甲府城の戦い(1582)
天正十年、甲府城は未だ存在せず。武田氏滅亡後、甲府は織田信忠に無血占領された。本能寺の変後、甲斐は権力の空白となり、徳川・北条・上杉の三つ巴の争奪戦が繰り広げられた。
天正十年 甲斐国争乱全史:「甲府城の戦い」の真相と武田領の帰趨
序章:天正十年、甲斐国をめぐる情勢
天正10年(1582年)という年は、日本の歴史において一つの大きな転換点となりました。この年の出来事を解き明かすにあたり、まずご提示いただいた「甲府城の戦い(1582)」という表題について、歴史的文脈からの整理が必要です。結論から申し上げますと、現在、甲府の地にその威容を伝える甲府城は、武田氏が滅亡した後の天正11年(1583年)以降に、甲斐国を新たに領有した徳川家康の命によって築城が開始された城郭です 1 。したがって、1582年の時点で「甲府城」をめぐる攻防戦は存在しませんでした。
しかしながら、この問いの核心は、特定の城砦の戦いではなく、より広範な歴史的変動を指し示しているものと拝察いたします。すなわち、鎌倉時代以来の名門・甲斐武田氏の首都であった「甲府」を中心とする甲斐国全体の支配権が、誰の手に帰すのかを決定づけた、1582年の一年間にわたる連続した軍事・政治闘争の総体を指すものと解釈できます。本報告書では、この視点に基づき、武田氏の滅亡(甲州征伐)から、その遺領をめぐる徳川・北条・上杉の三つ巴の争い(天正壬午の乱)まで、甲斐国の運命を決定づけた激動の一年を、時系列に沿って詳述してまいります。
落日の武田家
天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける大敗は、戦国最強と謳われた武田騎馬軍団の神話を打ち砕き、武田家の威信に深刻な打撃を与えました 3 。しかし、これにより武田家が即座に滅亡へと向かったわけではありません。当主・武田勝頼は、父・信玄が成し得なかった上野国の攻略を果たすなど、一時は父祖以上の版図を築き上げる力量を示しました 5 。
しかし、その武運も長くは続きませんでした。越後で勃発した上杉家の内乱「御館の乱」への介入に失敗し、長年の同盟国であった相模の北条氏との甲相同盟が破綻 6 。さらに、徳川家康の猛攻に晒されていた遠江・高天神城への後詰を送ることができず、結果的に見殺しにしたことは、国衆や家臣団からの信望を大きく損なう結果を招きました 7 。西に織田信長・徳川家康、東に北条氏政という、日本屈指の勢力に三方を囲まれ、武田家は外交的にも軍事的にも完全に孤立し、滅亡への坂道を転がり始めていたのです。
新府城遷都の戦略的意図
こうした逼迫した状況下で、勝頼は一大決心をします。天正9年(1581年)、父祖三代が本拠とした躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を離れ、甲府盆地の北西、韮崎の地に新たに築いた新府城へと本拠を移したのです 6 。
この遷都は、単に防衛上の理由からだけではありませんでした。躑躅ヶ崎館が平時の居館であり、有事の際は背後の要害山城に立て籠もるという分離型の防衛体制であったのに対し、新府城は政庁機能と高度な防衛機能(丸馬出や三日月堀など)を一体化させた、当時最新の築城技術の粋を集めた城郭でした 10 。勝頼は、手狭となった古府中(甲府)に代わる新たな政治・経済の中心地「新府中」をこの地に建設し、領国経営の刷新を図ろうとしたのです 13 。これは、織田信長が岐阜、そして安土へと拠点を移し、新たな天下布武の拠点とした動きにも通じる、勝頼の革新性と広域的な国家構想の表れでした 15 。
しかし、この壮大な計画は、武田家の疲弊した財政をさらに圧迫しました。そして、城が未だ完成を見ないうちに、外交的孤立が招いた織田軍の全面侵攻という最悪の事態を迎えることになります 16 。勝頼再興の夢を託した新府城は、一度もその真価を発揮することなく、築城主自身の手によって灰燼に帰すという悲劇的な運命を辿ることになるのです。
以下に、本報告書で詳述する天正10年の一連の出来事を時系列で示します。これにより、甲斐国をめぐる情勢が、各戦線でいかに連動し、目まぐるしく変化していったかをご理解いただけるかと存じます。
日付(天正10年) |
場所・戦線 |
主要な出来事 |
関係勢力・意義 |
2月3日 |
岐阜 |
織田信忠軍、甲州征伐のため岐阜城を出陣。 |
武田領への本格侵攻開始。 |
2月16日 |
信濃・鳥居峠 |
木曽義昌軍、武田軍を破る。 |
武田方の信濃防衛線が動揺。 |
2月28日 |
駿河 |
徳川家康に通じた穴山梅雪が離反。 |
武田家重鎮の裏切り。甲斐本国が危機に。 |
3月2日 |
信濃・高遠城 |
織田信忠軍が高遠城を攻略。仁科盛信自刃。 |
武田方の最後の希望が潰え、勝頼に決断を迫る。 |
3月3日 |
甲斐・新府城 |
武田勝頼、新府城を自焼し、岩殿城へ向け逃亡。 |
武田家の事実上の首都放棄。 |
3月7日 |
甲斐・甲府 |
織田信忠、甲府(躑躅ヶ崎館)を無血占領。 |
武田氏の首都陥落。武田一族の残党狩り開始。 |
3月11日 |
甲斐・天目山 |
武田勝頼・信勝親子が自刃。武田氏滅亡。 |
鎌倉時代以来の名門・甲斐武田氏の終焉。 |
3月29日 |
諏訪 |
織田信長、論功行賞を発表。旧武田領の分割統治体制が決定。 |
河尻、滝川らが新領主となるが、これが後の混乱の火種に。 |
6月2日 |
京都・本能寺 |
本能寺の変。織田信長、自刃。 |
旧武田領に巨大な権力の空白が生まれる。 |
6月18日 |
甲斐・岩窪 |
河尻秀隆、甲斐国人一揆により殺害される。 |
甲斐国が統治者不在の無法地帯と化す。 |
6月19日 |
上野・神流川 |
滝川一益、北条氏直軍に大敗し敗走。 |
織田勢力が関東・甲信から一掃される。 |
7月9日 |
甲斐・甲府 |
徳川家康、甲府に着陣。新府城を本陣とする。 |
天正壬午の乱における徳川方の拠点確保。 |
8月7日 |
甲斐・若神子 |
北条氏直、若神子城に本陣を構え、徳川軍と対峙。 |
徳川・北条両軍の全面対決の構図が固まる。 |
8月12日 |
甲斐・黒駒 |
鳥居元忠軍、北条方の別動隊を撃破(黒駒の戦い)。 |
兵力で劣る徳川方が軍事的優位を確立する転換点。 |
10月29日 |
甲斐 |
徳川・北条間で講和が成立。 |
甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領と確定。天正壬午の乱終結。 |
第一部:甲州征伐 ― 武田王国、落日の刻
第一章:崩壊の序曲(天正10年2月)
発端:木曽義昌の離反
天正10年(1582年)の正月、新府城で新年を迎えた勝頼のもとに、衝撃的な報せがもたらされます。信玄の娘婿であり、武田一門衆という枢要な地位にあった信濃木曽谷の領主・木曽義昌が、織田信長に内通し、離反したのです 3 。これは単なる国衆の裏切りではなく、武田家の屋台骨そのものが内部から崩れ始めたことを示す、破滅的な兆候でした。激怒した勝頼は、義昌の母と嫡男を処刑し、自ら討伐軍を率いて出陣しますが、厳冬期の信濃への軍事行動は困難を極め、戦線は膠着します 6 。
三方からの侵攻
信長は、この千載一遇の好機を逃しませんでした。義昌の離反を大義名分とし、武田領への総攻撃を命令。周到に張り巡らされた包囲網が一斉に牙を剥きました。
- 織田信忠軍(木曽口・伊那方面) :総大将である嫡男・織田信忠が率いる3万の主力軍は、木曽口から信濃へ雪崩れ込みました。これに対し、南信濃の国衆たちは抵抗らしい抵抗を見せることなく、下条氏や松尾城の小笠原氏などが次々と織田方に寝返り、その進軍を手引きしました 18 。飯田城主・保科正直は戦わずして高遠城へ逃亡し、大島城を守っていた信玄の弟・武田信廉もまた城を捨てて遁走 18 。武田方の南信濃防衛線は、戦闘が行われる前に内部から瓦解していったのです。
- 徳川家康軍(駿河方面) :信長の同盟者である徳川家康は、駿河から武田領へ侵攻。ここで決定的な裏切りが起こります。武田一門の重鎮であり、駿河方面の司令官であった穴山梅雪(信君)が、かねてからの密約通り家康を通じて織田方に寝返ったのです 19 。これにより、徳川軍は瞬く間に駿河を制圧。勝頼は、本国・甲斐の南方を完全に無防備な状態で敵に明け渡すことになり、戦略的に絶望的な状況に追い込まれました。
- 北条氏政軍(関東・駿河東部方面) :織田家と攻守同盟を結んでいた北条氏政・氏直父子もこれに呼応。上野国や駿河東部に残る武田方の諸城を次々と攻略し、武田領への圧力を強めます 21 。これにより、武田家は東西南の三方を完全に敵に囲まれ、滅亡はもはや時間の問題となりました。
高遠城の攻防:仁科盛信の玉砕
織田軍の圧倒的な進撃と、相次ぐ味方の裏切りという絶望的な状況下で、ただ一箇所、武田家の意地と誇りを示したのが、勝頼の実弟・仁科盛信が守る信濃・高遠城でした 22 。
3月2日、信忠率いる織田軍本隊が高遠城を完全に包囲します。その兵力は約3万。対する高遠城の兵は、わずか500(一説には3,000)に過ぎませんでした 22 。信忠は黄金と書状を送り、降伏を勧告しますが、盛信はこれを敢然と拒絶。それどころか、勧告に訪れた使者の耳を削いで追い返すという、壮絶な覚悟を示しました 22 。
この返答に激怒した信忠は、総攻撃を命令。織田軍は城の四方から一斉に攻めかかります。兵力差は絶望的でしたが、城兵は必死の抵抗を続け、城内の女性たちまでもが薙刀を振るって戦ったと伝えられています 22 。しかし、圧倒的な物量の前に、城門は次々と破られ、織田兵は本丸へと殺到。奮戦も虚しく、盛信は自刃して果て、城兵もまた一人残らず討死、あるいは自決し、全員が玉砕するという壮絶な最期を遂げました 20 。
この高遠城の戦いは、単なる一城の陥落以上の意味を持っていました。信玄の軍師・山本勘助が縄張りしたとされる堅城・高遠城が、わずか1日で陥落したという事実は、武田家中に残されていた「籠城して織田軍の勢いを削ぐ」という最後の希望を打ち砕くのに十分でした。勝頼は当初、諏訪上原に布陣し、高遠城と連携して織田軍を防ぐ作戦を立てていましたが、穴山梅雪の裏切りによって新府城への撤退を余儀なくされていました 21 。その最後の頼みの綱であった高遠城のあまりにも早い陥落は、勝頼に致命的な決断を迫る、まさに最後の一撃となったのです。
第二章:新府城の決断と首都・甲府の陥落(天正10年3月上旬)
最後の軍議
3月2日、高遠城落城の悲報が新府城にもたらされると、城内は動揺と絶望に包まれました。兵の離散は後を絶たず、もはやこの未完成の城で織田の大軍を防ぎきることは不可能に近い状況でした 24 。勝頼は残った重臣たちを集め、最後の軍議を開きます。ここで、武田家の運命を左右する二つの進言がなされました。
- 真田昌幸の「岩櫃城退避案」 :後に稀代の知将として名を馳せる真田昌幸は、自らの本拠である上野・岩櫃城への退避を進言します 19 。岩櫃城は天然の要害であり、織田軍の主力が集中する甲斐・信濃から一旦距離を置き、上杉氏との連携も視野に入れながら再起を図るという、極めて現実的かつ戦略的な選択肢でした。
- 小山田信茂の「岩殿城退避案」 :一方、武田家譜代の重臣である小山田信茂は、自らが治める郡内領の岩殿城に勝頼を迎え入れ、徹底抗戦することを主張します 3 。岩殿城は岩山に築かれた難攻不落の城であり、ここで織田軍を迎え撃つべきだと強く進言しました 25 。
勝頼の決断と新府城炎上
相次ぐ一門衆の裏切りに、勝頼は深刻な人間不信に陥っていました。その心理状況が、彼の最後の判断を左右します。外様の国衆に過ぎない真田昌幸よりも、父祖の代から仕える譜代の重臣・小山田信茂の言葉を信じることを選びました 25 。
天正10年3月3日の早朝、勝頼は自らの手で、完成からわずか68日しか経っていない新府城に火を放ちました。近隣諸国から集められていた人質もろとも、再興の夢を託した壮麗な城は、轟音とともに燃え盛る炎に包まれます 10 。武田家が築き上げた栄華は、この一筋の煙と共に、文字通り灰燼に帰したのです。
小山田信茂の裏切り
勝頼一行は、最後の望みを託し、小山田信茂が待つ岩殿城を目指しました。しかし、甲斐と郡内領を隔てる笹子峠に差し掛かった時、信じられない光景が彼らの眼前に広がります。道を固め、一行を待ち受けていたのは、信茂が率いる鉄砲隊でした。信茂は突如として謀反を起こし、行く手を阻んだのです 3 。
この裏切りは、単なる保身と断じるには複雑な背景がありました。小山田氏は武田家臣団の中でも、郡内領という半独立的な地域を支配する国衆としての性格が強い一族でした 27 。彼にとっての第一の責務は、先祖伝来の土地と、そこに住まう領民を守ることです。もはや勝ち目のない勝頼を領内に迎え入れれば、織田の大軍による侵攻は避けられず、郡内領は焦土と化し、領民は塗炭の苦しみを味わうことになります。信茂は、主君を見捨てるという非情な決断を下すことで、織田方と領地の安泰(郡内領不犯)を交渉しようとしたと考えられます 27 。しかし、信長は「主を裏切る不忠者」を決して許さず、信茂は後に処刑されます 27 。彼は自らの命と引き換えに、結果として故郷を守ったとも言える、悲劇的な選択をしたのです。
甲府(躑躅ヶ崎館)の無血占領
勝頼が新府城を放棄し、東へ逃れたことで、武田氏の首都・甲府は完全に無防備な状態となりました。3月7日、織田信忠は何の抵抗も受けることなく甲府に入り、武田信虎、信玄、勝頼と三代にわたる本拠地であった躑躅ヶ崎館を占領しました 19 。
信忠はここで徹底した戦後処理を行います。甲斐国内に潜伏していた武田一族の捜索を命じ、信玄の弟である武田信廉(逍遥軒)や諏訪頼豊らを探し出して処刑 29 。さらに、武田信玄の菩提寺である恵林寺が武田の残党を匿ったとして、快川紹喜和尚をはじめとする僧侶百数十名を山門に閉じ込め、焼き殺すという残虐な行為にも及びました 19 。これにより、甲斐国における武田氏の支配の痕跡は、物理的にも精神的にも抹消されていったのです。
第三章:天目山の悲劇(天正10年3月11日)
最後の抵抗
最後の頼みであった小山田信茂にまで裏切られ、勝頼一行は完全に行き場を失いました。彼らが目指したのは、奇しくも武田氏の先祖がかつて自刃したと伝わる因縁の地、天目山でした。新府城を出立した際には500から600人いた供の者たちも、逃避行の過程で次々と離散し、この時にはわずか40名余りにまで減っていました 3 。
やがて一行は、織田軍の追撃部隊を率いる滝川一益の軍勢に、天目山麓の田野(たの)、鳥居畑(とりいばた)と呼ばれる地で捕捉されます 3 。もはや逃れる術はないと悟った勝頼主従は、ここで最後の戦いを挑む覚悟を固めました。
主従の最期
最期まで勝頼に付き従った家臣たちは、鬼神の如き奮戦を見せます。特に土屋昌恒の戦いぶりは凄まじく、川沿いの崖道で片手で藤蔓に掴まりながら、押し寄せる織田兵を次々と斬り伏せ、主君が自害するための時間を稼いだその姿は、「片手千人斬り」として後世に語り継がれました 3 。
家臣たちが必死に時間を稼ぐ中、勝頼は嫡男・信勝(当時16歳)の元服の儀を執り行い、武田家に伝わる家宝の鎧「楯無」を着せ、武田家の家督を譲りました 29 。そして、北条夫人(享年19)が自害した後、信勝も敵陣に斬り込んで討死。最後に残った勝頼も、群がる敵兵を相手に奮戦した後、自刃して果てました。享年37 21 。
こうして、鎌倉時代から甲斐国に覇を唱え、信玄の代に戦国最強の名をほしいままにした名門・甲斐武田氏は、天正10年3月11日、歴史の表舞台から完全に姿を消したのです。
戦後処理と新たな統治体制
3月14日、信長が滞在していた信濃・浪合の陣に、勝頼・信勝親子の首が届けられました 21 。『三河物語』によれば、信長は勝頼の首を検分し、「日本に聞こえた弓取りも、運が尽きればこのようになるか」と感慨を述べたとされています 31 。
3月21日に諏訪に到着した信長は、ここで戦勝祝いを受け、旧武田領の新たな支配体制を定める論功行賞を発表しました 21 。
- 甲斐一国 :河尻秀隆(ただし、寝返った穴山梅雪の本領は安堵)
- 上野一国と信濃二郡(佐久・小県) :滝川一益
- 信濃四郡(川中島) :森長可
- 駿河一国 :徳川家康
この領地配分により、武田氏の旧領は織田家の重臣たちによって分割統治されることになりました。しかし、この新たな統治体制は、現地の国衆や民衆の心を完全に掌握するには至らず、わずか2ヶ月後に起こる未曾有の大事件によって、根底から覆されることになるのです。
第二部:天正壬午の乱 ― 甲斐国、新たな支配者をめぐる死闘
第四章:権力の空白(天正10年6月)
本能寺の変
天正10年6月2日、天下統一を目前にした織田信長が、京都・本能寺において重臣・明智光秀の謀反により横死します 32 。この中央での激震は、統治が始まったばかりの旧武田領に瞬く間に伝播し、巨大な権力の空白を生み出しました。
織田統治体制の崩壊
信長という絶対的な権力者を失ったことで、甲信地方に配置された織田家の武将たちは、その支配の正統性と軍事的な後ろ盾を同時に喪失しました。
- 河尻秀隆の死 :甲斐国を任された河尻秀隆は、徳川家康が国人衆を扇動して甲斐を奪おうとしているのではないかと疑心暗鬼に陥り、徳川方の武将であった本多信俊を殺害するなど、強硬な手段に訴えました 35 。この行動は、ただでさえ新たな支配者に不信感を抱いていた甲斐の国人衆の怒りに火をつけ、大規模な一揆を引き起こします。秀隆は甲府からの脱出を図りますが、6月18日、一揆勢に追い詰められ、岩窪の地で討ち取られてしまいました 5 。これにより、甲斐国は再び統治者不在の無法地帯と化したのです。
- 滝川一益の敗走 :関東管領の地位を与えられ、上野国厩橋城を拠点としていた滝川一益もまた、窮地に立たされます。信長の死を知った北条氏直は、織田家との同盟を即座に破棄。5万とも言われる大軍を率いて上野へ侵攻します。一益は果敢にこれを迎撃しますが、6月19日、神流川の戦いで数の上で圧倒的に勝る北条軍に大敗を喫しました 34 。一益は命からがら本拠地の伊勢長島へと逃げ帰り、織田家が甲州征伐で得た関東・甲信の版図は、わずか3ヶ月で完全に失われました。
こうして、武田氏滅亡後に生まれた織田家の支配体制は、あまりにも脆く崩れ去りました。甲斐・信濃・上野という広大な旧武田領は、主のいない「空白地帯」となり、これを好機と見た周辺の有力大名たちによる、熾烈な領土争奪戦の舞台へと変貌します。これが「天正壬午の乱」の幕開けでした 32 。
第五章:三雄、甲斐を望む(天正10年7月~8月)
信長の死によって生じた権力の空白を埋めるべく、三人の有力大名が迅速に行動を開始しました。
- 徳川家康の甲斐進駐 :堺に滞在中、本能寺の変の報に接した家康は、有名な「伊賀越え」を経て命からがら三河に帰還します。彼は、羽柴秀吉のように明智光秀討伐に向かうよりも、目の前に広がる旧武田領の確保を最優先課題としました 32 。家康は、河尻秀隆を討った甲斐国人衆の一揆を巧みに鎮圧させると、7月2日には居城・浜松城を出陣。7月9日には自ら軍を率いて甲府へ着陣し、武田勝頼が放棄した新府城を修築して本陣としました 10 。これにより、甲斐・南信濃の掌握を既成事実化し、他勢力を牽制したのです。
- 北条氏直の南進 :神流川の戦いで織田勢力を一掃した北条氏直は、その勢いを駆って信濃へ侵攻します。7月12日、氏直率いる大軍は碓氷峠を越え、信濃の国衆たちを次々と味方に引き入れました 36 。真田昌幸もこの時点では北条方に付き、その先鋒を務めています 37 。北条軍は破竹の勢いで南下を続け、8月7日には甲斐国へ侵入。徳川軍が本陣を構える新府城の目と鼻の先である若神子(わかみこ)城に本陣を構え、徳川家康と全面的に対峙するに至りました 36 。
- 上杉景勝の北信濃介入 :越後の上杉景勝もまた、この機を逃しませんでした。信長の死を知るや、ただちに北信濃へ軍を進め、旧武田方の拠点であった海津城(松代城)などを制圧。川中島四郡をその支配下に置きました 36 。一時は南下する北条軍と千曲川を挟んで対峙しますが、大規模な戦闘には至らず、やがて停戦 36 。結果的に北条軍の甲斐方面への転進を黙認する形となりましたが、上杉の存在は常に北条軍の背後を脅かし続け、徳川との戦いに全戦力を投入することを躊躇させる重要な要因となりました。
第六章:甲斐国を賭けた決戦(天正10年8月~10月)
若神子対陣
8月に入ると、甲斐国は一触即発の緊張状態に包まれます。新府城に布陣する徳川軍約8,000に対し、若神子城の北条軍は5万とも言われる大軍であり、兵力では北条方が圧倒的に優位でした 36 。両軍は80日間にわたり、互いに堅固な陣を構えて睨み合いを続けました 36 。
黒駒の戦い
この膠着状態を打破すべく、北条方は別動隊を動かします。北条氏忠が率いる1万の軍勢を御坂峠から甲府盆地南部へ侵攻させ、新府城の徳川軍を背後から攻撃する挟撃作戦を企てたのです 36 。
しかし、家康はこの動きを事前に察知していました。8月12日、徳川方の鳥居元忠が率いるわずか2,000の兵が、この北条別動隊を迎撃します。徳川軍は、北条軍が兵力を分散させて油断している隙を突き、奇襲攻撃を敢行。不意を突かれた北条軍は混乱に陥り、大敗を喫しました。これが「黒駒の戦い」です 36 。
この一戦は、天正壬午の乱の趨勢を決定づける、極めて重要な戦いとなりました。この時点まで、甲斐・信濃の国衆の多くは、兵力で勝る北条につくべきか、徳川につくべきか、日和見の態度を決め込んでいました。しかし、黒駒の戦いで、数で劣る徳川軍が北条の精鋭部隊を鮮やかに打ち破ったという事実は、家康の卓越した軍事的能力と、徳川軍の精強さを旧武田家臣団に強烈に印象付けました。家康はこの勝利を政治的に最大限活用し、討ち取った北条兵の首500を槍先に掲げて若神子の北条本陣に向けて晒し、その武威を誇示しました 36 。この結果、それまで去就を明らかにしていなかった保科正直をはじめとする多くの旧武田家臣が、雪崩を打って徳川方へと靡いていったのです 37 。黒駒の戦いは、単なる一戦闘の勝利に留まらず、甲斐国の人心掌握を決定づけた「政治的な大勝利」であったと言えます。
補給路遮断作戦
徳川方には、地の利を知り尽くした強力な味方が加わりました。黒駒の戦いを契機に北条方から徳川方へと寝返った真田昌幸や、一貫して徳川に味方した依田信蕃といった旧武田家臣団です。彼らは、甲斐・信濃の地理を活かしたゲリラ戦を展開し、北条軍の生命線である関東からの補給路、特に碓氷峠などを次々と占拠していきました 36 。これにより、若神子に大軍を駐留させていた北条本隊は、深刻な兵糧不足の危機に陥ります。
第七章:講和と甲斐の平定
正面からの攻撃は徳川軍の堅い守りに阻まれ、背後からの奇襲は黒駒の戦いで失敗、さらに生命線である補給路まで断たれるに至り、北条氏直は軍事的に完全に手詰まり状態となりました。
時を同じくして、中央では羽柴秀吉が織田家内での主導権を確立しつつあり、その意を受けた織田信雄・信孝から、徳川・北条両氏に対して和睦の勧告が届けられます 35 。これを受け、進退窮まった北条方は和睦交渉に応じ、天正10年10月29日、両者の間で講和が成立しました 35 。
その条件は、以下の通りでした 35 。
- 甲斐・信濃両国は徳川家康の所領とする。
- 上野国は北条氏の所領とする。
- 家康の娘・督姫を北条氏直に嫁がせ、両家は同盟を結ぶ。
この講和により、徳川家康は名実ともに甲斐・信濃の新たな支配者としての地位を確立しました。彼は、武田家滅亡の原因となった裏切り者たちを処断する一方で、有能な旧武田家臣を積極的に自らの家臣団に迎え入れました。後に「徳川四天王」の一人に数えられる井伊直政に、武田の象徴であった「赤備え」の軍団を継承させたことは、家康が武田家の軍事・統治システムを高く評価し、それを巧みに自らの組織に組み込んでいったことを象徴しています 5 。
終章:甲府城の誕生と新たな時代へ
天正10年(1582年)は、甲斐国にとってまさに激動の一年でした。年の初めには戦国大名・武田氏の王国であったこの地は、わずか10ヶ月の間に、織田信長による征服、そして権力の空白をめぐる徳川・北条の死闘という、二つの大きな動乱を経験しました。
この天正壬午の乱を制し、甲斐国を完全にその手中に収めた徳川家康は、翌天正11年(1583年)、家臣の平岩親吉を城代に任命し、甲斐統治の新たな拠点として、甲府城の築城を開始させます 1 。武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館や、勝頼の夢の跡である新府城とは一線を画す、壮大な石垣と堀を持つこの近世城郭の建設は、甲斐国が武田の時代から徳川の時代へと、新たな歴史の扉を開いたことを高らかに宣言する事業でした 40 。
1582年の一連の争乱がもたらした最大の帰結は、徳川家康が広大な領土と、武田家が長年にわたり培ってきた優秀な家臣団、そして金山経営などに代表される高度な統治ノウハウという、計り知れないほどの「遺産」を相続したことでした 5 。この武田旧臣団の力は、後の小牧・長久手の戦いや小田原征伐において徳川軍の中核を担い、家康の天下取りへの道を大きく切り拓く原動力となります。
ご提示いただいた「甲府城の戦い」とは、特定の城をめぐる攻防戦ではなく、旧時代の覇者・武田氏が滅び、その遺産を継承する新時代の覇者として徳川家康が名乗りを上げるまでの、甲斐国を舞台とした壮大な権力移行の物語そのものであったのです。この激動の一年を経て、甲斐国は新たな主君のもとで再編され、やがて来る江戸時代への礎を築いていくことになります。
引用文献
- 52 甲府城 https://aizufudoki.sakura.ne.jp/shiro/koufujo.htm
- 【山梨県】甲府城の歴史 縁が深いのは織田家でも武田家でもなく、実は徳川将軍家! https://sengoku-his.com/792
- 天目山の戦い(甲州征伐)古戦場:山梨県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tenmokuzan/
- 第33話 武田信玄(その2) - 蔵人会計事務所 https://www.c-road.jp/6column/column33.html
- 滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/takedake-extinction/
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