最終更新日 2025-09-01

神西湖口の戦い(1562)

永禄五年、毛利元就は神西湖口を制圧し、尼子氏の神西城を孤立させ陥落。周到な調略と兵站戦略が功を奏し、尼子氏滅亡への決定的な一歩となった。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

『永禄五年、出雲西部の攻防:神西湖口の戦いの戦略的・戦術的分析』

序章:忘れられた前哨戦、その戦略的価値

永禄5年(1562年)、中国地方の覇権を巡る尼子氏と毛利氏の永きにわたる抗争は、最終局面へと突入した。この年の後半、毛利元就による出雲侵攻作戦の初期段階において、出雲西部に位置する神西湖(じんざいこ)周辺で繰り広げられた一連の戦闘は、後世「神西湖口の戦い」として記録される。本報告書ではこの戦いを、単一の決戦としてではなく、神西湖の制水権と尼子氏の支城網「尼子十旗」の一角たる神西城の支配を巡って行われた、湖上での小競り合い、水際での攻防、そして神西城への攻城戦を含む複合的な軍事行動と定義する。

毛利氏による出雲侵攻の歴史を語る際、その焦点は翌永禄6年(1563年)の白鹿城(しらがじょう)の戦いや 1 、永禄9年(1566年)における尼子氏の本拠・月山富田城(がっさんとだじょう)の最終的な開城に当てられることが大半である 3 。これらの大規模な戦闘の陰に隠れ、神西湖口での戦いは、尼子氏の広域防衛網を西から切り崩すための決定的に重要な一歩であったにもかかわらず、これまで体系的に論じられる機会は少なかった。

本報告書の目的は、諸軍記物に散見される断片的な記述や関連史料を、当時の戦略・戦術、そして出雲西部の地政学的条件と照らし合わせることで、この忘れられた戦いの全貌を時系列に沿って立体的に再構築することにある。それにより、謀将・毛利元就の周到な戦略と、戦国大名尼子氏滅亡という大局が、いかにしてこの一局地戦に凝縮されていたかを明らかにすることを目指す。

第一章:覇権の黄昏と黎明 ― 合戦に至る戦略的背景

第一節:尼子氏の衰退と毛利氏の伸張

神西湖口の戦いに至る数年間で、山陰の雄・尼子氏と、安芸から勢力を拡大する毛利氏の力関係は劇的に変化していた。その最大の要因の一つが、尼子家中枢の動揺である。永禄3年(1560年)末、尼子氏の最盛期を築いた当主・尼子晴久が急逝し、若き嫡男・尼子義久が家督を継いだ 4 。これにより、祖父・経久、父・晴久の時代に確立された強力な中央集権体制に揺らぎが生じ、出雲国内外の国人衆に対する求心力は徐々に低下し始めていた。

さらに深刻だったのは、経済的基盤の喪失である。戦国大名の軍事力を支える重要な財源であった石見銀山を巡る争奪戦は、永禄5年(1562年)6月までに毛利氏の完全勝利に終わった 3 。これにより毛利氏は、尼子氏から石見銀山を完全に奪取することに成功した 6 。これは尼子氏にとって、莫大な戦費の源泉を失うという経済的打撃に留まらず、西国における威信を大きく損なう象徴的な敗北であった 3

第二節:謀神・元就の調略 ― 戦わずして勝つ

毛利元就の真骨頂は、武力のみに頼らず、周到な調略によって敵を内部から切り崩す点にある。その戦略は、出雲侵攻においても遺憾なく発揮された。永禄5年6月、石見国における尼子方の最重要拠点・山吹城の城主であり、石見における尼子勢力の「最後の砦」とも言うべき本城常光(ほんじょうつねみつ)が毛利氏に降伏した 6 。彼の離反は、単なる一武将の寝返りではなく、石見から出雲に至る尼子氏の西側防衛線が内部から崩壊したことを意味する、まさに衝撃的な出来事であった 8

この本城常光の降伏は、毛利による出雲侵攻作戦全体の「開始合図」であったと言える。元就は、尼子氏の堅城・月山富田城を直接攻撃することの困難さを熟知しており、攻略の前提として、周辺の支城ネットワーク(尼子十旗)を無力化し、兵站を断ち、完全に孤立させる戦略を立てていた 4 。石見と出雲の国境を抑える本城常光の降伏は、毛利本隊が出雲へ安全に進軍する経路を確保すると同時に、周辺の尼子方国人衆に対して「もはや尼子に勝ち目なし」という強力なメッセージを送る効果があった。事実、この直後の同年7月には、出雲国衆である三沢氏や三刀屋氏が相次いで毛利氏に帰順しており 7 、国人衆のドミノ的な離反を引き起こした。これは、元就が得意とする、軍事行動に先立って調略によって勝利の条件を整える戦略の典型例であった 10

第三節:出雲侵攻作戦の開始

万全の準備を整えた毛利元就は、永禄5年7月3日、嫡男・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景を率いて本拠・吉田郡山城を出陣した 4 。軍勢は石見路を経由し、すでに帰順した国人衆の領地を安全に通過しながら、出雲西部へと進軍を開始した。毛利軍の初期目標は、出雲西部の諸城を制圧し、尼子氏の本拠・月山富田城と日本海を結ぶ兵站線を遮断することにあった。神西湖口の戦いは、この壮大な出雲攻略戦の序盤における、極めて重要な一局面だったのである。

【表1】永禄5年(1562年)における毛利・尼子攻防年表

月日

毛利方の動向

尼子方の動向

主要な出来事・影響

6月

本城常光を調略し、降伏させる。

石見の最重要拠点・山吹城を失う。

石見の尼子方勢力が瓦解。毛利軍の出雲への進軍路が確保される 6

7月

元就、隆元、元春、隆景が出雲へ出陣。三沢氏・三刀屋氏が帰順する。

出雲西部の国人衆が離反し、防衛網に綻びが生じる。

毛利氏、出雲侵攻を本格化。戦わずして出雲西部・中部の広域を支配下に置く 7

8月~10月頃

神西湖周辺に進軍し、陣城を構築。水軍を展開し、湖口の封鎖と神西城への攻撃を開始。

神西元通が神西城に籠城。湖上と城で防戦するも、後詰なく孤立。

**神西湖口の戦い。**毛利軍が出雲西部の制海権・制水権を掌握。

11月

宍道の陣中にて、本城常光を謀殺する。

-

降将への見せしめと、新領土における支配体制の強化を図る 10

12月

宍道湖北岸の洗合(荒隈)に本陣を構え、月山富田城への圧力を強化。

本拠地への包囲網が狭まる。

毛利軍、長期戦の態勢を確立。翌年の白鹿城攻略への布石を打つ 9

第二章:湖と海を繋ぐ要衝 ― 戦場の地政学的重要性

第一節:神西湖の軍事的価値

神西湖口の戦いの舞台となった神西湖は、古代の『出雲国風土記』に「神門水海(かんどのみずうみ)」として記され、古くから出雲平野と日本海を結ぶ水運の要衝であった 13 。この地域は、山間部からの物資と沿岸部の産物が交わる結節点として、平時においても高い経済的価値を有していた 15

戦時において、この湖の価値はさらに高まった。毛利氏の侵攻によって陸路の多くが脅かされる中、神西湖から舟で直接日本海へ抜けられる水路は、尼子氏にとって西の「最後の兵站線」とも言うべき生命線であった。伯耆・因幡方面からの兵糧や武具、あるいは若狭など遠隔地の同盟勢力からの物資を受け入れるための、貴重な搬入路だったのである 17

この戦いは、単なる城の争奪戦であると同時に、尼子氏の経済・兵站ネットワークそのものを破壊する「兵站破壊作戦」としての側面を色濃く持っていた。戦国時代の長期戦において、兵站の維持は勝敗を分ける決定的な要因である 19 。元就の対尼子戦略の根幹は、月山富田城を物理的に包囲するだけでなく、兵站を完全に遮断して孤立させることにあった 9 。東の宍道湖・中海ルートは白鹿城が、そして西の日本海ルートはこの神西湖が管制していた 1 。毛利軍が神西湖口を制圧することは、尼子氏が外部から支援を受ける可能性を一つ、また一つと潰していく、計画的なプロセスの一環であり、敵の継戦能力そのものを奪うための極めて合理的な戦略的行動だったのである。

第二節:「尼子十旗」の西の砦、神西城

神西湖の軍事的価値を体現していたのが、湖の南東に位置する神西城である。城主の神西氏は、鎌倉時代以来この地を治めた在地領主・小野氏を祖とし、戦国期には尼子氏の重臣として、その支城網である「尼子十旗」の一角を担った 22

神西城は、標高約101mの高倉山に築かれた山城であり、山頂からは神西湖、日本海、そして出雲大社方面へ抜ける陸路を同時に監視できる絶好の戦略拠点であった 13 。構造は、主郭を中心に複数の曲輪(くるわ)を尾根筋に配置し、堀切(ほりきり)や土塁(どるい)、切岸(きりぎし)といった防御施設で固められた、典型的な中世山城の様式を持つ 24 。その役割は、毛利領と接する国境を守る「境目の城」であり 26 、本城・月山富田城を防衛する支城ネットワークの重要な結節点であった 28

特筆すべきは、神西城が単独の山城としてではなく、麓の神西湖と一体となって機能していた点である。湖を天然の外堀として利用し、湖上を移動する敵を城の高所から弓矢で攻撃する一方、自軍の舟艇の出撃拠点ともなる。まさに、敵の上陸を水際で阻止する「水際作戦」 29 を遂行するために築かれた、陸と水の複合要塞だったのである。

第三章:両軍の戦力と指揮官

毛利軍

  • 指揮系統: 総大将は毛利元就。実際の戦場における指揮は、元就の両腕と称された次男・吉川元春と三男・小早川隆景が分担して担ったと推察される 4 。また、この侵攻のきっかけを作った降将・本城常光は、出雲の地理や尼子方の内情に精通していることから、軍の先鋒もしくは案内役として作戦に加わっていた可能性が極めて高い 30
  • 兵力と構成: 出雲侵攻作戦全体の兵力は数万規模に達したが、神西湖口という一局地戦に投入されたのはその一部、数千から一万程度と推定される。その構成は、安芸・備後から従軍した毛利本隊に加え、石見や出雲で新たに寝返った三沢氏、三刀屋氏などの国人衆が加わっており、多国籍軍の様相を呈していた 7
  • 水軍戦力: 厳島の戦いなどで証明されているように、毛利氏は瀬戸内海で強力な水軍を擁していた 32 。その一部、特に機動力に優れた小早舟(こばやぶね)を中心とする部隊が、日本海を迂回して作戦に参加し、神西湖の制圧という特殊任務を担当したと考えられる 33

尼子軍

  • 指揮官: 神西城の城主は、神西三郎左衛門元通(じんざいさぶろうざえもんもとみち)であった 22 。尼子氏の家臣団の名簿である「尼子分限帳」に「足軽大将」として名が見えることから、一軍を率いる実戦経験豊富な武将であったことが窺える 8
  • 兵力と士気: 神西城に籠城した兵力は、城の規模から考えて数百名、多くとも千に満たない程度と推定される。周辺の国人衆が次々と毛利方に寝返っていく中、神西城は完全に孤立しており、兵たちの士気の維持は極めて困難であっただろう。彼らにとって唯一の希望は、主家である月山富田城からの後詰(ごづめ、援軍)であったが、その実現性は限りなく低かった 35

【表2】両軍の戦力比較

項目

毛利軍

尼子軍(神西勢)

総大将

毛利元就

尼子義久(名目上)

主要指揮官

吉川元春、小早川隆景

神西元通

推定兵力

数千~10,000

数百~1,000未満

兵力構成

毛利本隊、安芸・備後国人衆、石見・出雲の降将

神西氏麾下の兵、在地兵

水軍戦力

専門の水軍衆(小早舟主体)

城付属の舟艇

兵站・補給

安定(石見・出雲西部を制圧済み)

危機的(陸路・水路共に遮断寸前)

士気・戦略目標

高揚(出雲制圧を目指す)

低下(孤立無援、時間稼ぎが主眼)

第四章:神西湖口の戦い ― 時系列による詳細な再現

第一節:対峙と前哨(推定:永禄5年8月~9月頃)

出雲西部に進出した毛利軍は、神西湖周辺に到達すると、まず神西城を直接攻撃するための拠点として、対岸や周辺の丘陵地帯に陣城(じんじろ)や付城(つけじろ)と呼ばれる簡易な砦を複数構築した 37 。これらの陣城は、神西城を物理的に包囲・監視し、陸路からの連絡を完全に遮断する役割を果たした。

これと並行して、両軍による熾烈な情報戦が開始された。互いに斥候(せっこう)を放ち、敵の兵力、配置、そして意図を探り合った。特に毛利水軍は、その機動力と隠密性に優れた小早舟を駆使し、神西湖内の地形、水深、尼子方の舟艇の配備状況などを徹底的に偵察したであろう 33 。この段階で、湖上では両軍の偵察部隊による散発的な小競り合いが頻発し、戦いの火蓋は静かに切られていた。

第二節:湖口を巡る攻防 ― 水際戦の激化

偵察を終えた毛利軍は、作戦の核心である湖の封鎖へと移行する。毛利水軍の主力部隊が、神西湖と日本海を結ぶ幅の狭い水路、すなわち「湖口」の完全封鎖を開始した。多数の小早舟が防衛線を張り、尼子方の舟の出入りを力ずくで阻止しようと試みたのである。

城主・神西元通にとって、湖口の封鎖は城の生命線が断たれることを意味し、それは籠城戦の敗北に直結する。彼はこの危機的状況を打開すべく、城兵を乗せた手持ちの舟艇を出撃させ、数に勝る毛利水軍に決戦を挑んだ。狭い水路で、両軍の舟が入り乱れる激しい戦闘が展開された。

戦闘の様相は、機動力に優れる小早舟同士の接近戦が主体となったと推察される。遠距離からの弓矢の応酬に始まり、敵船に接舷して乗り移っての斬り合い(白兵戦)も各所で発生したであろう 40 。しかし、兵の数と舟の数で圧倒的に優位に立つ毛利水軍が、徐々に神西勢を圧倒していく。神西勢は多大な損害を出しながら城へと撤退を余儀なくされ、毛利軍はついに湖口の制圧に成功。神西城は、外部世界から完全に切り離された。

第三節:神西城籠城戦

湖の支配権を確立し、背後の憂いを断った毛利軍は、満を持して陸上部隊による神西城への総攻撃を開始した。攻撃側の兵たちは、急峻な切岸をよじ登り、幅の狭い虎口(こぐち、城門)に殺到する。対する防御側は、土塁の上から弓矢や投石で応戦し、尾根を断ち切る堀切や、階段状に配置された曲輪の構造を最大限に利用して敵の侵攻を食い止めた 42 。特に、城壁の屈曲部から側面攻撃を加える「横矢掛かり」の構造は、狭い通路に密集する毛利兵に対して大きな効果を発揮したであろう 43

神西城は小規模ながらも、天然の地形を活かした堅固な山城であり、力攻めによる攻略は困難を極めた。毛利軍に多大な損害が出たことで、元就は短期決戦を諦め、兵糧攻めへと戦術を転換した可能性が高い。

第四節:決着 ― 降伏への道(推定:永禄5年10月~11月頃)

神西城は完全なる孤立状態に陥った。湖口は封鎖され、陸路も遮断されている。本拠・月山富田城の尼子義久は、周辺の支城が次々と陥落・寝返る中で、遠く離れた神西城へ大規模な後詰を送る余力はもはやなかった。援軍の望みは完全に絶たれたのである 35

城内の兵糧は日に日に尽き、兵の士気も低下の一途を辿る。この状況下で、城主・神西元通は重大な決断を迫られた。これ以上の抵抗は、忠義ではなく、いたずらに家臣たちの命を失わせるだけの無分別な行為である。元通は、家臣と一族の命を救うため、毛利氏に降伏することを決断した 11

この神西元通の降伏は、戦国時代の国人領主が巨大勢力の間で生き残るための、典型的な現実的判断であった。籠城戦の成功は、後詰の到来という希望があって初めて成り立つ戦術である 46 。その可能性が完全に断たれた状況で徹底抗戦することは、主家への「忠義」とは見なされず、自らの家と領民を破滅させる愚行とさえ見なされかねなかった。降伏は、家臣の命を救い、一族の存続を図るための、指揮官としての最善の選択肢だったのである。彼が後に尼子再興軍へ馳せ参じた事実は 22 、この時点での降伏が尼子家への忠誠心の欠如からではなく、戦術的・戦略的状況を冷静に判断した結果であったことを雄弁に物語っている。

第五章:合戦後の影響と歴史的意義

第一節:出雲侵攻における次なる一手

神西湖口の戦いにおける毛利の勝利は、出雲侵攻作戦全体に決定的な影響を与えた。神西湖口と周辺の海岸線を完全に支配下に置いたことで、毛利軍は出雲西部における兵站基地を確保した。これにより、翌永禄6年に始まる尼子氏の重要拠点・白鹿城への攻撃において、背後の安全が保障された。日本海からの尼子方増援ルートを気にすることなく、宍道湖・中海の封鎖に全力を注ぐことが可能となったのである 1 。神西湖口の戦いは、月山富田城の巨大な包囲網を完成させるための、不可欠な地ならしであった。

また、尼子十旗の一角である神西城の陥落は、依然として尼子方に留まっていた他の支城の将兵に大きな動揺を与え、尼子氏の防衛ネットワークのさらなる崩壊を加速させる心理的効果も持っていた。

第二節:投降した将たちのその後

戦後の処理において、毛利元就の冷徹な政治手腕が際立つ。神西湖口の戦いに関わった二人の主要な武将、神西元通と本城常光の運命は、実に対照的であった。

降伏した神西元通は、毛利氏に仕えることを許され、伯耆国末石城の城主に任じられるなど、相応の処遇を受けた 22 。しかし、彼の尼子家への忠誠心は消えていなかった。永禄12年(1569年)、山中幸盛らが尼子家再興の兵を挙げると、元通はそれに呼応して毛利氏を離反 47 。最終的に天正6年(1578年)、播磨上月城にて尼子勝久と共に自刃し、最後まで旧主への忠義を貫いた 45

一方、毛利の出雲侵攻における最大の功労者であった本城常光は、悲劇的な末路を辿る。彼はその功績を鼻にかけ、傲慢な振る舞いが目立ったとされる。元就はこれを危険視し、同年11月、宍道の陣中にて常光を謀殺した 10

この対照的な処遇は、元就の冷徹な政治的計算に基づいていた。敵として最後まで戦い、筋を通して降伏した神西元通を許し、新たな役目を与えることは、他の尼子方武将に対して「降伏すれば命は助かり、相応の待遇が与えられる」という前例を示し、さらなる降伏を促す効果があった 48 。一方で、味方を裏切って降ってきた本城常光は、一度裏切った者は再び裏切る可能性があると見なされた 50 。また、彼の大きな功績と存在は、元々毛利に従っていた他の国人衆との間に軋轢を生む火種にもなり得た。したがって、彼の謀殺は、裏切り者への見せしめであると同時に、毛利家中の秩序を維持し、新領土における支配体制を盤石にするための非情な政治的決断だったのである。

第三節:歴史の中に埋もれた戦いの再評価

神西湖口の戦いは、毛利元就の戦争哲学、すなわち「戦は城門に入る前に九分通りは決する」という思想を体現している。軍事行動の成功が、いかに周到な事前準備(調略、情報収集、兵站計画)にかかっているかを示す、完璧なケーススタディと言える。大会戦のような華々しさはない。しかし、敵の力を着実に削ぎ、戦略的要地を一つずつ確実に押さえていく、毛利氏の堅実かつ冷徹な戦争遂行能力を象徴する戦いとして、再評価されるべきであろう。

結論:一点の突破がもたらした全局の崩壊

神西湖口の戦いを詳細に分析した結果、この戦いが単なる一城の攻防戦ではなく、尼子氏の生命線を断つための「水際戦」であり、毛利元就の周到な調略が軍事行動に先行した「謀略戦」でもあったことが明らかとなった。

毛利氏の勝利は、単なる兵力の優越のみに起因するものではない。それは、①侵攻前に敵の同盟網を切り崩した外交戦略、②敵の生命線である兵站路を的確に狙った地政学的戦略、そして③それを確実に実行した軍事戦術、この三位一体の賜物であった。

尼子氏の堅固な防衛網は、この神西湖口という西の「一点」を突破されたことで、ドミノ倒しのように崩壊への道を転がり始めた。この一見小規模な局地戦は、巨大な戦国大名・尼子氏が、内からは国人衆の離反によって、外からは毛利氏の軍事侵攻によって同時に侵食され、滅亡へと至る過程を象徴する、極めて重要な一場面だったのである。

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  40. 村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/about/
  41. 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
  42. 日本の城 基礎講座 : 防御施設編 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01790/
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  44. 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第59回 秀吉の城11(陣城・名護屋城Ⅱ) - 城びと https://shirobito.jp/article/1769
  45. 神西元通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%A5%BF%E5%85%83%E9%80%9A
  46. 戦国時代の転換点 3つの籠城戦を読み解く - とりネット https://www.pref.tottori.lg.jp/286739.htm
  47. 尼子再興軍の雲州侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%86%8D%E8%88%88%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9B%B2%E5%B7%9E%E4%BE%B5%E6%94%BB
  48. 明智光秀・小早川秀秋…戦国武将の裏切りの種類・方法・発覚した場合など解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85449/
  49. 裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【西軍編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/255588
  50. 戦国の「裏切り者」と「忠義者」 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5217?p=1
  51. 武田二十四将に名を連ねた、ある武将の裏切り - 歴史人 https://www.rekishijin.com/15551