最終更新日 2025-09-03

石山・天満川口の舟戦(1576)

天正四年、毛利水軍は第一次木津川口の戦いで織田水軍を焙烙火矢で撃破。石山本願寺への海上補給に成功し、信長を苦しめた。この敗北が鉄甲船建造の契機となる。
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第一次木津川口の戦い(1576年):信長の天下布武を揺るがした海戦の全貌

序章:天下布武の前に立ちはだかる海の要塞

天正4年(1576年)7月、摂津国木津川河口、現在の大阪湾一帯を舞台に、日本の海戦史において特筆すべき一戦が繰り広げられた。世に言う「第一次木津川口の戦い」である。利用者様が提示された「石山・天満川口の舟戦」という呼称は、戦いの主目的が石山本願寺への補給にあったことを的確に捉えているが、本報告書では学術的に広く用いられる「第一次木津川口の戦い」の名称を主として使用する 1

この海戦は、10年以上にわたって織田信長を苦しめ続けた石山合戦の趨勢を決定づける、極めて重要な戦略的意義を持っていた 3 。単なる一地方における局地的な海戦ではなく、信長の天下統一事業そのものに深刻な影響を与えた一大決戦であった。陸上において連戦連勝を重ね、天下布武への道を突き進む信長であったが、この戦いは彼が初めて本格的に直面した「海」という異なる次元からの挑戦であり、その壮大な戦略における致命的な弱点、いわばアキレス腱を天下に露呈させる結果となったのである。石山本願寺という難攻不落の要塞の生命線を巡るこの攻防は、戦国時代の軍事ドクトリンそのものに大きな変革を迫る、歴史の転換点であった。

第一章:戦略的背景 ― 膠着する石山攻め

石山合戦の長期化と信長の包囲戦略

天正4年(1576年)の時点で、元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は、すでに6年もの歳月が経過していた 3 。浄土真宗本願寺教団の拠点である石山本願寺は、三方を川に、一方を海に囲まれた天然の要害であり、信徒による強固な防衛網が敷かれていた。信長は陸路からの攻撃を幾度となく試みたが決定的な勝利を得られず、戦況は長期にわたる膠着状態に陥っていた。

この状況を打開すべく、信長は武力による強襲から兵糧攻めへと戦術を転換する。天正4年5月の天王寺合戦で本願寺勢に打撃を与えた後、信長は石山本願寺の周囲に砦を築き、陸路からの兵糧や弾薬の補給を完全に遮断した 6 。これにより本願寺を経済的に孤立させ、内部からの崩壊を狙うという、彼の合理主義的な思考に基づく冷徹な戦略であった。

本願寺の救援要請と毛利氏の介入

陸からの補給路を断たれた石山本願寺は、深刻な物資不足に陥った。宗主である顕如は、この窮状を打開するため、反信長勢力の西国における最大の雄、安芸国の毛利輝元に海路からの救援を要請した 6 。これは、毛利氏が石山合戦へ本格的に介入する直接的な引き金となった。

当時の毛利氏は、京を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭を庇護しており、信長とは対立関係にあった。毛利氏にとって本願寺への支援は、単に同盟者を助けるという義理だけの問題ではなかった。それは、東から急速に勢力を拡大する信長の進撃を食い止め、自らの勢力圏を防衛するための極めて重要な戦略的行動であった 4 。本願寺への兵糧輸送は、信長の支配域である摂津国の目と鼻の先へ軍事力を投入することを意味する。これは救援という名目を借りた、事実上の代理戦争であり、織田・毛利という当時の二大勢力の覇権争いの前哨戦としての性格を色濃く帯びていた。陸の覇者である信長と、瀬戸内海の制海権を握る海の覇者である毛利。両者の軍事思想と戦略が、初めて大規模に激突する舞台が整えられたのである。

第二章:両軍の戦力分析 ― 瀬戸内の覇者と寄せ集めの迎撃隊

この戦いにおける両軍の戦力構成は、その後の勝敗を運命づけるほど対照的であった。それは、専門技術と統一された指揮系統を持つ「海軍」と、在地勢力を一時的に結集させた「海上戦力」との差であったとも言える。

織田水軍:指揮系統の不統一と質的劣勢

織田方が木津川河口の封鎖に動員した兵船は、約300艘であった 6 。この艦隊の主力は、信長に服属していた和泉国の真鍋氏や沼野氏、摂津国の宮崎氏といった在地領主(国衆)の水軍衆であり、いわば急造の「寄せ集め」部隊であった 10 。彼らはそれぞれが独立した水軍領主であり、信長の命令一下で集結はしたものの、平時から連携訓練を積んだ一体の組織ではなかった。

『信長公記』などの一次史料を見ても、この艦隊に信長が任命した明確な総大将(提督)の名は見当たらない。真鍋貞友(七五三兵衛)といった歴戦の将が中核を担ってはいたが、それはあくまで現場指揮官の一人に過ぎず、艦隊全体の統一された指揮系統は脆弱であったと考えられる 10 。兵装は鉄砲や弓矢が主であり、敵船を焼き払うための「火矢」も用いられたが、これは陸戦の延長線上にある装備であった 13 。彼らの任務は、あくまで河口を封鎖し、敵の侵入を阻止するという防御的なものに限られていた。

毛利水軍:専門家集団と新兵器

対する毛利水軍は、織田方を遥かに凌駕する規模と質を誇っていた。総兵船数は700から800艘(一説に600艘)に及び、数において織田方を圧倒していた 6

この大船団の中核を成していたのは、能島・来島・因島の三家から成り、「日本最強」と謳われた村上水軍であった 1 。彼らは瀬戸内海を知り尽くした海戦の専門家集団であり、その操船技術と戦闘能力は他の追随を許さなかった。さらに、毛利一門である小早川氏の水軍、そして紀伊国から参じた雑賀衆の水軍も加わり、強力な連合艦隊を形成していた 1 。特に雑賀衆は機動力に優れた小型船団を駆使し、遊撃的な役割を担ったと推測される 14

指揮系統も盤石であった。能島村上氏当主・村上武吉の嫡男である村上元吉と、毛利水軍の重鎮である乃美宗勝(浦宗勝)という、経験豊富な将帥が全軍を統率していた 12 。そして、彼らがこの戦いのために用意した切り札が、当時の海戦の常識を覆す新兵器「焙烙火矢(ほうろくひや)」または「焙烙玉(ほうろくだま)」であった 1 。これは素焼きの壺に火薬を詰めた手榴弾のような兵器であり、その破壊力は織田方の想像を絶するものであった。

両軍戦力比較表

両軍の戦力差を視覚的に示すため、以下の比較表を提示する。この表は、毛利方の勝利が単なる偶然ではなく、兵力、組織、技術といったあらゆる面での構造的優位性に基づいていたことを明確に示している。

項目

織田水軍

毛利水軍

総兵船数

約300艘

約600~800艘

主力艦種

安宅船、関船、小早

安宅船、関船、小早

主要指揮官

真鍋貞友、沼野氏、宮崎氏など

村上元吉、乃美宗勝(浦宗勝)

中核戦力

和泉・摂津等の国衆水軍(混成部隊)

村上水軍、小早川水軍、雑賀衆(連合艦隊)

主要兵装

鉄砲、弓矢、火矢

焙烙火矢 、鉄砲、弓矢

戦術的特徴

海上封鎖による防御戦

兵糧搬入を目的とした突破戦

この戦力差は、毛利方が単なる数の集合体ではなく、役割分担がなされた機能的な連合艦隊であったことを示唆している。村上水軍の大型船が正面戦力となり、雑賀衆の小型船が攪乱や側面支援を行うなど、異種戦力の長所を組み合わせた高度な戦術が準備されていた可能性が高い。

第三章:決戦前夜 ― 毛利大船団、大坂湾へ

毛利輝元の厳命を受け、村上元吉と乃美宗勝に率いられた大船団は、石山本願寺を救うための兵糧米を山と積み込み、安芸国の本拠から瀬戸内海を東へと進んだ 7 。その数、実に800艘近く。瀬戸内の海を埋め尽くさんばかりの威容であった。

船団は播磨灘を抜け、大坂湾へと南下。そして、本願寺門徒の拠点であり、織田方の監視網の内側ともいえる和泉国貝塚の沖合で、待機していた雑賀衆の水軍と合流を果たした 15 。この合流は、単に戦力を増強する以上の意味を持っていた。織田方の目と鼻の先で堂々と大艦隊を編成してみせることは、迎撃部隊に対する強力な心理的圧力となると同時に、籠城する本願寺の門徒たちに救援の確実性を伝え、その士気を大いに鼓舞する、計算され尽くした示威行動であった。

一方、毛利大船団接近の報は、織田方にもたらされていた。信長の命を受け、真鍋氏ら和泉・摂津の水軍衆は急ぎ木津川河口域に展開。河口を完全に封鎖し、毛利水軍の侵入を水際で阻止すべく、防御陣形を敷いて待ち構えた 9 。当時の木津川河口は、複数の川が流れ込む複雑な地形で、防御側にとっては敵の大軍を狭い水路に誘い込み、各個撃破するのに有利なチョークポイント(隘路)でもあった 1 。織田方は、この地理的利点を活かし、数の劣勢を覆そうと計画していた。大坂湾には、決戦を前にした両軍の緊張が満ちていた。

第四章:合戦詳報:木津川口の激突(天正四年七月十三日)

天正4年7月13日(『信長公記』では15日と記されるが、他の史料から13日説が有力視されている)、ついに決戦の火蓋が切られた 12 。この日の戦闘の推移を、時間の経過に沿って詳述する。

【時間経過描写①:黎明~正午】 対峙と序盤戦

夜が明けた木津川河口には、異様な光景が広がっていた。河口を固く封鎖する織田水軍約300艘。その前には、水平線を埋め尽くす毛利・雑賀連合艦隊約800艘が、威圧的な陣形を組んで対峙していた。数の差は歴然であり、織田方の将兵は、眼前に広がる敵の大船団に畏怖の念を抱いたに違いない。

戦端は、双方の遠距離攻撃によって開かれた。織田方は防御陣形から鉄砲や弓矢を放ち、毛利方の接近を阻もうとする。対する毛利方は、先鋒部隊がこれをものともせず、封鎖線への突撃を敢行。海上には鬨の声と、鉄砲の轟音、矢の飛来する音が響き渡った 13 。序盤戦は、互いの操船技術と遠距離火力を試し合う、一進一退の攻防が続いた。織田方は地の利を活かして善戦し、毛利方の突破を容易には許さなかった。

【時間経過描写②:午後】 戦局転換 ― 焙烙火矢の投入

昼過ぎ、膠着した戦況を打破すべく、毛利方がついに切り札を投入した。村上水軍の兵士たちが、合図と共に「焙烙火矢」に点火し、織田方の密集した船団めがけて次々と投げ込み始めたのである 9

焙烙火矢の効果は、織田方の想像を絶するものであった。放物線を描いて飛来した素焼きの壺は、織田方の船の甲板や帆に当たると、凄まじい轟音と共に爆発。陶器の鋭い破片が飛び散り、内部に詰められた火薬と油が燃え盛りながら周囲に撒き散らされた 18 。木造船にとって火は最大の敵である。一瞬にして複数の船が炎上し、火は風にあおられて次々と隣の船へと燃え移った。織田艦隊は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

【時間経過描写③:午後~夕刻】 潰走と阿鼻叫喚

この未知の兵器による攻撃は、織田方の将兵に物理的な損害以上の「心理的衝撃」を与えた。従来の海戦における矢や鉄砲、あるいは白兵戦とは全く異なる、「爆発」という不可視かつ防御不能な脅威は、彼らの戦闘意欲を根底から粉砕した。指揮系統は完全に麻痺し、組織的な抵抗は不可能となった。

燃え盛る船から海へ飛び込む兵士が続出したが、重い甲冑を身に着けた彼らの多くは、泳ぐこともできずに溺死していった 13 。『信長公記』には、この時の惨状が克明に記されている。和泉水軍の勇将・真鍋七五三兵衛をはじめ、伊賀、伝内、野口、小畑といった名の知れた武将たちが、なすすべもなく次々と討ち死にした 12 。織田水軍はもはや艦隊としての体をなさず、完全に潰走状態に陥った。

【時間経過描写④:日没後】 戦いの終結

夕刻には、勝敗は完全に決していた。織田方が築いた封鎖線は見る影もなく瓦解し、毛利水軍は戦場を完全に支配した。村上元吉らは、護衛していた兵糧輸送船団に前進を命じ、船団は誰に妨げられることもなく、悠々と木津川を遡上して石山本願寺の城内へと大量の兵糧や弾薬を運び込んだ 7

戦略目標を完遂した毛利水軍は、敗走する織田方の残存兵力を深追いすることはなかった。陽が落ちた大坂湾には、黒煙を上げて燃え尽き、沈みゆく織田方の船の残骸と、数えきれないほどの将兵の亡骸が静かに漂っていた。

第五章:勝敗の分岐点 ― 焙烙火矢と海戦術の革新

第一次木津川口の戦いにおける織田方の惨敗は、必然の結果であった。その要因は、単一のものではなく、戦略、組織、技術、戦術といった複数の側面が複雑に絡み合ったものであった。

毛利方の勝因:総合力の勝利

毛利方の勝利は、以下の四つの主要因に集約される。

第一に、圧倒的な数的優位である。約800艘対300艘という兵船数の差は、戦いの主導権を終始毛利方が握ることを可能にした 6。

第二に、卓越した組織力と練度である。村上水軍という海戦の専門家集団を中核に据え、乃美宗勝ら経験豊富な指揮官が統率する艦隊は、寄せ集めの織田水軍とは比較にならないほどの連携と戦術遂行能力を発揮した 6。

第三に、画期的な技術的優位である。焙烙火矢という新兵器は、従来の海戦の様相を一変させるほどの破壊力と心理的効果を持ち、織田水軍を壊滅させる決定打となった 13。

第四に、周到な戦略である。雑賀衆との事前連携に見られるように、毛利方は単に兵力を投入するだけでなく、緻密な作戦計画に基づいて行動していた 15。

織田方の敗因:合理主義の限界

一方、織田方の敗因は、毛利方の勝因の裏返しであった。

第一に、戦力の量的・質的劣勢は明らかであった。国衆の混成部隊は数で劣るだけでなく、組織としての結束力も欠いていた 11。

第二に、指揮系統の脆弱性が露呈した。全軍を統括する強力なリーダーシップの不在は、焙烙火矢による混乱状態からの立て直しを不可能にした。

第三に、技術的・戦術的後進性である。焙烙火矢という新兵器に対し、織田方は何ら有効な対抗策を持たなかった 13。

そして、これらの敗因の根底には、信長自身の戦略的判断における一種の「油断」があったと言える。陸戦において鉄砲の大量配備や兵農分離といった合理的な改革で成功を収めてきた信長は、海戦という未知の領域においても、既存の在地勢力を動員するという安易で「合理的」な手段を選択した 20 。彼は、海戦には陸戦とは全く異なる専門技術、長年の経験、そして特殊な兵器体系が必要であるという、いわば「海の論理」を十分に理解していなかった。この敗北は、信長の合理主義が万能ではなく、専門領域への深い理解を欠いた際には破綻しうることを示す、痛烈な教訓となったのである。

第六章:戦後の影響と歴史的意義 ― 鉄甲船の誕生へ

第一次木津川口の戦いでの惨敗は、織田信長の天下統一事業に深刻な影響を与えただけでなく、日本の軍事史、特に海戦史の新たな扉を開く契機となった。

石山合戦の泥沼化と信長の決断

毛利方による大規模な兵糧搬入の成功により、餓死寸前であった石山本願寺は息を吹き返し、その抵抗はさらに激しさを増した。信長が企図した兵糧攻めによる早期解決の目論見は完全に頓挫し、石山合戦はさらなる泥沼化の様相を呈することになった 7

この手痛い敗北の報に接した信長は、衝撃を受けると同時に、極めて重要な戦略的判断を下す。それは、毛利水軍、とりわけ村上水軍を海上において撃破しない限り、石山本願寺の攻略は不可能であるという冷徹な現実認識であった 6 。そして彼は、この敗北を単なる失敗として終わらせず、次なる勝利への糧とした。従来の常識を根底から覆す、全く新しい軍船の開発を決意したのである。

鉄甲船の誕生と海戦術のパラダイムシフト

信長は、志摩国の水軍の将であり、その能力を高く評価していた九鬼嘉隆を抜擢し、「焙烙火矢で燃えない巨大な船」の建造を命じた 6 。これが、後に日本の海戦史にその名を刻む「鉄甲船」誕生の瞬間であった。

鉄甲船は、この度の敗戦の教訓を徹底的に反映した設計となっていた。焙烙火矢の炎を防ぐために船体の重要部分を鉄板で覆い(その範囲については諸説ある)、毛利方の大型船を粉砕するために大砲を複数搭載するなど、まさに対・毛利水軍を念頭に置いた決戦兵器であった 22

この第一次木津川口の戦いは、日本の海戦史における「パラダイムシフト」の引き金となったと言える。この戦い以前の海戦は、船を移動プラットフォームとし、敵船に乗り移っての白兵戦が雌雄を決するという、「海上の陸戦」の延長線上にあった 13 。しかし、焙烙火矢の登場は、船自体を直接破壊する「対艦兵器」の時代の到来を告げた。それに対し信長が生み出した鉄甲船は、防御力を高め、大砲による遠距離砲撃を主戦術とする、船そのものが主兵器となる「近代海戦の萌芽」ともいえる思想で建造された 23

第一次の敗北から2年後の天正6年(1578年)、九鬼嘉隆率いる6艘の鉄甲船を中核とした織田水軍は、第二次木津川口の戦いで毛利水軍を完膚なきまでに撃破し、大坂湾の制海権を完全に奪取する 6 。これにより石山本願寺は完全に孤立し、天正8年(1580年)の講和・退去へと繋がっていくのである 8

結語:戦国海戦史の一大転換点

天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いは、織田信長の軍事的キャリアにおける数少ない、そして最も屈辱的な敗北の一つであった。しかし、その歴史的意義は単なる一敗戦に留まらない。この戦いは、信長の天下統一戦略に「制海権」という新たな概念の重要性を痛烈に刻み込ませた決定的な出来事であった。

毛利水軍が用いた焙烙火矢は、その有効性を戦史に証明し、日本の海戦術に新たな次元をもたらした。そして、その脅威に対抗すべく信長が生み出した鉄甲船は、防御と火力を重視した新たな軍船の思想を体現し、技術革新の連鎖反応を引き起こした。この一戦は、戦国時代の軍事技術、とりわけ海戦術の発展を数段階押し上げる、極めて重要な触媒として機能したのである。

したがって、「石山・天満川口の舟戦」こと第一次木津川口の戦いは、石山合戦の一局面に過ぎないのではなく、日本の海戦が伝統的な接舷白兵戦から近代的な艦隊砲撃戦へと移行する、その分水嶺に位置する一大転換点であったと結論付けられる。信長の敗北は、皮肉にも日本の軍事技術の革新を促し、後の時代の海軍思想にも繋がる重要な礎を築いたのである。

引用文献

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  2. 木津川口の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 石山合戦(灰賦峠)古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/ishiyamakassen/
  4. 織田信長石山本願寺合戦全史 : 顕如との十年戦争の真実 - 新書マップ https://shinshomap.info/book/9784584120521
  5. 石山合戦 顕如と信長との死闘の11年 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kennyotoishiayakasen.html
  6. 木津川口の戦い古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kidugawaguchi/
  7. (144)“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺” http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-209.html?sp
  8. 信長包囲網 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2
  9. [合戦解説] 5分でわかる木津川口の戦い 「毛利水軍の焙烙火矢に敗北した信長は巨大鉄甲船で立ち向かう」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=tCpQZIc-N5I
  10. 真鍋貞成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%8D%8B%E8%B2%9E%E6%88%90
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  12. 木津川口の戦いと村上海賊 - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2014/06/11/213000
  13. 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは ... https://www.rekishijin.com/12188
  14. 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
  15. 戦国一の鉄砲集団「雑賀衆」と戦国最強の海賊「村上海賊」はつながっていた⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28211
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  17. 1月 2020 - 今週の今昔館 http://konkon2001.blogspot.com/2020/01/
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  19. 海賊が最強艦隊に?知られざる戦国時代の海上戦と英雄たち | レキシノオト https://rekishinote.com/naval-battle/
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  21. PR 鳥羽湾に九鬼水軍と「信長の鉄甲船」がARで出現!陸上で、船上で、その迫力を体感せよ! https://shirobito.jp/article/2018
  22. 信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸 木津川口の戦いで活躍|信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 | 鉄甲船の復元模型を狭山造船所京橋船台で建造 https://www.sayama-sy.com/
  23. 信長の鉄甲船の真実とは?|代筆屋 やまだ - note https://note.com/daihitsuya/n/n622dc5436bcc
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