最終更新日 2025-09-08

祇園城の戦い(1590)

祇園城の戦いは、1590年の小田原征伐において、豊臣方結城晴朝が実兄小山秀綱の守る祇園城を攻略。秀綱は後北条氏に従属し、晴朝は豊臣秀吉に恭順したため兄弟は敵対。城は無血開城し、小山氏は滅亡、結城氏は発展した。

天正十八年、下野祇園城の攻防 ― 豊臣天下統一の奔流に消えた名門小山氏の終焉 ―

序章:天下統一の最終局面 ― 関東征伐への道

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関白豊臣秀吉は、長年にわたる戦乱に終止符を打つべく、天下統一事業の最終段階に着手していた。四国、九州を平定し、その権威は日の本全土に及ばんとしていたが、その前に二つの大きな障壁が立ちはだかっていた。一つは奥州の伊達政宗、そしてもう一つが、関東に巨大な勢力圏を築き上げた後北条氏である 1

秀吉は当初、後北条氏に対して武力を用いることなく、その権威の下に臣従させることを望んだ 1 。しかし、五代にわたり関東に君臨してきた後北条氏の当主、北条氏政・氏直父子にとって、秀吉は成り上がりの覇者に過ぎず、自らが関東の「公儀」であるとの自負があった。天正16年(1588年)、秀吉が後陽成天皇を自邸の聚楽第に招き、全国の大名に上洛を命じた際、後北条氏はこれを拒否。他の大名がこぞって臣従の意を示す中、使者すら送らないという態度は、秀吉が構築しようとする天下の秩序に対する明確な挑戦と受け取られた 2

両者の間に横たわる溝は、もはや外交交渉で埋められるものではなかった。それは、秀吉が志向する中央集権的な「天下」と、後北条氏が守ろうとした関東における独立的な支配体制という、相容れない二つの世界観の衝突であった。徳川家康による懸命な仲介もむなしく 2 、天正17年(1589年)に後北条氏の家臣が秀吉の裁定を無視して真田氏の所領である名胡桃城を奪う事件が発生すると 4 、遂に秀吉の堪忍袋の緒が切れた。

これを「天道に背き、帝都に対して奸謀を企つ」逆賊の所業と断じた秀吉は、後北条氏討伐の勅命を掲げ、全国の諸大名に動員令を発した 5 。その数は、水軍を含め総勢20万を超え、まさに日本の歴史上、空前の大軍であった 1 。天正18年3月、秀吉自ら京を出陣し、後北条氏の本拠地である小田原城へと進軍を開始する。世に言う「小田原征伐」の幕開けである。この巨大な軍事行動は、単に後北条氏という一勢力を滅ぼすための戦いではなかった。それは、戦国乱世を終わらせ、豊臣政権による新たな統治秩序を日本全土に確立するための、天下統一事業の総仕上げであった。そして、この歴史の奔流は、関東の諸地域に深く根を張ってきた数多の在地領主たちの運命をも、否応なく飲み込んでいくことになる。下野国(現在の栃木県)南部の要衝、祇園城を巡る戦いもまた、その巨大な歴史劇の一幕に他ならなかった。

第一章:戦場の舞台 ― 下野国祇園城と小山一族

第一節:祇園城の戦略的重要性

祇園城、地元では古くからそう呼ばれ、またの名を小山城という 7 。その立地は、下野国南部における軍事・交通の要衝として、極めて重要な意味を持っていた。城は西に思川の急流を臨む河岸段丘の先端に築かれ、川を天然の堀として利用した堅固な構えを誇っていた 9

その歴史は古く、平安時代中期、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫であり、鎌倉幕府の有力御家人となる小山氏の祖、小山政光によって築かれたと伝えられている 7 。城の守り神として祇園社(現在の須賀神社)を祀ったことから、「祇園城」の名が生まれたという 12

当初は小山氏の支城の一つであったが、15世紀頃には本城となり、下野南部における政治・経済の中心地として栄えた 7 。しかし、戦国時代の激動は、この城の性格を大きく変貌させる。天正4年(1576年)、関東制覇を目指す後北条氏の猛攻の前に祇園城は陥落。城は後北条氏の手に渡り、当主・北条氏政の弟で、軍事・外交に辣腕を振るった北条氏照の管理下に置かれた 7

氏照は祇園城の戦略的価値を高く評価し、これを対佐竹・宇都宮氏の最前線基地とすべく、大規模な改修を施した。鉄砲戦を想定し、敵の攻撃を側面から迎撃するための「馬出」や、より深く幅の広い「空堀」を新たに構築するなど、当時の最新築城術が惜しみなく投入された 7 。これにより、祇園城は単なる在地領主の居城から、後北条氏の北関東支配を支えるための純然たる軍事要塞へと生まれ変わったのである。天正18年(1590年)の戦いで豊臣方の軍勢が対峙したのは、もはや旧来の小山氏の城ではなく、後北条氏の軍事思想が色濃く反映された、この戦闘拠点としての「祇園城」であった。この城の変貌は、まさに関東における勢力図の変化そのものを体現していたと言えよう。

第二節:名門・小山氏の栄枯盛衰

祇園城を本拠とした小山氏は、関東でも屈指の名門であった。その祖は藤原秀郷に遡り、鎌倉時代には初代・小山政光が源頼朝の挙兵を助け、幕府創設に多大な貢献を果たした有力御家人として、その名を轟かせた 12 。一族は代々、下野国守護職を務めるなど、鎌倉・室町時代を通じて関東に大きな影響力を保持し続けた。

しかし、応仁の乱以降、日本全土が戦国の世に突入すると、小山氏の栄光にも陰りが見え始める。関東では、古河公方と関東管領上杉氏の対立、そして相模国から急速に勢力を拡大した後北条氏の台頭により、旧来の秩序は崩壊。小山氏は、これら強大な勢力の狭間で、生き残りをかけた苦渋の選択を迫られ続けることとなる 18

天正年間、当主の座にあった小山秀綱は、この激動の時代を乗り切るべく、巧みな外交手腕を発揮しようと試みた。永禄4年(1561年)には越後の上杉謙信に従って後北条氏の小田原城攻撃に参加するが、そのわずか2年後には後北条氏に内通。かと思えば、謙信に攻められて降伏し、再び後北条氏に通じるなど、まさに綱渡りのような外交を展開した 19 。これは、小山氏という家門を存続させるための必死の策であったが、同時にその国力が相対的に低下し、自立性を失いつつあることの証左でもあった。

そして、その運命を決定づける日が訪れる。天正4年(1576年)、北条氏照率いる大軍が祇園城に侵攻。秀綱は籠城して抵抗するも、衆寡敵せず、遂に城は陥落した。秀綱は常陸国の佐竹義重を頼って落ち延び、ここに鎌倉以来400年以上続いた名門小山氏は、事実上の滅亡を迎えた 14

その後、秀綱は後北条氏の軍門に降ることで、祇園城への復帰を許される 12 。しかし、その立場はもはや独立した戦国大名ではなく、後北条氏の広域支配体制に組み込まれた一配下に過ぎなかった。城は北条流に改修され、軍事指揮権も氏照の監督下に置かれた。天正18年に小田原征伐が始まった際、秀綱が後北条方として豊臣軍に立ち向かわざるを得なかったのは、14年前に失われた政治的選択の自由が、彼に他の道を与えなかったからに他ならない。小山氏の滅亡は、この天正4年の落城の時点で、既に運命づけられていたのである。

第二章:兄弟相克 ― 豊臣方・結城晴朝の決断

天正18年の祇園城の戦いを、単なる城の攻略戦以上の、悲劇性を帯びた人間ドラマへと昇華させているのが、城を守る小山秀綱と、城を攻める結城晴朝が、血を分けた実の兄弟であったという事実である。

二人は共に小山高朝を父として生まれた 19 。兄の秀綱が小山家の家督を継いだ一方、弟の晴朝は、実子がなかった叔父の結城政勝の養子となり、下総国(現在の茨城県)の名門・結城氏の当主となっていた 22 。小山氏と結城氏は、共に藤原秀郷を祖とする同族であり、歴史的に見ても協力関係を築くことが多かった 22

しかし、戦国末期の関東の複雑な政治情勢は、兄弟の絆を引き裂き、両家を敵対関係へと追いやった。兄・秀綱が後北条氏への従属を余儀なくされたのに対し、弟・晴朝は常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏らと手を結び、反北条連合の一翼を担う道を選んだのである 23 。両者の対立は時に深刻で、佐竹義重や多賀谷重経の仲介で和議が持たれたこともあったという 24

晴朝は、兄とは対照的に、関東という地域ブロックの力学に留まらず、中央の情勢、すなわち織田信長、そして豊臣秀吉の台頭を冷静に見据えていた。彼は早くから秀吉と誼を通じ、来るべき新しい時代の秩序を正確に予測していたのである 22

それゆえ、天正18年に秀吉による小田原征伐が開始されると、晴朝の行動に迷いはなかった。彼はすぐさま豊臣方に馳せ参じ、北関東における後北条方の拠点攻略を命じられる。そして、その最初の標的となったのが、皮肉にも実兄・秀綱が守る故郷の城、祇園城であった 22

晴朝が実兄の城を攻めた行為は、単に主君である秀吉への忠義立てと見るべきではない。それは、自らが当主として一身に背負う「結城家」という家門を、時代の奔流の中で生き残らせるための、極めて冷徹なリアリズムに基づいた生存戦略であった。彼にとって、後北条氏に与することは、結城家の滅亡を意味した。逆に、秀吉の先鋒として「逆賊」となった兄を討伐することは、新時代における結城家の地位を確固たるものにする絶好の機会であった。旧来の血族の情よりも、新たな天下の秩序に適応し、家名を未来へ繋ぐこと。それが、戦国武将・結城晴朝が下した非情にして合理的な決断だったのである。

第三章:北関東制圧作戦と祇園城

祇園城の戦いは、孤立した局地戦ではなく、豊臣秀吉が描いた壮大な関東平定戦略の一部として遂行された。秀吉は、約14万の主力軍で後北条氏の本拠地・小田原城を包囲しつつ 1 、それとは別に二つの別働隊を組織し、関東各地に点在する後北条氏の支城網を計画的に解体する作戦を展開した。

その一つが、前田利家と上杉景勝を総大将とする、総勢約3万5千の「北国勢」である 5 。彼らは上信越方面から関東に侵攻し、上野国、武蔵国北部の後北条方諸城を次々と攻略していった 29 。この北国勢の進撃に呼応し、その先導役を務めたのが、結城晴朝、佐竹義宣、宇都宮国綱といった、これまで後北条氏の圧迫に苦しんできた反北条連合の関東諸侯であった 5 。彼らは総勢約1万8千の兵を動員し 5 、自らの領地に隣接する後北条方の城を攻略する任を担った。祇園城の攻略は、まさしくこの関東勢に与えられた重要な任務の一つだったのである。

後北条氏の防衛戦略は、難攻不落の小田原城での籠城を主軸としつつ、関東各地の支城が連携して豊臣軍の補給路を脅かし、長期戦に持ち込むことであった。しかし、秀吉の圧倒的な兵力と周到な兵站、そして多方面からの同時侵攻作戦は、この支城ネットワークを根底から覆した。以下の時系列表は、北関東の諸城が、いかに迅速かつ計画的に制圧されていったかを示している。

表1:小田原征伐における北関東方面の主要な城の攻略時系列

日付(天正18年)

城名(国名)

攻城軍の主将

結果

典拠

3月28日~4月20日

松井田城(上野)

前田利家、上杉景勝

落城

4

4月19日

厩橋城(上野)

前田利家、上杉景勝

攻略

4

4月24日

箕輪城(上野)

前田利家、上杉景勝

攻略

4

5月上旬

皆川城(下野)

北国勢

降伏開城

28

5月中旬

祇園城(下野)

結城晴朝

占領

28

5月19日~5月22日

岩槻城(武蔵)

浅野長政

攻略

4

5月22日

館林城(上野)

石田三成

攻略

4

5月14日~6月14日

鉢形城(武蔵)

前田利家、上杉景勝

落城

4

6月23日

八王子城(武蔵)

前田利家、上杉景勝

落城

4

この表が示すように、祇園城が攻撃を受けた5月中旬には、既に西方の防衛線である上野国の主要な城はことごとく陥落していた。これらの情報は、伝令や落ち延びてきた兵士によって、祇園城内の小山秀綱のもとへもたらされたはずである。西からの防衛ラインが崩壊し、救援の望みが完全に絶たれたという事実は、籠城する兵士たちの士気に深刻な影響を与えたに違いない。

祇園城の陥落は、この戦略的連鎖において重要な意味を持った。これにより、下野国における後北条氏の防衛ラインは決定的に破綻し、豊臣方はさらに東の常陸国、北の下野国北部へと圧力を強めることが可能となった。一つの城の陥落が次の城の孤立を深め、全体の戦況を不可逆的に豊臣方優位へと導いていく。祇園城の戦いは、この巨大なドミノ倒しの一片として、後北条氏の支城ネットワークを崩壊させる上で、欠くことのできない役割を果たしたのである。

第四章:祇園城の戦い ― 詳細時系列分析

祇園城の戦いに関する一次史料は極めて限られており、合戦の具体的な戦闘経過を詳細に記したものは現存しない。しかし、周辺の戦況や関係者の動向を丹念に追うことで、その推移を時系列に沿って再構築することは可能である。本章では、この戦いの中核をなす人物たちの関係性を整理し、可能な限りリアルタイムに近い形で戦況を分析する。

表2:祇園城の戦い 主要関係者一覧

立場

人物名

役職・関係性

典拠

籠城側(後北条方)

小山秀綱(おやま ひでつな)

祇園城主。小山氏18代当主。結城晴朝の実兄。

19

北条氏政(ほうじょう うじまさ)

後北条氏4代当主(大御所)。秀綱の主君。

1

北条氏直(ほうじょう うじなお)

後北条氏5代当主。氏政の子。

1

北条氏照(ほうじょう うじてる)

氏政の弟。祇園城を改修し、北関東方面を管轄。

7

攻城側(豊臣方)

結城晴朝(ゆうき はるとも)

結城城主。小山秀綱の実弟。

19

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)

関白。小田原征伐の総大将。晴朝の主君。

1

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)

常陸国の戦国大名。反北条連合の中核。

5

宇都宮国綱(うつのみや くにつな)

下野国の戦国大名。反北条連合の中核。

5

【天正18年(1590年)5月上旬】 進軍と包囲網の形成

5月上旬、前田・上杉らの北国勢が祇園城の北西に位置する皆川城を降伏させた頃、結城晴朝は機を捉えて行動を開始したと見られる 28 。晴朝は自軍を率い、同盟関係にある佐竹義宣、宇都宮国綱の軍勢と連携しながら、祇園城へと進軍した。

結城城から祇園城までは目と鼻の先であり、晴朝軍は速やかに城下に到達し、包囲網を完成させたであろう。思川を挟んだ西岸から、そして陸続きの東側から城を幾重にも取り囲み、外部との連絡を完全に遮断。兵糧攻めと力攻めの両面から圧力をかける態勢を整えた。

一方、城内の小山秀綱は、絶望的な状況に追い込まれていた。西の上野諸城が次々と陥落したという報は、既に彼の耳に届いていたはずである。小田原の本城は20万の大軍に包囲され、救援が来る見込みは万に一つもなかった。城兵の士気は低下し、城内には厭戦気分が漂い始めていたと想像に難くない。それでもなお、秀綱は後北条氏への義理と、名門小山氏当主としての意地から、籠城の決意を固めたのであった。

【天正18年5月中旬】 心理戦と短期決戦

史料にはただ「5月中旬、関東勢の結城軍が小山城を攻撃、占領する」と簡潔に記されているのみである 28 。この記述から、大規模で長期にわたる攻防戦が繰り広げられたとは考えにくい。むしろ、この戦いの本質は、武力による激突よりも、巧みな心理戦にあったと推察される。

攻将である結城晴朝には、時間的な制約があった。彼は祇園城を攻略した後、5月24日には小田原の秀吉本陣に参陣し、戦功を報告しなければならなかった 28 。祇園城から小田原までの道のりを考えれば、攻城に費やせる時間は長くても10日程度であった。北条氏照によって堅固に改修された城を力攻めにすれば、多大な時間と兵力の損耗を強いられることは明らかであり、それは晴朝の望むところではなかった 7

そこで晴朝が選択したのは、圧倒的な兵力差と、周辺諸城が次々と陥落しているという絶望的な戦況を背景に、兄・秀綱に降伏を促すという戦術であった可能性が高い。攻将が実弟であるという特殊な状況は、降伏勧告に特別な重みを持たせた。「これ以上の抵抗は、城兵を無駄死にさせるだけである。豊臣の大軍の前に、城は必ず落ちる。だが、私に降るのであれば、兄上と家臣一同の命は保証しよう」—。このような趣旨の使者が、幾度となく城内に送られたのではないだろうか。

儀礼的な小競り合いや威嚇射撃は行われたかもしれないが、本格的な総攻撃は控えられた。秀綱としても、勝ち目のない戦で譜代の家臣を犬死にさせることは本意ではなかったはずだ。弟に降伏し、一族の血脈と家臣の命を救う道を選ぶことは、武将として、そして当主として、決して不名誉な決断ではなかった。

【天正18年5月24日以前】 開城と接収

数日間にわたる交渉と心理的な圧迫の末、小山秀綱は降伏を決断。祇園城の城門は開かれ、結城晴朝の軍勢が城内へと進駐した。ここに、祇園城の戦いは終結した。

晴朝は、城の接収と戦後処理を信頼の置ける家臣に任せると、自らは軍勢の一部を率いて、急ぎ小田原へと向かった。実兄の城を落としたという複雑な思いを胸に秘めながらも、彼の表情には、新時代を生き抜くための確かな手応えがあったに違いない。5月24日、彼は予定通り小田原の本陣に到着し、天下人・豊臣秀吉に謁見を果たしたのである 28

第五章:戦後処理と小山氏の末路

天正18年7月5日、3ヶ月にわたる籠城の末、北条氏直は豊臣秀吉に降伏し、小田原城は開城した。氏政・氏照らは切腹を命じられ、ここに戦国関東に覇を唱えた後北条氏は滅亡した 6

この天下の趨勢は、関東の諸大名の運命を大きく分けた。後北条氏に最後まで味方した小山秀綱は、戦後、豊臣秀吉によってその所領を全て没収され、改易処分となった 12 。鎌倉時代から400年以上にわたり下野国に君臨してきた名門・小山氏は、戦国大名として、その長い歴史に完全に幕を下ろしたのである 14

その一方で、弟の結城晴朝は、時代の勝者となった。彼は祇園城攻略の功績を秀吉に高く評価され、兄・秀綱が失った旧小山領を新たな所領として与えられた 20 。これにより、結城氏の所領は大幅に拡大し、北関東における有力大名としての地位を不動のものとした。

所領を失い、全てをなくした秀綱は、その後、実弟である晴朝のもとに身を寄せ、その庇護下で余生を送ることになったという 22 。かつては同じ城で育ち、やがて敵味方に分かれて干戈を交えた兄弟は、勝者と敗者というあまりにも対照的な立場で、再び相まみえることとなった。

この兄弟の明暗を分けたものは、単なる運不運ではない。それは、戦国末期の新たな政治秩序、すなわち豊臣政権という中央集権体制への適応能力の差がもたらした、必然的な帰結であった。秀綱は、最後まで関東という地域ブロック内の力学、すなわち後北条氏との旧来の関係性に縛られ続けた。それは、過去の伝統や価値観から抜け出すことができなかった結果とも言える。

対照的に、晴朝は関東の枠を超え、全国的な視点から自家の立ち位置を客観的に判断し、行動した。彼の冷徹なまでのリアリズムは、祇園城攻略後、さらに大胆な生存戦略へと向かう。彼は、徳川家康の次男であり、秀吉の養子でもあった羽柴秀康を自らの養子に迎えるという決断を下す 27 。これは、豊臣・徳川という二大勢力と縁戚関係を結ぶことで、結城家の永続的な安泰を図ろうとする、究極の政治的選択であった。

小山氏の滅亡と結城氏の発展は、時代の大きな変化の波に乗りこなせた者と、それに飲み込まれてしまった者との運命を、象徴的に示している。祇園城の戦いは、血を分けた兄弟の悲劇であると同時に、旧時代の終焉と新時代への適応という、戦国末期の厳しい現実を映し出す鏡でもあった。

終章:歴史に刻まれたもの

天正18年(1590年)の祇園城の戦いは、豊臣秀吉による天下統一戦争という巨大な文脈の中で見れば、北関東で繰り広げられた数多の支城攻略戦の一つに過ぎないかもしれない。しかし、この戦いは、日本の歴史が大きな転換点を迎える中で、決して小さくない意義を持っていた。

第一に、この戦いは下野国の名門・小山氏の終焉を決定づけた。鎌倉以来の長きにわたり関東の歴史に深く関わってきた一族が歴史の表舞台から姿を消したことは、後北条氏の滅亡と共に、中世以来続いてきた関東の在地領主たちの時代の終わりを象徴する出来事であった 19

第二に、兄弟が敵味方に分かれて戦うという悲劇は、天下統一の奔流が、旧来の血縁や地縁といった共同体をいかに容赦なく解体していったかを物語っている。家門の存続という至上命題の前では、兄弟の情すら二の次とせざるを得ない。結城晴朝の選択は、戦国武将の非情なリアリズムを我々に突きつける。

そして、この戦いの舞台となった祇園城(小山城)は、その後、驚くべき歴史の皮肉を体現する場所となる。

小山氏滅亡からわずか10年後の慶長5年(1600年)。関ヶ原の戦いの火蓋が切られようとしていた時、会津の上杉景勝討伐に向かう途上の徳川家康は、この小山の地に本陣を置いた。そこで石田三成挙兵の報に接した家康は、諸将を集めて軍議を開き、全軍を西へ反転させて三成を討つことを決断する。これが、天下分け目の戦いの方向性を決定づけた、世に名高い「小山評定」である 33

天正18年、祇園城は、関東の旧秩序とそれに連なる名門・小山氏が崩壊する「破壊」の舞台となった。しかしその10年後、同じ場所が、徳川による新たな天下、すなわち江戸幕府二百六十年の平和へと続く道を切り開く「創造」の舞台へと劇的な変貌を遂げたのである。

一つの城が、わずか10年の間に、古い時代の終焉と新しい時代の黎明という、対照的な二つの歴史的瞬間の証人となった。祇園城の戦いを紐解くことは、単に一つの家の滅亡を語るだけでなく、その後の日本の歴史を形作ることになる、大きなうねりの一端に触れることに他ならない。この下野国の小さな城は、戦国乱世の終焉と近世の幕開けという、日本の歴史における最もダイナミックな転換点を、静かに見届けたのである。

引用文献

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  2. 小田原征伐〜秀吉が天下統一!北条家を下した最後の大戦をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/244/
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  4. 小田原征伐(小田原攻め、小田原の役) | 小田原城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/25/memo/2719.html
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  10. 下野 祇園城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shimotsuke/gion-jyo/
  11. お城散策妄想記録帳 第2回 反骨の坂東武者 小山義政と粕尾城(栃木県) https://shirobito.jp/article/1346
  12. 祇園城(小山城)~ 小山氏の興亡!DELLパソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/15-10-gionjou.html
  13. 下野小山 藤原秀郷を遠祖とする名門ながら小田原北条氏に組み込まれ領地没収改易となった小山氏本拠『祗園城』訪問 (小山) https://4travel.jp/travelogue/10653056
  14. 小山氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%B0%8F
  15. 【ご意見募集中】北条氏(小田原北条氏、後北条氏)ゆかりの城 - 攻城団 https://kojodan.jp/info/story/2700.html
  16. 「小山朝政」執権・北条義時に判定勝ち?鎌倉最強御家人の知られざる逸話 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1762
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  30. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
  31. 武家家伝_小山氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oyama.html
  32. 結城家18代・結城秀康 | 観光情報 - 結城市 https://www.city.yuki.lg.jp/kankou/history/page008693.html
  33. 徳川家康ゆかりの地 小山評定と小山御殿 | 小山市公式ホームページ https://www.city.oyama.tochigi.jp/kankou-bunka/rekishi_bunka/bunkazai/page000011.html
  34. 小山城(祇園城)/小山御殿~栃木県小山市~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro43.html
  35. 【祇園城】関ヶ原の戦い直前!東軍を結束させた"小山評定"が行われた城! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=M3maG5kCrSs