真田丸の戦い(1614)
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慶長十九年 真田丸の戦い - 日本一の兵、徳川二十万を震撼させた一日
序章:戦国最後の巨星、大坂に集う
慶長十九年(1614年)。関ヶ原の戦いから十四年の歳月が流れ、徳川家康による天下普請は盤石の域に達しつつあった。江戸に幕府が開かれ、武家諸法度の制定も間近に迫る中、世は「元和偃武」と呼ばれる泰平の世へと移行するかに見えた。しかし、その時代の潮流の中に、依然として巨大な影を落とす存在があった。摂津・河内・和泉の三国、約65万石を領する一大名として存続する豊臣家である 1 。
かつての天下人、豊臣秀吉の遺児・秀頼を戴く大坂城は、徳川の治世をこころよく思わぬ者たちにとって最後の希望の砦であった。徳川家康にとって、豊臣家は主筋にあたる存在でありながら、その潜在的な求心力は天下統一の総仕上げにおける最大の障害であった 1 。天下泰平という大義名分の下、徳川家康は豊臣家を完全に屈服させる、あるいは滅ぼすための最後の戦へと静かに舵を切る。
この徳川の動きに対し、豊臣家もまた戦備を整え始めた。しかし、豊臣恩顧の大名たちは、もはや徳川幕府の体制下で公然と大坂方に味方することは自家の存亡に関わるため、誰一人として馳せ参じる者はいなかった 2 。豊臣方が頼ったのは、関ヶ原の戦い以降に主家を失い、仕官の道を絶たれた浪人たちであった。豊臣家の潤沢な資金を頼りに、真田信繁(幸村)、後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登といった、戦国の修羅場を生き抜いてきた猛者たちが次々と大坂城に集結する。その数、およそ十万 2 。
対する徳川方は、全国の諸大名に動員令を発し、二十万ともいわれる大軍を編成した 2 。これは、単なる兵力差二倍という数字以上の意味を持っていた。徳川軍が指揮系統の確立された正規軍の連合体であったのに対し、豊臣軍は個々の戦闘能力は極めて高いものの、組織としての統制が難しい浪人たちの集団であった 2 。この軍勢の質的な違いが、後に「大坂冬の陣」と呼ばれる戦いの様相を、そして真田丸の戦いの帰趨を決定づけることになる。戦国乱世が最後に放つ、一瞬の、しかし強烈な閃光。その中心に、一人の男が立っていた。
第一部:開戦前夜 - 避けられぬ激突への道程
第一章:鐘銘に刻まれた戦の口実
徳川と豊臣の最終決戦の火蓋は、武力ではなく、わずか八文字の言いがかりによって切られた。慶長十九年(1614年)、豊臣家が再建した京都の方広寺大仏殿の梵鐘に刻まれた銘文が、その引き金となる。「方広寺鐘銘事件」である 1 。
この方広寺の再建自体が、徳川家康の長期的な戦略の一環であった。家康は豊臣家の莫大な財力を削ぐことを目的に、盛んに寺社仏閣の造営を勧奨していた 7 。その集大成ともいえる方広寺の落慶を目前にして、家康は鐘に刻まれた銘文に狙いを定めた。問題とされたのは、「国家安康」「君臣豊楽」という二つの句であった 1 。
徳川方は、これを「国家安康」は家康の名(家・康)を分断し、その身を呪うものであり、「君臣豊楽」は豊臣を君として楽しむと読み替えられ、豊臣家の天下への野心を表明するものだと断じた 1 。これは明らかに意図的な曲解であり、豊臣家を討伐するための大義名分を捏造するための政治的策略であった。豊臣方は弁明のために重臣・片桐且元を駿府の家康のもとへ派遣するが、家康は面会すら拒絶し、交渉は決裂 7 。豊臣家は、徳川への完全服従か、あるいは滅亡かの二者択一を迫られることとなった。
この事件は、家康がいかに周到に豊臣家を追い詰めていたかを物語っている。武力による制圧の前に、まず論理と大義で敵を追い込み、天下の諸大名が徳川方に味方せざるを得ない状況を作り出す。鐘銘は、戦を起こすための最後の「引き金」に過ぎなかったのである 7 。ここに、豊臣家の選択肢は籠城による一戦以外に残されていなかった。
第二章:天下の堅城と唯一の死角
開戦が決定的となると、豊臣方が立て籠もる大坂城が戦いの焦点となった。豊臣秀吉がその権勢の粋を集めて築いた大坂城は、当代随一の堅城として知られていた。その防御力の源泉は、巧みに利用された地形にあった。城の北は淀川、東は大和川と平野川、西は東横堀川と、三方を河川や広大な湿地帯に囲まれた天然の要害であった 9 。大軍が容易に取り付くことはできず、まさに難攻不落を誇っていた。
しかし、この天下の堅城にも、唯一にして最大の弱点が存在した。それは、上町台地と呼ばれる丘陵地続きの南側である 10 。ここだけは広大で平坦な土地が広がっており、大軍を展開して城に迫ることが可能であった 1 。この弱点の存在は、築城主である秀吉自身も、そして攻め手となる家康も熟知していた 10 。
秀吉は生前、この南側の防御を補うため、城下町に多くの寺院を建立し、有事の際にはこれらを防御拠点群として活用する壮大な都市設計を構想していた 12 。しかし、関ヶ原の戦いから十四年が経過し、豊臣家の権威が失墜した今、それらの寺社が徳川の大軍を前に有効な抵抗拠点として機能する見込みはなかった。秀吉が描いた「ソフト面」での防御構想は形骸化し、地形的な脆弱性という「ハード面」での問題だけが残されたのである。
この構造的欠陥をいかにして埋めるか。これが、大坂城籠城戦における最大の課題であった。そして、この課題に対する一つの答えが、後に戦史にその名を刻むことになる出城の建設であった。
第三章:真田信繁、起つ
豊臣家の招きに応じ、大坂城に入った浪人衆の中に、ひときわ異彩を放つ武将がいた。真田左衛門佐信繁、後世に「幸村」の名で知られる男である 13 。関ヶ原の戦いで父・昌幸と共に西軍に与し、敗戦後は紀州九度山に蟄居の身となって十四年の歳月を送っていた 14 。
信繁の大坂方への参陣は、豊臣家への恩義や忠節といった単純な理由だけでは説明できない、複雑な動機が絡み合っていた。第一に、兄・信之が徳川方の大名として真田家を安泰に存続させているという安堵感があった 15 。これにより、信繁は家の存続という重責から解放され、一人の武将として自らの信念に殉じることが可能となった。第二に、戦場でこそ生きる武人としての本能が、生涯最後の華々しい舞台を求めていた 15 。そして第三に、二度にわたって徳川の大軍を退けた父・昌幸から受け継いだ、対徳川への強烈な対抗心があった 16 。
しかし、大坂城内での信繁の立場は、当初から盤石なものではなかった。兄が徳川方であることから内通を疑う声も根強く、彼の献策は容易には受け入れられなかった 18 。城内での軍議において、信繁や後藤基次ら浪人衆の主将たちは、城の堅牢さに頼る籠城策に反対し、徳川軍の態勢が整わぬうちに畿内へ打って出て、京都を制圧し、近江瀬田川を防衛線として迎撃する積極策を主張した 2 。しかし、この案は淀殿や大野治長ら豊臣家譜代の重臣たちによって退けられ、籠城策が決定する 2 。
この状況は、信繁に戦術的な合理性だけでなく、自らの潔白と忠誠心を証明する必要性を迫った。彼が、城の最大の弱点であり、最も危険な最前線である南側の防御を一手に引き受けることを申し出たのは、その決意の表れであった。彼の軍事的才能が唯一認められたこの提案こそが、最強の出城「真田丸」を生み出すことになる。死を覚悟した信繁は、姉に宛てた手紙にこう記している。「我々のことは、この世にいない者と思って欲しい」と 19 。彼の生涯のすべては、この最後の戦に注ぎ込まれようとしていた。
第四章:最強の出城「真田丸」誕生
大坂城南面の防御を任された真田信繁が築いた出城「真田丸」は、従来の城郭建築の常識を覆す、革新的な攻撃型要塞であった。通説では半円形の「馬出(うまだし)」とされてきたが、近年の研究や「大坂冬の陣図屏風」などの絵画史料から、その実像は大きく異なることが明らかになっている 20 。
真田丸は、大坂城の惣構(そうがまえ)の堀から意図的に独立して築かれた、方形に近い形状を持つ巨大な砦であった 20 。その規模は、東側にあった副郭と合わせると東西500メートルにも及び、単なる出城というよりは、それ自体が一つの城と呼ぶにふさわしいものであった 20 。この独立した配置こそが、信繁の戦術思想の核心であった。敵の大軍を大坂城本体から引き離し、真田丸という限定された空間、すなわち「キルゾーン」に誘い込んで殲滅する。そのための全ての機能が、この出城には盛り込まれていた。
その構造は、信繁が想定した戦術と完全に一体化していた。
- 巨大な空堀と三重の柵: 真田丸の三方を囲む空堀は、幅約43メートル、深さ約8メートルという壮大なものであった 20 。その急峻な斜面(傾斜50度以上ともいわれる)には乱杭や逆茂木がびっしりと仕掛けられ、敵兵の突撃速度を殺ぎ、堀底で密集させる効果を狙っていた 12 。さらに堀の外縁、内部、そして塀との間には三重の柵が設けられ、敵の侵攻を幾重にも阻んだ 9 。
- 二層式の塀と武者走り: 堀を越えた敵を待ち受けるのは、高くそびえる土塁の上に築かれた塀であった。この塀の内部は二層構造になっており、鉄砲隊が上下二段から間断なく射撃できる幅約2.1メートルの通路「武者走り」が設けられていた 20 。これにより、堀底で動きが鈍った敵兵に対し、圧倒的な火力を時間差なく集中させることが可能となった。
- 側面攻撃(横矢掛かり)の徹底: 『当代記』に「此丸ハ惣構江横矢俄二取手シ曲輪也」と記されているように、真田丸は正面からの攻撃だけでなく、側面からも十字砲火を浴びせられるよう、巧みに設計されていた 22 。敵兵は、逃げ場のない空間で三方から弾丸の雨を浴びることになる。
これらの構造は、父・昌幸と共に徳川の大軍を二度撃退した上田城での籠城戦の経験が昇華されたものであり、真田流築城術の集大成であった 16 。真田丸は、静的な「防御施設」ではなく、敵を能動的に殲滅するための動的な「戦闘装置」として誕生したのである。
表1:大坂冬の陣における両軍の戦力比較
項目 |
徳川方 |
豊臣方 |
総兵力 |
約20万 2 |
約10万 2 |
兵員構成 |
諸大名の正規軍 |
関ヶ原以降の浪人衆が中心 2 |
主要指揮官 |
徳川家康、徳川秀忠、前田利常、伊達政宗、藤堂高虎など |
豊臣秀頼、大野治長、真田信繁、後藤基次、毛利勝永など |
兵站・組織力 |
幕府による統一的な指揮と補給体制 |
個々の将に依存し、組織的連携に課題 |
第二部:慶長十九年十二月四日 - 合戦のリアルタイム再現
第一章:黎明前(午前4時頃~) - 篠山での挑発
慶長十九年十二月四日(西暦1615年1月3日)、大坂の空が白み始める前の暗闇の中、真田丸の戦いの序曲が奏でられた。徳川方の最前線、真田丸の正面に布陣する加賀百万石の雄、前田利常の軍勢が動いた。彼らの目標は、真田丸の前方に位置する小高い丘「篠山」の奪取であった 23 。
前田勢の先鋒、本多政重らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がると、そこはもぬけの殻であった。真田勢はすでに撤収しており、抵抗を受けることなく占拠に成功する 23 。これは、信繁が周到に仕掛けた罠の第一段階であった。あえて前方の拠点を簡単に放棄することで、敵に「勝利」の錯覚を与え、「真田恐るるに足らず」という油断と驕りを植え付ける。戦いは物理的な衝突が始まる前に、すでに心理戦の領域で始まっていた。
第二章:夜明け(午前6時頃~) - 前田勢、罠にかかる
夜が明けると、状況は一変する。真田丸の城壁から、真田勢による執拗な挑発が開始された 23 。鉄砲による散発的な射撃に加え、『真武内伝』によれば、「鳥でも撃ちに来たのか?」といった嘲笑が浴びせられたという 24 。
この侮辱に激高したのが、前田利常(当時22歳)であった。偉大な父・利家の威光と、百万石の大藩を率いる当主としての重圧を背負う若き将にとって、浪人集団からの嘲りは耐え難い屈辱であった 25 。功を焦る気持ちと、傷つけられた自尊心が、彼の冷静な判断力を完全に奪い去った。
総大将である家康の命令を待つことなく、前田勢約1万2千は怒涛の如く真田丸へと突撃を開始した 24 。信繁の罠は、完璧に作動した。敵は計算通り、最も無防備で、最も感情的な状態で、自ら死地へと足を踏み入れたのである 1 。
第三章:午前(午前8時頃~) - 乱戦と崩壊
前田勢の突出は、徳川方の指揮系統の脆弱性を露呈させ、戦場に連鎖的な混乱を引き起こした。前田勢の動きを見た井伊直孝(当時25歳)、そして家康の孫である松平忠直(当時20歳)の部隊が、手柄を独占されまいと我先にと真田丸へ殺到したのである 24 。
表2:真田丸攻略に参加した徳川方主要部隊
指揮官 |
年齢 |
出自 |
兵力(推定) |
前田 利常 |
22歳 |
前田利家の四男、加賀藩主 |
約12,000 25 |
井伊 直孝 |
25歳 |
徳川四天王・井伊直政の次男 |
約4,000 25 |
松平 忠直 |
20歳 |
徳川家康の孫、結城秀康の長男 |
約10,000 25 |
彼らはいずれも名門の跡を継いだ若き将であり、この大戦で武功を立てることへの渇望は極めて強かった 25 。関ヶ原から十四年が経ち、戦の実体験に乏しい新世代の指揮官たちにとって、全体の戦略よりも個々の武功が優先された 26 。徳川軍の攻撃は、統制された軍事行動ではなく、連携を欠いた功名争いの場と化した。
彼らが真田丸の巨大な空堀になだれ込んだ瞬間、信繁の「殲滅装置」が牙を剥いた。堀底で動きを封じられ、密集した徳川兵に対し、真田丸の二層の塀から鉄砲の弾丸が雨霰と降り注いだ 23 。特に、鉄の甲冑をも貫通する威力を持つ大口径の「士筒」と呼ばれる鉄砲が効果を発揮し、徳川兵は為す術もなく次々と斃れていった 12 。
さらに混乱に拍車をかけたのが、大坂城内で起きた偶発的な事故であった。城方の石川康勝隊の持ち場で火薬庫が爆発。この轟音を、徳川方は城内に寝返りを約束していた南条元忠の内応の合図と誤認し、さらに激しく攻め立てた 23 。信繁が仕掛けた罠と、戦場の偶然が最悪の形で組み合わさり、真田丸の前面は徳川方にとって一方的な殺戮の場と化したのである。
第四章:午後(正午~午後3時過ぎ) - 惨状と退却
茶臼山に構えた本陣からこの惨状を目の当たりにした徳川家康は、ついに全軍に退却を命令した 1 。しかし、一度動き出した巨大な軍勢を、しかも敵の猛射の中で後退させることは至難の業であった。
徳川方の敗因を決定的にしたのは、その油断にあった。圧倒的な兵力差から豊臣方を侮り、多くの部隊が竹束(移動式の竹の盾)や鉄楯といった基本的な防御装備すら持たずに攻め込んでいたのである 1 。身を隠すものがない兵士たちは、真田丸からの正確な射撃の格好の的となり、退却しようにもできず、次々と命を落としていった。
前田勢は先鋒と第二陣が壊滅的な打撃を受け、井伊勢も数百名の死者を出すなど、徳川方の損害は甚大であった 25 。ようやく混乱した軍勢が撤退を完了したのは、午後3時を過ぎてからであったという 23 。
退却後、家康は諸将を呼び集め、命令を無視した軽率な行動を厳しく叱責し、以後の戦いでは必ず竹束・鉄楯を使用するよう厳命した 1 。この一戦は、徳川軍全体に「真田恐るべし」という強烈な教訓と、深い屈辱を刻み込んだ。豊臣方、そして真田信繁の完全勝利であった。
第三部:戦後と伝説 - 一戦が変えたもの
第一章:勝敗の分岐点 - 戦術と心理の交差点
真田丸の戦いは、単なる局地戦の勝利に留まらない、時代の転換点を象徴する戦いであった。その勝敗を分けた要因は、戦術、心理、そして組織構造の全てに及んでいる。
徳川方の敗因は明確であった。第一に、前田、井伊、松平といった主要指揮官の若さと、それに起因する功名心であった 25 。彼らは、家康が描く全体の戦略よりも、個人の手柄を優先し、連携を欠いた無謀な突撃を敢行した。第二に、圧倒的な兵力差が生んだ組織全体の「油断」である 1 。浪人中心の豊臣軍を侮り、基本的な防御装備すら怠ったことは、致命的な結果を招いた 1 。これは、譜代と外様が入り混じる巨大連合軍の指揮系統が、非常時において十分に機能しなかったという組織的欠陥をも露呈させた 28 。
対照的に、豊臣方の勝因は、その全てが真田信繁という一人の指揮官の才能に集約される。彼は、敵の心理を巧みに読み解き、挑発によって相手を自滅的な行動へと誘導した。そして、その戦術思想を具現化した「真田丸」という要塞を築き、誘い込んだ敵を最新の火器運用で殲滅した。これは、個人の武勇や名誉を重んじる旧来の戦国的な価値観で動いた徳川方の若き将たちと、地形、兵器、兵士心理を冷徹に計算し尽くした信繁の近世的な合理主義戦術との鮮やかな対比であった。真田丸の戦いは、戦国という時代の価値観が最後に放った輝きであり、同時にその時代の終わりを告げる戦いであったと言えよう。
第二章:大御所の戦略転換
真田丸での手痛い敗北は、老練な徳川家康の戦略に大きな転換を促した。彼はこの一戦で、真田丸、ひいては大坂城を力攻めで陥落させることがいかに困難で、多大な犠牲を伴うかを痛感した 29 。これ以降、家康は兵士の損耗を避けるべく、正面からの攻撃を控え、より陰湿かつ効果的な戦術へと切り替える。
その主軸となったのが、心理戦を目的とした大砲による砲撃であった。徳川方は、イギリスやオランダから輸入したカルバリン砲などの最新鋭の大筒を戦線に投入 13 。これらの大砲は、城壁を破壊する目的よりも、城の中枢、特に意思決定者である淀殿やその側近たちの戦意を直接挫くために用いられた 30 。
砲撃は昼夜を問わず続けられ、その砲弾はついに本丸の御殿に着弾。淀殿の侍女8名が死亡する悲劇が起こる 1 。この凄惨な光景を目の当たりにした淀殿は恐怖に駆られ、それまでの強硬な籠城論から一転、和議へと大きく傾いた。
皮肉なことに、真田丸での戦術的な大勝利が、豊臣家を戦略的な敗北へと導いたのである。信繁が徳川軍に与えた衝撃が大きすぎたために、家康は力攻めという選択肢を捨て、豊臣方の精神を直接攻撃する策を選んだ。そして、その策が見事に功を奏し、豊臣方は最大の戦果を挙げた直後に、城の堀をすべて埋め立てられるという、事実上の武装解除に等しい最悪の条件での和議を受け入れざるを得なくなったのである。
終章:「日本一の兵」の誕生
真田丸の戦いは、真田信繁という一人の武将を、歴史上の人物から不滅の伝説へと昇華させた決定的な瞬間であった。彼の知略と勇猛さは、味方はもちろんのこと、敵である徳川方の武将たちにさえ、畏敬の念を抱かせた。
その評価を象徴するのが、薩摩の島津家久(忠恒)が国許へ送った書状に残された一文である。「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由」(真田は日本一の兵だ、このような話は昔の物語にも聞いたことがない) 31 。また、同じく徳川方として参陣した細川忠興も「古今これなき大手柄」と、その戦いぶりを絶賛している 19 。利害関係のない敵将、それも当代一流の武将たちからのこの上ない賛辞は、信繁の武名を客観的に証明するものとして絶大な説得力を持ち、後世に語り継がれていくことになる。
信繁の生涯は、大坂の陣に至るまで、決して華々しい武功に満ちたものではなかった 19 。しかし、この一戦で見せた「圧倒的劣勢を知略で覆す鮮やかさ」と「巨大な権力に一矢報いる反骨の精神」が、人々の心を強く捉えた。勝者である徳川の治世下において、敗者でありながらその武勇を称賛されるという稀有な存在となり、江戸時代の講談や草双紙を通じて、その英雄像は国民的なものへと形成されていった。
真田丸の戦いは、戦国時代の終焉を飾る大坂の陣において、最も鮮烈な輝きを放った戦いである。そしてそれは、真田信繁という男が、その生涯のすべてを賭して成し遂げた、伝説の原点なのである。
引用文献
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- 2-17 大坂の陣・金森氏の配置場所 http://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2020/07/d15dfeb764a859655ad826a1bc6643eb.pdf
- 大坂の陣|国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=63
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- 真田親子に学ぶ危機突破力 - TKCグループ https://www.tkc.jp/cc/senkei/201608_special02
- 大坂冬の陣 屏風絵解説!なぜ真田は勝てたのか?徳川軍が敗戦した真田丸の激戦とは「早わかり歴史授業83 徳川家康シリーズ51」日本史 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5dzY84ruGdA
- 大坂夏の陣/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7033/
- 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
- 徳川家康が大坂の陣で配備した大筒とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/114558/
- 1610 大阪歴史博物館 真田丸 - SENgoKU anD VISIon -乱世を追う- https://ranseoi.hatenablog.jp/entry/2016/12/21/213049
- 第25回・最終回【安居神社】信繁最期の地 | 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/190?page=1
- 「真田幸村(信繁)」”日本一の兵” と評された伝説の将の生涯とは ... https://sengoku-his.com/400