最終更新日 2025-09-01

石神井城の戦い(1477)

日本の戦国黎明期における画期:石神井城の戦い(1477年)に関する総合的考察

序章:戦国黎明の関東―石神井城の戦いが持つ意味

日本の歴史において「戦国時代」の始まりをいつに置くかという問いに対して、多くの人々は京都で勃発した応仁の乱(1467-1477年)を想起するであろう。しかし、その10年以上も前から、関東地方は室町幕府の権威が及ばぬ混沌の坩堝と化し、事実上の戦国時代へと突入していた。その巨大な地殻変動の震源となったのが、享徳3年(1454年)に始まり、実に28年間にもわたって関東全域を荒廃させた「享徳の乱」である 1 。この大乱は、鎌倉公方と関東管領という二つの最高権力の対立を軸に、在地領主たちの離合集散を招き、既存の支配秩序を根底から覆した 3

本報告書が主題とする文明9年(1477年)の「石神井城の戦い」は、この享徳の乱の最終盤に、関東管領上杉家の内紛である「長尾景春の乱」から派生した一連の合戦の一つである。しかし、その歴史的意義は単なる局地戦に留まらない。この戦いは、扇谷上杉家の家宰として類稀なる才覚を発揮し、新時代の秩序を築こうとしていた太田道灌と、平安時代以来、武蔵国に深く根を張る旧来の名族・豊島氏との間で繰り広げられた、地域の覇権を賭した宿命的な衝突であった 5

したがって、石神井城の戦いを理解することは、関東における中世的権威の終焉と、実力主義に基づく新たな時代の到来を象徴する出来事を解き明かすことに他ならない。本報告書は、現存する史料、特に太田道灌自身が書き残した書状である『太田道灌状』と、後世の軍記物である『鎌倉大草紙』の記述を比較検討しつつ、この戦いの全貌を可能な限り詳細な時系列に沿って再構築する。そして、その背景にある複雑な政治情勢、両雄の戦略、そして合戦がもたらした歴史的帰結を多角的に分析し、石神井城の戦いが日本の戦国史において持つ真の意味を明らかにすることを目的とする。

第一章:混沌の坩堝―享徳の乱と二つの上杉家

石神井城の戦いを理解するための大前提となるのが、関東地方を約30年間にわたり分裂と戦乱に陥れた享徳の乱である。この乱の構造を把握せずして、豊島氏の蜂起も太田道灌の戦いも、その本質を見抜くことはできない。

享徳の乱の勃発と関東の東西分断

享徳3年(1454年)12月、第5代鎌倉公方・足利成氏が、自らの補佐役である関東管領・上杉憲忠を鎌倉の邸宅に呼び出し、謀殺するという衝撃的な事件が発生した 2 。この事件は、かねてより燻っていた鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立を一挙に爆発させ、関東全域を巻き込む大乱へと発展した 4

室町幕府は成氏を「逆賊」と断じ、駿河守護・今川範忠らを討伐軍として派遣した。これに対し成氏は鎌倉を放棄し、下総国古河(現在の茨城県古河市)に本拠を移した。以後、彼は「古河公方」と称され、関東の東部から北部にかけての有力武士層を味方につけ、幕府・上杉方と徹底抗戦の構えを見せる 1 。一方、幕府は成氏に対抗するため、将軍足利義政の弟・政知を新たな鎌倉公方として関東へ派遣したが、関東の武士たちの支持を得られず、鎌倉に入ることさえできずに伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に留まった。彼は「堀越公方」と呼ばれ、その権威は限定的なものに終わった 1

この結果、関東地方は、古河公方成氏が支配する東国(下総、上総、常陸など)と、関東管領上杉氏が幕府の権威を背景に支配する西国(武蔵、上野、相模など)とに、利根川を境界として事実上二分されることとなった 2 。在地領主たちは、この二大勢力のいずれに属するかという厳しい選択を常に迫られ、昨日までの味方が今日の敵となる、先の見えない戦乱の時代が続いたのである。

二つの上杉家―山内家と扇谷家

古河公方と対峙する上杉氏もまた、一枚岩ではなかった。上杉氏は複数の家に分かれており、関東管領職を世襲する本家が 山内上杉家 、その分家が 扇谷上杉家 であった 7 。享徳の乱の時点では、両家は共通の敵である古河公方を打倒するため、協力関係にあった。上杉方の最前線基地であった武蔵国五十子(いかっこ、現在の埼玉県本庄市)の陣には、両家の当主が共に在陣し、利根川を挟んで古河公方軍と長期にわたる対峙を続けていた 8

しかし、この協力関係の内には、潜在的な緊張が潜んでいた。扇谷上杉家は、太田道灌とその父・道真のような極めて有能な家宰の活躍により、武蔵国南部を中心に勢力を急拡大させていた 7 。特に道灌による江戸城や河越城の築城は、扇谷上杉家の軍事力を飛躍的に高め、その存在感は本家である山内上杉家を脅かすほどになっていた 4

この時代の長期にわたる戦乱は、鎌倉公方や関東管領といった「公」の権威を著しく低下させた。在地領主たちにとって、主家への忠誠はもはや絶対的なものではなく、自家の存続と権益拡大を最優先とする、より現実的な判断基準が支配するようになっていた。彼らは常に、どちらの陣営につくことが自らにとって最も有利かを秤にかけていたのである。石神井城の戦いは、まさにこのような「下剋上」の風潮が渦巻く中で、必然的に発生した事件であった。

第二章:亀裂の顕在化―長尾景春の乱

20年以上にわたって膠着状態にあった享徳の乱の戦局を、一挙に流動化させる事件が勃発する。山内上杉家の内部で発生した亀裂が、関東全域を揺るがす大反乱へと発展した「長尾景春の乱」である。この乱こそが、石神井城の戦いの直接的な引き金となった。

家宰職を巡る内紛

文明5年(1473年)、山内上杉家の家宰職を二代にわたって務め、大きな権勢を誇った白井長尾家の当主・長尾景信が五十子陣中で病没した 9 。家宰職は、主君の家政と軍事を統括する極めて重要な地位であり、その地位には広範な権益が付随していた 12 。景信の嫡男であった長尾景春は、父の跡を継いで自らが家宰に就任することを当然視していた 13

しかし、山内上杉家当主・上杉顕定は、景春ではなく、その叔父にあたる惣社長尾家の長尾忠景を新たな家宰に任命した 11 。これは、忠景が家中における長老格であったことなどを考慮した、一見妥当な人事にも見えた 13 。しかし、この決定に景春は激しく反発した。彼にとって家宰職を失うことは、単なる面子の問題ではなく、白井長尾家が二代にわたって築き上げてきた権力基盤と、それに連なる家臣団の利害を根底から覆される死活問題であった 12

五十子陣の崩壊と道灌の危機

家宰職への道を絶たれた長尾景春は、上杉顕定への反乱を決意する。彼は、享徳の乱の長期化によって上杉家の支配に不満を募らせていた武蔵・相模の在地領主たちに広く同調を呼びかけた 5 。景春の蜂起は、これらの不満分子にとって、既存の支配体制に反旗を翻すための格好の「大義名分」となったのである。

文明8年(1476年)から反抗の動きを強めていた景春は、翌文明9年(1477年)正月、ついに実力行使に出る。彼は五十子陣を急襲し、油断していた上杉軍を大混乱に陥れた 13 。山内上杉顕定、扇谷上杉定正、そして新家宰の長尾忠景らは、なすすべもなく上野国へと敗走した 8 。20年以上にわたり、対古河公方戦線の心臓部であり続けた五十子陣は、この内紛によってあっけなく崩壊したのである 9

この事態は、扇谷上杉家家宰・太田道灌にとっても深刻な危機であった。主君らが敗走し、武蔵・上野の支配体制が瓦解する中、景春に与する勢力が各地で一斉に蜂起した 13 。道灌は、自らの拠点である江戸城と、主君の居城である河越城との連絡を遮断される危険に直面した。この上杉方にとって未曾有の危機を乗り切るため、道灌は反乱勢力の鎮圧に奔走することになる。その彼の眼前に、最大の障害として立ちはだかったのが、武蔵国の名族・豊島氏であった。

第三章:対峙する両雄―太田道灌と豊島泰経

長尾景春の乱という激震は、武蔵国において、二人の武将の宿命的な対決を不可避なものとした。一人は、扇谷上杉家の家宰として新時代の到来を告げる太田道灌。もう一人は、古くからの伝統と権益を守ろうとする武蔵の名族・豊島氏の当主、豊島泰経である。

新時代の創造者・太田道灌

太田道灌(1432-1486年)は、扇谷上杉家の家宰・太田道真の子として生まれ、主君・上杉定正を補佐し、その勢力拡大に絶大な貢献をした人物である 7 。彼は卓越した軍略家であると同時に、優れた築城家、そして和歌にも通じた教養人であった 16

道灌の最大の功績の一つが、享徳の乱の最中である長禄元年(1457年)に、江戸城、河越城、岩槻城という戦略的な城郭ネットワークを築き上げたことである 4 。特に江戸城は、利根川水系と江戸湾の結節点に位置する交通の要衝であり、その築城は扇谷上杉家の武蔵国南部における支配を盤石にするための、まさに先見の明に満ちた一手であった 10 。しかし、この新興勢力の拠点は、そのすぐ西側に広大な所領を持つ旧来の支配者にとっては、看過できない脅威に他ならなかった。

旧秩序の守護者・豊島泰経

一方の豊島氏は、平安時代末期から武蔵国豊島郡(現在の東京都北部一帯)に勢力を張った桓武平氏秩父氏の流れを汲む名族である 19 。石神井城を本拠とし、何世紀にもわたって地域の支配者として君臨してきた 21 。その当主が、豊島泰経(生没年不詳)であった。なお、当時の一次史料である『太田道灌状』などには彼の名は官途名である「勘解由左衛門尉(かげゆざえもんのじょう)」と記されており、「泰経」という諱は後世の系図類に見られるものである点には留意が必要である 22

この豊島氏が、なぜ主家である上杉氏に背き、長尾景春に与したのか。その動機は複雑であるが、最大の要因は太田道灌との深刻な対立にあったと考えられる。

  1. 権益の侵害: 道灌が築いた江戸城は、豊島氏の本拠地である石神井城や練馬城と目と鼻の先にあり、豊島氏の伝統的な支配領域を著しく侵害するものであった 20 。道灌の存在は、豊島氏にとって自家の存亡に関わる死活問題となっていたのである。
  2. 個人的関係: 泰経の妻が長尾景春の妹であったとする説や 19 、豊島氏が家宰であった景春の父・景信の指揮下にあったとする説もあり 22 、個人的な繋がりも反乱への加担を後押しした可能性がある。

結局のところ、豊島氏にとって長尾景春の乱は、積年の宿敵であり、自らの生存を脅かす最大の脅威である太田道灌を排除するための、またとない好機であった。道灌の江戸城が地域の政治・経済の中心を塗り替える「新しい秩序」の象徴であったとすれば、豊島氏はその旧秩序を守るために立ち上がったと言える。石神井城の戦いは、単なる内乱への加担ではなく、武蔵国の未来を賭けた新旧勢力の必然的な衝突だったのである。

第四章:決戦前夜―江古田原・沼袋の戦い

文明9年(1477年)春、武蔵国における太田道灌と豊島氏の対決は、もはや避けられない情勢となった。豊島泰経とその弟・泰明は、長尾景春の蜂起に呼応し、石神井城、練馬城、そして平塚城の三城を拠点に兵を挙げた 22 。この三城は東西に連なり、道灌の江戸城と、主君・上杉定正の居城である河越城を結ぶ連絡線を完全に遮断する態勢を整えていた 5 。道灌は、敵中に孤立する絶体絶命の危機に陥ったのである。

道灌の電撃作戦―練馬城への陽動

この危機に対し、太田道灌は電光石火の反撃作戦を開始する。彼の狙いは、籠城して守りを固める豊島軍を野戦に引きずり出し、その主力を一挙に殲滅することにあった。

道灌が最初に攻撃目標とした城がどこであったかについては、史料によって見解が分かれる。『鎌倉大草紙』などは「平塚城」とするが 24 、道灌自身が記した『太田道灌状』の記述や地理的・戦術的な合理性を考慮すると、近年の研究では「練馬城」であったとする説が有力となっている 21 。『道灌状』には、道灌が攻撃したのは弟の「平右衛門尉(泰明)の要害」とあり、石神井城からの救援部隊と江古田原で合戦になったという記述から、石神井城と同方向にある練馬城と解釈するのが自然である 21

同年4月13日、道灌は江戸城から出陣すると、豊島泰明が守る練馬城(現在の遊園地「としまえん」跡地付近)に奇襲をかけた。しかし、これは本格的な攻城戦ではなく、城に矢を射かけ、城下に放火するという挑発的な陽動攻撃であった 25

江古田原・沼袋での激突

練馬城攻撃の報は、直ちに石神井城にいる兄・泰経のもとへ届いた。弟の危機を救うため、そして道灌の挑発に乗る形で、泰経は石神井城の主力を率いて出撃した。練馬城の泰明も城から打って出て、両軍は合流し、江戸城を目指して進軍を開始した 22

しかし、これは全て道灌の術中であった。彼は豊島軍が野戦に出てくることを完全に予測しており、両軍の進路上にあたる江古田原・沼袋(現在の東京都中野区江古田・沼袋一帯)の平原で万全の態勢を整えて待ち受けていた 19 。この地は、江古田川と妙正寺川が合流する湿地帯であり、大軍の行動が制約される、待ち伏せと殲滅には絶好の地形であった。

豊島軍は、道灌の周到な罠にはまり、準備万端の道灌軍と激突することとなった。戦いは熾烈を極めたが、戦場の選択権を握り、地の利を得た道灌軍が終始優勢に戦いを進めた。結果は豊島軍の惨敗であった。この戦いで、弟の豊島泰明をはじめ、一族の板橋氏、赤塚氏など主だった武将150名余りが討ち死にするという壊滅的な打撃を受けた 22 。兄の泰経は、辛うじて残兵をまとめ、命からがら本拠の石神井城へと敗走した 25

この江古田原・沼袋の戦いは、太田道灌の戦術家としての天分を遺憾なく発揮した戦いであった。彼は巧みな陽動によって、守りに有利な城から敵主力を引きずり出し、自らが選んだ決戦場でこれを撃破した。豊島氏はこの一戦で野戦能力の大部分を喪失し、その運命は事実上、この時点で決したと言っても過言ではない。

第五章:石神井城攻防戦―偽りの降伏と落城の刻

江古田原・沼袋の戦いで主力を失った豊島泰経は、残存兵力を率いて最後の拠点である石神井城に籠城した。しかし、勝利の勢いに乗る太田道灌は追撃の手を緩めず、直ちに石神井城の包囲にかかった。ここから、豊島氏の命運を賭した約10日間の攻防戦が始まる。

石神井城攻防戦 詳細年表

この攻防戦の推移は、両将の戦略と心理が交錯する、緊迫したものであった。その詳細を時系列で以下に示す。

日付(文明9年)

太田道灌軍の動向

豊島泰経軍の動向

主要な出来事・考察

4月13日夜

江古田原で勝利後、敗走する豊島軍を追撃。

泰経、壊滅した軍の残兵を率いて石神井城へ籠城。

道灌は勝利の勢いを駆って一気に決着を図る。豊島方の士気は著しく低下。

4月14日

石神井城の南、石神井川対岸の愛宕山に陣を敷き、城を完全包囲 21

籠城し、防備を固める。外部からの援軍、特に長尾景春本体の来援を待つ。

城を見下ろす高地に布陣し、城内の様子を把握すると共に心理的圧力をかける道灌の戦術。

4月18日

泰経の降伏申し入れに対し、「城の破却」を条件に受諾する 22

兵糧や援軍の見込みが立たず、時間稼ぎのため一時的な降伏を申し出る。

泰経の降伏は偽計であった可能性が高い。道灌はこれを見抜きつつも、無用な損害を避けるため一旦は受け入れたか。

4月19日~20日

城の様子を厳重に監視。城の破却作業が全く行われていないことを確認。

降伏の条件を履行せず、密かに戦闘準備を続ける。

緊張の膠着状態。この時点で道灌は泰経の降伏が偽りであると完全に確信する。

4月21日(一説に28日)

総攻撃を決断し、攻撃を開始。外郭を攻略する 21

必死の防戦も、野戦軍の主力を失っているため持ちこたえられず、外郭を突破される。

偽りの降伏を見破った道灌の、迅速かつ非情な決断。攻撃再開のタイミングが絶妙であった。

同日夜

城内への突入準備を進める。

泰経、落城を悟り、夜陰に紛れて城から脱出。行方をくらます 22

伝説では入水とされるが、史実では脱出に成功している。

4月22日早朝

抵抗のない城を完全に制圧。

-

数百年の歴史を誇る名族・豊島氏の本拠地、石神井城が落城。

偽りの降伏と道灌の決断

攻防戦の最大の転機は、4月18日の豊島泰経による降伏の申し出であった。野戦軍が壊滅し、籠城を続けても勝ち目がないと判断した泰経は、降伏を申し出た。これは、長尾景春からの援軍を待つための時間稼ぎの計略であった可能性が極めて高い。

道灌は、城兵の命を保証する代わりに、城の堀を埋め、土塁を崩す「城の破却」を降伏の条件として提示した 22 。これは、豊島氏が二度と反抗できないように、その軍事拠点を物理的に無力化する、という現実的な要求であった。

しかし、泰経は数日が経過しても城の破却に一切着手しなかった。この様子を対岸の愛宕山から冷静に監視していた道灌は、泰経の降伏が偽りであると看破する。彼は、これ以上の猶予が敵に態勢を立て直す時間を与えるだけだと判断し、非情な総攻撃を決断した 21

4月21日(あるいは28日)、道灌軍の総攻撃が開始された。すでに主力を失い、士気も低下していた豊島方に、勢いに乗る道灌軍を防ぎきる力は残されていなかった。城の外郭は次々と破られ、本丸に道灌軍が迫るのも時間の問題となった。

その夜、もはやこれまでと悟った豊島泰経は、城に火を放つこともなく、夜の闇に紛れて密かに城を脱出した 22 。翌朝、道灌軍は主を失った石神井城を無血で制圧。こうして、平安時代から武蔵国に君臨した名族・豊島氏の拠点、石神井城は陥落したのである。

第六章:名族の終焉と新たな秩序の胎動

石神井城の落城は、豊島氏という一族の歴史に終止符を打つだけでなく、武蔵国、ひいては関東地方の勢力図に決定的な変化をもたらす画期となった。そして皮肉なことに、この戦いの最大の勝利者である太田道灌自身の運命にも、暗い影を落とすことになる。

豊島氏本宗家の滅亡

石神井城を脱出した豊島泰経は、再起を図るため潜伏を続けた。そして翌文明10年(1478年)1月、彼は平塚城で再び兵を挙げた 22 。しかし、その報を受けた道灌が直ちに出陣すると、泰経は戦わずして城を放棄し、足立郡方面へと逃走した 21

その後の泰経の足取りについては、史料によって記述が異なる。『鎌倉大草紙』は、泰経が丸子城(現在の神奈川県川崎市)を経て小机城(同横浜市)へ逃れたと記すが 21 、これは地理的にも政治的にも不自然な点が多い。道灌自身の『太田道灌状』の記述や、豊島氏が古河公方と連携していた状況を鑑みれば、彼は古河公方を頼って遥か北へ逃れ、そのまま歴史の表舞台から姿を消したと考えるのが最も合理的である 21 。いずれにせよ、この平塚城からの敗走をもって、豊島氏の本宗家は事実上滅亡した 20 。分家や一族の一部は、後に後北条氏や徳川氏に仕えるなどして存続したが、武蔵国の支配者としての豊島氏の歴史は完全に終わりを告げたのである 20

道灌の権勢と悲劇への伏線

一方、豊島氏を滅ぼした太田道灌の名声は、この勝利によって絶頂に達した。彼は長尾景春の乱の平定に最大の功績を挙げ、武蔵国南部における扇谷上杉家の支配権を盤石のものとした 10 。その武名と才覚は関東一円に鳴り響き、もはや単なる一家の家宰という枠を大きく超える存在となっていた。

しかし、このあまりにも強大になった家臣の存在は、主君である扇谷上杉定正や、本家である山内上杉顕定にとって、次第に警戒と猜疑の対象となっていった 7 。特に定正は、道灌の名声が自らを凌駕し、いつかその地位を脅かすのではないかという恐怖心を抱くようになったとされる 7

戦乱の時代には、道灌のような有能な将軍は不可欠な存在であった。しかし、彼の活躍によって平和が訪れ、領国が安定すればするほど、その強大な武力と影響力は、主君にとって潜在的な脅威へと変わっていく。石神井城の戦いから9年後の文明18年(1486年)、太田道灌は主君・上杉定正の居館に招かれたところを謀殺されるという悲劇的な最期を遂げる 15

石神井城の戦いは、道灌の栄光を頂点に押し上げた戦いであったと同時に、その勝利がもたらした強大すぎる力が、結果として自らの破滅を招くという、戦国時代特有の「功臣粛清」の悲劇を準備する戦いでもあった。勝利者である道灌自身が、その勝利の果実によって破滅へと導かれたという事実は、この戦いが持つ最大の皮肉と言えるだろう。

終章:歴史の教訓―石神井城跡に刻まれたもの

文明9年(1477年)の石神井城の戦いから500年以上の歳月が流れた。かつて両軍が死闘を繰り広げた合戦の舞台は、今では都立石神井公園として整備され、人々の憩いの場となっている。城の中心部であった場所には、往時を偲ばせる土塁や空堀の遺構が静かに残り、歴史の証人としてその姿を現代に伝えている 30

この地には、史実とは別に、人々の記憶の中で語り継がれてきた物語が存在する。それは、落城の際に豊島泰経が愛馬と共に三宝寺池に入水し、その娘である「照姫」もまた父の後を追って身を投げたという悲劇の伝説である 27 。また、泰経が池に沈めたとされる家宝「金の乗鞍」の伝承も広く知られている 27 。しかし、これらの物語は、史実では泰経が城から脱出していることからも明らかなように、明治時代以降に創作され、流布したものである 21

では、なぜこのような悲劇の物語が生まれ、語り継がれてきたのであろうか。それは、数百年にわたって地域を支配してきた名族が、太田道灌という新興勢力によって滅ぼされたという劇的な歴史の転換を、後世の人々が情緒的に記憶し、その無常を語り継ぐための装置であったと考えられる。史実の無味乾燥な記録だけでは伝えきれない、滅び去った者への哀惜の念が、照姫という架空の悲劇のヒロインを生み出したのである。

石神井城の戦いは、関東における中世的権威の終焉と、実力のみがものをいう戦国時代の本格的な到来を告げる、象徴的な出来事であった。太田道灌という一人の天才戦略家の活躍が、地域の運命を決定づけた一方で、その輝かしい勝利が自らの悲劇的な最期への序章となったという人間ドラマは、時代を超えて我々に多くの教訓を与えてくれる。石神井城跡に立つとき、我々は単なる過去の合戦の跡を見るのではなく、時代の大きな転換点に生きた人々の栄光と悲劇、そして歴史の非情さを目の当たりにすることになるのである。

引用文献

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  25. 石神井城(しゃくじいじょう) - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/tokyo/syakujii-jou.html
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  27. 石神井城落城の歴史 - 照姫まつり https://teruhime-matsuri.com/about/
  28. 豊島二百柱社 - 江古田原合戦の供養塚をめぐる怪異 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/tokyo/tosima.html
  29. 太田道灌-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44318/
  30. 豊島氏の石神井城はなぜ築かれたのか?広大な縄張りとその見どころ - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73349
  31. 【東京23区城跡めぐり】戦に敗れた父を追って入水した照姫 悲劇 ... https://www.rekishijin.com/40667