最終更新日 2025-09-01

石見銀山争奪戦(1532~70)

石見銀山争奪戦(1532-1570)-銀が揺るがした中国地方の覇権-

添付資料1:石見銀山争奪戦 主要年表(1532年~1570年)

和暦 (西暦)

石見銀山の支配勢力

主要な軍事行動・政治的事件

享禄3年 (1530)

大内氏

尼子氏、塩冶氏の反乱に注力。小笠原氏がその隙を突き銀山へ進出 1

享禄4年 (1531)

小笠原氏

小笠原長隆が銀山を掌握 2

天文2年 (1533)

大内氏

大内氏が銀山を奪回 2 。神屋寿禎により灰吹法が導入され、銀生産量が飛躍的に増大 3

天文6年 (1537)

尼子氏

尼子詮久(晴久)が銀山を攻略 5

天文8年 (1539)

大内氏

大内義隆が銀山を奪回 5

天文9年 (1540)

尼子氏

尼子晴久が再び銀山を攻略 5

天文10年 (1541)

小笠原氏

小笠原氏が銀山を掌握 2

天文11年 (1542)

小笠原氏

第一次月山富田城の戦い開始。大内義隆が尼子氏本拠地へ侵攻 7

天文12年 (1543)

小笠原氏

大内軍、月山富田城から大敗走。大内義隆は政治への意欲を喪失 8

天文20年 (1551)

大内氏(陶氏)

大寧寺の変。陶晴賢が謀反を起こし、大内義隆が自刃。大内氏が事実上滅亡 10

天文22年 (1553)

大内氏(陶氏)

陶氏、刺賀長信を山吹城の城番に任命し、銀山支配を継続 1

天文23年 (1554)

大内氏(陶氏)

毛利元就の謀略により、尼子氏の精鋭部隊「新宮党」が粛清される 12

弘治元年 (1555)

大内氏(陶氏)

厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破り、自刃に追い込む。毛利氏が台頭 14

弘治2年 (1556)

毛利氏→尼子氏

毛利氏、防長経略を開始。吉川元春が石見へ侵攻し、調略で山吹城を獲得 16

7月:忍原崩れ。尼子晴久の大軍が毛利の救援部隊を撃破 16。

9月:山吹城陥落。銀山は再び尼子氏の支配下となり、本城常光が城主となる 16。

永禄元年 (1558)

尼子氏

毛利氏、銀山奪回を試みるも失敗。戦線は膠着状態に 16

永禄2年 (1559)

尼子氏

降露坂の戦い。毛利軍が敗北したとされる 18 。毛利方、尼子側の小笠原氏を攻撃し味方につける 6

永禄4年 (1561)

尼子氏

毛利氏、山吹城を攻めるも本城常光の防戦により失敗 1

12月:尼子晴久が急死。嫡男・義久が家督を継ぐ 13。

永禄5年 (1562)

毛利氏

6月:毛利元就の調略により、本城常光が降伏。毛利氏が山吹城と銀山を完全に掌握 19

7月:毛利氏、出雲侵攻(第二次月山富田城の戦い)を開始 22。

永禄9年 (1566)

毛利氏

11月:月山富田城が開城し、尼子氏が滅亡。毛利氏が中国地方の覇権を確立 8

永禄12年 (1569)

毛利氏

尼子再興軍が山中幸盛らに率いられ出雲に上陸。毛利氏の支配を脅かす 25

元亀元年 (1570)

毛利氏

毛利氏、尼子再興軍の脅威に対抗し、銀の積出港・温泉津に鵜丸城を築城 26

序章:世界を動かした銀の山-争奪戦の前提-

日本の戦国時代、数多の合戦が繰り広げられたが、その多くは領土という「土地」そのものを巡る争いであった。しかし、石見国(現在の島根県大田市)に位置する一つの山を巡る約40年間の抗争は、その様相を大きく異にする。石見銀山争奪戦は、単なる土地の奪い合いではなく、当時の世界経済と直結する「富の源泉」を巡る、国家的規模の戦略闘争であった。この戦いを理解するためには、まず、なぜこの銀山が戦国大名たちを狂奔させるほどの価値を持っていたのか、その前提を解き明かす必要がある。

大航海時代とグローバル経済における石見銀

16世紀、世界はポルトガルとスペインが主導する大航海時代を迎え、ヨーロッパ、アメリカ大陸、そしてアジアを結ぶグローバルな経済圏が形成されつつあった 27 。この新たな世界経済の潤滑油となったのが「銀」であった 28 。特に、当時のアジア経済の中心であった明(中国)では、北方民族の侵攻に備えるための軍事費を捻出するため、税を銀で納めさせる一条鞭法へと移行し、国内の銀需要が爆発的に高まっていた 27

この世界的な「銀への渇望」に応えたのが、新大陸のポトシ銀山(ボリビア)やグアナファト銀山(メキシコ)、そして日本の石見銀山であった 27 。石見銀山から産出される銀は、その品質の高さから国際市場で絶大な信頼を得ていた。ポルトガル商人たちは、マカオを拠点に、東南アジアの生糸を日本で石見銀と交換し、それを中国に運び込むことで莫大な利益を上げた 27 。彼らが作成した地図には、日本が「Minas de plata(銀鉱山)」と記され、「銀山の王国」としてその名がヨーロッパにまで轟いていた 27 。推計によれば、16世紀後半に世界で取引された銀の総量のうち、少なくとも10%は石見銀山産であったとされ、その経済的インパクトの大きさがうかがえる 27

戦国大名にとって、この銀は単なる富以上の意味を持っていた。それは、最新兵器である鉄砲や、その火薬の原料となる硝石を海外から購入するための唯一無二の軍資金であった 6 。毛利氏が硝石の購入に石見銀を用いていた記録が残っており、銀山の支配が軍事力の維持・拡大に直結していたことを物語っている 6 。一説には、最盛期の石見銀山が生み出す富は、100万石の大名の領地に匹敵したとも言われ、これを支配することは、一国を新たに手に入れるに等しい戦略的価値を有していたのである 30

技術革新「灰吹法」の衝撃

石見銀山の価値を決定的に高めたのが、1533年(天文2年)に導入された画期的な精錬技術「灰吹法」であった 3 。それ以前も銀の採掘は行われていたが、低品位の鉱石から銀を取り出す技術が未熟であったため、多くは鉱石のまま朝鮮半島などへ輸出し、現地で精錬する必要があった 3 。これは生産効率が悪く、得られる利益も限定的であった。

この状況を一変させたのが、博多の豪商・神屋寿禎である。彼は朝鮮半島から宗丹、慶寿といった技術者を招き、鉛を使って銀の純度を高める灰吹法を石見の地に根付かせた 32 。この技術により、銀山現地での一貫生産体制が確立され、これまで利用価値が低いとされていた鉱石からも、高品質の銀を大量に生産することが可能となった 29

1533年の灰吹法導入は、単なる技術的な進歩に留まらなかった。それは、石見銀山の戦略的価値を根底から変える「パラダイムシフト」を引き起こしたのである。潜在的な価値が顕在化し、その富が爆発的に増大したことで、周辺の大名たちの認識は「魅力的な領地」から「国家の存亡をかけてでも奪取すべき戦略的要衝」へと変貌した。事実、この技術導入からわずか4年後の1537年には、尼子氏による本格的な軍事侵攻が開始されており、争奪戦が激化の一途をたどることになる 5 。灰吹法は、まさに争奪戦を激化させる「触媒」として機能したと言えよう。

争奪戦の主役たち

この莫大な富の源泉を巡り、中国地方の覇権を賭けて鎬を削ったのが、以下の勢力である。

  • 大内氏 : 周防国(山口県)を本拠とし、日明勘合貿易を独占した西国随一の名門大名。銀山開発の初期パトロンであり、当初の支配者であった 6
  • 尼子氏 : 出雲国(島根県東部)の月山富田城を本拠とし、「謀聖」尼子経久のもとで勢力を拡大。山陰の覇者として、長年にわたり大内氏と中国地方の覇権を争った 8
  • 毛利氏 : 安芸国(広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、智将・毛利元就の登場により、大内・尼子の二大勢力の狭間で巧みに立ち回り、やがて両者を凌駕する勢力へと成長していく 8
  • 小笠原氏 : 石見国を本拠とする在地領主。大内・尼子という二大勢力の軍事行動の隙を突き、銀山支配を幾度となく試みる、争奪戦における重要な変数であった 1

これら四者の思惑が複雑に絡み合い、裏切りと謀略、そして大規模な軍事衝突が繰り返される、約40年間にわたる石見銀山争奪戦の幕が切って落とされたのである。

第一部:二強の角逐と在地勢力の台頭(1532年~1550年)

石見銀山争奪戦の初期段階は、中国地方の二大勢力である大内氏と尼子氏による角逐を主軸としながらも、在地領主である小笠原氏がその間隙を縫って介入するという、三つ巴の混戦模様を呈していた。この時期の支配権の変遷は、各勢力の国力と、本国の安定度を如実に反映するものであった。

大内氏による支配と小笠原氏の挑戦

銀山の本格的な開発が始まった当初、その支配権は石見国守護の地位にあった周防の大内氏が掌握していた 6 。大内氏は博多の商人と結びつき、日明勘合貿易を独占しており、銀山の開発者である神屋寿禎もそのネットワークに連なる人物であった 6

しかし、その支配は盤石ではなかった。1530年(享禄3年)、尼子氏が出雲国内で発生した塩冶氏の反乱鎮圧に忙殺され、同時に大内氏が北九州方面への進出に注力するという、二大勢力の権力に一時的な空白が生じた 1 。この好機を逃さなかったのが、石見の在地領主・小笠原長隆である。彼は二大勢力の隙を突く形で銀山に兵を進め、1531年(享禄4年)にはこれを奪取することに成功した 1

小笠原氏の支配は長くは続かず、1533年(天文2年)には大内氏が銀山を奪回する 2 。そしてこの年、前述の通り灰吹法が導入され、銀山の価値は飛躍的に高まった。この出来事は、銀山がもはや在地領主の手に余る存在となり、大国の本格的な軍事介入を招く引き金となった。

尼子氏の本格介入と支配権の流転

灰吹法導入による価値の増大は、大内氏の宿敵である出雲の尼子氏の強い関心を引いた。

  • 1537年(天文6年) : 尼子経久の孫である尼子詮久(後の晴久)が、大軍を率いて石見に侵攻。銀山を攻略し、初めて尼子氏の支配下に置いた 2
  • 1539年(天文8年) : 大内義隆が反撃に転じ、銀山を奪回 2
  • 1540年(天文9年) : 尼子晴久が再び銀山を攻略し、支配権を取り戻す 2
  • 1541年(天文10年) : 大内・尼子の争いが続く中、小笠原氏が三度銀山を支配下に置く 2

この時期の銀山支配は、数年、時にはわずか1年で支配者が入れ替わるという、極めて流動的な状況であった。これは、いずれの勢力も銀山周辺に絶対的な支配権を確立できていなかったことを示している。銀山の支配を維持するためには、本国から大軍を派遣し続ける必要があり、それは各勢力の国力、特に中央の軍事力を遠隔地にどれだけ投射し続けられるかという能力に完全に依存していた。本国で内乱が起きたり、別の戦線に兵力を割かれたりすれば、即座に銀山の支配権が揺らぐという、脆弱な構造だったのである。この意味で、初期の石見銀山は、各勢力の国力を測るバロメーターの役割を果たしていたと言える。

第一次月山富田城の戦いとその影響

銀山を巡る攻防と並行して、大内・尼子の対立は全面戦争へと発展していく。1542年(天文11年)、大内義隆は安芸の毛利元就ら中国地方の国人衆を率い、尼子氏の本拠地である月山富田城へ数万の大軍を派遣した 7

しかし、月山富田城は「難攻不落」と謳われた天下の堅城であった。尼子軍の頑強な抵抗と、長期化する戦況に疲弊した大内方の国人衆(吉川氏など)の離反が相次ぎ、大内軍は惨憺たる敗北を喫して撤退を余儀なくされる 7 。この撤退戦の最中、義隆が寵愛していた養嗣子の大内晴持が事故死するという悲劇も重なった 8

この「第一次月山富田城の戦い」での大敗は、石見銀山争奪戦の構図に大きな影響を与えた。勝利した尼子氏は勢力を回復させ、最盛期を迎える一方、大内義隆は後継者を失った失意から政治への意欲を完全に喪失してしまう 8 。彼は武断派の重臣を遠ざけ、文治派に傾倒していく。この変化が、大内家中に深刻な亀裂を生み、後の内部崩壊、すなわち「大寧寺の変」へと繋がる遠因となったのである。中央の統制が揺らぎ始めた大内氏の石見銀山への影響力も、徐々に低下していったことは想像に難くない。

第二部:激震、中国地方の勢力図一変(1551年~1557年)

1550年代に入ると、石見銀山から遠く離れた場所で起きた二つの大事件が、争奪戦の構図を根底から覆すことになる。西国最大の大名・大内氏の内部崩壊と、それに乗じた毛利元就の劇的な台頭である。これらの出来事は、銀山周辺での局地的な戦闘の積み重ねを無意味化するほどの地政学的な大変動を引き起こし、争奪戦は新たな時代へと突入した。

大内家の崩壊:「大寧寺の変」(1551年)

第一次月山富田城の戦いでの敗北以降、大内義隆は軍事から遠ざかり、京から招いた公家たちと文芸に耽るようになった 11 。政治の実権は、相良武任ら文治派の側近が握り、歴戦の武将たち、特に守護代筆頭であった陶隆房(後の晴賢)ら武断派は次第に疎んじられていった 11 。この対立は年々深刻化し、大内家臣団を二分するほどの亀裂へと発展する 39

そして1551年(天文20年)9月、ついに陶晴賢はクーデターを決行。数千の兵を率いて山口に攻め入り、主君・大内義隆を長門国の大寧寺に追い詰め、自刃させた 10 。ここに、西国に一大勢力を築いた名門・大内氏は事実上滅亡した。陶晴賢は、九州の大友宗麟の弟・大内義長を新たな当主として擁立し、傀儡政権を樹立するが、主君殺しの汚名は重く、旧大内領の統制は困難を極めた 15

この大寧寺の変は、銀山から遠く離れた山口で起きた大内氏の「内部」問題であった。しかし、その衝撃は中国地方全域に巨大な「権力の真空」を生み出した。石見銀山争奪戦の主要なプレイヤーの一角が、自壊によって突如として舞台から退場したのである。この予期せぬ事態が、一介の国人に過ぎなかった毛利元就に、歴史の表舞台へと躍り出る千載一遇の好機を与えることになった。

好機を掴む者:毛利元就の台頭と「厳島の戦い」(1555年)

大内氏の混乱を好機と見た毛利元就は、陶晴賢からの独立を宣言し、安芸国内の大内方拠点を次々と攻略していく 42 。これに対し、陶晴賢は毛利氏を討伐すべく、1555年(弘治元年)、2万ともいわれる大軍を率いて安芸国厳島に上陸した。

兵力で圧倒的に劣る元就であったが、彼はこの決戦に巧妙な謀略を巡らせる。陶方に偽りの内応を約束させ、油断した陶軍が厳島に全軍を展開したところを狙い、嵐の夜に紛れて海を渡り、背後から奇襲をかけたのである 14 。不意を突かれた陶軍は混乱に陥り、総崩れとなった。陶晴賢は逃走の末に自刃し、大内軍の主力は壊滅した 15

この「厳島の戦い」における劇的な勝利は、中国地方のパワーバランスを完全に塗り替えた。毛利氏は、大内氏に取って代わる新たな覇者としての地位を確立し、石見銀山、そして出雲の尼子氏と直接対峙する巨大勢力へと変貌を遂げた。毛利氏の争奪戦への本格参戦は、彼らが元々石見に強い野心を持っていたからというよりは、大内氏の自壊という地政学的な大変動によって生じた権力の真空地帯に最も近接し、かつ最も迅速に行動できる能力を持っていたがゆえに、否応なくその舞台の主役になることを運命づけられた結果であった。

防長経略:旧大内領の平定と銀山への布石(1555年~1557年)

厳島の戦いで陶晴賢を討ち取った元就は、息つく間もなく大内氏の旧領である周防・長門二国(防長)の完全平定作戦、すなわち「防長経略」を開始した 14

元就は、まず調略によって大内方の城主たちを次々と寝返らせ、抵抗勢力を孤立させていく 15 。鞍掛城、須々万沼城といった要衝を軍事行動によって攻略し、着実に支配領域を拡大した 15 。また、外交面では、大内義長の実兄である豊後の大友義鎮(宗麟)と密約を結び、大友氏が豊前国へ進出することを黙認する代わりに、毛利の防長侵攻に干渉しないという約束を取り付けた 15 。これにより、義長は兄からの援軍を期待できなくなり、完全に孤立した。

1557年(弘治3年)、追い詰められた大内義長は自刃し、名門大内氏は完全に滅亡した 14 。防長二国を完全に手中に収めたことで、毛利氏は背後の憂いを断ち、その全戦力を東方、すなわち石見銀山と、そこに君臨する尼子氏へと向けることが可能となったのである。石見銀山争奪戦は、ここに「大内 vs 尼子」の時代から、「毛利 vs 尼子」という新たな対決の時代へと移行した。

第三部:毛利・尼子、銀山を巡る死闘(1556年~1561年)

大内氏を事実上吸収し、中国地方西部に覇を唱えた毛利氏と、山陰の雄・尼子氏。両者の間には、今や石見銀山という巨大な利権が横たわっていた。ここから約5年間、銀山とその防衛拠点である山吹城を巡り、両者は一進一退の激しい死闘を繰り広げることになる。この戦いは、毛利元就にとって、厳島の勝利の勢いだけでは乗り越えられない、厳しい現実を突きつけるものであった。

毛利の第一次石見侵攻と山吹城の獲得(1556年)

防長経略を進めるのと並行して、毛利元就は石見銀山への布石を打っていた。弘治2年(1556年)、元就は次男であり、勇将として知られる吉川元春を石見方面の総責任者に任命した 16 。元春が養子に入った吉川氏は、元々石見国と縁の深い一族であり、その名声を利用して現地の国人領主たちを懐柔する狙いがあった。

元就の狙いは的中し、元春は益田氏や三隅氏といった石見の有力国人を巧みな調略で味方に引き入れ、石見国内に確固たる足場を築くことに成功する 16 。さらに元春は、銀山防衛の心臓部である山吹城の城主・刺賀長信に狙いを定める。当時、刺賀氏は陶氏によって城主に任じられていたが、その陶氏が厳島で滅んだ今、彼の立場は宙に浮いていた。元春はこの機を逃さず、刺賀長信を帰順させ、大きな戦闘を経ることなく山吹城と石見銀山を毛利氏の支配下に置いたのである 16

尼子晴久の逆襲と「忍原崩れ」(1556年7月)

長年の宿敵であった大内氏が滅び、その遺領を継いだ毛利氏が、自国の喉元に突きつけられた刃ともいえる石見銀山を手にしたという報は、尼子当主・尼子晴久を激怒させた。彼は迅速に行動を開始する。

1556年7月下旬、毛利軍の主力が依然として防長経略に従事しており、石見方面の守りが手薄であることを見抜いた晴久は、2万5千と号する大軍を率いて出雲から石見へ侵攻し、山吹城を電撃的に包囲した 16 。山吹城の危機を知った元就は、急遽、宍戸隆家を大将とする約7千の救援部隊を派遣する 16

しかし、この動きは完全に尼子晴久の術中にはまっていた。晴久は、毛利の救援部隊が必ず通るであろう要路、忍原(おしばらく)に兵を潜ませて待ち伏せた。忍原は、両側を山に挟まれた狭隘な谷間であり、大軍の行動には適さない地形であった 46 。数で劣る宍戸軍は、この谷間で尼子軍の挟撃を受ける形となり、さらに山の上から大石を落とされるなどの奇襲攻撃を受け、なすすべもなく壊滅した 16 。毛利軍は数百人の兵士を失い、宍戸隆家は命からがら敗走した。この戦いは、毛利方にとって屈辱的な大敗となり、「忍原崩れ」として後世に伝えられることになる 17

山吹城の陥落と尼子支配の復活

忍原で毛利の救援部隊を粉砕した尼子軍は、その勢いのまま山吹城への総攻撃を再開した。救援の望みを絶たれた城内では、尼子軍による兵糧攻めが効果を現し、兵たちの士気は低下の一途をたどった 16 。ついに弘治2年(1556年)9月、城主・刺賀長信は自刃し、山吹城は陥落。石見銀山は、わずか数ヶ月で再び尼子氏の手に落ちた 16

銀山を奪回した尼子晴久は、その防衛体制を強化するため、尼子家中の猛将として知られた本城常光を新たな山吹城主として配置した 1 。これにより、銀山の守りは以前にも増して強固なものとなった。

一進一退の攻防と戦線の膠着(1558年~1561年)

「忍原崩れ」の敗北は、厳島の勝利に沸いていた毛利元就にとって、戦略の根本的な見直しを迫る手痛い失敗であった。この敗北は、彼に力押し戦術の限界を教え、尼子晴久と本城常光という敵の力量を再認識させた。それは、後の謀略を中心とした、より洗練された戦略へと転換する重要な学習期間の始まりでもあった。

毛利氏はその後も幾度となく銀山の奪回を試みるが、本城常光の巧みな防戦の前にことごとく失敗に終わる 16 。永禄2年(1559年)には、銀山と積出港の温泉津を結ぶ最短路である降露坂で毛利軍が尼子軍に大敗を喫したとされる「降露坂の戦い」があったとも伝えられている(ただし、この合戦の史実性については議論がある) 18

さらに、一度は毛利方についていた石見の国人・福屋氏が尼子方へ寝返るなど、毛利氏にとって戦況は好転せず、石見戦線は完全に膠着状態に陥った 1 。結局、智将・毛利元就をもってしても、尼子晴久が存命の間は、石見銀山を奪い返すことはできなかったのである 16

第四部:謀略の果て、銀山の最終帰属(1562年~1566年)

数年間にわたる軍事的膠着状態は、戦場ではなく、尼子氏の居城・月山富田城で起きた一つの出来事によって、突如として終わりを告げる。尼子氏の内部事情の変化を好機と捉えた毛利元就は、長年の経験から学んだ教訓を活かし、武力ではなく謀略によって、長年の懸案であった石見銀山の最終的な掌握へと乗り出す。

尼子晴久の急死と尼子家の動揺(1561年末)

永禄4年(1561年)12月、石見戦線を膠着させ、毛利元就を苦しめ続けた尼子氏の英主・尼子晴久が、居城の月山富田城で急死した 13 。享年47であった。家督は若年の嫡男・尼子義久が継いだが、父・晴久ほどの器量も求心力もなく、尼子家中に動揺が広がった 47

この危機的状況は、尼子氏が抱える構造的な問題を露呈させた。晴久は、元就の謀略に乗せられる形で、1554年(天文23年)に尼子氏最強の軍事力を誇った精鋭部隊「新宮党」を、当主であった尼子国久一族もろとも粛清してしまっていた 12 。この内部抗争は尼子氏の軍事力を著しく弱体化させており、晴久という強力な指導者を失ったことで、その脆弱性が決定的なものとなったのである。

本城常光への調略:戦わずして山吹城を得る(1562年)

添付資料2:山吹城 支配勢力の変遷(1531年~1562年)

時期

支配勢力

主要な城主

備考

1531年~

小笠原氏

小笠原長隆

大内・尼子の権力の隙を突いて掌握 2

1533年~

大内氏

(不明)

大内氏が奪回。灰吹法が導入される 2

1537年~

尼子氏

(不明)

尼子晴久が攻略 5

1539年~

大内氏

(不明)

大内義隆が奪回 5

1540年~

尼子氏

(不明)

尼子晴久が再攻略 5

1541年~

小笠原氏

(不明)

再び小笠原氏が掌握 2

1553年~

大内氏(陶氏)

刺賀長信

大寧寺の変後、陶氏が任命 1

1556年

毛利氏

刺賀長信

毛利氏に降伏し、城主の座を維持 16

1556年~

尼子氏

本城常光

忍原崩れの後、尼子晴久が任命 1

1562年

毛利氏

本城常光

毛利氏に降伏。銀山争奪戦の事実上の終結 21

尼子氏の屋台骨が揺らいだこの好機を、毛利元就は見逃さなかった。彼は、幾度も煮え湯を飲まされた山吹城の攻略方針を、武力から調略へと完全に切り替えた。「忍原崩れ」の教訓から、難攻不落の山吹城を力で攻めることの非効率性を痛感していた元就は、城主・本城常光そのものを切り崩す作戦に打って出たのである 17

元就は、本城常光に対し、所領安堵に加えて新たな領地を与えるという破格の条件を提示し、執拗に寝返りを促した 6 。主君・晴久を失い、先行きに不安を抱いていた常光は、この誘いに応じる。永禄5年(1562年)6月、長年にわたり尼子方として毛利軍を退け続けた猛将・本城常光は、ついに毛利氏に降伏した 19 。これにより、毛利氏は一兵も損なうことなく、長年の宿願であった山吹城と石見銀山を、今度こそ完全に手中に収めたのである。

石見銀山の完全掌握と第二次月山富田城の戦いへの連動

本城常光の降伏が持つ意味は、単に一つの城が落ちたという以上のものだった。それは、石見国内における尼子方勢力の連鎖的な瓦解を招いたのである 21 。石見銀山という巨大な経済的支柱を失ったことで、尼子氏の威信は地に落ち、周辺の国人たちは雪崩を打って毛利方へと靡いていった。

そして、この出来事は尼子氏の滅亡を決定づける序曲となった。石見銀山を奪取した瞬間、この「経済的資産」は、尼子氏を滅ぼすための「戦略的兵器」へとその性質を転換させた。元就は、銀山から産出される莫大な銀を軍資金とし、兵糧や武器の購入、そして兵士たちへの恩賞に充てることで、長期にわたる大規模な軍事作戦を可能にした 6 。まさに、尼子氏が最後まで守ろうとした銀山そのものが、最終的に自らの首を絞める最大の要因となったのである。

銀山の支配権を盤石にするため、元就は朝廷に銀山を献上し、自らがその代官に任命されるという巧みな政治工作を行い、その支配の正当性を内外に示した 6 。そして同年7月、経済的基盤を確立した元就は、満を持して尼子氏の本拠地・出雲への総攻撃、すなわち「第二次月山富田城の戦い」を開始した 22

尼子氏の滅亡(1566年)

出雲へ侵攻した毛利軍は、かつて自らが苦しめられた月山富田城の堅固さを熟知していた。元就は力攻めを避け、城の周囲の支城を一つずつ確実に攻略し、兵糧の補給路を断つという長期包囲戦術をとった 51 。この際、毛利軍は白鹿城の攻略において、城への水路を断つために石見銀山の鉱夫数百人を動員しており、銀山が持つ人的・技術的資源までもが戦争に活用されたことが記録されている 13

完全に孤立させられた月山富田城内では、やがて兵糧が尽き、投降者が続出した 51 。疑心暗鬼に陥った城内では、最後まで忠義を尽くした重臣・宇山久兼が内通を疑われて誅殺されるという悲劇も起きた 51 。万策尽きた尼子義久は、永禄9年(1566年)11月、ついに降伏し、城を明け渡した 8 。これにより、戦国大名としての尼子氏は滅亡し、毛利元就は名実ともに中国地方の覇者となったのである。

終章:争奪戦の終焉とその遺産(1567年~1570年)

1566年の尼子氏滅亡により、石見銀山を巡る大名間の大規模な争奪戦は終結した。しかし、それは銀山周辺の完全な平穏を意味するものではなかった。尼子氏の残党による抵抗は続き、毛利氏は手に入れた巨大な富の源泉を防衛し続けるという、新たな課題に直面することになる。争奪戦の経験とその「後遺症」は、毛利氏の銀山経営と支配体制のあり方を規定していく。

尼子再興軍の蜂起と銀山周辺への影響(1569年~)

尼子氏滅亡後、主家の再興を悲願とする山中幸盛(鹿介)や立原久綱らは、京の東福寺で僧となっていた新宮党の遺児・尼子勝久を擁立し、尼子再興軍を組織した 25

折しも毛利氏は、九州の覇権を巡って豊後の大友氏と激しい戦いを繰り広げており、元就自らも長府に出陣するなど、主力軍は西に集中していた 24 。この隙を突き、永禄12年(1569年)、尼子再興軍は海路から出雲に上陸し、旧臣を集めて瞬く間に勢力を拡大。毛利氏の山陰支配を根底から揺るがす脅威となった 25

この尼子再興軍の動きは、石見銀山の防衛体制に直接的な影響を与えた。銀の主要な積出港であった温泉津が、海上からの攻撃に晒される危険性が高まったのである 26 。これに対し、毛利氏は迅速に対応。元亀元年(1570年)、温泉津の港を見下ろす岬に、鵜丸城を築城した 26 。この城は、近隣諸村に普請役を割り当てることで、わずか1ヶ月という驚異的なスピードで完成したと伝えられている 26 。また、城の遺構には鉄砲戦を想定した帯郭が見られ、当時の最新兵器に対応した水軍城であったことがわかる 26 。この事実は、1562年に争奪戦が事実上終結した後も、銀山とその輸送ルートの防衛が、毛利氏にとって最優先の戦略課題であり続けたことを明確に示している。

毛利氏による銀山経営体制の確立

石見銀山を完全に掌握した毛利氏は、その経営体制の確立に着手した。元就は、桂元澄らの重臣を銀山奉行に任命して統括させる一方、現地の支配は鉱山経営者や運送業者、商人といった業種別の代表者を通じて行う、いわば間接的な支配体制を敷いた 6 。これは、長年の争奪戦の経験から、専門的な知識を持つ現地の有力者たちとの協調が、銀山の安定的な経営に不可欠であると学んだ結果であろう。

産出された銀の使途について、元就は死の直前、子の吉川元春らに対し、主として軍事費に充てるよう遺言している 6 。その言葉通り、銀は毛利軍の活動を支える財政的基盤となった。元就の孫である毛利輝元が後に「もし石見銀山に異変があれば、毛利家は戦ができず無力になる」と語った言葉は、銀山が毛利家の覇権を支える文字通りの生命線であったことを物語っている 26

また、銀は軍事費だけでなく、毛利氏の権威確立のためにも用いられた。毛利氏が篤く信仰した安芸の厳島神社には、銀山から多額の寄進が行われ、天正年間には多くの銀山関係者が回廊の建立費用を寄附した記録が残っている 6

石見銀山争奪戦が歴史に与えた影響の総括

1532年から約40年間にわたって繰り広げられた石見銀山争奪戦は、単なる一地方の鉱山を巡る戦いではなかった。それは、中国地方の覇権が、大内氏から尼子氏へ、そして最終的に毛利氏へと移り変わっていく巨大な権力闘争の縮図であった。灰吹法という技術革新が富の価値を爆発させ、それが大名たちの野心を刺激し、謀略と合戦の連鎖を生み出した。

この争奪戦の最終的な勝者となった毛利氏は、石見銀山から得られる莫大な富を背景に中国地方の統一を成し遂げ、織田信長と対峙するほどの巨大勢力へと成長した。その後の豊臣政権下においても、毛利氏は石見銀山の支配を認められ、秀吉に銀を上納している 49 。関ヶ原の戦いを経て、銀山は徳川幕府の直轄領(天領)となるが、それまでの間、日本の政治・軍事の中心を動かす財源であり続けた 4

より大きな視点で見れば、石見銀山は、戦国時代の日本を世界経済のダイナミズムと結びつける重要な結節点であった 56 。ここで産出された銀は、東アジア、さらにはヨーロッパの市場へと流れ、日本の存在を世界に知らしめた。一つの銀山を巡る地方の抗争が、結果として日本の歴史を動かし、世界史の一翼を担うことになったのである。戦国武将たちの血と野望が染み込んだ石見の山々は、日本の、そして世界の歴史における稀有な特異点として、今なおその価値を物語っている。

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