由宇・神代湾の海戦(1566)
永禄十二年、九州で毛利元就と対峙する大友宗麟は、毛利を撤退させるべく大内輝弘を周防へ上陸させる奇策を敢行。若林鎮興率いる大友水軍は毛利水軍の警戒網を突破し、輝弘を秋穂浦に上陸させた。この奇襲は毛利元就を九州から撤退させ、大友宗麟の戦略的勝利となったが、輝弘は毛利の反撃で滅亡した。
周防沖の攻防:大内輝弘の乱に見る毛利・大友の制海権闘争
序章:永禄九年(1566年)の戦略地図 ― 西国二強、激突への序曲
第一節:中国の覇者、毛利元就の野望
永禄九年(1566年)、安芸国の戦国大名・毛利元就は、長年の宿敵であった出雲国の尼子義久を月山富田城に降伏させ、中国地方のほぼ全域をその手中に収めた 1 。この勝利は、毛利氏の勢力が頂点に達したことを天下に示すものであり、元就の嫡孫・輝元の初陣を飾る記念碑的な戦いでもあった 2 。これにより後顧の憂いを断った元就は、その視線を次なる目標、すなわち関門海峡の対岸に広がる九州北部へと向けた。大内氏の旧領を完全に併合し、九州の覇権を確立することこそ、元就に残された最後の野望であった 3 。
この中国統一事業の成功は、単なる陸上戦力の結果ではなかった。その根底には、日本海と瀬戸内海という二つの海を巧みに利用する、元就の卓越した「陸海一体」の戦略思想が存在した。尼子氏との最終決戦において、毛利軍は陸路から月山富田城を包囲するだけでなく、日本海側からは奈佐日本之介ら隠岐水軍を味方に引き入れて海上からの補給路を遮断し 4 、瀬戸内海側では小早川隆景が率いる水軍が兵站線を盤石に支えていた 5 。陸戦と海戦、兵站と戦闘を有機的に結合させるこの戦略こそが毛利氏の強さの源泉であり、来るべき九州侵攻においても、水軍がその作戦の中核を担うことは必然であった。
第二節:九州の王者、大友宗麟の挑戦
毛利氏が中国地方で覇権を確立していた頃、九州では豊後国を本拠とする大友宗麟(義鎮)が、キリスト教の保護や南蛮貿易によって得た莫大な富を背景に、九州六ヶ国を支配下に置く強大な勢力を築いていた 6 。毛利氏が弘治三年(1557年)の防長経略によって大内領を併合して以降 8 、両者の勢力圏は関門海峡を挟んで直接的に接触し、門司城の領有などを巡って一進一退の攻防を繰り返していた 9 。永禄年間は、西日本におけるこの二大勢力の緊張が最高潮に達した時期であった。
大友宗麟の強みは、その経済力や軍事力に留まらなかった。彼は、毛利氏によって滅ぼされた大内氏や尼子氏の残党を政治的なカードとして保護し、巧みに活用する高度な外交戦略を展開していた。大内氏の血を引く大内輝弘を庇護下に置き 7 、また京で再起を図る尼子勝久や山中幸盛ら尼子再興軍にも支援の手を差し伸べることで 3 、宗麟はいつでも毛利領内に「内乱の火種」を送り込むことができる非対称的な戦略的優位性を保持していた。これは、毛利氏が対外作戦である九州侵攻を行うにあたり、常に自領内の反乱というリスクを背負い続けなければならないことを意味し、その軍事行動に大きな足枷をはめるものであった。旧領主への忠誠心を捨てきれない遺臣たちの存在を突くこの政略は、貿易によって富を築いた宗麟らしい、計算高い戦略であったと言える。
第三節:両雄の水軍 ― 瀬戸内の支配者は誰か
この西国二強の対立において、勝敗の鍵を握っていたのが水軍戦力、すなわち瀬戸内海の制海権であった。
毛利水軍は、単一の組織ではなく、多様な出自を持つ海賊衆・警固衆の連合体であった。その中核を成したのは、毛利氏一門である小早川隆景が率いる小早川水軍と、厳島の戦いを機に毛利方に加わった能島・因島・来島の村上三家、すなわち日本最強と謳われた村上水軍であった 4 。さらに、防長経略後には、旧大内氏配下であった周防・長門の在地水軍(屋代島衆、玖珂郡警固衆など)をも組織に組み込み、その規模と実力は他の追随を許さない、巨大な海上戦力となっていた 4 。
一方、大友水軍の中核を担っていたのは、豊後水道の要衝・佐賀関を本拠とする若林鎮興と彼が率いる一尺屋衆(いっしゃくやしゅう)であった 12 。彼らは古代以来の海部の伝統を受け継ぐ海の領主であり、自立性の高い集団であったが、大友氏の重要な海上戦力として数々の戦いに参加していた 15 。その規模は毛利水軍に及ばないものの、複雑な潮流が渦巻く豊後水道を知り尽くした彼らの操船技術と機動力は、極めて高い評価を得ていた。
比較項目 |
毛利水軍 |
大友水軍 |
総大将格 |
小早川隆景 |
(特定の大将は不在、作戦毎に任命) |
中核戦力 |
村上水軍三家、小早川水軍 |
若林鎮興と一尺屋衆 |
構成要素 |
安芸・周防・長門・伊予の国人・海賊衆の連合体 |
豊後の在地水軍衆が中心 |
想定規模 |
数百隻規模(最大時) |
数十隻~百隻規模 |
得意戦術 |
大船団による海上封鎖、焙烙火矢を用いた殲滅戦 |
潮流を熟知した機動戦、奇襲上陸作戦 |
拠点 |
瀬戸内海一円 |
豊後水道・佐賀関 |
この両者の水軍力の構造的な違いは、後の戦いの様相を決定づけることになる。毛利水軍が広範な動員力と圧倒的な物量を誇る一方、その連合体という性質上、意思決定や展開には一定の時間を要した。対照的に、大友水軍は規模こそ小さいものの、若林氏のような中核部隊の高い練度と忠誠心に支えられ、奇襲作戦において迅速かつ機動的に行動することが可能であった。
第一章:戦いの火種 ― 北九州を巡る膠着と大友の奇策
第一節:多々良浜の対峙
永禄十一年(1568年)、毛利元就は満を持して九州への大攻勢を開始した。次男・吉川元春と三男・小早川隆景を総大将とする数万の大軍を筑前国へ派遣し、大友方の重要拠点である立花山城などを包囲した 3 。翌永禄十二年(1569年)には元就自身も吉田郡山城を出陣し、長門国長府に本陣を構えて、全軍の指揮を執った 3 。
これに対し、大友方も名将・戸次鑑連(後の立花道雪)を中心に頑強な抵抗を見せ、両軍は博多近郊の多々良浜などで激しく衝突した 7 。毛利軍の猛攻にもかかわらず、大友軍は決定的な敗北を喫することなく戦線を維持し、戦いは長期にわたる膠着状態に陥った。この状況は、毛利にとって兵站の維持という観点から大きな負担となり、大友方にとっては次なる一手、すなわち盤外戦術を講じる好機をもたらした。
第二節:吉岡長増の献策と大内輝弘
この膠着状態を打破すべく、大友宗麟の懐刀として知られた軍師・吉岡長増(宗歓)が一つの奇策を献策する。それは、毛利軍の主力が九州に釘付けになっている隙を突き、その本拠地である周防・長門を直接攻撃し、後方を攪乱するというものであった 7 。
この作戦の実行役として白羽の矢が立ったのが、大友氏を頼って豊後国で不遇の日々を送っていた大内氏の末裔、大内輝弘であった 7 。輝弘は、かつて西国一の栄華を誇った大内政弘の孫にあたる人物であり、大内氏の正統な血を引く者として、旧臣たちの間に依然として影響力を保持していた 10 。父・高弘が家督争いに敗れて豊後に亡命して以来、輝弘自身も苦難の道を歩んできたが、大友宗麟の支援を得て、大内家再興という悲願を成就させる千載一遇の好機として、この危険な作戦にその身を投じることを決意した。
この大友宗麟の決定は、極めて冷徹な戦略的計算に基づいていた。作戦が成功し、輝弘が周防・長門で勢力を盛り返せば、毛利元就は九州から軍を撤退させざるを得なくなる。仮に作戦が失敗し、輝弘が討ち死にしたとしても、大友方の損害は輝弘に与えられた一部の兵力と大内遺臣に限られ、九州の主戦線を担う大友本軍の戦力は温存される。輝弘の「大内家再興」という個人的な夢は、宗麟の「毛利軍を九州から撤退させる」という、より大きな戦略目標を達成するための、いわば「捨て駒」に過ぎなかったのである 18 。
第三節:二正面作戦の展開
大友方が仕掛けた後方攪乱は、輝弘の周防侵攻計画だけではなかった。それに先立つ永禄十二年六月、山中幸盛(鹿介)らに率いられた尼子再興軍が、織田信長の黙認と支援のもと、毛利氏の支配が手薄になっていた出雲国へ侵攻を開始していたのである 3 。
輝弘の周防侵攻と、尼子再興軍の出雲侵攻は、単なる偶然の一致ではなかった。史料には、輝弘の挙兵が尼子再興軍の動きに「呼応して」行われたと記されており 19 、これら二つの軍事行動が、大友氏の描いた大戦略のもとで連動していた可能性は極めて高い。これにより、毛利氏は「南」の九州戦線、「西」の周防・長門、そして「北」の出雲という、三つの戦線で同時に敵に対応せざるを得ないという、絶体絶命の戦略的苦境に追い込まれた。この大友氏による巧妙な「対毛利包囲網」の形成こそが、この一連の戦いの本質であった。
第二章:出撃 ― 大友水軍、豊後の海より
第一節:作戦の成否を握る男、若林鎮興
大内輝弘を敵地である周防国へ送り届けるという、この極めて危険な渡海作戦。その護衛部隊である大友水軍の指揮官に任命されたのが、一尺屋衆を率いる若林鎮興であった 13 。彼は主君である大友宗麟(義鎮)から「鎮」の一字を与えられるほど深く信頼された猛将であり、この作戦の成否は、文字通り彼の手腕一つにかかっていた。
若林氏の本拠地である一尺屋は、豊後水道の複雑な潮流が渦巻く佐賀関半島の南岸に位置する 12 。この海を知り尽くした海のスペシャリスト集団を率いる鎮興こそ、毛利の強大な水軍が警戒網を敷く周防灘を突破し、奇襲上陸を成功させるための唯一無二の適任者であった。
第二節:豊後・木付ノ浦からの船出
永禄十二年(1569年)十月、作戦の準備は整った。大内輝弘と、彼に与えられた豊前の国人衆などからなる兵(総勢は二千とも言われる)は、若林鎮興率いる大友水軍の船団に乗り込み、豊後国の木付ノ浦(現在の杵築市)から周防の海へと船出した 20 。
彼らの航路は、豊後水道を北上し、周防灘を横断して周防国南岸を目指すというものであった。この海域は、毛利方の村上水軍や周防の在地水軍が日常的に活動する、まさに敵の中心勢力圏であり、航海の危険は計り知れない。作戦決行が十月に設定されたことには、軍事的な奇襲効果に加え、気象的な計算があった可能性も指摘できる。秋は台風シーズンが終わり、瀬戸内海の海象が比較的安定する時期である。また、冬の厳しい北西の季節風が本格化する前であり、豊後から周防への航海には好条件が揃っていた。夜が長くなるこの時期は、夜陰に紛れた隠密行動にも適しており、大友方は天候という自然条件すらも味方につけようとしていたのである。
第三節:周防灘の前哨戦
輝弘の本隊が上陸するに先立ち、同年七月と八月には、大友水軍による威力偵察が実施されていた記録が残っている 19 。これは、毛利方の沿岸警備体制を探り、最も手薄で上陸に適した地点を選定するための、周到な事前準備であったことを物語っている。
そして、この渡海作戦の過程で、小規模ながらも重要な海戦が発生した。『若林文書』などの記録によれば、若林鎮興は周防の「合尾浦(あいおうら)」において毛利方の水軍部隊と交戦し、敵船一艘を拿捕、数十人を討ち取るという明確な戦果を挙げている 13 。この「合尾浦の海戦」こそ、利用者様が探されていた「由宇・神代湾の海戦」の原型、あるいはその戦闘そのものである可能性が極めて高い。これは艦隊同士が激突するような大規模な海戦ではなく、上陸船団を護衛する大友水軍の先遣隊と、それを阻止しようとする毛利方の沿岸警備部隊との間で発生した、局地的ではあるが熾烈な前哨戦であった。
この前哨戦における若林鎮興の勝利は、単なる戦術的な成功以上の戦略的な意味を持っていた。この勝利によって、毛利方の沿岸警備網に混乱と動揺が生じ、その注意が合尾浦方面に引きつけられた。これが、輝弘の本隊が主目標である秋穂浦へ、大きな抵抗を受けることなく接近・上陸するための決定的な「露払い」となったのである。この小さな海戦の勝利なくして、その後の大規模な上陸作戦の成功はあり得なかったであろう。
第三章:秋穂浦の海戦 ― 上陸作戦のリアルタイム再現
利用者様の「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」というご要望に応えるべく、断片的な史料を再構成し、永禄十二年十月十一日から始まる一連の上陸作戦の推移を以下に再現する。
日付・時刻(推定) |
大友方(輝弘軍・水軍)の行動 |
毛利方の行動 |
場所 |
備考 |
10月11日 未明 |
若林鎮興率いる船団、夜陰に乗じて目標海域に到達。上陸準備を開始。 |
沿岸監視所は船団の接近を完全には察知できず。警備は手薄な状態。 |
周防国吉敷郡 秋穂浦沖 |
前哨戦での陽動が成功し、奇襲の条件が整う。 |
10月11日 夜明け~午前 |
上陸作戦開始。先遣隊が秋穂浦・白松海岸に上陸。水軍が海上から援護射撃。 |
在地の警固衆が散発的に抵抗するも、大軍の前に後退を余儀なくされる。 |
秋穂浦・白松海岸 |
毛利軍主力が九州に出征中のため、初動対応が遅れる。 |
10月11日 昼~午後 |
輝弘本隊の上陸完了。海岸に橋頭堡を確保。「大内氏帰還」の報を周辺に流す。 |
各地の守備隊が狼煙などで急を知らせるが、情報の錯綜により組織的抵抗に至らず。 |
秋穂浦周辺 |
旧大内領の在地領主たちの動揺が始まる。 |
10月11日 夕刻~夜 |
周辺に潜伏していた大内旧臣たちが続々と輝弘の旗下に参集。軍勢が急激に膨れ上がる。 |
山口の守備隊が防衛準備を急ぐ。高嶺城では籠城の準備が始まる。 |
秋穂・岐波・白松・藤曲 |
上陸時の数千の兵が、一夜にして六千に達したとされる 19 。 |
10月12日 午前 |
膨れ上がった軍勢を率い、陶峠を越えて山口への進軍を開始。 |
山口町奉行・井上就貞らが平野口で迎撃を試みる。 |
陶峠、平野口 |
輝弘軍の勢いは毛利方の予想をはるかに上回っていた。 |
10月12日 昼 |
糸根峠で井上就貞の部隊と激突。激戦の末にこれを撃破し、井上就貞は戦死。 |
迎撃部隊が壊滅。山口市中への侵入を許す。 |
糸根峠 |
山口の防衛線が突破される。 |
10月12日 午後 |
山口市中に突入。旧大内氏館跡の築山館や龍福寺を本営とし、高嶺城の攻略を開始。 |
市川経好の妻が指揮を執り、高嶺城で徹底抗戦。赤間関の元就へ急使が送られる。 |
山口市街、高嶺城 |
作戦は第二段階、山口の完全制圧へと移行する。 |
この一連の動きは、大友方の周到な計画と、若林鎮興率いる水軍の卓越した能力、そして毛利支配に対する旧大内領の潜在的な不満が見事に結合した結果であった。特に、上陸からわずか一日で山口市中を制圧したその速度は、電撃的と評するにふさわしく、毛利方の対応を完全に後手に回らせることに成功したのである。
第四章:山口電撃侵攻と毛利方の狼狽
第一節:高嶺城の攻防と女傑
山口市中を制圧した大内輝弘軍の次の目標は、山口盆地を見下ろす要害、高嶺城であった。この城を落とさなければ、山口の支配を確立することはできない。しかし、城主である市川経好は毛利軍の主力と共に九州へ出陣中であり、城内に残された兵力はわずかであった 19 。
輝弘軍の猛攻が開始される中、この絶体絶命の城を守り抜いたのは、経好の妻・市川局であった。彼女は自ら甲冑を身にまとい、薙刀を振るって城兵の先頭に立ち、その士気を鼓舞したと伝えられる 19 。在郷の武士たちも彼女の檄に応じて次々と入城し、一体となって輝弘軍の波状攻撃を何度も撃退した。彼女の獅子奮迅の働きにより、高嶺城は毛利本隊が到着するまでの貴重な時間を稼ぎ出すことに成功したのである。
この市川局の奮戦は、単なる個人の武勇伝として語られるべきではない。それは、毛利氏の支配体制が、方面軍の司令官クラスの家族に至るまで、主君への強い忠誠心と、自らの持ち場を守り抜くという強烈な責任感によって支えられていたことを示す象徴的な出来事であった。大内旧臣たちが旧主の血統という情緒的な理由で輝弘に靡いていったのとは対照的に、毛利の直臣層は、たとえ主君不在の危機的状況下であっても、組織として規律を保ち、機能し続けた。この組織的な強靭さこそが、毛利氏がこの未曾有の国難を乗り越えることができた、本質的な要因の一つであった。
第二節:赤間関への急報と元就の決断
十月十三日、九州攻略の指揮を執るため長門国赤間関(現在の下関市)に本陣を置いていた毛利元就の下に、輝弘による山口侵入という驚愕の報がもたらされた 19 。
本拠地が敵の手に落ちたという報告を受け、元就の周囲は動揺に包まれた。しかし、老練な戦略家である元就の決断は、迅速かつ冷徹であった。彼は、目前に迫っていた九州での勝利を潔く放棄し、全軍の即時撤退を命令したのである 7 。本拠地である周防・長門を失っては、九州でいくら勝利を重ねても意味をなさない。元就は、この危機の本質が、九州の戦線ではなく、自らの足元にあることを見抜いていた。この即断即決こそが、毛利氏を滅亡の淵から救うことになる。
第五章:毛利の逆襲と輝弘の最期
第一節:吉川元春、疾風の進軍
元就の命令一下、毛利軍は十月十五日から九州からの撤退を開始した。そして元就は、迎撃部隊の指揮官として、毛利家最強の猛将と謳われた次男・吉川元春を指名し、選りすぐりの精鋭一万の兵を授けて山口へと急行させた 5 。
元春率いる軍団の進軍速度は、凄まじいの一言に尽きた。彼らは道中で輝弘に味方した勢力を容赦なく討伐しながら、疾風の如く山口に迫った 18 。毛利本隊の、それも最強の吉川元春が迫り来るという報は、山口で高嶺城攻めにてこずっていた輝弘軍の士気を根底から打ち砕いた 5 。
第二節:断たれた退路 ― 海からの脱出失敗
吉川元春の接近を知った輝弘は、山口での抵抗を断念し、再び海路によって豊後へ脱出するため、上陸地点であった秋穂から三田尻(現在の防府市)方面へと撤退を開始した 23 。彼らを迎えに来るはずの大友水軍の船を求めての行動であった。
しかし、海岸にたどり着いた輝弘の目の前に、味方の船影はどこにもなかった。毛利本隊の帰還という報を得た若林鎮興は、作戦の主目的である「毛利軍の九州からの撤退」が達成されたと判断し、輝弘軍を待つことなく、既に豊後へと引き揚げていたのである 18 。輝弘は、彼をこの地に導いた大友氏によって、完全に見捨てられたのであった。
さらに、輝弘の退路を断ったのは、大友方の離脱だけではなかった。九州から撤退した毛利軍の中には、小早川隆景が率いる水軍本隊も含まれていた。彼らは関門海峡を抜けると直ちに周防灘へと展開し、輝弘軍の海上脱出路を完全に封鎖していた可能性が高い。陸からは吉川元春の追撃軍が迫り、海からは毛利水軍が蓋をする。輝弘は、まさに袋の鼠となったのである。
第三節:茶臼山の悲劇
全ての望みを断たれた大内輝弘は、残った手勢を率いて最後の抵抗を試みるも、十月二十五日、佐波郡富海の茶臼山(現在の防府市富海)において、吉川元春の軍勢に完全に包囲された。もはやこれまでと覚悟を決めた輝弘は、我が子・武弘と共に自刃して果てた 10 。大内家再興という、あまりにも儚い夢は、周防の地に上陸してからわずか半月で、悲劇的な結末を迎えたのであった。
終章:戦いがもたらしたもの ― 戦略的勝者と歴史的意義
第一節:誰が本当の勝者だったのか
この「大内輝弘の乱」と、それに付随する一連の海戦の結果を評価する時、その勝敗は誰の視点に立つかによって大きく異なる。
- 大内輝弘: 彼の視点からは、完全な敗北であった。大内家再興の夢は潰え、大内氏の嫡流は名実ともに滅亡した 19 。彼は大友宗麟の壮大な戦略の駒として利用され、その生涯を終えた。
- 毛利元就: 戦術的な視点では、圧勝であった。突如として発生した本国の反乱を、驚くべき迅速さで鎮圧し、その支配体制の強固さを示した。しかし、戦略的な視点では、大きな代償を払わされた。目前に迫っていた九州平定という大目標は、この内乱によって頓挫を余儀なくされたのである 5 。
- 大友宗麟: 彼は、この戦いの最大の戦略的勝者であった。輝弘という一つの「駒」を失っただけで、最大の脅威であった毛利軍主力を九州から完全に撤退させることに成功した 7 。これにより、大友氏は筑前国など北九州における覇権を確立し、その後の龍造寺氏や島津氏との戦いに集中することが可能となった 25 。
第二節:瀬戸内海の制海権への影響
この戦いは、毛利氏に対して「制海権の完全な掌握」の重要性と、同時にその困難さを改めて痛感させる教訓となった。日本最強と謳われた村上水軍を擁していても、広大な海岸線の全ての地点を完璧に防衛することは不可能であり、敵の奇襲上陸を一度許せば、本拠地が直接の危機に瀕するという脆弱性を露呈した。
この苦い経験は、後の毛利氏の海上戦略に大きな影響を与えたと考えられる。天正四年(1576年)から始まる織田信長との石山合戦において、毛利水軍は木津川口で織田水軍を撃破し、石山本願寺への海上補給路を長期間にわたって維持し続けた。この大規模かつ持続的な海上作戦の遂行能力の背景には、大内輝弘の上陸を許した際の反省と、それに基づいた水軍の組織的再編、そして沿岸防衛体制の強化があったことは想像に難くない。
第三節:「由宇・神代湾の海戦」の謎
最後に、利用者様が提示された「由宇・神代湾の海戦(1566年)」という名称について考察する。本報告書で詳述した通り、この固有名詞を持つ大規模な海戦が永禄九年(1566年)に発生したという記録は、主要な一次史料からは確認できない。
この名称が生まれた背景として、いくつかの可能性が考えられる。
- 地名の混同: 上陸作戦の主目標であった「秋穂浦」や、前哨戦が行われた「合尾浦」といった地名が、後世の伝承の中で、より知名度の高い周防国玖珂郡の「由宇」などの地名と混同された可能性。
- 迎撃部隊の拠点: 輝弘の上陸に対し、周防東部から迎撃に出動した毛利方の在地水軍(玖珂郡警固衆など)の拠点が由宇や神代湾周辺であり、その部隊が関わった戦闘として「由宇の海戦」という呼称が局地的に生まれた可能性。
- 別事件との混同: 永禄年間には、毛利氏と大友氏、あるいは伊予の河野氏との間で、瀬戸内海において数多くの小競り合いが発生していた。その中の一つの局地戦の名称が、より大規模で歴史的に重要な大内輝弘の乱における海上作戦と結びつけられ、誤って伝わった可能性。
以上の考察から、「由宇・神代湾の海戦」という固有名詞の戦いは存在しない可能性が高いものの、それは永禄十二年(1569年)の「大内輝弘の乱」において、若林鎮興率いる大友水軍と毛利方の沿岸警備部隊との間で繰り広げられた一連の海上での攻防、すなわち「合尾浦の海戦」と「秋穂浦上陸作戦」を指すものと結論付けるのが、最も合理的であると考えられる。この戦いは、西国の二大勢力が制海権を巡って繰り広げた、戦国史における極めて重要な一局面であった。
引用文献
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- 「第二次月山富田城の戦い(1565~66年)」毛利元就、中国8か国の大大名へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/81
- 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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- 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
- 【エピソード22】若林鎮興―大友水軍の大将― | 国際文化学部 | 名古屋学院大学 https://www.ngu.jp/intercultural/column/episode22/
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