最終更新日 2025-08-31

白河小峰城の戦い(1600)

慶長五年、白河小峰城周辺で「幻の白河決戦」が計画されたが、関ヶ原の報で中止。「関山の戦い」で徳川方が上杉軍の南下を阻止し、奥羽南口の防衛線を確立。

慶長五年 奥羽南口の攻防 ―「幻の白河決戦」と「関山の戦い」の全貌

序章:関ヶ原前夜、奥州の戦略的要衝・白河

慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する直前、日本の運命を左右するもう一つの巨大な軍事対決が、奥州(現在の東北地方)南部の白河で計画されていた。この地は、徳川家康の拠点である関東平野と、広大な奥州を結ぶ「白河口」と呼ばれる交通・軍事上の結節点であり、古来よりその支配は極めて重要な意味を持っていた 1 。この戦略的要衝を巡る攻防こそが、本報告書で詳述する「白河小峰城の戦い」、より正確にはその周辺で発生した一連の軍事行動の核心である。

白河の地政学的重要性

白河は、関東から奥州へ至る主要街道が通過する隘路に位置し、この地を抑えることは、関東への侵攻路を確保すること、あるいは関東からの北伐を防ぐ防衛線を確立することに直結した。慶長年間当時、白河小峰城はまだ後世に見られるような壮大な城郭ではなかったものの、その戦略的価値は不変であった。

豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡る対立が顕在化する中で、この白河の地は図らずも最前線となる運命にあった。慶長三年(1598年)、上杉景勝が越後から会津120万石へ移封されると、白河は上杉領の南端に位置することとなり、家康の関東に対する直接的な脅威の拠点となった。この移封に伴い、白河小峰城には上杉家臣の芋川越前守が城代として入城し、関ヶ原の戦役勃発まで同地は上杉家の支配下に置かれた 2 。これにより、奥州南口の鍵は、完全に反家康勢力の手中にあったのである。

対立の火種:上杉景勝の会津移封

そもそも、上杉景勝の会津への移封は、豊臣秀吉による深謀遠慮の配置であった。その目的は二つあり、一つは北の雄・伊達政宗を牽制すること、そしてもう一つは、関東で絶大な力を誇る徳川家康の背後を脅かす強力な重石とすることであった 1 。会津は南東北の要衝であり、ここを拠点とする大名は東北の覇者となりうる存在だったのである 3

しかし、秀吉が死去すると、この巧妙な勢力均衡は崩壊する。豊臣政権下で五大老の一人として権勢を振るう家康に対し、同じく五大老であり、豊臣家への忠誠を貫こうとする上杉景勝との間の緊張は日増しに高まっていった。家康が事実上の天下人として振る舞い始めると、景勝と、その懐刀である家老・直江兼続は、会津において軍備増強や城郭修築を公然と開始する。この動きは、家康にとって自らの覇権に対する明白な挑戦と映った。構造的に、両者の衝突はもはや避けられない段階に達していたのである。

第一部:大会戦の胎動 ― 徳川家康の「会津征伐」と「幻の白河決戦」

関ヶ原の戦いの直接的な引き金となったのは、家康による「会津征伐」の発令であった。これは、白河の地で計画された大規模な軍事衝突、すなわち「幻の白河決戦」の序曲でもあった。

第一章:対立の激化と「直江状」

家康は、景勝が許可なく道路整備や城の修築を行い、兵力を増強していることを謀反の疑いありとして詰問し、釈明のために上洛するよう命じた 1 。これに対し、上杉家から返されたのが、史上名高い「直江状」である。直江兼続が執筆したとされるこの書状は、家康の詰問に対し逐一、理路整然と、しかし極めて挑発的な言葉で反論するものであった。

この返書は、家康に会津征伐を実行するための完璧な大義名分を与えた 4 。豊臣家への忠臣を自任する諸大名に対し、「上杉景勝こそが天下の静謐を乱す者である」と宣言し、討伐軍を編成する格好の口実となったのである。慶長五年(1600年)6月6日、大坂城西の丸で開かれた評定において、上杉討伐、すなわち「会津征伐」が正式に決定された 5

第二章:両軍、白河へ

会津征伐の決定を受け、徳川・上杉両軍は白河口での決戦を想定し、それぞれ準備を進めた。

東軍の進軍(慶長五年六月~七月)

家康は、豊臣恩顧の大名を含む大軍を動員し、大坂から江戸へと進軍。江戸を拠点に、奥州への侵攻計画を具体化させた。この北伐軍の先鋒には、徳川四天王の一人である榊原康政が任命されており、家康がいかにこの戦いを重視していたかが窺える 7 。家康自身が総大将として率いる本隊が白河口から会津領内へ侵攻するというのが、当初の作戦計画であった。

上杉軍の防衛体制

一方の上杉方も、家康の侵攻を予期し、万全の防衛体制を敷いていた。特に、侵攻路の玄関口となる白河の防備は最重要課題であった。史料『会津旧事雑考』によれば、景勝は会津征伐が決定された直後の6月10日には、早くも白河城の修築を命じている 8 。これは、上杉方が白河口での迎撃を強く意識していた具体的な証拠である。

この時期、白河では徳川軍約6万と、上杉景勝・直江兼続、そして同盟関係にあった常陸の佐竹義宣の連合軍約16万2千(この数字は誇張を含む可能性があるが、計画の壮大さを示す)が対峙する、関ヶ原に匹敵する大会戦が繰り広げられるはずであった 9 。景勝は白河近郊に本陣を構え、自ら防衛戦の指揮を執る計画であったと伝わっている 9 。この壮大な決戦計画こそが、「幻の白河決戦」と呼ばれるものである。

表1:計画された「幻の白河決戦」の想定兵力(慶長五年七月時点)

陣営

総大将

主要指揮官

推定兵力

徳川軍(東軍)

徳川家康

結城秀康、榊原康政 他

約60,000

上杉・佐竹連合軍(西軍方)

上杉景勝

直江兼続、佐竹義宣 他

約162,000

第三章:西からの衝撃と「小山評定」

この壮大な決戦計画が「幻」に終わったのは、家康の予想を超えた、西国での劇的な情勢変化によるものであった。

石田三成の挙兵(慶長五年七月)

会津征伐は、実は上杉景勝と石田三成が連携した壮大な計略であった。家康が主力軍を率いて東国へ遠征し、会津で上杉軍と対峙している隙を突き、三成が畿内で挙兵。家康を東西から挟撃するというのが、西軍の基本戦略だったのである 1 。この戦略は当初、見事に成功した。家康は狙い通りに大軍を率いて奥州へ向かったのである。

家康の決断

慶長五年七月二十四日、家康が下野国小山(現在の栃木県小山市)に布陣していたところへ、石田三成挙兵と、その手始めとして家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が攻撃を受けているとの急報が届いた。この報を受け、家康は翌二十五日に諸将を集めて軍議を開く。これが世に言う「小山評定」である。

この評定で家康は、会津征伐を中止し、全軍を西へ転進させて三成を討つことを宣言。福島正則ら豊臣恩顧の大名たちもこれに同調し、家康に従うことを誓った 10 。この決断は、上杉・石田連合軍の挟撃策を根底から覆す、家康の政治的・戦略的な大勝利であった。会津征伐軍は、その場で反三成の「東軍」へと再編成され、関ヶ原へと向かうことになったのである。これにより、白河口での大会戦は完全に消滅し、文字通り「幻」となった。上杉軍は、主敵である家康本隊が突如として目の前から消え去り、奥州で孤立するという、戦略的に極めて困難な状況に置かれることになった。

第二部:奥羽南口の死守 ― 「関山の戦い」の時系列詳解

家康本隊が西へ転進したことで、白河口の戦線は主戦場から、東軍にとっては「防衛線」、上杉軍にとっては「第二戦線」へとその性格を大きく変えた。しかし、この地で緊張が途絶えたわけではなく、関ヶ原の決戦と時を同じくして、小規模ながらも重要な戦闘が発生した。

第一章:睨み合いの戦線と戦略転換(慶長五年八月~九月上旬)

東軍の防衛布陣

家康は西上するにあたり、対上杉の抑えとして次男の結城秀康を宇都宮に残し、北関東・南奥州の諸大名をその指揮下に置いた。彼らの任務は、もはや会津への侵攻ではなく、上杉軍の南下を阻止し、家康の拠点である関東を防衛することにあった。白河口は、この防衛網の最前線となった。

上杉軍の主戦線変更

一方、主敵である家康を失った上杉軍も戦略の転換を迫られた。南からの脅威が遠のいた今、彼らにとっての直接的な敵は、東軍に与し、自領を包囲する伊達政宗と最上義光であった。慶長五年九月八日、直江兼続は上杉軍の主力を率い、白河口ではなく西の最上領へと侵攻を開始した 12 。これが「慶長出羽合戦」、いわゆる「北の関ヶ原」の始まりである 14 。これにより、上杉軍にとっても白河戦線は副次的なものとなった。

諜報と攪乱

しかし、戦線が膠着する中でも、水面下では激しい諜報戦が繰り広げられていた。『譜牒余録』によれば、徳川方は服部半蔵(正成の子・正就)に伊賀・甲賀の者二百人を付けて派遣しており、六月二十二日の時点で、半蔵の手の者が白河城の大手門に那須衆が磔にされているのを発見したと記録されている 8 。この凄惨な記録は、両軍が睨み合う最前線の緊迫した空気を生々しく伝えている。

第二章:閃光、関山に迸る(慶長五年九月十四日~十五日)

白河口での静寂が破られたのは、九月十四日から十五日にかけてであった。この日付は極めて重要である。なぜなら、遠く離れた美濃国関ヶ原で、東西両軍の本隊が激突したのと全く同じ日だからである 8 。このタイミングの一致は偶然ではない。

関ヶ原での決戦が間近に迫っている、あるいは既に開始されたとの情報を得た上杉方にとって、この時期の軍事行動には複数の戦略的意図があったと考えられる。第一に、徳川方の防衛戦力の強度を確かめるための威力偵察。第二に、結城秀康らの軍勢を白河口に釘付けにし、万が一にも家康本隊への増援となることを防ぐ陽動。そして第三に、上杉が依然として健在であり、複数の戦線で攻勢を維持していることを内外に示す示威行動であった。

【九月十四日】前哨戦

史料には、九月十四日と十五日の両日にわたり、白河市関山付近で戦闘があったと記されている 8 。十四日、白河城から南下した上杉軍の一部隊が、関山付近に布陣する徳川方の防衛線に接触し、前哨戦が開始されたと推測される。

【九月十五日】本戦

関ヶ原で決戦の火蓋が切られた九月十五日、関山での戦闘も本格化した。具体的な部隊の動きに関する詳細な記録は乏しいが、徳川方の防衛部隊が、準備された陣地で上杉方の攻撃を迎え撃つ形になったと考えられる。

戦闘結果と損害

この「関山の戦い」は、上杉方の攻撃失敗に終わった。結果は死傷者の数に明確に表れている。この二日間の戦闘で、徳川方の戦死者は39名であったのに対し、上杉方の戦死者は173名にのぼった 8 。この一方的な損害比は、徳川方が防御に有利な地形や陣地を活用し、攻撃を仕掛けてきた上杉軍を効果的に撃退したことを強く示唆している。上杉軍の攻撃は頓挫し、徳川方の防衛線は揺るがなかった。

第三章:戦闘の戦略的意義

関山の戦いは、関ヶ原の主戦場から見れば極めて小規模な戦闘であったが、その戦略的意義は決して小さくない。

白河口防衛線の確立

この勝利により、結城秀康らが率いる徳川方の抑え部隊が、上杉軍の南下を阻止するのに十分な戦力であることが証明された。これにより、奥州南口の防衛線は確固たるものとなった。

関東進出の阻止

上杉軍による江戸方面への侵攻、あるいは攪乱作戦の可能性は完全に潰えた。家康は後顧の憂いなく、西での決戦に全力を集中することができたのである。

関ヶ原勝利への貢献

結果として、関山の守備隊は、上杉軍の一部をこの戦線に拘束し、南下策の無益さを証明することで、西軍が企図した壮大な挟撃戦略の失敗を決定的なものにした。彼らは、関ヶ原における家康の全面的な勝利に、間接的ながらも重要な貢献を果たしたと言えるだろう。

表2:天下分け目の日の同期年表(慶長五年九月十五日)

時間帯(推定)

美濃国(関ヶ原)

出羽国(長谷堂城)

陸奥国(白河口・関山)

午前

東西両軍の本戦開始。

直江兼続率いる上杉主力軍が、最上軍の長谷堂城を包囲攻撃中 12

関山での戦闘が本格化。

午後

小早川秀秋の裏切りにより東軍優勢に。西軍の戦線が崩壊し始める。

長谷堂城の攻防は膠着状態。

上杉軍の攻撃が徳川軍の堅守の前に頓挫、撃退される。

夕刻

西軍は総崩れとなり、石田三成らは敗走。東軍の勝利が確定。

長谷堂城の包囲は続く。

関山戦線は沈静化。徳川方の防衛線が確保される。

終章:戦後の奥州と白河小峰城

関ヶ原での西軍壊滅の報は、数日のうちに奥州の戦線にも届いた。これにより、奥州の情勢もまた、最終的な決着を迎えることとなる。

上杉軍の撤退と戦後処理

関ヶ原での敗報に接した直江兼続は、最上領からの撤退を決断する。最上軍と、援軍に駆けつけた伊達軍の猛烈な追撃を受けながらも、兼続は殿軍で見事な采配を振り、整然と米沢へ退却することに成功した。この撤退戦は「直江の退き口」として後世に語り継がれるほどの見事なものであった 14

しかし、戦後の処断は厳しく、家康に敵対した上杉家は、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封された 11 。これにより、上杉家が関東に与える脅威は恒久的に取り除かれ、徳川の覇権が確立された。

「関山の戦い」の歴史的評価

慶長五年(1600年)に白河口で起きた軍事衝突は、厳密には「白河小峰城の攻城戦」ではなく、その近郊の関山で発生した野戦であった。それは、当初計画されていた大会戦の残滓から生まれた、小規模ながらも決定的な意味を持つ戦闘であったと言える。

その歴史的重要性は、戦闘の規模ではなく、発生したタイミングと戦略的な結果にある。それは、家康が不在の関東を完璧に守り抜いた成功した防衛作戦であり、関ヶ原の戦役全体における徳川方の完全勝利に不可欠な一翼を担ったのである。ユーザーが当初認識していた「城は東軍方で維持され、奥羽南口の防衛線が確立した」という概要は、まさにこの戦いの本質を的確に捉えている。

その後の白河小峰城

関ヶ原の戦役後、白河の地は徳川の支配下に入り、白河小峰城は近世城郭として大きく発展を遂げていく。そして約270年の時を経た幕末の戊辰戦争において、この城は再び歴史の表舞台に登場し、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の間で、慶長年間とは比較にならないほど大規模で凄惨な攻防戦の舞台となった 16 。多くの史料で語られる「白河城の戦い」とは、主にこの戊辰戦争時の戦いを指すものであり、本報告書で扱った慶長五年の「関山の戦い」とは明確に区別されるべきものである。

引用文献

  1. 北の関ヶ原合戦と 上杉家の思惑 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/tohoku-pdf/tohoku_2019-05.pdf
  2. 白河結城家が白河を統治する本拠とした山城【白川城(搦目城)】と戊辰戦争で落城した東北三名城に数えられる東北地方で珍しい総石垣造りの城郭【白河小峰城】福島県白河市のまち旅(旅行、観光) https://z1.plala.jp/~hod/trip/home/07/0501.html
  3. 「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた 大局が読めないしくじり大名の末路 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/45133?page=1
  4. 関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41104/
  5. 慶長出羽合戦~回想~ - やまがた愛の武将隊【公式Webサイト】 https://ainobushoutai.jp/free/recollection
  6. 会津征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%BE%81%E4%BC%90
  7. 榊 原 康 政 公 ゆ か り 榊 原 康 政 公 ゆ か り - 館林市 https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/s092/kanko/040/070/010/sakakibarayasumasamap.pdf
  8. 白河城と長沼城 http://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/sirakawasiro.pdf
  9. 幻の白河決戦 http://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/page035.html
  10. 関ヶ原の戦いで東軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/sekigahara-east/
  11. file-17 直江兼続の謎 その2~上杉家の関ヶ原~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/17/
  12. 【関ヶ原の舞台をゆく⑤】日本中で行なわれた「関ヶ原の戦い」~北と南の関ヶ原はどう終結したのか - 城びと https://shirobito.jp/article/519
  13. 慶長出羽合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%90%88%E6%88%A6
  14. 第40回 関ヶ原の戦い - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp40a.html
  15. わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06916/
  16. 白河口の戦い - 白河市 https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/data/doc/1453772913_doc_13_3.pdf
  17. 戊辰戦争150年、悲劇の先にあるもの~福島・旧幕府軍の戦跡を訪ねて | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5575?p=1
  18. 白河小峰城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/shirokawakominejo/