最終更新日 2025-09-05

甲斐・要津の渡河戦(1582)

天正十年、武田勝頼は新府城を脱出するも、要津の渡河で織田軍の追撃と増水に阻まれ壊滅。これは武田氏滅亡を決定づけた悲劇的な転換点であった。

甲斐・要津の渡河戦(1582):武田家滅亡を決定づけた追撃戦のリアルタイム分析

序章:崩壊の序曲 - 天正10年、甲斐に迫る暗雲

天正10年(1582年)2月、かつて戦国最強と謳われた甲斐武田氏の領国に、滅亡の暗雲が急速に垂れ込めていた。この運命を決定づけたのは、外部からの軍事侵攻であると同時に、内部からの構造的な崩壊であった。長篠の戦い(1575年)で織田・徳川連合軍に大敗を喫して以降、武田勝頼は守勢に回ることを余儀なくされていたが、その統治体制は依然として広大な領国を維持していた 1 。しかし、その巨大な構造体は、見えざる部分で静かに蝕まれていたのである。

全ての序曲は、2月3日、信濃の国衆であり勝頼の義兄弟でもあった木曽義昌の織田信長への寝返りから始まった 2 。信長はこの機を逃さなかった。即座に武田家討伐の総動員令を発し、嫡男・織田信忠を総大将とする主力軍を信濃伊那口から、同盟者の徳川家康軍を駿河口から、北条氏政軍を関東各地から、そして家臣の金森長近軍を飛騨口から、という四面楚歌の包囲網を形成し、武田領へと一斉に進軍を開始させた 2

織田軍の進撃は、武田方の予想を遥かに超える速度で展開された。信忠軍の先鋒を務めた森長可、団忠正らは2月6日に信濃へ侵攻すると、瞬く間に飯田城、松尾城などを攻略 5 。武田方の防衛線は、組織的な抵抗を見せる間もなく寸断されていった。そして3月2日、信濃における武田氏の最重要拠点の一つであった高遠城が、わずか一日で陥落するという衝撃的な報せがもたらされる 1 。城主であり勝頼の実弟、仁科盛信は降伏勧告を拒絶し、壮絶な自刃を遂げた 6 。この報は、武田家臣団の士気に致命的な打撃を与えた。

さらに追い打ちをかけたのが、一門衆筆頭である穴山梅雪(信君)の裏切りであった 7 。彼は徳川家康に内通し、駿河口から敵軍を領内深くまで手引きしたのである。主君の親族によるこの離反は、武田家中の結束を内側から完全に破壊した。軍事的な敗北以上に、この相次ぐ裏切りこそが武田氏滅亡の主因であった。それは、勝頼の求心力の低下という側面もさることながら、織田信長の圧倒的な国力と巧みな調略が、武田という巨大な軍事・政治連合体の構造的脆弱性を白日の下に晒した結果に他ならなかった。

織田軍の電撃的な進軍速度は、武田方の国衆たちに状況を冷静に分析する心理的余裕を与えず、「武田家はもはやこれまで」という諦観を植え付けた。これにより、自領と一族の安泰を求める国衆たちが、雪崩を打って織田方へ恭順する連鎖反応が引き起こされたのである。信長の軍事行動は、物理的な制圧と同時に、敵の結束を内側から破壊する、冷徹な心理戦でもあった。

諏訪上原に布陣していた勝頼は、高遠城の落城と穴山梅雪の離反という二重の凶報を受け、2月28日、本拠地である新府城(山梨県韮崎市)への撤退を余儀なくされた 2 。しかし、頼みの新府城に集った兵も日ごとに離散し、もはや籠城戦すら不可能な、絶望的な状況に追い詰められていたのである 9

第一部:決断 - 燃え落ちる新府城

第一章:最後の軍議

新府城に追い詰められた勝頼と残された家臣団は、最後の活路を求めて軍議を開いた。議題は、この城を放棄した後の退路であった。新府城は、信濃方面からの敵襲に備え、勝頼自らが築城を命じた最新鋭の城郭であった 10 。西側を釜無川に面した七里岩の断崖に守られた天然の要害であり、完成すれば鉄壁の守りを誇ったであろう 12 。しかし、天正10年3月の時点では未だ普請の途上にあり、その防御機能は不完全であった 8 。兵が離散し続ける中、未完成の城での籠城は自滅行為に等しいと判断されたのである 9

軍議において、再起を図るための退却先として、主に二つの案が提示された 6

一つは、外様家臣でありながら知略で知られた真田昌幸が強く進言した、上野国吾妻郡の 岩櫃城 へ落ち延びる策であった 9 。岩櫃城は、四方を険しい山々に囲まれた難攻不落の要害である。そこに籠城して織田軍の追撃を凌ぎつつ、当時同盟関係にあった越後の上杉景勝からの援軍を待つという、長期的な戦略的展望に基づいた提案であった。

もう一つは、譜代家老筆頭の小山田信茂が提案した、自らの居城である甲斐国郡内の 岩殿城 (山梨県大月市)へ退く策である 6 。岩殿城もまた堅城として知られていた。まずは父祖伝来の地である甲斐国内で態勢を立て直し、反撃の機会を窺うべきだという主張であった。

勝頼の決断は、後者であった。史料『甲陽軍鑑』によれば、側近の長坂長閑らが「外様の真田殿の城は、もしもの時に心変わりも懸念されます。譜代の小山田殿を頼るべきです」と進言したとされる 18 。また、岩櫃城までの道のりは遠く、折しも浅間山が噴火するなど不吉な兆候もあり、雪深い山道を踏破することへの懸念もあった 7

この決断は、純粋な軍事合理性よりも、極限状態における人間的な心理が色濃く反映されたものであった。戦略的に見れば、敵の追撃から距離を置き、同盟勢力との連携も視野に入る真田昌幸の策の方が、生存の可能性は高かったかもしれない。しかし、勝頼は論理的な正しさよりも、父の代から仕える譜代の重臣との古くからの主従関係という、情緒的な繋がりに最後の望みを託したのである。この人間的な判断が、皮肉にも武田家の命運を尽きさせる直接的な原因となる。

第二章:祖霊への訣別

天正10年3月3日、未明。勝頼は、自らの手で新府城に火を放った 4 。黒煙は天を衝き、業火は一夜にして、完成を見ることのなかった巨城を灰燼に帰せしめた。この行為は、城を織田軍の拠点として利用させないという戦術的判断であると同時に、父祖伝来の地を捨て、自らが築こうとした新時代の象徴を葬り去るという、悲壮な訣別の儀式でもあった。

「新府」とは「新しい府中(首都)」を意味する 11 。この城は、偉大な父・信玄の時代を乗り越え、勝頼が自らの治世を確立しようとした意志の象徴であった 13 。その城を自ら燃やすという行為は、残された家臣たちに対し、「武田家はもはや領国を維持する意志も力もない」と公に宣言するに等しかった。これにより、まだ勝頼に付き従っていた者たちも、自らの家と家族を守るために離散する大義名分を得てしまった。新府城から立ち上る炎は、武田家の権威そのものが燃え尽きる狼煙となったのである。

夜陰に紛れ、勝頼は嫡男・信勝、正室の北条夫人ら一族と、わずかに残った数百の家臣団を率いて、城を後にした 19 。目指すは東、小山田信茂が待つはずの岩殿城。それは、再起をかけた行軍というよりは、滅びへと向かう悲劇的な逃避行の始まりであった。

第二部:死線 - 釜無・御勅使川の攻防

新府城を脱出した勝頼一行の前に、最初の、そして最大の物理的障害として立ちはだかったのが、甲府盆地を縦断する二つの大河、釜無川と御勅使川であった。この渡河地点における攻防こそ、本報告書の主題である「要津の渡河戦」の実態である。

第一章:地形という名の敵

釜無川と、その支流である御勅使川は、古来より甲府盆地に甚大な水害をもたらしてきた「暴れ川」として知られている 21 。特に、両河川が合流する「竜王の鼻」と呼ばれる一帯は、甲斐の三大水難所の一つに数えられるほどの急流地帯であった 24 。武田信玄が治水のために築いたとされる信玄堤の存在そのものが、この地域の治水の困難さを物語っている 23

時期は3月上旬。気候は春とはいえ、南アルプスや八ヶ岳の山々に降り積もった雪が解け始める季節である。雪解け水が大量に流れ込み、川は大幅に増水し、その流れは人の身を容易に押し流すほどの激しさであったと推定される 27 。さらに、雪解け水の水温は骨身に染みるほど低く、徒での渡河は極めて困難かつ危険な行為であった。

勝頼一行が目指す岩殿城は、釜無川の東岸に位置する。したがって、新府城から東へ向かうには、この増水した釜無川をどこかで渡らなければならなかった。そのための数少ない渡渉可能な地点、すなわち「要津(重要な渡し場)」が、彼らの生命線であり、同時に死線ともなったのである。

第二章:追撃者の貌

勝頼一行が渡河にもがく間にも、織田軍の追撃部隊は驚異的な速度でその背後に迫っていた。総大将・信忠率いる本隊は3月7日には甲府に入っており 2 、その先鋒部隊はさらに先行していたと考えられる。この追撃の中核を担ったのが、軍監・滝川一益と先鋒・森長可であった。

軍監として信忠軍に付けられた滝川一益は、単なる目付役ではなかった。彼は信忠軍団の実質的な指揮官の一人であり、信長の厚い信頼を得た歴戦の将であった 28 。一益は鉄砲の名手として知られ、その部隊運用能力は長篠の戦いでも証明済みである 29 。加えて、甲賀出身という出自からか諜報活動にも長けていたとされ、その情報収集能力は、逃走する勝頼一行の動向を正確に把握する上で絶大な効果を発揮した 30 。彼が率いた部隊は、高い機動力と情報分析能力を兼ね備えた、追撃任務に最適な精鋭であった。

一方、先鋒の森長可は、「鬼武蔵」の異名を持つ猛将であった 31 。高遠城攻めにおいても自ら先陣を切り、城壁を乗り越えて突入するほどの勇猛さを示している 31 。彼の部隊が持つ凄まじい攻撃性は、捕捉した敵を殲滅する追撃戦において、恐怖の対象となったであろう。

冷静な知将・滝川一益と、勇猛果敢な若武者・森長可。この二人の将が率いる織田軍先鋒部隊は、勝頼一行にとって、地形以上の脅威となって迫っていたのである。

第三章:要津の渡河戦

新府城を出た勝頼一行は、釜無川の右岸(西岸)沿いに南下する経路を取ったとみられる 27 。そして、東の岩殿城へ向かうため、渡河地点である「要津」に到達した。しかし、この渡河作戦は困難を極めた。

この一連の出来事は、両軍が川を挟んで陣を構え、組織的に衝突した「合戦」とは全く様相が異なる。むしろ、地理的隘路で動きが鈍った敗走集団を、機動力に優れた追撃部隊が一方的に蹂躙した「追撃殲滅戦」と呼ぶのが実態に近い。武田方に防衛線を形成する意志も能力も、もはや残されていなかった。「要津」は戦場であると同時に、武田家臣団の忠誠と運命をふるいにかける、巨大な漉し器として機能したのである。

以下に、3月3日から11日の武田家滅亡までの両軍の動きを時系列で整理する。

日付

推定時刻

場所

武田勝頼一行の動向

織田軍(信忠・一益ら)の動向

備考

3月3日

未明

新府城

勝頼、自ら城に放火し、小山田信茂の岩殿城を目指して脱出。当初の兵力は約500~600名。

信忠軍、高遠城を陥落させた後、甲斐への進軍準備を完了。

新府城の炎は、織田軍に勝頼の逃走を知らせる狼煙となった。

日中~夜

韮崎~(釜無川西岸)

釜無川西岸を南下。道中、兵の離散が相次ぐ。

先鋒部隊(森長可、滝川一益ら)が勝頼追撃の命令を受け、信濃から甲斐へ急行。

敗走の混乱と恐怖が、家臣の忠誠心を急速に蝕んでいく。

3月4日~5日

終日

釜無川「要津」周辺

増水した釜無川の渡河に難航。女性や子供も含む一行の渡渉は大幅に遅滞。

滝川一益の諜報網が勝頼一行の動向を捕捉。先鋒部隊が渡河地点へ全速力で接近。

この時間的遅滞が、追撃を成功させる決定的な要因となる。

3月5日頃

午後?

要津(釜無川渡河点)

渡河中、あるいは渡河を終え隊列が乱れているところを、織田軍先鋒に奇襲される。跡部勝資らが奮戦するも、大混乱に陥り多数の死者・離反者を出す。

森長可らの部隊が勝頼一行の後方に到達し、攻撃を開始。一方的な追撃戦となる。

組織的抵抗はほぼ皆無。勝頼は側近に守られ辛うじて対岸へ渡るも、兵力の大部分を喪失。

3月6日~9日

終日

甲府~勝沼・柏尾

わずかな手勢で東走を続け、勝沼の柏尾(大善寺)に到着。小山田信茂からの迎えを待つ。

3月7日、信忠本隊が甲府に入城。武田一門の捜索と処刑を開始 2 。一益らは追撃を継続。

小山田信茂は、要津での敗報を受け、勝頼を見限る決意を固めつつあった。

3月9日頃

-

笹子峠

小山田信茂、使者を送る一方で、岩殿城へ至る笹子峠を封鎖し、勝頼一行の行く手を阻む。

-

最後の頼みの綱であった譜代家老による、決定的な裏切り。

3月10日

終日

鶴瀬~日川渓谷

進退窮まった勝頼一行、武田家ゆかりの天目山を目指し、険しい渓谷沿いの道へ。

滝川一益の部隊が、天目山方面へ逃れた勝頼一行を包囲すべく展開。

従う者は、この時点でわずか40名余りとなっていた 19

3月11日

午前

田野

滝川一益の軍勢に完全に包囲される。土屋昌恒らが最後の抵抗を見せる。

滝川一益の部隊が田野にて勝頼一行を捕捉し、総攻撃を開始 2

天目山の戦い(田野の戦い)。

巳の刻(午前11時頃)

田野

勝頼、嫡男・信勝、北条夫人らが自害。甲斐武田氏嫡流、滅亡 19

勝頼・信勝父子の首級を確保。

織田信長が岩村に到着した日であった 33

この渡河地点での追撃成功こそ、滝川一益の最大の軍功であった。それは単に敵将を討ち取ったという戦果に留まらない。もし勝頼がこの難所を迅速に、かつ損害なく突破し岩殿城に籠っていれば、堅城を前に織田軍も攻めあぐね、小山田信茂も裏切る決断を躊躇した可能性がある。時間を稼ぐことで、北条や上杉の動向次第では、戦局が変化するわずかな可能性も残されていたかもしれない。

しかし、一益は渡河という最大の難所で勝頼一行の息の根を止め、その兵力を決定的に削ぎ、小山田信茂に「勝頼に味方することは、自領と一族の破滅に直結する」と最終的に判断させた。つまり、要津での追撃成功が、小山田の裏切りという次のドミノを倒したのである。天目山での自害という結末は、この渡河戦の時点で、事実上決定づけられていたと言っても過言ではない。

第三部:終焉への道 - 天目山への軌跡

第一章:裏切りの쐐

釜無川での壊滅的な打撃を受けながらも、勝頼一行はわずかな手勢とともに東へ逃れ、甲州街道沿いの宿場である勝沼の柏尾、現在の大善寺周辺にたどり着いた 34 。彼らはここで、最後の希望である小山田信茂からの迎えを待った。しかし、その期待は無惨に打ち砕かれる。

要津での敗報は、すでに郡内を治める小山田信茂のもとにも届いていた。勝頼に付き従う兵はもはや数十名に過ぎず、織田の大軍が甲斐国中にあふれている。この状況を冷静に分析した信茂は、主君への忠義よりも、自らの一族と領地の保全を優先する、戦国武将としてのある意味で合理的な決断を下す。彼は勝頼一行が岩殿城へ至る唯一の道である笹子峠を兵で固め、その進路を完全に封鎖したのである 15

迎えを待つ勝頼のもとに届いたのは、信茂からの入城拒絶という非情な通告であった。譜代家老からのこの決定的な裏切りは、勝頼の心を折る最後の一撃となった。この時点で、跡部勝資など最後まで付き従った重臣も討死し 37 、側近であった長坂長閑さえもその姿を消したと伝えられる 34 。もはや、勝頼に従う者は一族を含め、わずか四十数名にまで減少していた 8

小山田信茂の裏切りは、単なる個人的な不忠として片付けられるべきではない。それは、絶対的な忠誠ではなく、相互の利益に基づいて成立していた戦国大名と国衆との主従関係の限界を示す、象徴的な出来事であった。主君が領国と家臣を守る力を失ったと判断された時、家臣が自らの生き残りをかけて主君を見捨てることは、この時代の非情な掟でもあったのである。

第二章:最後の忠誠

すべての活路を断たれた勝頼一行は、先祖・武田信満が自刃したという、武田家ゆかりの寺である天目山棲雲寺を最後の死に場所と定め、日川渓谷沿いの険しい道へと分け入った 8 。しかし、その道中も滝川一益の追撃は執拗に続き、天正10年3月11日、ついに天目山山麓の田野という地で、完全に包囲されてしまう 2

この絶望的な状況下で、武田武士最後の意地と忠誠が、一閃の光芒を放つ。殿(しんがり)を務めた土屋惣蔵昌恒は、日川沿いの「片手切」と呼ばれる崖道で、片手で藤蔓に掴まりながら、もう一方の手に持った太刀で迫りくる追手を次々と斬り伏せ、谷底へ蹴落としたと伝えられる 6 。この鬼神の如き奮戦は、勝頼が自害を遂げるための貴重な時間を稼いだ。「片手千人斬り」として後世に語り継がれるこの伝説は、物理的な事実以上に、相次ぐ裏切りの中で最後まで主君に殉じた忠臣の姿を、武士の鑑として後世に伝えるための物語として昇華されたのである。

土屋昌恒らの奮戦によって得られたわずかな時間の中、勝頼は最後の覚悟を決める。包囲された陣地の中で、嫡男・信勝(当時16歳)の元服の儀を執り行い、武田家嫡流の証を継承させた。そして、巳の刻(午前11時頃)、勝頼は信勝、正室の北条夫人(当時19歳)ら一門と共に自害して果てた 10 。享年37。

「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」 4

勝頼が遺した辞世の句とされるこの歌は、滅びゆく者の無常観と、浄土への静かな願いを映し出している。こうして、源氏の名門として甲斐に君臨し、一時は天下にその名を轟かせた武田氏の嫡流は、完全にその歴史の幕を閉じたのである。

結論:甲斐武田氏、滅亡の瞬刻

天正10年(1582年)3月、甲斐武田氏が滅亡に至る過程において、「要津の渡河戦」は、単なる一連の小戦闘の一つではない。それは、武田家の運命を不可逆的に決定づけた、極めて重要な転換点であった。

本報告で詳述した通り、この出来事は組織的な「合戦」ではなく、地理的隘路で動きを封じられた敗走集団に対する、一方的な「追撃殲滅戦」であった。この追撃戦が持つ歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、 勝頼一行の再起の可能性を物理的に完全に断ち切った ことである。増水した釜無川という自然の障害は、勝頼一行の機動力を奪い、滝川一益率いる追撃部隊に捕捉される致命的な遅滞を生んだ。この結果、勝頼は兵力の大部分を失い、もはや組織的な抵抗が不可能な状態に陥った。

第二に、 最後の頼みであった小山田信茂の裏切りを誘発した ことである。要津での壊滅的打撃の報は、信茂に「勝頼に与しても未来はない」と判断させるに十分な情報であった。もし勝頼が相当数の兵を維持したまま岩殿城に到着していれば、信茂の判断も変わっていた可能性は否定できない。渡河の失敗が、最後の人間的信頼関係をも断ち切ったのである。

第三に、 織田信長の新しい戦争の形態、すなわち速度と情報を重視した電撃戦の有効性を証明した ことである。圧倒的な速度で進軍し、諜報によって敵主力の動向を正確に把握し、最も脆弱な瞬間(渡河中)を叩く。この一連の作戦遂行能力は、旧来の合戦の常識を覆すものであり、武田家が対応できなかった新しい時代の戦争の姿を示していた。

最終的に、武田家の滅亡は、長篠の敗戦から続く戦略的劣勢、指導者勝頼の求心力低下、そして甲州征伐における織田軍の圧倒的な戦略の前に、内部から崩壊した必然的な帰結であった。「要津の渡河戦」は、その崩壊がもはや誰にも止められない段階に至った最後の瞬間を象徴する出来事として、戦国史に深く刻まれている。それは、一人の武将の悲劇であると同時に、一つの時代が終わりを告げた瞬間の、克明な記録なのである。

引用文献

  1. 武田勝頼の生涯~日本にかくれなき弓取り - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4907
  2. 甲州征伐- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  3. 【武田氏滅亡】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100020/ht003230
  4. 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  5. 森長可 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF
  6. 『武田勝頼の最期』度重なる裏切り、凛々しく天目山での自害 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/takeda-katsuyori-saigo/
  7. 甲州征伐- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  8. 戦国の雄・甲斐武田氏、天目山に滅ぶ…武田勝頼終焉の地「景徳院」 - 夢中図書館 いざ城ぶら! https://favoriteslibrary-castletour.com/yamanashi-keitokuin/
  9. 新府城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/shinpu.j/shinpu.j.html
  10. 【山梨県】武田氏発祥地と勝頼公終焉の地/韮崎市・甲州市 - 歴史探訪ブログ れきマロン https://rekimaron.net/%E3%80%90%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E3%80%91%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F%E7%99%BA%E7%A5%A5%E5%9C%B0%E3%81%A8%E7%B5%82%E7%84%89%E3%81%AE%E5%9C%B0%EF%BC%8F%E9%9F%AE%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%83%BB%E7%94%B2/
  11. 「歴史文化」をたどる - 韮崎市観光協会 https://www.nirasaki-kankou.jp/nirasakishi_miryoku/8222.html
  12. 天目山の戦い・武田勝頼の最期&その首級のゆくえ #どうする家康 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=iw462HONLCE
  13. 新府城と武田勝頼公2 https://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-166.html
  14. 武田勝頼によって築かれた武田氏最後の居城「新府城」。決戦に備えた難攻不落の城であったが https://hkpt.net/event/shinpujyo/
  15. 新府城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E
  16. 新府城 ~未完に終わった甲州流築城術の集大成~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/shinpujou
  17. 武田氏の滅亡過程で、真田一族はどのように行動したのか? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/452
  18. 武田家滅亡と真田一族脱出 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2754
  19. 武田勝頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%A0%BC
  20. ふる.さとの城を語ろう https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/9/9167/7099_1_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B5%AA%E6%BC%AB%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E.pdf
  21. 万力林 万力林 雁 堤 雁 堤 信玄堤 信玄堤 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000021704.pdf
  22. 信玄伝承の治水事業 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/5/5834/4285_1_%E5%A0%A4%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%A2%A8%E6%99%AF.pdf
  23. 信玄堤 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%8E%84%E5%A0%A4
  24. 「南アルプス市 霞堤を活かした 防災まちづくり」に向けた検討会 - 国土交通省 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000790334.pdf
  25. 水を走らせない「信玄堤」のすごさ|Megumi Goto - note https://note.com/gotomegu/n/nfd60b33e51a7
  26. 武田信玄の総合的治水術 32号 治水家の統(すべ) - ミツカン 水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no32/02.html
  27. 悲曲・武田氏の末路 http://ktymtskz.my.coocan.jp/A2/Kosyu1.htm
  28. 滝川一益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
  29. 滝川一益は何をした人?「甲州征伐で大活躍したが清洲会議に乗り遅れてしまった」ハナシ https://busho.fun/person/kazumasu-takigawa
  30. 滝川一益-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44324/
  31. 森長可(もり ながよし) 拙者の履歴書 Vol.298~主君亡き後の荒ぶる武神 - note https://note.com/digitaljokers/n/na7a82159a428
  32. 森蘭丸の兄の弱点は家族愛?「鬼武蔵」の異名を持つほど苛烈な性格とそのギャップに迫る https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/129278/
  33. 261 『信長公記』を読むその35 巻15の3 :天正十(1582)年 武田勝頼の最期 https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12803801776.html
  34. 【合戦】田野の戦い 武田氏滅亡… 勝頼最後の戦い~武田軍 vs 織田軍 【古戦場を歩く〜戦国時代】 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=CwzRkV1xkHs&pp=ygUNI-atpueUsOa7heS6oQ%3D%3D
  35. 甲州街道勝沼宿 https://kaidoutabi.com/6kousyu/35katunuma.html
  36. 岩殿城攻略レポート岩殿城攻略レポート:壮絶な山城体験とその歴史 - 海外ドラマにハマる https://screenieinvestigator.com/mount-iwadono-castle/
  37. 跡部勝資 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%A1%E9%83%A8%E5%8B%9D%E8%B3%87
  38. 甲斐跡部大炊助屋敷 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/atobeooiyasiki.htm
  39. 甲州市:景 徳 院 ~武田勝頼終焉の地 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/kai/keitokuin.html
  40. 土屋惣蔵片手切り https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/katatekiri.k/katatekiri.k.html
  41. 【土屋惣蔵片手斬跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_19305aj2200130055/
  42. 土屋惣蔵片手切 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/tuchiya-katate.htm