最終更新日 2025-09-05

犬山城奪回戦(1584)

小牧・長久手の緒戦、池田恒興は信雄の隙を突き犬山城を電撃奪取。家康は小牧山に迅速進駐し秀吉の南下を阻止。この攻防が戦線膠着を招き、長期戦の要因となった。

天正十二年 犬山城攻防―小牧・長久手の戦いを規定した電撃的奪取の真相―

序章:天下への岐路

天正10年(1582年)6月、本能寺において織田信長がその生涯を閉じたことは、日本の歴史における巨大な転換点であった。天下統一を目前にした絶対的権力者の突然の死は、巨大な権力の空白を生み出し、織田家の家臣団をはじめとする全国の武将たちを激しい後継者争いの渦へと巻き込んでいった 1 。この混乱をいち早く収拾し、次代の覇者として名乗りを上げたのが、羽柴秀吉であった。中国地方から驚異的な速度で軍を返した秀吉は、山崎の戦いで信長の仇である明智光秀を討伐。続く清洲会議においては、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を名目上の後継者として擁立することで巧みに主導権を握り、織田家臣団内での序列を着実に上げていった 1

翌天正11年(1583年)、秀吉は織田家の筆頭家老であった柴田勝家と、信長の三男・織田信孝の連合軍を近江賤ヶ岳に破る。この賤ヶ岳の戦いでの決定的勝利により、勝家と信孝は自害に追い込まれ、秀吉の覇権は事実上、揺るぎないものとなった 1 。しかし、全ての織田旧臣が秀吉の台頭を是としたわけではなかった。信長の次男であり、形式的には織田家の家督を継ぐべき立場にあった織田信雄は、日増しに強大化する秀吉に対し、強い警戒心を抱いていた 1 。秀吉が信雄を安土城から退去させるなど、両者の関係は急速に悪化の一途をたどる 1

孤立を恐れた信雄が頼ったのは、信長の盟友であり、当時すでに東海地方に五カ国を領する大勢力となっていた徳川家康であった 1 。家康もまた、いずれは秀吉と天下の雌雄を決しなければならないと覚悟しており、信雄からの救援要請は、反秀吉の兵を挙げるための絶好の大義名分となった 1 。こうして、織田信長の遺産を巡る二大勢力が形成される。

そして天正12年(1584年)3月6日、信雄は秀吉への内通を疑った自らの家老である津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三名を誅殺するという強硬手段に打って出る 1 。この暴挙は、秀吉に信雄討伐の口実を与える決定的な引き金となった。秀吉は激怒し、即座に出兵を決定。ここに、世に言う「小牧・長久手の戦い」の火蓋が切られたのである 1 。この戦いの本質は、単なる領土争いではなく、「織田信長の後継者」という政治的正統性を誰が掌握するのかを巡る、天下分け目の決戦であった。家康は「主家を蔑ろにする秀吉を討つ」という名分を、秀吉は「主家の秩序を乱す信雄を懲罰する」という名分を掲げ、両者は激突することになる。そして、この大戦の緒戦の舞台となったのが、尾張北部の要衝、犬山城であった。

第一章:国境の要塞、犬山城

小牧・長久手の戦いの発火点となった犬山城は、その地理的・軍事的価値から、古くから戦略上の極めて重要な拠点と見なされてきた。この城が持つ意味を理解することなくして、緒戦の展開を正確に把握することはできない。

犬山城は、尾張国と美濃国の国境を流れる木曽川の南岸、濃尾平野を見下ろす断崖絶壁の上に築かれている 6 。この立地は、両国を睨む地政学的な要衝であると同時に、木曽街道と中山道が交わる交通の結節点でもあった 6 。さらに、木曽川を利用した水運・交易の拠点でもあり、この地を抑えることは、尾張北部から東美濃にかけての物資と情報の流れを掌握することを意味した 6 。まさに、政治・経済・軍事の三側面において、比類なき価値を持つ城であった。

軍事拠点としての犬山城は、極めて実践的な構造を誇っていた。城の北側は木曽川の断崖によって守られ、敵の攻撃を事実上不可能にする典型的な「後堅固の城」である 6 。これにより、攻撃方向は南側に限定され、防御側は兵力を集中させやすいという利点があった。さらに、城だけでなく城下町全体を堀や土塁で囲む「総構え」の構造が採用されており、町全体が一個の巨大な要塞として機能するよう設計されていた 6 。天守内部にも、敵を効率的に迎撃するための「つけ櫓」、真下の敵兵に石を落として攻撃する「石落としの間」、そして奇襲部隊が潜む「武者隠しの間」など、戦闘を前提とした数々の設備が施されており、戦国乱世を生き抜くための知恵が凝縮されていた 6

この城は、織田信長の叔父である織田信康によって天文6年(1537年)に築城されて以来、織田家の歴史と深く関わってきた 7 。特に信長が美濃の斎藤氏を攻略する際には、最前線基地として重要な役割を果たしている 7 。信長、秀吉、家康という戦国三英傑の全てが、この城を巡る戦いに直接関与したという事実は、その戦略的重要性を何よりも雄弁に物語っている 8

徳川・織田連合軍にとって、犬山城は「尾張の北の守りを固める最後の砦」であった。しかし、対する羽柴秀吉の視点から見れば、その価値は全く異なるものであった。彼にとって犬山城は、「敵国である尾張に侵攻するための最初の橋頭堡」だったのである 7 。この認識の非対称性こそが、緒戦の展開を決定づけた。連合軍側は、自国領内の防衛拠点である犬山城が、戦端が開かれると同時に内部から、かくも容易く奪われるとは想定していなかった。一方で、秀吉と彼に与した池田恒興は、この城を敵地内に確保すべき攻撃拠点と明確に位置づけ、そのための周到な準備を進めていた。犬山城の価値は静的なものではなく、どちらの勢力が占有するかによって、その戦略的意味が180度転換する、極めて動的な存在だったのである。

第二章:嵐の前の静寂―天正十二年三月上旬の動向―

天正12年3月、尾張の地には不穏な空気が満ちていた。信雄による三家老誅殺という衝撃的な事件を受け、秀吉は即座に軍事行動を開始した。彼の戦略は、主力を信雄の本拠地である伊勢国へ差し向ける一方で、別動隊によって尾張の心臓部を突くという二方面作戦であった 12 。伊勢への侵攻は、連合軍の注意をそちらへ引きつける陽動の側面も持ち合わせていた 8

この秀吉の動きに対し、織田信雄は伊勢の防衛を固めるべく、重臣であり犬山城主でもあった中川定成(勘右衛門)に対し、伊勢・峰城への救援を命じた 12 。この判断は、伊勢戦線への対応としては当然のものであったが、結果として尾張北部の防衛に致命的な権力の空白を生み出すことになる。戦略的要衝である犬山城は、正規の戦闘指揮官である城主を欠き、留守を預かるのは定成の叔父で龍泉院の住職であった清蔵主など、ごくわずかな城兵のみという、極めて脆弱な状態に陥ったのである 11

この絶好の機会を虎視眈々と狙っていたのが、美濃大垣城主・池田恒興であった。恒興は、信長の乳兄弟という特別な間柄であり、織田家譜代の重臣として重きをなした人物である 16 。賤ヶ岳の戦いの後、秀吉から美濃大垣13万石という破格の恩賞を与えられており、その関係はすでに深いものとなっていた 3 。清洲会議では中立的な立場を取ったともされるが 4 、山崎の戦いで秀吉に味方して以降、彼は次代の天下人が秀吉であることを確信していた節がある 18

小牧・長久手の戦いが勃発するに及び、恒興は旧主・織田信雄を裏切り、秀吉方として参戦することを最終的に決断する 3 。その動機は、秀吉からのさらなる恩賞への期待と、時流が秀吉にあるという冷徹な政治的判断の双方であったと見られる 18 。恒興のこの決断は、単に一武将が敵方についたという以上の、戦局全体を揺るがす連鎖的な破壊力を持っていた。

第一に、美濃に地盤を持つ恒興が敵に回ることで、尾張の北方は完全に無防備となり、犬山城は敵地に囲まれた孤島のような状態となった。これが、後の電撃的な奇襲を可能にする地理的条件を整えた 10 。第二に、信長の乳兄弟という織田家における象徴的な人物の離反は、信雄方の求心力を著しく低下させ、他の織田旧臣の動揺を誘うものであった。これは秀吉の正統性を補強する絶好の材料となった。そして第三に、信雄と家康は、恒興やその娘婿である森長可を味方と期待していた可能性があり、彼らを前提とした防衛計画を立てていたと推察される 13 。恒興の裏切りは、その計画の根幹を根底から覆すものであり、連合軍は緒戦において、完全に受け身に回らざるを得ない状況へと追い込まれたのである。

第三章:閃光の一撃―三月十三日、犬山城陥落―

天正12年3月13日、小牧・長久手の戦いの趨勢を決定づける最初の閃光が、尾張北部の空を切り裂いた。この一日の出来事は、両陣営の戦略、情報伝達の速度、そして意思決定の質を鮮やかに対比させる、劇的なものであった。以下の時系列表は、その緊迫した数日間の動きを概観するものである。

日付

時刻(推定)

羽柴方(池田・森軍)の動向

連合方(家康・信雄軍)の動向

発生事象・情報伝達

3月13日

日中

池田恒興、大垣城より出陣。犬山城を急襲し、占拠。

徳川家康、三河より出陣し、清洲城に到着。

犬山城、わずか1日で陥落。その報が清洲城の家康・信雄のもとへ届く。

3月14日

-

占拠した犬山城の守りを固める。

家康、小牧山城への進駐を即座に決断。

-

3月15日

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-

家康、自ら兵を率いて清洲城を出発し、小牧山城に着陣。

家康の電撃的な進駐により、羽柴方の南下を阻止。

3月16日

-

森長可、美濃金山城より3,000の兵を率いて南下。犬山を越え、羽黒に着陣。

小牧山城の防御施設構築を開始。酒井忠次らが森長可の突出を偵察。

森長可の突出が徳川方に察知される。家康は即座に奇襲を命令。

3月17日

早朝

羽黒にて徳川軍の奇襲を受け、敗走。

酒井忠次、松平家忠ら約5,000の兵が森勢を奇襲。これを撃破する。

羽黒の戦い 。羽柴方の最初の野戦敗北。

3月18日

-

-

家康、小牧山城の本格的な要塞化に着手。

戦線が犬山―小牧間で膠着する状況が形成され始める。

3月13日、池田恒興は周到な計画のもと、居城である美濃大垣城から兵を発した。目標はただ一つ、城主・中川定成が伊勢へ出陣中で手薄となっている犬山城である 10 。恒興の軍は迅速に行動し、犬山城に殺到した。城内にいたのは、わずかな留守居の兵と、戦闘の素人である住職・清蔵主らであった 11 。彼らに、歴戦の池田軍を相手に抵抗する術はなかった。攻撃は迅速を極め、堅城として知られた犬山城は、わずか1日にして恒興の手に落ちた 7 。これは力攻めによる「落城」というよりは、内応や威圧による事実上の「無血開城」に近かったと推察される。

奇しくも、この歴史的な一日と同じ3月13日、徳川家康は信雄との合流を果たすべく、三河から兵を率いて清洲城に到着していた 3 。彼が長旅の疲れを癒す間もなくもたらされたのは、尾張の北の門である犬山城が敵の手に落ちたという、にわかには信じがたい凶報であった。戦いの開始を宣言するかのようなこの劇的なタイミングは、秀吉陣営の計画性の高さを物語っている。

この犬山城の奪取は、秀吉の得意とする「戦わずして勝つ」という戦略思想の完璧な体現であった。彼は、真正面からの軍事力による攻略を極力避け、事前の調略や敵の戦略的欠陥を突くことで勝利を収めることを常とした。今回も、まず池田恒興という織田家内部のキーマンを寝返らせる「調略」が先行し、次に信雄自身が作り出した「中川定成の不在」という脆弱性を完璧なタイミングで突いた。その結果、一兵も損なうことなく、尾張侵攻における最重要拠点を確保するという、最大限の戦略的成果を挙げたのである。これは、後の秀吉の天下統一戦で繰り返し見られる、高度な政治と軍事を融合させた戦い方の萌芽であったと言えるだろう。

第四章:神君の応手―家康、動く―

清洲城に到着するや否や、尾張の北の守りが崩壊したという最悪の報告を受けた徳川家康であったが、その対応は驚くほど冷静かつ迅速であった。この絶体絶命の危機に対し、彼が示した卓越した危機管理能力こそが、その後の戦局を膠着へと導く決定的な要因となった。

家康は、犬山城陥落の報に動揺の色を見せることなく、直ちに対抗策の検討に入った。そして、ほとんど即座に、犬山城の南約10キロメートルに位置する小牧山城を新たな防衛拠点として占拠するという決断を下す 8 。この選択は、彼の戦術眼の鋭さを示すものであった。小牧山城は、かつて織田信長が美濃攻略の拠点として築いた城であり、家康はその戦略的価値を熟知していた 22 。犬山城と直接対峙し、濃尾平野を一望できるこの地を抑えることで、羽柴軍の動向を常に監視下に置き、清洲城への進撃路を完全に遮断することが可能となるからである。

意思決定の速さは、そのまま行動の速さへと繋がった。犬山城陥落の報からわずか2日後の3月15日、家康は自ら主力を率いて清洲城を出立し、電撃的に小牧山城へと進駐した 2 。この行動は、池田恒興が犬山城確保の勢いを駆って一気に南下し、戦線を拡大することを未然に防ぐための、極めて迅速かつ的確な対応であった。これにより、戦線は犬山と小牧を結ぶラインで固定化され、秀吉の描いたであろう短期決戦のシナリオは早くも頓挫することになる。

家康の小牧山進駐は、単なる受動的な防御行動(リアクション)ではなかった。それは、失われた戦場の主導権(イニシアチブ)を能動的に奪い返そうとする、攻めの意志の明確な表れであった。犬山城を奪われた時点で、連合軍は戦略的に完全に後手に回っていた。もし家康がそのまま清洲城で守りを固めるという選択をしていれば、防戦一方となり、圧倒的な物量を誇る秀吉軍の前にいずれはジリ貧に陥っていた可能性が高い。しかし、家康はあえて前線へと進出し、敵の拠点である犬山の目と鼻の先に新たな拠点を築くことを選んだ。これは、「ここから先には一歩も進ませない」という断固たる意思表示であると同時に、秀吉に対して「次の一手はお前が打て」と迫る、挑戦的な一手でもあった。この神速の応手により、家康は秀吉の電撃戦の勢いを完全に殺し、戦いを自らが最も得意とする「堅固な陣地を背景とした防御と消耗の戦い」という土俵へと、見事に引きずり込むことに成功したのである。

第五章:最初の衝突―羽黒の戦い―

家康が小牧山に拠点を移したことで、両軍の睨み合いが始まった。この均衡を破る最初の火花が散ったのが、犬山と小牧の中間に位置する羽黒の地であった。この戦いは、小牧・長久手の戦いにおける最初の本格的な野戦であり、その結果は両軍の心理に大きな影響を与えることになった。

引き金となったのは、羽柴方の若き猛将・森長可の突出であった。池田恒興の娘婿でもある長可は、居城である美濃金山城から約3,000の兵を率いて南下 25 。3月16日、彼は恒興のいる犬山城を通り過ぎ、さらに南の小牧山に近い羽黒(現在の犬山市羽黒)に、友軍から突出した形で布陣した 13 。これは、織田信長の家臣時代から「鬼武蔵」と恐れられた彼の、功名心に逸った行動であった可能性が高い。しかし、この戦術的なミスを徳川方は見逃さなかった。

家康の命を受けた酒井忠次らの偵察部隊は、森長可の部隊が孤立している状況を即座に察知 13 。家康はこれを千載一遇の好機と捉え、直ちに奇襲攻撃を命令した。3月16日の夜半、酒井忠次、松平家忠、奥平信昌らが率いる約5,000の兵が、小牧山から夜陰に乗じて密かに出陣した 3

翌3月17日の早朝、徳川軍の奇襲は敢行された 19 。奥平信昌隊が正面から攻撃をかけると、森勢は一度はこれを押し返す奮戦を見せた。しかし、それは徳川軍の計算の内であった。側面に回り込んでいた松平家忠の鉄砲隊が一斉に火を噴くと、その十字砲火を浴びた森勢はたちまち混乱に陥る 3 。さらに、酒井忠次の本隊が背後に回り込もうとする動きを見せると、森長可は完全に包囲される危険を悟り、全軍に敗走を命じた 3 。この戦いで森勢は300余りの死者を出し、長可自身も命からがら金山城へと撤退した。

羽黒の戦いは、戦闘の規模こそ小さかったものの、両軍に与えた心理的な影響は計り知れないほど大きかった。犬山城の無血奪取で勢いづいていた羽柴軍にとって、この一方的な敗北は手痛い冷や水となった。特に、猛将としてその名を轟かせていた森長可が完敗したことは、徳川軍の組織的な戦術能力の高さを秀吉方に強く印象付けた 3 。一方で、劣勢から始まった連合軍にとって、この鮮やかな勝利は士気を大いに高めるものであった。家康の采配の的確さが改めて証明され、兵卒たちの主君への信頼を確固たるものにした。この一戦の結果、秀吉は家康を力で押し潰す短期決戦の構想を修正し、より慎重な長期戦の構えを取らざるを得なくなった。これが、後の大規模な砦の構築合戦と、泥沼とも言える戦線の膠着化へと直接繋がっていくのである。

第六章:対峙の始まり―小牧・長久手戦線の構築―

羽黒での手痛い敗戦の報は、秀吉の判断をより慎重なものにした。3月21日、彼は3万(一説には10万とも言われる)と号する大軍を率いて大坂城を出発 2 。京、近江を経て美濃に入り、3月27日、ついに前線である犬山城に着陣した 2 。秀吉はまず犬山城に入り、ここを尾張における司令部と定めた 7 。その後、全軍の指揮を執るための本陣を、犬山の南東に位置する楽田城へと移し、徳川軍との本格的な対峙に備えた 2

家康が築いた小牧山の堅固な防衛線を目の当たりにした秀吉は、力攻めの不利を悟り、同様に野戦築城による防衛線の構築を開始する。こうして、犬山から小牧に至る約10キロメートルの空間は、両軍が威信をかけて築き上げた無数の砦と土塁によって埋め尽くされる、前代未聞の巨大な野戦陣地へと変貌していった。

徳川方は、家康が3月18日から本格的に着手した小牧山城の要塞化をさらに推し進めた。榊原康政らの指揮のもと、小牧山の周囲には幾重にも土塁や空堀が巡らされ、宇田津砦、蟹清水砦、田楽砦といった支城群が構築された 3 。小牧山全体が、難攻不落の一大要塞と化したのである。

これに対し、羽柴方も楽田の本陣と後方拠点である犬山城を結ぶラインを防衛すべく、最前線に二重堀砦、岩崎山砦、青塚砦、久保山砦などを次々と築城 15 。徳川方の砦群と睨み合う形で、強固な防衛線を構築した。以下の表は、この対峙が始まった時点での両軍の布陣をまとめたものである。

陣営

拠点

主要武将

推定兵力

羽柴軍

犬山・楽田方面

羽柴秀吉、池田恒興、森長可、羽柴秀次、堀秀政

約100,000

徳川・織田連合軍

小牧山方面

徳川家康、織田信雄、酒井忠次、石川数正、榊原康政、井伊直政

約16,000 - 17,000

この表が示す通り、両軍には圧倒的な兵力差が存在した 2 。しかし、徳川軍は地の利と堅固な陣地を最大限に活用し、その差を埋めていた。結果として、犬山―小牧戦線は完全な膠着状態に陥った 2 。互いに相手の堅陣を攻めあぐね、決定的な一撃を繰り出せないまま、時間だけが過ぎていった。この息詰まるような状況を打開するため、羽柴方の池田恒興から、家康の本拠地である三河岡崎を直接攻撃し、家康自身を小牧山からおびき出すという大胆な奇襲作戦、いわゆる「三河中入り作戦」が提案される。秀吉はこの策を受け入れ、これが後の「長久手の戦い」という、もう一つの激戦へと繋がっていくのである 3

終章:一日の攻防が決定づけたもの

天正12年3月13日の池田恒興による犬山城の電撃的奪取と、それに対する3月15日の徳川家康による小牧山への神速の進駐。このわずか3日間の攻防は、その後の数ヶ月にわたって繰り広げられた小牧・長久手の戦い全体の性格を決定づける、極めて重要な出来事であった。この緒戦の展開がなければ、戦いは全く異なる様相を呈していたであろう。秀吉の奇襲は、戦いを「固定戦線における砦の構築と消耗戦」という、徳川家康が最も得意とする土俵へと持ち込む結果を招いたのである。

長久手における羽柴方別動隊の壊滅という戦術的勝利の後も、小牧の対陣は続いた。しかし、戦局が動かない中、秀吉は軍事による決着ではなく、政治的な工作によって事態の打開を図る。彼は、連合軍の総大将である織田信雄に直接働きかけ、懐柔することに成功した 3 。天正12年11月、信雄は家康に相談することなく、単独で秀吉と和睦を結んでしまう 3 。これにより、「信雄を助ける」という戦いの大義名分を失った家康は、兵を引かざるを得なくなった。

この和睦の条件の一つとして、羽柴軍が占拠していた犬山城は、再び織田信雄方に返還された 9 。戦いの発端となった城が、その終結の象徴として元の持ち主に戻ったことは、この城が最後まで尾張北部の支配権を象徴する戦略的拠点であり続けたことを示している。

犬山城を巡る一連の攻防は、戦国時代を代表する二人の英雄、羽柴秀吉と徳川家康の将器を鮮やかに描き出した。それは、秀吉の調略と奇襲を組み合わせた柔軟な戦略性と、家康の危機に動じない冷静な判断力と迅速な対応力という、両雄の持ち味が見事に発揮された戦いであった。この緒戦での経験を通じて、両者は互いの実力を深く認識し、それが後の政治的な駆け引きへと繋がっていったと考えられる。

小牧・長久手の戦いは、軍事的には明確な勝敗がつかないまま引き分けに終わった。しかし、織田信雄を単独講和に追い込み、事実上屈服させたことで、政治的には秀吉が圧倒的優位に立った 2 。この戦いを経て、秀吉は織田信長の後継者としての地位を名実ともに確立し、天下統一への道を確実なものとしたのである。その全ての始まりは、犬山城が音もなく敵の手に落ちた、あの閃光の一撃にあった。

補遺:犬山城主・中川定成の真実

小牧・長久手の戦いの歴史を語る上で、長らく誤って伝えられてきた一つの事実がある。それは、犬山城を奪われた城主・中川定成のその後の運命である。

多くの二次史料や地域の伝承において、中川定成は、自らの居城である犬山城が陥落したとの報を伊勢で聞き、急ぎ引き返す途中の木曽川付近で、私怨を持つ池尻平左衛門なる人物によって殺害されたと記されてきた 12 。主君のために奮戦中に城を奪われ、その帰路で非業の死を遂げた悲劇の武将として、彼の物語は語り継がれてきた。

しかし、近年の研究により、この「討死説」は史実ではないことが明らかになっている。その最も確実な証拠が、天正13年(1585年)、つまり戦いの翌年に作成された「織田信雄分限帳」という一次史料である。この分限帳(家臣の知行リスト)には、「中川勘右衛門」、すなわち中川定成の名前が明確に記されており、彼が信雄から所領を与えられ、家臣として存続していたことが確認できる 12

さらに、これを裏付ける史料は他にも存在する。天正12年11月の秀吉と信雄の和睦交渉において、信雄が秀吉へ人質として提出すべき重臣五人の一人として、定成の名が挙げられている記録が残っている。また、天正13年8月には、越中攻めに参陣している信雄のもとへ、家康から定成ら重臣五人宛の陣中見舞いの書状が送られていることも確認されている 12 。これらの史料は、彼が戦後も信雄の重臣として活動していたことを疑いようもなく証明している。

したがって、中川定成討死説は後世に生まれた誤伝であり、彼は小牧・長久手の戦いを生き延び、戦後は再び犬山城主(あるいはそれに準ずる地位)に復帰し、織田信雄の家臣として活動を続けたというのが歴史的な真実である。なぜこのような誤伝が生まれたのか、その正確な背景は定かではないが、城主不在という状況が城の陥落を招いたことへの責任論や、劇的な物語を求める後世の人々の心情などが複合的に絡み合った結果である可能性が考えられる。歴史の真実を追求する上では、こうした伝承と一次史料との慎重な比較検討が不可欠であることを、中川定成の事例は我々に教えてくれる。

引用文献

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  8. 犬山城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/08/
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  21. 空から見た 小牧・長久手の戦い - Network2010.org https://network2010.org/article/2047
  22. 『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説 https://sengokubanashi.net/history/komaki-nagakutenotatakai/
  23. 家康が立派な戦をしたのは生涯で一度だけ…「小牧・長久手」で戦の天才・秀吉に勝てた納得の理由 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/72982
  24. もう一つの天下分け目の決戦「小牧・長久手の戦い」。小野友記子氏と、定説を覆した発掘現場へ。 https://note-infomart.jp/n/ncbac002c6702
  25. 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
  26. 所蔵資料 - 犬山城白帝文庫 https://www.inuyamajohb.org/shiryou
  27. 家康の守る城 - 小牧市観光協会 https://komaki-kanko.jp/komakiyama1563/ieyasu
  28. 長久手古戦場物語 https://www.city.nagakute.lg.jp/soshiki/kurashibunkabu/shogaigakushuka/4/nagakutenorekisibunnka/3915.html
  29. 小牧・長久手の戦い年表 - 犬山文化遺産ナビ https://inuyama-tabi.com/data/download/100/3/shirokosenjo.pdf
  30. 犬山城について | 国宝犬山城 https://inuyama-castle.jp/about/