなったのである。
表1:主要登場人物と所属勢力
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人物名 |
所属勢力 |
役職・立場 |
本合戦における役割 |
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松平元康(徳川家康) |
松平(徳川)方 |
岡崎城主 |
三河統一を目指し、牛久保城を攻撃する司令官。 |
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今川氏真 |
今川方 |
今川家当主 |
父・義元の失地回復を目指し、三河へ出陣する司令官。 |
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牧野保成 |
今川方 |
牛久保城主 |
今川方として牛久保城を防衛。永禄六年の攻防戦で討死。 |
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牧野貞成/成定 |
今川方 |
牛久保城主(後継) |
保成の死後、城主となり抵抗を継続。後に元康に降伏。 |
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本多正信 |
元康家臣→一揆方 |
元康家臣 |
熱心な一向宗門徒として、三河一向一揆で元康に敵対。 |
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渡辺守綱 |
元康家臣→一揆方 |
元康家臣 |
信仰と忠誠の間で葛藤し、一向一揆に参加。 |
第一章:永禄六年の攻防に至る道程(1561年~1562年)
永禄四年(1561年)四月:元康による最初の奇襲とその失敗
今川氏からの完全独立を内外に示すため、元康は大胆な行動に出る。永禄四年(1561年)二月頃に織田信長と和睦を結び、西方の安全を確保すると 1 、その矛先を直ちに東三河の今川勢力へと向けた。同年四月十一日の夜、元康は牛久保城への奇襲攻撃を敢行する 1 。
この時、城主の牧野成定は今川氏の命令で西尾城に在番しており、牛久保城の守備は手薄な状況であった 1 。元康はこの好機を捉え、城内の有力家臣であった牧野平左衛門尉父子らを事前に調略し、内応を期待しての夜襲であった 4 。しかし、城の留守を預かっていた宿老の稲垣重宗や真木氏一族は、内応の動きに屈することなく奮戦。特に真木越中守は獅子奮迅の働きを見せて討死し、その犠牲によって城は落城の危機を免れた 4 。
この夜襲の失敗は、若き元康にとって戦術的な教訓となった。内応工作に依存した奇襲の危うさと、敵の結束力を見誤った情報戦の未熟さを露呈したのである。同時に、この出来事は今川氏真に元康の「叛逆」を明確に認識させる決定的な契機となった。氏真は直ちに牛久保城と吉田城を対松平の反撃拠点として再整備し、両者の対立はもはや後戻りできない段階へと突入した 1 。
永禄五年(1562年):前線の構築と睨み合い
最初の奇襲に失敗した元康は、短期決戦の困難さを悟り、より腰を据えた長期戦へと戦略を転換する。永禄五年(1562年)、元康は牛久保城の今川勢力に圧力をかけるため、その喉元に位置する場所に一宮砦を新たに築城し、家臣の本多信俊に五百の兵を与えて守らせた 3 。これは、牛久保城を牽制し、東三河への進出の足掛かりとするための重要な布石であった。
これに対し、今川氏真も黙ってはいなかった。牛久保城を本陣と定め、さらにその周辺に佐脇砦や八幡砦を築いて防衛網を強化し、元康の動きに対抗した 10 。これにより、豊川流域を挟んで両軍の砦が睨み合う一触即発の状況が生まれ、東三河はさながら両勢力の最前線と化したのである。この時期の攻防は、単なる松平対今川の戦いという側面だけでなく、牧野氏内部の親松平派と親今川派の対立も絡んでおり、三河の国人領主たちが生き残りをかけて繰り広げる権力闘争の縮図でもあった 3 。
永禄五年九月:今川氏真、三河へ大軍を率いて出陣
元康の勢力拡大を座視できない今川氏真は、ついに自ら動くことを決意する。永禄五年九月、氏真は一万余(一説には一万五千 9 )ともいわれる大軍を率いて本国駿府を出陣し、東三河の拠点である牛久保城に着陣した 8 。これは、父・義元の死後、今川家当主が自ら三河へ軍を率いた最初で最後の大規模な軍事介入であり、失地回復への強い意志を示すものであった 3 。今川の大軍の出現により、東三河の緊張は最高潮に達し、元康は独立後最大の軍事的圧力を受けることになった。
第二章:牛久保城の戦い(1563年)- 合戦の時系列詳解
永禄六年の牛久保城をめぐる攻防は、桶狭間の戦い以降の三河における松平・今川両氏の力関係を決定づける重要な局面であった。以下の年表は、その前後の主要な出来事を整理したものである。
表2:牛久保城の戦い(1563年)関連年表
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年号(西暦) |
月 |
出来事 |
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永禄三年(1560年) |
5月 |
桶狭間の戦い。今川義元が討死し、松平元康が岡崎城に帰還。 |
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永禄四年(1561年) |
4月 |
元康、牛久保城への夜襲を敢行するも失敗。 |
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永禄五年(1562年) |
不明 |
元康、一宮砦を築城。 |
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9月 |
今川氏真、一万余の大軍を率いて牛久保城に着陣。 |
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不明 |
元康、今川軍の包囲を突破し一宮砦を救援(一宮の後詰)。 |
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永禄六年(1563年) |
1月 |
今川氏真、大きな戦果なく駿府へ帰還。 |
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3月 |
元康、牛久保城へ総攻撃を開始。城主・牧野保成が討死。 |
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9月 |
西三河で三河一向一揆が勃発。牛久保城攻めが中断。 |
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永禄七年(1564年) |
2月 |
元康、一向一揆と和議を結び鎮圧。 |
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永禄九年(1566年) |
5月 |
牛久保城が開城。元康の三河平定が実質的に完了。 |
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11月 |
家康(元康改め)、従五位下三河守に任官される。 |
【前段】今川氏真の牛久保城着陣と両軍の対峙(永禄五年後半~六年正月)
永禄五年九月に牛久保城へ入った今川氏真の大軍は、元康方の一宮砦を包囲するなど軍事的な圧力をかけた 9 。しかし、その動きは限定的であり、決定的な攻勢に出ることはなかった。氏真の三河出陣における真の目的は、軍事行動そのものよりも、牛久保城近くの大聖寺で父・義元の三回忌法要を盛大に執り行うことにあったとされる 3 。大聖寺には義元の胴塚が残されていると伝えられており 1 、氏真はこの地で父の追善供養を行うことで、今川家の権威を内外に示そうとしたのである。この行動は、失地回復を目指す軍事総司令官としてよりも、名家の当主としての儀礼や過去への務めを優先する氏真の性格を象徴しており、今川氏の軍事的な活力の衰えを物語っていた。
この膠着状態を好機と見たのが元康であった。彼は、今川の大軍が包囲する一宮砦が孤立しているのを見て、わずか二千ほどの寡兵を率いて救援に向かうという大胆な作戦を決行する 9 。元康は敵の大軍の警戒網を巧みに突破して砦に入り、守備兵の士気を大いに高めた。この果敢な行動は「一宮の後詰(ごづめ)」として後世に語り継がれる武勇伝となり、数で勝る今川軍と、士気で勝る松平軍という対照的な状況を浮き彫りにした 12 。この一件は、二人の指導者の資質の違いを鮮やかに描き出している。氏真が過去への弔いのために大軍を動かす「守りの指導者」であったのに対し、元康は敵の虚を突いて果敢に行動する「攻めの指導者」であった。この差が、やがて三河の支配権の行方を決定づけることになる。
【中段】氏真の駿府帰還と元康の反攻開始(永禄六年正月~三月)
永禄六年(1563年)の正月、氏真は三河の戦線で大きな戦果を挙げられないまま、突如として大軍を率いて本国駿府へと引き上げてしまう 3 。この不可解な撤退の背景には、今川領国の不安定化があった。一説には、駿河国内で武田信玄の父・信虎が謀反を企てているという噂が流れたためとも 9 、あるいは、この頃から遠江で国衆の不穏な動き(遠州忩劇)が顕在化し始めており、その対処を優先せざるを得なかったためとも考えられている 16 。いずれにせよ、氏真は背後の脅威によって、目前の敵である元康との対決を断念せざるを得なかったのである。
今川本隊の撤退は、元康にとって千載一遇の好機であった。彼はこの機を逃さず、直ちに全軍を挙げての反攻に転じる。同年三月、元康は自ら千五百余の兵を率いて一宮砦から出撃し、今や後ろ盾を失った牛久保城へと総攻撃のべく進軍を開始した 3 。
【本戦】牛久保城総攻撃と城主・牧野保成の討死(永禄六年三月)
元康軍は、牛久保城に対して猛烈な攻撃を開始した。今川本隊という最大の支えを失った城兵の士気は低下していたと推測されるが、それでも牧野氏率いる牛久保衆は、城の堅固な守りを頼りに頑強に抵抗した。
この三月の激しい攻防戦の最中、城主であった牧野出羽守保成が命を落とすという悲劇が起こる 3 。その死については、乱戦の中で討ち取られたとする「討死説」と、敗戦の責任を取って自刃したとする「切腹説」が伝えられており、その真相は定かではない 3 。長年城を率いてきた当主の死は、牛久保城にとって物理的な損失以上に、城兵たちの心理に大きな打撃を与えた。今川本隊に見捨てられた直後に指導者を失うという二重の衝撃は、城内に動揺と厭戦気分を広げたであろう。
しかし、牛久保城はそれでも屈しなかった。西尾城から帰還していた牧野貞成(あるいは成定。牧野氏の系譜は史料によって錯綜が見られる 3 )が新たな城主として指揮を執り、抵抗を継続したのである 3 。この時点から、牛久保城の戦いは、勝利を目指すための抵抗から、いかにして有利な条件で降伏するか、あるいは最後まで今川家への忠節を貫くかという、絶望的な持久戦へとその様相を変えていったと考えられる。
第三章:三河一向一揆の勃発と戦線の膠着
西三河での火の手:三河一向一揆の勃発
元康が東三河の牛久保城攻略に注力していた永禄六年(1563年)九月、彼の足元である本拠地・西三河で、統治を根底から揺るがす大事件が勃発する。浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒たちが蜂起した、いわゆる「三河一向一揆」である 18 。
一揆の直接的な引き金は、元康の家臣による寺領への「守護使不入」の特権侵害であったとされる 21 。三河統一を進める元康は、増大する軍事費を賄うため、領国支配を強化し、これまで不可侵とされてきた寺社領からも兵糧米を徴収しようとした 19 。この中央集権化を目指す政策が、長年の特権を持つ宗教勢力の既得権益と正面から衝突し、大規模な宗教一揆へと発展したのである。この一揆は、元康の「三河統一」という前進的な政策が、皮肉にも自らの支配基盤を揺るがす最大の危機を誘発したという、統治の難しさを示す典型例であった。
家臣団の分裂という未曾有の危機
三河一向一揆が元康にとって生涯最大の危機の一つ 20 となった最大の理由は、彼の家臣団が二つに引き裂かれた点にある。三河武士の中には熱心な一向宗門徒が多く、彼らは主君への忠誠と、阿弥陀如来への信仰という二つの絶対的な価値観の間で、究極の選択を迫られた 21 。
その結果、筆頭家老格の酒井忠尚や、後の徳川政権を支えることになる本多正信、渡辺守綱、夏目吉信といった譜代の重臣たちまでもが、信仰を優先して一揆方に加わった 18 。家臣団の半数近くが敵に回ったともいわれ 22 、一揆勢は元康の本城である岡崎城に肉薄するほどの勢いを見せた 21 。これはもはや単なる農民一揆ではなく、元康の領国そのものが分裂する内乱、すなわち内戦であった。
東三河戦線への影響:牛久保城攻めの中断
本拠地が崩壊の危機に瀕するという緊急事態に直面し、元康は戦略の優先順位を根本から変更せざるを得なくなった。彼の全精力と軍事力は、外部の敵である東三河の今川勢力から、内部の敵である西三河の一揆勢の鎮圧へと向けられることになった。
これにより、佳境に入っていた牛久保城攻めは、完全な中断を余儀なくされた 26 。もしこの内乱が勃発しなければ、指導者を失い士気の低下した牛久保城は、永禄六年のうちにも落城していた可能性は極めて高い。結果として、三河一向一揆という元康にとっての災厄が、牛久保城にとっては予期せぬ延命の機会を与えたのである。外部との戦争の最中に勃発したこの内乱は、当時の元康の支配基盤がいかに脆弱であったかを物語ると同時に、牛久保城をめぐる戦いが、なぜ数年にもわたる長期戦となったのかを説明する最大の要因であった 26 。
第四章:戦後の影響と三河統一への道
一向一揆の鎮圧と東三河戦略の再開
約半年にわたる激戦の末、永禄七年(1564年)二月、元康は一揆勢との間に和議を成立させ、この未曾有の内乱をようやく鎮圧することに成功した 18 。しかし、元康の対応はそれで終わらなかった。家臣団の裏切りと宗教の恐ろしさを骨身に染みて感じた彼は、和議が成立し一揆勢が武装解除するや否や、その約束を反故にした。一揆の拠点となった本證寺などの寺院は破却、あるいは他宗への改宗を強制され、抵抗する僧侶は追放された 19 。一方で、一揆に加わった家臣の多くは、その才能を惜しんで帰参を許した。この硬軟両様の巧みな使い分けは、彼の後の統治手法の原型となり、危機を乗り越えたことで元康の支配体制はかえって強固なものとなった。
内乱を克服し、西三河を完全に掌握した元康は、同年夏より、中断していた東三河の平定作戦を再び本格化させた 19 。
牛久保城の孤立と永禄九年(1566年)の開城
元康が西三河での内乱を乗り越え、再び東三河にその全戦力を投入し始めると、牛久保城の運命は急速に決していった。元康軍は周辺の今川方の諸城を次々と攻略し、牛久保城は完全に孤立無援の状態に陥った 17 。
もはや頼みの綱である今川氏真は、遠江で頻発する国衆の反乱(遠州忩劇)への対応に追われており、三河へ援軍を送る余力は完全になくなっていた 16 。希望を絶たれた牛久保城では、厭戦気分が蔓延していった。そして永禄九年(1566年)五月、今川方の敗勢が誰の目にも明らかになる中、最後まで抵抗を続けてきた城主・牧野成定も、ついに家臣たちの進言を受け入れ、元康への降伏を決断。城は無血で開け渡された 1 。永禄四年(1561年)の元康による夜襲から始まった、実に五年にも及ぶ牛久保城をめぐる攻防は、ここにようやく終止符が打たれたのである。
牧野氏のその後と徳川家臣団への編入
牛久保城の開城は、単に一つの城が落ちたことを意味するのではなかった。それは、三河国における今川氏の影響力が完全に失われ、松平元康が名実ともに「三河国主」となったことを決定づける象徴的な出来事であった。この軍事的な成功を背景に、同年十一月、元康は朝廷から従五位下三河守に任官され、徳川家康と名を改める 17 。牛久保城の攻略完了は、彼が公的に認められた戦国大名となるための、最後の仕上げであった。
降伏した牧野氏は、家康の寛大な処置により、その家臣団に組み込まれた。城主であった牧野成定は帰順後まもなく病死したが 1 、その子・康成は家康に仕え、その子孫は江戸時代を通じて越後長岡藩主などの譜代大名として存続することになる 1 。敵対した国人を滅ぼすのではなく、能力のある者は家臣として取り込み、自らの勢力を拡大していくという家康の人材登用方針が、ここにも明確に示されている。
結論:牛久保城の戦いが戦国史に刻んだもの
永禄六年(1563年)を中心とする牛久保城をめぐる一連の攻防は、戦国史において徳川家康という武将の成長と、東海地方の勢力図の転換を象徴する重要な戦いであった。
第一に、この戦いは独立したばかりの若き家康にとって、多岐にわたる試練の舞台であった。永禄四年の奇襲失敗から、長期にわたる攻城戦の遂行、そして何よりも三河一向一揆という内乱への対処を通じて、家康は軍事、政治、内政のあらゆる面で戦国大名として必要な資質を試され、そして磨き上げていった。特に、家臣団の半数に裏切られるという最大の危機を乗り越えた経験は、彼の人間不信と同時に、人を許し、再び用いるという現実的な統治術を育んだ 19 。牛久保城との戦いは、家康が単なる一地方領主から、一国を統べる大名へと脱皮する過程そのものであった。
第二に、この戦いは今川氏の支配が名実ともに終焉したことを示す転換点であった。今川氏真自らが率いた大軍が、父の法要を済ませるだけで具体的な戦果なく撤退したことは、今川家の軍事的な衰退を誰の目にも明らかにした 3 。そして、最後の拠点であった牛久保城が陥落したことで、今川氏は三河における影響力を完全に喪失した。それに代わり、内乱と外敵という二つの大きな抵抗勢力を鎮圧した徳川家康が、三河一国を完全に掌握し、新たな地域覇者として歴史の表舞台に登場したのである。牛久保城の戦いは、まさに一つの時代が終わり、新しい時代が始まる分水嶺に位置する戦いであったと言える。
引用文献
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- 1560年 – 64年 桶狭間の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1560/
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- 「どうする家康」において、三河一向一揆とは何だったのか その1|青江 - note https://note.com/tender_bee49/n/n27f998b0df3f