最終更新日 2025-08-31

真壁城の戦い(1590)

天正十八年、真壁城の戦いは武力衝突ではなく、真壁氏幹が佐竹氏と共に秀吉に恭順し、小田原征伐に参陣した政治的決断。真壁城は戦火を免れ、佐竹氏の常陸統一に貢献した。

天正十八年・真壁城の攻防 — 関東再編の渦中、鬼真壁の決断と戦なき開城の真相

序章:天下統一の最終局面と常陸国の情勢

天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長の後を継ぎ、破竹の勢いで天下統一事業を推し進めてきた豊臣秀吉の前に立ちはだかる最後の巨壁、それは関東に一大勢力圏を築いた後北条氏であった 1 。秀吉が天下の静謐を目的として発令した「惣無事令」、すなわち大名間の私闘を禁じる法令に対し、北条氏政・氏直父子が事実上の拒絶姿勢を示したことは、この最終戦争の直接的な引き金となった。とりわけ、天正十七年(1589年)に北条氏の家臣である猪俣邦憲が、秀吉の裁定によって真田氏の所領と定められていた名胡桃城を武力で奪取した事件は、秀吉に関東征伐の完璧な大義名分を与えることとなる 2

この天下の趨勢が関東に集中する中、常陸国(現在の茨城県)は複雑な政治情勢の中にあった。一人の強力な大名による統一はなされておらず、複数の国人領主が互いに勢力を競い、離合集散を繰り返す、まさに戦国乱世の縮図ともいえる状況が続いていた。その中で、常陸太田城を本拠とし、地域に覇を唱えていたのが佐竹氏である 4 。しかし、その立場は決して安泰ではなかった。北からは奥州の覇者たらんとする伊達政宗が南下政策を推し進め、南からは関東の支配者たる後北条氏がその勢力を伸ばしており、佐竹氏は南北から挟撃される深刻な危機に瀕していた 5 。この地政学的脅威に対抗するため、佐竹義重・義宣父子は早くから中央の覇者である秀吉と誼を通じ、その権威を後ろ盾とすることで自らの存続を図るという、極めて高度な外交戦略を展開していた 5

この佐竹氏と強固な軍事同盟を結び、対北条氏戦線の最前線を担っていたのが、常陸国真壁城を本拠とする真壁氏であった 6 。真壁氏は、佐竹氏に一方的に従属する存在ではなく、一定の独立性を保ちながらも運命を共にする戦略的パートナーシップを構築していた 9 。そして、この時代の真壁氏を率いていたのが、戦国史にその勇名を轟かせた真壁氏幹(うじもと)その人である 8 。父・久幹(ひさもと)もまた「鬼道無」と恐れられた猛将であったが、氏幹はその武勇をさらに昇華させた 10 。伝承によれば、長さ三メートルにも及ぶ樫の木に鉄製の鋲をびっしりと打ち付けた巨大な棒、すなわち金砕棒を主武器とし、戦場を縦横無尽に駆け巡っては敵をなぎ倒したという 7 。その常軌を逸した戦いぶりから、彼は畏敬の念を込めて「鬼真壁」と渾名された。しかし、彼の強さは単なる腕力に留まらない。剣豪・塚原卜伝の流れを汲む武術の達人であり、手這坂の戦いでは鉄砲隊を巧みに運用して佐竹軍を勝利に導くなど、最新の戦術にも通じた知勇兼備の将であった 10

佐竹・真壁連合にとって、秀吉による小田原征伐は、自領に攻め寄せられる存亡の危機ではなかった。むしろそれは、長年にわたり関東の平和を乱し、自らの発展を阻害してきた宿敵・北条氏の勢力を、天下人の権威の下で一掃できる千載一遇の好機であった。さらに、この戦役に参加し、秀吉への忠誠を示すことで、戦後、常陸国内に存在する江戸氏や大掾氏といった親北条、あるいは日和見的なライバル勢力を「公的に」討伐する大義名分を得ることができる。彼らにとってこの戦は、自領を守る「防衛戦」ではなく、常陸一国を完全に手中に収めるための「統一戦」の序章に他ならなかったのである。


表1:小田原征伐前夜における常陸国主要勢力図

勢力名

当主

本拠地

政治的立場

佐竹氏

佐竹義宣

常陸太田城

親豊臣・反北条連合の中核

真壁氏

真壁氏幹

真壁城

佐竹氏の最重要同盟者

江戸氏

江戸重通

水戸城

親北条

大掾氏

大掾清幹

府中城

親北条・日和見

小田氏

小田氏治

土浦城

親北条(佐竹氏と敵対)

結城氏

結城晴朝

結城城

親豊臣(秀吉に接近)


第一章:小田原征伐の勃発と佐竹・真壁連合軍の動向

天正十八年(1590年)二月、ついに豊臣秀吉は北条氏討伐の軍を発した。三月一日、秀吉自身が三万二千の兵を率いて京の聚楽第を出陣 2 。これに先んじて東海道を進発した徳川家康らの軍勢と合わせ、東山道、北陸道、さらには海上からも軍勢が関東を目指し、その総勢は二十一万とも二十二万とも号する、日本史上類を見ない規模の大軍となった 13

この圧倒的な軍事力の前に、北条氏が誇る関東の防衛網は、驚くべき速さで瓦解していく。三月二十九日、豊臣秀次を総大将とし、数万の兵が殺到した箱根の要衝・山中城は、鉄壁と信じられていたにもかかわらず、わずか数時間の戦闘で陥落した 1 。この報は瞬く間に関東全域を駆け巡り、北条方の諸将に計り知れない衝撃と動揺を与え、豊臣軍の士気を大いに高めた。

秀吉からの参陣命令は、前年の天正十七年十一月には佐竹氏のもとへも通達されていた 15 。当主・佐竹義宣は、父・義重と共に、この天下の趨勢を見誤ることなく、速やかに参陣を決断する。そして、「鬼真壁」こと真壁氏幹をはじめとする与力の国人衆を動員し、総勢一万余と伝えられる精強な軍団を編成した 16 。彼らは本拠地である常陸太田城を出立し、一路、決戦の地・小田原を目指した。

佐竹・真壁連合軍の進軍は、単なる小田原への移動ではなかった。それは、戦後の論功行賞を明確に見据えた、自らの武威と忠誠心を秀吉に示すための積極的な軍事行動であった。彼らは道中に点在する北条方の拠点を次々と攻略しながら進んだのである 16 。迅速かつ積極的な参陣がいかに重要であったかは、後に参陣が遅れた伊達政宗が領地を大幅に削減されるという厳しい処分を受けたことからも明らかである 18 。佐竹・真壁連合軍は、命令を待つのではなく、自発的に戦功を立てることで、豊臣政権における自らの価値を最大限に高めようとした。

その具体的な動きは、以下の通りである。

  • 天正十八年四月十六日〜二十九日:
    連合軍はまず下野国(現在の栃木県)へ侵攻。当時、北条方に与していた壬生氏が守る壬生城および鹿沼城に攻撃を開始した。約二週間にわたる攻防の末、四月二十九日までに両城を陥落させ、下野国における北条氏の勢力を削ぐことに成功した 19。これは、小田原の本隊に合流する前の、彼ら自身の戦果であった。
  • 天正十八年五月二十七日:
    下野国での戦いを終えた佐竹・真壁連合軍は、ついに小田原の陣地に到着した。この日、佐竹義宣は宇都宮国綱ら北関東の諸将と共に秀吉に謁見し、正式に臣下の礼をとった 17。彼らの積極的な軍事行動を伴う参陣は、秀吉に高く評価されたに違いない。この行動こそが、戦後、佐竹氏が常陸一国の支配権という破格の恩賞を得るための、重要な布石となったのである 19。

第二章:「真壁城の戦い」の真相 — 戦わずして迎えた運命の日

佐竹・真壁連合軍が到着した五月下旬の小田原は、もはや単なる戦場ではなかった。全国から馳せ参じた諸大名の軍勢が二十万以上もひしめき合い、巨大な軍事都市、あるいは一大政治イベントの会場と化していた。秀吉は、難攻不落を謳われた小田原城に対し、無益な力攻めによる将兵の損耗を避け、圧倒的な兵力と物量で城を完全に包囲し、兵糧攻めと心理戦によって北条氏を内部から崩壊させるという壮大な作戦を展開していた 13

その心理戦の極めつけが、六月下旬に小田原城を見下ろす笠懸山に突如として出現した「石垣山城」である 2 。わずか八十日余りで築かれた本格的な石垣の城は、豊臣政権の絶大な権力、財力、そして比類なき築城技術を北条方の将兵に見せつけ、彼らの戦意を根底から打ち砕いた 18 。上杉謙信や武田信玄ですら落とせなかった小田原城も、もはや抵抗の術を失い、城内では降伏か抗戦かを巡って結論の出ない会議、すなわち「小田原評定」が繰り返されるばかりであった 13

このような状況下で、真壁氏幹率いる真壁軍の主力部隊は、主君である佐竹義宣と共に小田原包囲軍の一翼を担っていた。したがって、当初想定されていたような「豊臣軍が真壁城に攻め寄せ、これを攻略する」という直接的な戦闘は、史実として発生していない。本拠地である真壁城は、当主と主力が不在の中、後方の兵站基地や連絡拠点として機能していたと推察される。城は確かに堅固な防御施設を備えていたが 21 、その備えはあくまで長年の宿敵であった北条氏や、常陸国内のライバル勢力に向けられたものであり、同盟者である豊臣軍に対しては全くの無用であった。

ここに、「真壁城の戦い」の真相が明らかとなる。この「戦い」とは、城郭を舞台とした物理的な攻防戦を指すのではない。それは、当主・真壁氏幹が、主君・佐竹氏と共に天下の趨勢を的確に読み、秀吉の小田原征伐に迅速に参陣して恭順の意を示した、一連の 政治的・軍事的決断そのもの だったのである。この決断によって、真壁城は戦火を免れ、真壁氏は戦後の所領安堵を勝ち取ることができた 6 。戦わずして勝利を収める。これこそが、天正十八年における真壁城の「戦い」の真実の姿であった。

この事実は、戦国時代の終焉期における「戦い」の質の変容を象徴している。秀吉の天下統一事業において、戦いの勝敗は、もはや局地的な武力衝突の結果のみで決まるものではなくなった。秀吉が構築しようとする新たな政治秩序へ、いかに早く、そして積極的に参入するか。その政治的判断こそが、各大名の運命を決定づけたのである。小田原に参陣し、臣従の意を示すこと自体が新たな秩序における「勝利」を意味し、逆に参陣しないこと、あるいは遅参することが、たとえ直接戦闘で敗北せずとも「敗北」と見なされた。真壁氏の運命は、戦場の槍働き以前に、秀吉の陣営に加わるという政治的決断の瞬間に、すでに定まっていたのである。

第三章:忍城攻防戦と常陸平定戦 — 真壁氏の新たな戦場

小田原城の包囲が続く中、秀吉は関東各地に点在する北条方の支城を制圧するため、有力武将に率いられた別動隊を次々と派遣した。真壁氏幹を含む佐竹・真壁連合軍もまた、小田原での待機を解かれ、新たな戦場へと向かう。彼らの1590年における軍事行動は、二つの異なる性質を持つ戦いへの参加という形で展開された。一つは天下人・秀吉の天下統一事業に奉公する戦い、もう一つは、その功績によって得られた権威を背景に、自らの領国を統一するための戦いである。

第一の戦場:武蔵・忍城攻防戦(六月〜七月)

六月上旬、佐竹・真壁軍は、豊臣政権の五奉行の一人である石田三成を総大将とする部隊に編入された 16 。彼らに与えられた任務は、武蔵国(現在の埼玉県行田市)に位置する忍城の攻略であった。城主の成田氏長は小田原城に籠城していたが、城代の成田長親らが約三千の兵と共に城を固守していた 14

忍城は周囲を沼や湿地に囲まれた天然の要害であり、関東七名城の一つに数えられるほどの堅城であった 14 。正攻法での攻略は多大な犠牲が予想されたため、総大将の三成は、主君・秀吉が得意とした「水攻め」の策を決断する 23 。城の周囲に総延長二十八キロメートルにも及ぶ長大な堤防を築き、利根川と荒川の水を引き込んで城を水没させるという、壮大なスケールの作戦であった。

この前代未聞の堤防構築作業において、佐竹義宣の部隊は重要な役割を担ったと記録されている 16 。真壁氏幹とその軍勢もまた、この土木工事に従事し、豊臣軍の一員として具体的な軍役を果たした。これは、彼らが単に参陣しただけでなく、豊臣政権の指揮命令系統に組み込まれ、その国家事業に貢献していた動かぬ証拠である。しかし、この水攻めは堤防の決壊などにより、必ずしも成功したとは言えず、忍城は「浮き城」と化しながらも落城には至らなかった 16 。最終的に忍城は、七月五日に本城である小田原城が開城し、北条氏が降伏したという報を受けて、開城した 2

第二の戦場:常陸平定戦(七月以降)

七月十一日、北条氏政・氏照兄弟が切腹し、後北条氏は名実ともに滅亡した 2 。戦後、秀吉による論功行賞が行われ、佐竹義宣は小田原征伐における一連の功績を認められ、常陸国一円(約五十四万石)の支配権を公式に認める朱印状を与えられた 19 。これは、これまで佐竹氏と敵対、あるいは対立関係にあった常陸国内の諸勢力を、天下人の公的な許可のもとに討伐する権利を得たことを意味した。

忍城攻めという「奉公」に対する「恩賞」として、自らの戦争を有利に進める「お墨付き」を得たのである。佐竹・真壁連合軍は、この大義名分を掲げ、小田原から凱旋すると、間髪入れずに常陸国内の掃討作戦を開始した。これこそが、彼らにとって天正十八年における真の決戦であった。

  • 水戸城攻略:
    小田原に参陣せず、北条方に与した水戸城主・江戸重通を攻撃。佐竹軍は圧倒的な兵力で水戸城を包囲し、これを陥落させた。敗れた重通は領地を追われ、ここに常陸中部の名族・江戸氏は滅亡した 25。
  • 府中城攻略:
    同じく小田原に参陣しなかった府中城主・大掾清幹も標的となった。佐竹軍は府中城を攻め、大掾氏を滅亡に追い込んだ 19。

この一連の戦い(南方三十三館攻めとも呼ばれる)において、「鬼真壁」真壁氏幹の武勇が遺憾なく発揮されたことは想像に難くない。秀吉の中央集権的な権力が、佐竹氏という地方権力と連動し、常陸国の勢力図を一気に塗り替えたのである。これまで私闘の範囲であった領土紛争は、天下人の権威による「公戦」へと昇華し、佐竹氏による常陸統一事業は、この天正十八年を以て決定的な段階を迎えた。


表2:天正十八年 小田原征伐と常陸国関連の時系列表

年月日

豊臣軍本隊および関東諸城の動向

佐竹・真壁連合軍の動向

天正18年3月29日

豊臣秀次軍、山中城を数時間で攻略。

(常陸にて出陣準備)

4月3日

豊臣軍先鋒部隊、小田原に到着。包囲開始。

常陸太田城を出陣。

4月16日

-

下野国へ侵攻、壬生城の攻撃を開始。

4月29日

-

壬生城・鹿沼城を攻略。

5月27日

-

小田原に到着。秀吉に謁見し、臣従。

6月5日

石田三成、忍城攻略のため別動隊を率いて出陣。

石田三成の指揮下に入り、忍城へ向かう。

6月上旬〜7月上旬

石田三成軍、忍城を水攻め。

忍城水攻めの堤防構築に従事。

6月26日

石垣山城が完成。

-

7月5日

北条氏直が降伏。小田原城開城。

-

7月11日

北条氏政・氏照が切腹。後北条氏滅亡。

-

7月16日

忍城が開城。

小田原より常陸へ凱旋。

7月以降

奥州仕置が開始される。

秀吉の朱印状を背景に、常陸国内の平定戦を開始。水戸城、府中城などを攻略。


終章:真壁城の歴史的意義と後世への影響

天正十八年(1590年)の小田原征伐は、単に後北条氏を滅亡させただけでなく、関東地方の政治地図を根底から塗り替える画期的な出来事であった。北条氏の旧領には徳川家康が移封され、関東は新たな時代を迎える。この巨大な地殻変動の中、真壁氏は佐竹氏と共に時流を的確に捉え、豊臣方に与することで生き残りを果たした。さらに、戦後の常陸平定戦に貢献することで、佐竹氏の常陸統一事業における重要な一翼を担い、その地位を確保した。しかし、この勝利は同時に、戦国時代を通じて維持してきた独立国人領主としての立場を失い、佐竹氏という巨大な大名権力の中に、家臣として完全に組み込まれていく過程の始まりでもあった 9

真壁氏の運命は、主家である佐竹氏の動向と不可分に結びついていく。慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、当主・佐竹義宣は西軍の中心人物である石田三成との親交から、東軍を率いる徳川家康に対して旗幟を鮮明にせず、曖昧な態度に終始した。この日和見的な行動が戦後、家康の怒りを買い、佐竹氏は常陸五十四万石という広大な領地を没収され、出羽国秋田二十万石へと大幅に減封された上での転封という厳しい処分を受けることとなる 31

主家の決定に従い、真壁氏もまた、一族郎党を率いてこの国替えに随行した 30 。平安時代末期から約五百年にわたり本拠地としてきた常陸国真壁の地を離れ、遠く雪深い出羽国へと移り住み、秋田藩(久保田藩)の家臣として新たな歴史を歩むことになったのである 6

一方、主を失った真壁城と真壁の地は、新たな支配者を迎える。関ヶ原の戦いで東軍に与して功績を挙げた浅野長政に、徳川家康から隠居料として真壁五万石が与えられたのである 6 。長政は豊臣政権の五奉行筆頭として知られる人物であり、この人選には戦国時代の終焉と新たな支配体制の構築という、家康の明確な意図が窺える 35 。その後、長政の子である長重の代に、常陸国内の笠間藩へと加増移封されると、真壁城はその軍事拠点としての役割を終え、やがて廃城となった 34

結論として、天正十八年の「真壁城の戦い」は、城を舞台とした物理的な攻防戦ではなかった。それは、戦国の世の終焉という抗い難い歴史の潮流の中で、真壁氏という一地方勢力が、一族の存亡を賭けて下した戦略的決断と、それに続く一連の軍事・政治行動の総体であった。彼らはこの「戦い」に勝利し、一時的な安泰と領国の平穏を確保した。しかしその代償として、戦国領主としての独立性を失い、より大きな権力構造の一部として組み込まれていく運命を辿った。戦火を免れた真壁城の静かなる「開城」は、まさにその激動の時代の転換点を象徴する出来事であったと言えるだろう。

引用文献

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