最終更新日 2025-09-01

田原城の戦い(1549)

天文16年、戸田康光の竹千代人質事件に激怒した今川義元は田原城を攻め落とし、戸田氏本家は滅亡。東三河における今川氏の支配を確立した。

東三河の激震:田原城の戦い ― 天文十六年の裏切りと滅亡、その歴史的真相

序章:三河湾の覇権と田原戸田氏 ― 戦乱の渦の中心

戦国時代の三河国は、西の尾張国から勢力を伸張する織田信秀と、東の駿河国から西進する今川義元という二大勢力が激しく衝突する最前線であった 1 。この両雄の狭間で、在地領主たちはある時は一方に属し、またある時はもう一方に寝返るという、綱渡りのような生存戦略を強いられていた。その中でも、渥美半島に拠点を置き、三河湾の制海権を掌握していた田原戸田氏は、独自の存在感を放つ海洋豪族であった。彼らの本拠こそが、今回の主題である田原城である。

渥美半島の地政学的重要性

渥美半島は、三河国と遠江国の結節点に位置し、伊勢湾の海上交通を扼する戦略的要衝であった 2 。この半島を制することは、三河湾全体の物流と軍事行動を支配することを意味した。田原城は、その渥美半島の付け根に位置し、三方を海に囲まれた天然の要害であった 4 。湾の形が巴(ともえ)の紋様に似ていたことから「巴江城(はこうじょう)」の雅名を持ち、その立地は戸田氏に強大な海軍力と交易による富をもたらす源泉となった 5 。しかし、この地理的な優位性こそが、後に大国の介入を招き、戸田氏を悲劇的な運命へと導くことになるのである。

海上交易で栄えた国人領主・戸田氏

田原戸田氏の祖は、文明12年(1480年)頃に田原城を築いた戸田宗光とされる 6 。彼らは単なる土地に根差した領主ではなく、三河湾の海運を掌握することで勢力を拡大した一族であった。1993年に行われた田原城跡の発掘調査では、中国・元時代の染付花瓶の破片が発見されている 7 。このような高級輸入品は、当時、有力な戦国大名や大寺院でなければ所有できない貴重品であり、戸田氏が海上交易を通じていかに大きな財力と情報網を築いていたかを物語っている。彼らの力は、土地からの年貢収入に留まらず、海からもたらされる富に支えられていた。この「海洋性」とも言うべき特性は、陸の大国である今川氏や織田氏とは異なる独自の行動原理を戸田氏に与えていた。すなわち、彼らにとっては主家への忠誠という観念よりも、交易路の確保と実利の追求が優先される、極めて現実的な思考様式が根付いていた可能性が高い。田原城は単なる軍事拠点ではなく、渥美半島の富を集積し、水軍を駐留させ、最新情報を集める経済・軍事の複合拠点として機能していたのである。

三大勢力の狭間で揺れる天秤

天文年間、三河の情勢は混沌を極めていた。東からは今川義元が着実に三河への支配を広げ、西からは織田信秀が松平氏の領地を蚕食していた 1 。その中で、岡崎城主・松平広忠は織田の圧力に抗しきれず、今川の庇護下に入ることでかろうじて命脈を保っていた。田原城主・戸田康光は、松平広忠に娘の真喜姫を嫁がせるなど、松平氏と姻戚関係を結びつつも 10 、今川・織田という二大勢力の間で巧みな外交を展開し、独立を維持しようと画策していた 7 。しかし、この危うい均衡は、やがて一人の少年の運命をきっかけに、音を立てて崩れ去ることになる。


表1:田原城の戦い 関係主要人物一覧

人物名

所属勢力

役職・立場

本合戦における役割

戸田 康光 (とだ やすみつ)

田原戸田氏

田原城主

竹千代人質事件を引き起こし、今川軍の攻撃を招く。籠城戦の末、討死。

戸田 尭光 (とだ たかみつ)

田原戸田氏

康光の嫡男

父と共に田原城に籠城し、奮戦の末に討死したとされる。

今川 義元 (いまがわ よしもと)

今川氏

駿河・遠江守護

戸田氏の裏切りに激怒し、田原城討伐を命令。東三河支配を確立する。

織田 信秀 (おだ のぶひで)

織田氏

尾張の戦国大名

戸田康光から竹千代を買い取り、対今川・松平の外交カードとして利用する。

松平 広忠 (まつだいら ひろただ)

松平氏

岡崎城主

徳川家康の父。今川氏に属し、嫡男・竹千代を人質として差し出す。

松平 竹千代 (まつだいら たけちよ)

松平氏

広忠の嫡男

後の徳川家康。彼の人質としての護送が、事件の直接の引き金となる。

天野 景貫 (あまの かげつら)

今川氏

吉田城代

義元の命を受け、田原城攻撃軍の指揮官を務めたとされる今川家の重臣。


第一章:引き金となった密約 ― 戸田康光と竹千代人質事件の真相

田原城の戦いを語る上で、その直接的な原因とされる「竹千代人質事件」を避けて通ることはできない。この事件は、一人の国人領主の決断が、三河全体の勢力図を塗り替える巨大な連鎖反応の起点となった、戦国史における象徴的な出来事である。

通説「戸田康光の裏切り」のドラマ

天文16年(1547年)、岡崎城主・松平広忠は、今川義元への従属の証として、嫡男である6歳の竹千代(後の徳川家康)を人質として駿府へ送ることを決断した 12 。その護送の大役を任されたのが、田原城主・戸田康光であった。田原城が海に面した城であることから、一行は陸路ではなく、田原から船で駿府へ向かう計画だった 14

しかし、歴史はこの計画通りには進まなかった。通説によれば、戸田康光は長年の主家である松平氏、そしてその庇護者である今川氏を裏切ったのである 11 。竹千代を乗せた船は駿府へは向かわず、三河湾を西へ進み、敵対する尾張の織田信秀のもとへ届けられた 14 。その対価は、永楽銭で千貫文(あるいは百貫文)ともいわれる莫大な金銭であったとされる 13 。この前代未聞の裏切り行為は、今川義元の逆鱗に触れた。主君の嫡子を敵に売り渡すという背信は、戦国の世においても許されざる大罪であった。義元は直ちに戸田氏討伐の軍を発し、これが田原城の戦いの直接的な引き金となった、というのが広く知られた物語である 16

学術的再検討:人質事件は本当に「裏切り」だったのか?

この劇的な「裏切り」の物語は、しかし、近年の研究によってその信憑性が問い直されている。特に有力視されているのが、事件の構図を根底から覆す新説である。すなわち、この一件は戸田康光の単独犯行ではなく、織田軍の猛攻によって岡崎城が陥落寸前にまで追い詰められた松平広忠が、織田方に降伏の証として、自らの意思で竹千代を人質に差し出したというものである 13 。この説を裏付ける文書も存在しており、もしこれが事実であれば、戸田康光の「裏切り」という物語は、徳川家康の父・広忠が敵に屈したという不名誉な事実を隠蔽するため、後世、特に徳川の治世になってから創作された可能性が極めて高い。

徳川幕府の公式な歴史観からすれば、初代将軍の父が敵に降伏し、その証として我が子を差し出したという事実は、政権の正当性を揺るがしかねない汚点であった。その責任を転嫁する「悪役」として、すでに滅びていた戸田康光は格好の標的であったと考えられる。したがって、この事件の真相を探ることは、単に歴史的事実を確定させる作業に留まらず、徳川という政権がいかにして自らの歴史を「編纂」し、正当性を「物語」として構築していったかを解明する作業でもあるのだ。

年代の交錯:天文16年と天文18年

ここで、本件の年代について整理する必要がある。利用者様が当初認識されていた「1549年(天文18年)」という年は、田原城の戦いそのものではなく、この竹千代を巡る一連の出来事が重大な転換点を迎えた年である。資料の多くは、竹千代人質事件とそれに続く田原城の落城を**天文16年(1547年)**の出来事としている 16

一方、**天文18年(1549年)**には、三河の情勢を再び大きく動かす二つの事件が発生する。一つは3月の松平広忠の急死 20 。そしてもう一つが、11月に今川軍が織田方の安祥城を攻略し、城主であった織田信秀の庶長子・織田信広を捕虜にしたことである 12 。この信広の捕縛により、今川方は織田方に対し、竹千代と信広の人質交換を提案。これにより、2年間織田家で過ごした竹千代は、ようやく今川方の手に渡ることになった 9

つまり、田原城の戦いは、1549年に至る一連の「竹千代争奪戦」の序章であり、その発端となった事件であったと位置づけるのが最も正確な理解と言える。


表2:田原城の戦いに至る主要関連年表(天文15年~18年)

西暦

和暦

主要な出来事

関連勢力

影響

1546年

天文15年

11月

今川軍、今橋城(後の吉田城)を攻略。東三河への橋頭堡を築く 24

今川、戸田

今川氏の東三河進出が本格化。田原戸田氏への圧力が高まる。

1547年

天文16年

(推定)

竹千代人質事件 。松平竹千代が護送中に織田方へ引き渡される 16

松平、戸田、織田

今川義元が激怒。戸田氏討伐の直接的な原因となる。

1547年

天文16年

9月

田原城の戦い 。今川軍の攻撃により田原城が落城。戸田康光父子が討死 16

今川、戸田

田原戸田氏本家が滅亡。田原城は今川氏の直轄拠点となる。

1548年

天文17年

3月

第二次小豆坂の戦い。今川・松平連合軍が織田軍に勝利 1

今川、松平、織田

今川氏の西三河における優位が確立される。

1549年

天文18年

3月

松平広忠が岡崎城にて急死 20

松平

岡崎城は今川氏の城代が管理する事実上の直轄地となる。

1549年

天文18年

11月

安祥城の戦い。今川軍が織田方の安祥城を攻略し、織田信広を捕縛 12

今川、織田

人質交換のカードを手に入れ、竹千代奪還の道が開かれる。

1549年

天文18年

11月

人質交換成立 。竹千代が織田方から今川方へ引き渡され、駿府へ移送される 9

今川、織田、松平

2年にわたる「竹千代争奪戦」が終結。竹千代は今川氏の庇護下に入る。


第二章:今川義元の怒り ― 田原城への進軍

竹千代が織田信秀の手に渡ったという報告は、駿府の今川義元を激怒させた。これは単に人質奪還に失敗したという戦術的な失態ではない。今川氏の権威に対する公然たる挑戦であり、三河支配の根幹を揺るがす重大な裏切りであった。義元にとって、この背信行為を放置することは、他の三河国人衆に動揺を与え、織田方への離反を誘発しかねない危険な前例を作ることであった。迅速かつ苛烈な懲罰が不可欠であった。

義元、討伐を決断:駿府からの指令

義元の決断は早かった。直ちに田原戸田氏の討伐命令が下される。その指令は、駿府から直接軍を派遣するのではなく、対三河政策の最前線基地である吉田城(旧今橋城)に伝えられた 15 。これは、この戦いが今川家の総力を挙げて臨む大規模な戦役ではなく、あくまで支配下にある国人の裏切りに対する、迅速な「懲罰」という性格を持っていたことを示唆している。

今川軍の編成と指揮官

討伐軍の総大将は、義元本人や軍師・太原雪斎ではなかった。吉田城の城代であった天野景貫がその任に当たった可能性が極めて高い 15 。天野氏は遠江国を本拠とする国人で、景貫は戸田康光討伐の功績により今川義元から感状を与えられた記録が残る、歴戦の将である 27 。軍勢は、吉田城に駐留する今川の直属部隊を中核とし、周辺の今川方に属する国人衆を動員した、数千人規模の軍であったと推定される。彼らは地の利にも明るく、戸田氏の戦力を熟知していたはずである。

田原城の防衛体制と戸田方の覚悟

一方、田原城では、城主・戸田康光とその子・尭光を中心に、一族郎党が籠城の準備を固めていた 18 。彼らは自らの行動が招く結果を覚悟していたに違いない。今川の大軍が押し寄せることは時間の問題であった。彼らにとって唯一の希望は、内通した織田信秀からの援軍であった。しかし、田原城は織田の勢力圏である尾張から地理的に遠く、また今川方の勢力圏を突破して大規模な援軍を送ることは極めて困難であった。仮に援軍が送られたとしても、それは小規模なものに留まり、今川の討伐軍を撃退するほどの力にはなり得なかったであろう。戸田氏は事実上、孤立無援の状態で、今川の圧倒的な軍事力を迎え撃つことになったのである。城内には、一族の存亡を賭けた悲壮な覚悟が満ちていたに違いない。

第三章:籠城戦のリアルタイム再現 ― 天文十六年九月、田原城の攻防

天文16年(1547年)9月、天野景貫率いる今川の討伐軍は吉田城を出立し、田原城へと進軍を開始した。これは、旧来の独立性の高い国人領主の防衛戦術と、戦国大名の組織的かつ圧倒的な殲滅戦術が正面から衝突する戦いの始まりであった。

開戦前夜(九月初頭と推定)

今川軍は田原城下に到着すると、速やかに城を包囲する陣を敷いた。陸路の主要な街道を封鎖し、城を完全に孤立させる。城の物見櫓からは、眼下に広がる今川勢の夥しい数の旗指物が見えたであろう。城内では、寄せ手の威容を目の当たりにした城兵たちの間に動揺が走る。戸田康光・尭光父子は一族の主だった者たちを集め、最後の軍議を開く。援軍の期待が薄い中、彼らに残された選択肢は、城を枕に討死にする覚悟で徹底抗戦するか、降伏して一族の赦免を乞うかの二つであった。しかし、主君の嫡子を敵に売り渡した大罪人が、降伏して許されるはずもなかった。彼らの道は、籠城戦の末の玉砕以外には残されていなかった。

攻城開始 ― 陸からの猛攻

数日の包囲の後、今川軍による総攻撃の火蓋が切られた。鬨の声が大地を揺るがし、無数の矢が雨のように城内へ降り注ぐ。攻撃の主目標は、城の正面である大手門と、背後の搦手門であった。当時の城は土塁と空堀を主体とした構造であり 6 、今川の兵たちは堀を埋め、土塁を駆け上がり、城壁に取り付こうと殺到する。城兵も必死に応戦し、石や熱湯を浴びせ、弓や数少ない鉄砲で抵抗する。城の周辺では、両軍の兵士が入り乱れての激しい白兵戦が繰り広げられた。

海からの圧力 ― 海城の弱点

この戦いの趨勢を決定づけたのは、田原城が海城であったという、その特性そのものであった。戸田氏にとって力の源泉であった海は、この時、彼らを絶望の淵に突き落とす弱点と化した。今川方は自家の水軍、あるいは協力関係にあった水軍衆を動員し、田原城の沖合を完全に封鎖したのである。これにより、戸田氏の生命線であった海からの補給路は断たれ、万が一の際の海上脱出の望みも絶たれた 4 。陸と海からの完全な包囲網は、城内の兵士たちの士気を著しく低下させた。国人レベルの局地的な防衛戦術では、このような陸海共同の立体的な作戦には到底対応できなかった。これは、異なる時代の戦争哲学の衝突であり、戸田氏の滅亡が必然であったことを示している。

絶望的な消耗戦 ― 水の手と兵糧

籠城戦において、戦闘の勝敗を左右するのは兵糧と水の確保である。今川軍は力攻めと並行して、城の兵站を断つための兵糧攻めも行っていたはずである。特に重要だったのが「水の手」、すなわち城内の水源の確保であった。戦国時代の攻城戦では、金堀衆(鉱山技術者)を使い、城外からトンネルを掘って城内の井戸を破壊したり、水源を枯渇させたりする戦術が用いられることがあった 29 。田原城においても、同様の戦術が取られた可能性は否定できない。数日にわたる攻防の末、城内の矢は尽き、兵は昼夜を分かたぬ戦闘で疲弊し、食料と水も底をつき始める。士気は日に日に低下し、城内は絶望的な雰囲気に包まれていった。

総攻撃と本丸陥落(天文16年9月5日)

『常光寺王代記並年代記』によれば、田原城の落城は天文16年9月5日とされている 24 。この日、今川軍による最後の総攻撃が開始された。城兵の抵抗ももはや限界であった。大手門が破られ、今川の兵たちが雪崩を打って城内へとなだれ込む。二の丸、三の丸は次々と突破され、戦闘は城の中枢部へと移っていく。城の各所から火の手が上がり、黒煙が空を覆う。燃え盛る櫓を背景に、両軍の兵士たちが最後の死闘を繰り広げる。その様は、まさに地獄絵図であったろう。

第四章:落城、そして戸田一族の終焉

本丸に追い詰められた戸田一族の抵抗も、時間の問題であった。圧倒的な兵力差と絶望的な状況の中、彼らは武士としての最後の意地を見せた。

城主父子の最期

本丸での最後の戦闘は熾烈を極めた。城主・戸田康光と嫡男・尭光は、自ら太刀を振るい、押し寄せる今川の兵を相手に奮戦したと伝えられる 15 。しかし、衆寡敵せず、ついに力尽きる。康光・尭光父子は、燃え盛る本丸で討ち死にしたとも、あるいは一族の滅亡を悟り自刃して果てたとも言われる 16 。いずれにせよ、彼らの死をもって田原城は完全に陥落し、半世紀以上にわたる戸田氏の支配は終わりを告げた。

田原戸田氏本家の滅亡

城の陥落後、今川軍による徹底的な残党狩りが行われた。この戦いで康光・尭光をはじめ、城に籠った戸田一族のほとんどが討ち死にし、渥美半島に一大勢力を築き上げた田原戸田氏の本家は、ここに滅亡した 17 。ただし、戸田氏の全てが根絶やしにされたわけではなかった。例えば、豊橋の二連木城を拠点とする分家は、本家とは一線を画し今川方に与していたため、存続を許されている 18 。これは、今川氏の攻撃が、あくまで裏切り者である田原城の戸田康光一派に限定された「懲罰」であったことを示している。

生き残った者たちの流転

戦火を生き延びた一族もいた。城を脱出した者や、他家に仕えていたことで難を逃れた者たちである。例えば、康光の一族とされる戸田光忠は城を脱出し、諸国を放浪した後に徳川家康に仕えた 30 。その孫である戸田尊次は、関ヶ原の戦いの後に田原1万石の大名として旧領への復帰を果たしている 19 。彼らの存在は、一度は滅びたかに見えた戸田氏の血脈が、新たな主君の下で再興していく未来を暗示していた。

終章:戦後の東三河と歴史的意義

田原城の戦いは、単に一つの城が落ち、一つの豪族が滅んだというだけの出来事ではない。それは東三河の勢力図を塗り替え、後の徳川家康の人生にも深い影響を与えた、戦国史における重要な転換点であった。

今川氏による東三河支配の確立

田原城の落城後、今川義元はこの地を戸田氏のような在地国人には任せず、今川家の直轄拠点として組み込んだ。城代として、伊東祐時、天野景貫、朝比奈肥後守、岡部石見守といった、駿河以来の譜代の重臣たちが次々と送り込まれた 7 。これは、今川氏が東三河を単なる従属地域としてではなく、本国である駿河・遠江と同様の直轄領として統治しようとした明確な意思の表れである。独立性の高い国人を武力で排除し、中央から派遣した官僚(城代)によって直接支配するこの統治システムは、戦国大名としての今川氏の先進性を示すものであった。

歴史の皮肉 ― 1549年の逆転劇

田原城を失い、竹千代まで織田方に奪われた松平・今川方であったが、歴史は皮肉な逆転劇を用意していた。天文18年(1549年)、安祥城の戦いで織田信広を捕縛したことにより、竹千代との人質交換が実現する 9 。結果として、田原城の戦いという大きな犠牲と回り道を経て、竹千代は今川氏の庇護下に入ることになった。この駿府での人質時代が、後の徳川家康の人格形成に大きな影響を与えたことは言うまでもない。

桶狭間の戦い、そして徳川の時代へ

今川氏による三河支配は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、急速に瓦解する。義元という絶対的な中心を失った今川の支配体制は、驚くほど脆かった。田原城に派遣されていた城代たちも、後ろ盾を失い、地元に深く根を張っているわけでもないため、次々と城を放棄して本国へ引き上げていった。

この好機を逃さず独立を果たした徳川家康は、三河統一へと邁進する。そして永禄8年(1565年)頃には田原城も攻略し、重臣の本多広孝を城代として配置した 7 。かつて戸田氏が支配した海運の拠点は、今や徳川氏の東三河支配を支える重要な拠点となったのである。

結論:田原城の戦いが戦国史に与えた影響

田原城の戦いは、短期的には、今川氏による東三河支配を決定づけ、海洋豪族・戸田氏を滅亡させた戦いであった。しかし、その歴史的意義はより深いところにある。

第一に、この戦いは竹千代、すなわち徳川家康の運命を大きく左右し、彼の少年期を織田・今川という二大国の下で過ごさせる直接的な原因を作った。第二に、今川氏が戸田氏のような独立国人を排除し、中央集権的な直轄支配を進めたことは、皮肉にもその体制が崩壊した後、家康による三河統一を容易にする土壌を作った。もし戸田氏のような在地領主が巧みに懐柔され生き残っていれば、家康の三河平定はさらに多くの困難を伴ったであろう。

今川氏の「合理的支配」は、当主である義元個人のカリスマと軍事力に大きく依存していた。その強みは、トップを失った瞬間に、支配体制の脆弱性を露呈するアキレス腱へと転化したのである。田原城の戦いは、その先進的な支配体制が確立された象徴的な戦いであると同時に、将来の崩壊の遠因ともなった、極めて重要な歴史的事件であったと結論づけられる。

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