砥石城の戦い(1550~51)
天文19年、武田信玄は砥石城を攻めるも村上義清の奇策に敗れ「戸石崩れ」と称される大敗を喫す。後に真田幸隆の調略で城は落ち、川中島の戦いへと繋がる。
砥石城の戦い(1550-51年):武田信玄、生涯最大の敗北「戸石崩れ」の全貌
序章:甲斐の虎、信濃の龍に再び挑む
戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈する中、「甲斐の虎」と恐れられた武田晴信(後の信玄)は、その版図を信濃国へと拡大する野望に燃えていた。天文19年(1550年)に勃発した「砥石城の戦い」は、この信玄の信濃侵攻戦略において、極めて重要な意味を持つ合戦であった。それは単なる城一つを巡る攻防戦に留まらず、二年前の屈辱的な敗北の雪辱を期し、武田家の威信そのものを賭けた再戦だったのである。
武田信玄の信濃侵攻戦略
天文11年(1542年)、信玄は父・信虎の代に結ばれた武田・諏訪・村上の三国同盟を反故にし、諏訪頼重を滅ぼして信濃諏訪郡を手中に収めた 1 。これを皮切りに、伊那、佐久といった信濃の枢要な地域を次々と制圧し、その勢いはとどまるところを知らなかった 2 。しかし、信濃統一を目指す信玄の前に、巨大な壁として立ちはだかったのが、北信濃に盤踞する猛将・村上義清であった。
最初の蹉跌、上田原の戦い(天文17年/1548年)
天文17年(1548年)2月、信玄は村上義清との直接対決に臨むも、「上田原の戦い」において生涯初となる大敗を喫した 4 。この一戦で武田軍は、譜代の重臣であり、信玄の傅役でもあった板垣信方、そして勇将として知られた甘利虎泰という、家中を支える二本の柱を同時に失うという甚大な損害を被った 6 。信玄自身も二箇所の傷を負ったとされ、その敗北の衝撃は計り知れないものであった 2 。
この敗戦は、単なる軍事的な損失以上に、信玄の「不敗神話」を打ち砕き、彼に従ったばかりの信濃国衆の心に動揺を生じさせた 2 。戦国時代の主従関係は、主君の軍事力と勝利によって担保される。信玄が村上義清に再び敗れるようなことがあれば、大規模な離反を招きかねない状況にあった。したがって、信玄には次なる戦いでの勝利が絶対条件であり、それも圧倒的な力で敵をねじ伏せる「勝ち方」が求められていた。この心理的な焦りが、後の砥石城攻めにおける戦略判断に影を落とすことになる。
砥石城の戦略的重要性
上田原での雪辱を果たすべく、信玄は再び村上氏の領国へと兵を進める。その標的となったのが、村上氏の本拠地・葛尾城(現在の長野県坂城町)の南方を固める最重要支城、砥石城であった。この城は、上田平と真田郷を一望する戦略的要地に位置し、村上氏にとっては小県郡支配の拠点であり、武田軍にとっては葛尾城の喉元に突きつけられた匕首(あいくち)ともいえる存在であった 1 。砥石城を攻略すれば、村上領の分断と葛尾城の孤立化が可能となり、北信濃制圧への道が大きく開ける。かくして、砥石城は信玄の個人的な復讐心と、信濃統一という大戦略が交差する、運命の戦場となったのである。
第一章:戦いの舞台、天空の要塞「砥石城」
武田の大軍を迎え撃つことになった砥石城は、いかにして難攻不落の要塞たり得たのか。その強さの秘密は、天然の地形を巧みに利用した構造と、城に籠る兵士たちの並外れた士気にあった。
地勢と縄張り ― 複合城郭の全貌
砥石城は単一の城郭ではなく、東太郎山の尾根上に築かれた複数の城(郭)から成る、一大複合山城であった 10 。その縄張りは、中心となる「本城」を核に、北に「枡形城」、南西に「米山城」、そして南に「戸石城」と呼ばれる曲輪群が連なる連郭式の構造を持つ 1 。
この城塞群が築かれた地形そのものが、最大の防御装置であった。城の東西は切り立った断崖となっており、大規模な部隊が接近することは不可能である 1 。そして、主たる攻撃口となる南西方面は、その名の通り「砥石」のように急峻な岩肌の崖がそそり立ち、攻撃ルートを極めて狭い範囲に限定していた 1 。大軍の利を無力化し、攻撃側を消耗させることに特化したこの構造は、7,000の兵力を擁する武田軍にとって致命的な障害となった。限定された攻城ルートは兵力の逐次投入を強いるため、大軍も一度に投入できず、局所的には守備側と互角かそれ以下の兵力で急斜面を登攀せざるを得ない。これは、攻撃側に多大な出血を強いる「キルゾーン(殺戮地帯)」を意図的に作り出す設計思想であった。
さらに、それぞれの郭は深い「堀切」によって尾根筋を分断され、斜面は人工的に削り落とされた「切岸」となって敵の侵入を阻む 15 。仮に一つの郭が突破されても、次の郭が独立した防御拠点として機能し、敵の進軍を段階的に食い止めることができたのである。
城兵の構成 ― 寡兵なれど精強なる守備隊
この天空の要塞を守る村上方の兵力は、わずか500名ほどであったと伝えられる 1 。対する武田軍は7,000。その兵力差は実に14倍にも達していた。しかし、この寡兵の守備隊は、数では測れない強靭な精神力を秘めていた。
城兵の大半は、天文16年(1547年)に信玄によって滅ぼされた志賀城主・笠原清繁の残党たちであった 1 。彼らは主君を討たれ、故郷を奪われた深い遺恨を胸に抱き、武田軍に対して燃えるような復讐心を抱いていた。彼らにとって砥石城は、単なる防衛拠点ではなく、一族の無念を晴らすための最後の砦であった。この凄まじい憎悪と執念が、絶望的な兵力差を覆すほどの高い士気の源泉となり、物理的な城の防御力を、精神的な不屈さへと昇華させていたのである。堅牢な「城」というハードウェアに、復讐心に燃える「人」というソフトウェアが組み合わさることで、両者の強みが相乗効果を生み、砥石城を真の難攻不落の要塞へと変貌させていた。
表1:両軍の兵力および主要武将比較
項目 |
武田軍 |
村上軍 |
総大将 |
武田晴信(信玄) |
村上義清 |
総兵力 |
約7,000 |
約2,000(後詰含む) |
砥石城守備兵力 |
- |
約500 |
主要武将 |
横田高松、小山田信有、真田幸隆、原虎胤、馬場信春など |
(城内)山田国政、額岩寺光氏など |
特記事項 |
上田原の雪辱を期す大軍 |
城兵の多くは笠原氏残党 |
第二章:合戦詳報:天文十九年九月、砥石城攻防戦のリアルタイム再現
ユーザーの要望に応え、ここからは信頼性の高い史料である『高白斎記』などを基に、天文19年(1550年)8月下旬から10月初頭に至るまでの攻防戦の軌跡を、日付を追いながらドキュメンタリータッチで再現する。
表2:砥石城の戦い 主要時系列表
年月日(天文19年) |
武田軍の動向 |
村上軍および周辺の動向 |
8月19日 |
信玄本隊、小県郡長窪に着陣。 |
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8月24日~25日 |
今井藤左衛門、横田高松らを派遣し、砥石城を詳細に偵察。 |
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8月28日 |
砥石城に近い「屋降(むねくだり)」に本陣を移動。 |
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9月1日 |
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村上方の清野氏が武田方に降伏。 |
9月3日 |
本陣をさらに城際へ前進させる。 |
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9月9日 |
酉の刻(午後6時頃)、砥石城への総攻撃を開始。 |
城兵は石や熱湯で激しく抵抗。 |
9月9日~22日 |
2週間にわたる猛攻も、城は陥落せず。戦線は膠着。 |
籠城戦を継続。 |
9月23日 |
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村上義清が高梨政頼と和睦し、武田方の寺尾城を攻撃開始との報が入る。 |
9月23日~28日 |
真田幸隆らを寺尾城救援に派遣。 |
寺尾城周辺で攻防。 |
9月28日 |
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村上・高梨連合軍が寺尾城から撤退。 |
9月30日 |
軍議を開き、全軍の撤退を決定。 |
追撃の準備を整える。 |
10月1日 |
午前6時頃、撤退開始。 |
城兵と本隊が連携し、猛烈な追撃を開始(戸石崩れ)。 |
10月7日 |
信玄、甲府へ帰還。 |
|
包囲網の形成(8月下旬~9月初旬)
天文19年7月、信玄は信濃守護・小笠原長時をその本拠地から追放し、中信濃の制圧を完了すると、満を持して村上氏の領国へと矛先を向けた 14 。
- 8月19日: 信玄率いる本隊が、砥石城の南方に位置する小県郡長窪に着陣 14 。
- 8月24日~25日: 信玄は慎重に事を進め、足軽大将の横田高松や原虎胤といった歴戦の将を偵察に派遣。二日間にわたり、砥石城の地形や防御態勢を詳細に調査させた 14 。
- 8月28日: 武田軍は前進し、砥石城にほど近い「屋降(むねくだり)」と呼ばれる地に本陣を構える 18 。
- 8月29日: 信玄自らが敵城の間際まで進み出て物見を行い、戦闘開始を告げる儀式である「矢入れ」を執り行った 14 。戦前の緊張は最高潮に達した。
- 9月3日: 本陣をさらに城との距離を詰めた高台へと前進させ、城に圧力をかける 18 。
この間、信玄は力攻めの準備と並行して、得意の調略も進めていた。小県郡の地理と人脈に明るい真田幸隆を使い、村上方の国衆の切り崩しを図り、9月1日には埴科郡の清野氏を降伏させるなど、一定の成果を上げていた 14 。
膠着する戦線(9月9日~9月22日)
- 9月9日: 酉の刻(午後6時頃)、深い霧が立ち込める中、武田軍による総攻撃の火蓋が切られた 18 。武田の足軽部隊は、唯一の攻め手である南西の急峻な崖に取り付いた。しかし、彼らを待ち受けていたのは、村上軍の熾烈な抵抗であった。城兵は崖をよじ登ってくる武田兵に対し、容赦なく大石を落とし、煮え湯を浴びせかけた 1 。地の利を活かした村上方の効果的な防衛戦術の前に、武田軍は多大な損害を出し、攻撃は頓挫した。
この日から約20日間にわたり、武田軍は繰り返し猛攻を加えるが、砥石城は微動だにしなかった 1 。圧倒的な兵力を持ちながらも、その優位性を全く活かせないまま時間だけが過ぎていき、武田軍の陣中には次第に焦りと疲弊の色が濃くなっていった。
戦局の急変 ― 村上義清、乾坤一擲の奇策(9月23日)
武田軍が砥石城という「点」に固執し、不毛な攻城戦を続けている間、村上義清は戦局全体を俯瞰し、逆転の一手を打っていた。
- 9月23日: 攻めあぐねる信玄の本陣に、衝撃的な報せがもたらされる。村上義清が、長年の宿敵であった北信濃の高梨政頼と電撃的に和睦を結び、両軍が合同で手薄になっていた武田方の後方拠点・寺尾城(現在の長野市)を攻撃しているというのである 1 。
これは、情報戦における村上義清の完全勝利であった。信玄の諜報網は、敵対する両者が手を結ぶという動きを事前に察知できなかった。あるいは、その可能性を軽視していた。村上は、武田軍の注意が砥石城に集中している時間的猶予を利用して、自軍の戦略的劣勢を覆すための外交工作を成功させたのである。この一報により、信玄は戦術的にも戦略的にも完全に主導権を失い、砥石城と寺尾城の二正面作戦という苦境に立たされた 14 。
信玄の決断 ― 屈辱の撤退へ(9月30日)
信玄は直ちに真田幸隆らを寺尾城の救援に向かわせるが、戦況は好転しない 14 。砥石城は依然として陥落の気配を見せず、後方では村上・高梨連合軍が猛威を振るう。このままでは、砥石城の救援に現れるであろう村上本隊と、城兵による挟撃を受ける危険性が日に日に高まっていく。
- 9月30日: 信玄は軍議を招集。諸将の意見を聞いた上で、この戦況を打開することは不可能と判断し、全軍の撤退という苦渋の決断を下した 14 。上田原の雪辱を果たすはずの戦いは、敵に背を見せて逃れるという、最悪の結末を迎えようとしていた。
第三章:「戸石崩れ」― 武田軍、未曾有の大敗北
撤退は、戦闘行為の中で最も困難かつ危険を伴う作戦である。統制を失えば、それはたちまち潰走、すなわち「崩れ」へと転化する。天文19年10月1日、武田軍はまさにその悪夢を現実のものとした。
悪夢の撤退戦(10月1日)
- 10月1日 午前6時頃: 武田軍が陣を払い、撤退を開始した 14 。しかし、その動きは村上軍に筒抜けであった。彼らはこの瞬間をこそ、決戦の時と定めていた。
- 撤退開始直後: 村上義清率いる本隊約2,000が、待機していたかのように間髪入れず武田軍の後方に襲いかかった 1 。同時に、籠城していた500の城兵も城門を開いて打って出て、退却する武田軍の側面を猛然と突いた 3 。
これは、単なる勢いに任せた追撃ではなかった。砥石城の城兵と本隊が完璧なタイミングで連携し、武田軍を混乱の極みに陥れている。村上義清は、武田軍を撤退に追い込むこと自体を罠とし、その後の追撃戦こそを本命の決戦と位置づけていたのである。
前方からの村上本隊、後方・側面からの城兵による挟撃を受け、武田軍の統制は完全に崩壊した 5 。狭隘な山道では、7,000の大軍はかえって足手まといとなり、兵士たちは我先にと武器や鎧を捨てて逃げ惑った。整然たる軍団は、なすすべもなく狩られる烏合の衆と化した。この武田軍総崩れの様相こそが、後世に「戸石崩れ」と語り継がれる所以である 13 。
殿軍の死闘 ― 横田高松の最期
この地獄絵図のような大混乱の中、ただ一隊、敢然と敵の前に立ちはだかった部隊があった。足軽大将・横田高松が率いる殿(しんがり)軍である。殿とは、退却する本隊の最後尾にあって、敵の追撃を食い止める最も危険な任務である。
高松とその部隊は、味方を一人でも多く逃がすため、死を覚悟で村上軍の猛攻を一手に引き受けた 20 。奮戦も虚しく、高松は村上軍の波にのまれ、壮絶な討ち死を遂げた 13 。享年64であったとされる 22 。彼らの自己犠牲的な戦いがなければ、信玄自身も命を落としていた可能性は高い。信玄はこの老将の死を深く悼み、後に近習の者たちに「武辺の者になろうとするなら、原美濃(虎胤)、横田備中(高松)のようになれ」と語り伝えたという 22 。
両軍の損害と勝敗の帰趨
武田軍の敗害は壊滅的であった。『妙法寺記』や『勝山記』といった同時代の記録は、この戦いにおける武田方の死者を「千人計り」と記している 4 。横田高松のほか、郡内衆の渡辺雲州(出雲守)といった有力な将士も討ち死にした 14 。
一方、村上軍の死者は193名と、その損害は比較にならないほど軽微であった 1 。この圧倒的な損害比は、この戦いが武田軍の完全な敗北であったことを何よりも雄弁に物語っている。
信玄は、殿軍の決死の奮闘によって辛うじて戦場を離脱し、大門峠を越えて諏訪へと逃れた 14 。そして10月7日、失意のうちに本国・甲府へと帰還したのである 4 。
第四章:敗因の徹底分析 ― なぜ武田信玄は敗れたのか
「戸石崩れ」は、武田信玄の生涯における上田原の戦いに次ぐ、二度目の、そして最大級の大敗北であった 1 。常勝を誇った「甲斐の虎」は、なぜこれほどまでの惨敗を喫したのか。その要因は、戦略、戦術、情報、そして将の器量といった、複数の側面に求めることができる。
信玄の戦略的誤算
第一の敗因は、信玄自身の戦略的判断の誤りにあった。
- 慢心と情報軽視: 上田原の敗戦から十分な教訓を得ず、村上義清という将の器量と、北信濃国衆の結束力を過小評価していた。特に、長年の宿敵であった村上氏と高梨氏が手を結ぶという最悪のシナリオを想定していなかった点は、情報戦における完全な敗北を意味する。
- 戦術の硬直化: 砥石城という難攻不落の山城に対し、7,000対500という兵力差を過信し、力攻めに終始した。兵糧攻めや、より大規模な調略といった他の選択肢を十分に検討せず、一つの戦術に固執したことが、戦線を膠着させ、最終的に敵の奇策を許す隙を生んだ。
この時期までの信玄の信濃攻略は、「調略による内部分裂」を誘い、「軍事侵攻による制圧」でとどめを刺すのが勝利の方程式であった 14 。しかし、村上義清という強力なリーダーシップを持つ敵に対しては、この方程式が通用しなかった。それどころか、村上は敵対していた高梨氏を取り込むことで自陣営を強化し、信玄のお株を奪う「逆・調略」ともいえる外交戦略を成功させた。信玄は、自らが最も得意とする土俵で敗れたのである。
村上義清の卓越した軍略
対照的に、村上義清の采配は冴えわたっていた。
- 地の利の最大活用: 砥石城の地形と構造を熟知し、寡兵で大軍を食い止めるという、籠城戦術の極致を見せた。
- 戦略的柔軟性: 籠城という受動的な戦いを続けながら、その裏では高梨氏との和睦交渉を進め、さらには武田軍の後方を脅かす別働隊を編成するなど、戦況を複眼的に捉え、同時に複数の作戦を展開する高度な戦略思考を発揮した。
- 決断力と機動力: 敵の撤退という千載一遇の好機を逃さず、躊躇なく全軍を挙げて追撃に移る決断の速さと、それを可能にする軍の機動力が、単なる勝利を歴史的な大勝利へと昇華させた 1 。
そして何よりも、堅固な城という「ハード」と、復讐心に燃える兵士たちの高い士気という「ソフト」を完璧に融合させ、自軍の戦闘力を最大限に引き出した将としての器量が、この勝利の最大の要因であったと言えよう 1 。
第五章:謀略の逆転劇:真田幸隆による砥石城奪還
武力では決して落ちなかった天空の要塞・砥石城。しかし、その運命は「戸石崩れ」からわずか8ヶ月後、一本の矢も放つことなく、一人の男の智謀によって劇的に覆されることになる。
力攻めから調略へ ― 信玄の戦術転換
砥石城での手痛い敗北は、信玄に極めて重要な教訓をもたらした。それは、「力だけでは勝てない」という、戦の本質であった。この失敗を通じて、信玄は村上義清との正面からの武力衝突を避け、内部からの切り崩し、すなわち調略に戦術の軸足を完全に移すことを決断する 4 。
この重大な任務を託されたのが、真田幸隆(幸綱)であった。幸隆はかつて村上氏らによって故郷の真田郷を追われた身であり、旧領回復への並々ならぬ執念を抱いていた 26 。そして何より、彼は攻略対象である小県郡の地理と人脈に誰よりも精通していた。信玄は、敗戦を糧として戦略を修正し、適材を適所に配置するという、高度な組織的学習能力を発揮したのである。
天文二十年五月、一夜にしての陥落
天文20年(1551年)5月26日、真田幸隆は武田本軍の支援を受けることなく、少数の手勢のみを率いて砥石城に迫り、これを一夜にして陥落させるという離れ業を成し遂げた 4 。前年には7,000の大軍を退けた堅城が、いとも容易く手中に収まったのである。
この電撃的な奪還劇の裏には、幸隆による周到な謀略があった。最大の要因は、城内で足軽大将を務めていた幸隆の実弟・矢沢頼綱(綱頼)の内応であったとされる 1 。幸隆は弟を通じて城内の情報を収集し、内通者と連携することで、内部から城を崩壊させたのである。この鮮やかな功績により、真田幸隆の名は「攻め弾正」として天下に轟き、武田家中における不動の地位を築くこととなった。
終章:歴史的意義 ― 川中島への序曲
真田幸隆による砥石城の奪還は、単に一つの城の支配者が変わったという以上の、大きな歴史的意味を持っていた。それは、北信濃の勢力図を根底から覆し、戦国史を代表する二大英雄の宿命の対決へと繋がる、新たな時代の序曲だったのである。
村上義清の没落と越後亡命
領国支配の要であった砥石城を失ったことで、村上氏の勢力は急速に衰退した 4 。城の陥落は家臣団に深刻な動揺を与え、離反者が相次いだ 29 。これを好機と見た信玄は攻勢を強め、天文22年(1553年)、ついに村上氏の本拠地・葛尾城を攻略する。拠点を失った村上義清は、信濃を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びていった 14 。
新たな時代の胎動 ― 龍虎相まみえる
故国を追われた猛将・村上義清の救援要請は、越後の若き龍・長尾景虎の義侠心を強く刺激した。景虎は信濃への出兵を決意し、ここに甲斐の武田氏と越後の長尾(上杉)氏が、北信濃の覇権を巡って直接対峙する構図が完成した 1 。
こうして、天文22年から十数年にわたり、計5回に及ぶとされる「川中島の戦い」の幕が切って落とされる。砥石城を巡る一連の攻防は、信濃国内の地域紛争から、戦国時代を代表する二大勢力の激突へと、戦いの次元を大きく引き上げる歴史的な転換点となった。戸石崩れという信玄の敗北と、それに続く真田の謀略による逆転劇がなければ、信玄と謙信という龍虎が川中島で相まみえることもなかったかもしれない。その意味において、砥石城の戦いは、戦国史のクライマックスへと至る、極めて重要な一里塚であったと言えるだろう。
引用文献
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- 【合戦解説】~上田原の戦い~武田信玄初めての敗北を徹底解説! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=RICEWv_Hves
- ~砥石崩れ~武田晴信が挑んだリベンジマッチ、その結末とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=MJygzWp02PM
- 砥石城跡[といしじょうあと] /【川中島の戦い】史跡ガイド https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000444.html
- 砥 石 (戸石)城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/297/297shiro.pdf
- 板垣信方~若き武田信玄を支えた宿老、上田原で討死 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4794
- 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html
- 村上義清とは 信玄に二度の勝利がアダとなる - 戦国未満 https://sengokumiman.com/murakamiyosikiyo111.html
- ;「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ http://yogokun.my.coocan.jp/kouyougunkan.htm
- 戸石城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%9F%B3%E5%9F%8E
- 戸石城(戸石城跡)の歴史や見どころなどを紹介しています - 戦国時代を巡る旅 http://www.sengoku.jp.net/koshinetsu/shiro/toishi-jo/
- 戸石城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.toishi.htm
- 砥石崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A5%E7%9F%B3%E5%B4%A9%E3%82%8C
- 「砥石崩れ(1550年)」舞台は信濃の砥石城!信玄の生涯で唯一の失策だった? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/772
- 上田城 砥石城 戸石城 米山城 枡形城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/nagano/uedasi.htm
- 山城の仕組みを知ろう!古城探検!第十二弾 | トマト工業のブログ-建材の加工と自転車通勤 https://tomatokogyo.com/nikki/archives/%E5%8F%A4%E5%9F%8E%E3%80%81%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8D%E3%81%86%EF%BC%81%E5%8F%A4%E5%9F%8E%E6%8E%A2%E6%A4%9C%EF%BC%81%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%8C.html
- [合戦解説] 10分でわかる砥石城の戦い 「武田晴信は村上義清にリベンジを挑むも痛恨の砥石崩れ」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=fIpbAvURuKQ
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- 横田備中守高松 - 川中島の戦い・主要人物 https://kawanakajima.nagano.jp/character/yokota-takatoshi/
- 横田備中守高松屋敷跡(名右衛門) https://naemon.jp/yamanashi/yokotatakatoshi.php
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- 上田原古戦場 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市 - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000336.html
- 砥石城(戸石城) ~信玄を退けた難攻不落の山城 https://sengoku-yamajiro.com/archives/sonotashiro_toishi-html.html
- 「真田一族の歴史がよぉ~くわかる本」第2章 - 史跡巡りの部屋 http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/sanada02.html
- 真田幸隆 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90088/
- 村上義清とはどんな人?謙信や信玄に多大な影響を与えた天才戦術家 https://hono.jp/sengoku/murakami-yoshikiyo/
- の里 金剛寺 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/12744.pdf
- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html