神辺城の戦い(1566)
永禄九年、神辺城は毛利元就の尼子氏滅亡に貢献。城主杉原盛重は尼子補給路を断ち、毛利の勝利を支えた。三年後、尼子残党が城を奪うも毛利は即座に鎮圧、備後の支配を盤石とした。
備後の要衝・神辺城と永禄九年の激動:毛利元就の中国統一戦略と尼子残党の蜂起
序章:永禄九年(1566年)の神辺城をめぐる問い
日本の戦国時代史において、特定の年号と合戦名は、しばしば時代の転換点を象徴する記号として語られる。利用者様が提示された「神辺城の戦い(1566年)」は、まさにそのような歴史認識の一端を示すものと言えよう。その概要、「備後国(中国):山陽道の要衝を巡り毛利方が制圧。尼子残党・小早川勢との綱引きが終息し、備後の支配線が固まった」という認識は、備後国における毛利氏の支配確立という、歴史の大きな流れの核心を的確に捉えている。
しかしながら、専門的な歴史研究の観点から見ると、永禄九年(1566年)に、神辺城そのものを主戦場とする大規模な攻城戦が行われたという直接的な記録は、主要な史料からは見出すことが難しい 1 。この年はむしろ、戦国史を揺るがす遥かに大きな出来事、すなわち毛利元就が出雲国・月山富田城を攻略し、宿敵であった戦国大名・尼子氏を滅亡させた年として記憶されている 4 。この「第二次月山富田城の戦い」の終結こそが、永禄九年という年の歴史的意義の根幹をなすものである。
では、神辺城と永禄九年の出来事は無関係だったのだろうか。決してそうではない。利用者様の問いは、単なる年号の誤認という表層的な問題ではなく、より深い歴史の連関を示唆している。それは、「1566年の尼子氏滅亡」という中国地方全体の地殻変動と、「要衝・神辺城をめぐる攻防史」、そしてその後に続く「尼子残党の執念の抵抗」という、本来は別々の時間軸で語られるべき複数の出来事が、歴史の大きな物語の中で圧縮され、結合された本質的な歴史認識なのである。
本報告書は、この圧縮された歴史を丁寧に解きほぐし、点として存在する歴史事象を因果関係の線で結び直すことを目的とする。具体的には、第一部で神辺城が持つ戦略的価値とその過酷な攻防の歴史を概観し、第二部で永禄九年(1566年)に起きた尼子氏滅亡の真相と、その大事業において神辺城主が果たした決定的な役割を明らかにする。そして第三部では、尼子氏滅亡が引き金となって発生した、永禄十二年(1569年)の「もう一つの神辺城の戦い」とも言うべき尼子残党の反攻を、利用者様の要望に応えるべく、リアルタイムな時系列で再現する。
この三部構成を通じて、永禄九年という年が神辺城の運命、ひいては備後国全体の支配体制にいかにして決定的な影響を及ぼしたのかを立体的に描き出し、最終的に毛利氏の「備後の支配線」が確立されるまでのダイナミズムを解明していく。
【表1:神辺城と周辺情勢の時系列対照表(1543年~1570年)】
西暦(元号) |
神辺城・備後国の動向 |
毛利氏の主要動向 |
尼子氏の主要動向 |
1543年(天文12) |
大内・毛利軍による神辺城攻撃開始(神辺合戦) |
大内氏麾下として尼子方・山名理興と交戦 |
第一次月山富田城の戦いで大内軍を撃退、勢力を回復 |
1549年(天文18) |
7年にわたる攻防の末、山名理興が降伏し神辺城開城 |
備後国人衆を統率し、大内氏内での影響力を拡大 |
備後における重要拠点を失う |
1555年(弘治元) |
厳島の戦いの後、山名理興が毛利氏に恭順し城主に復帰 |
厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内氏からの独立を果たす |
- |
1557年(弘治3) |
山名理興が病死。吉川元春の推挙で杉原盛重が城主となる |
防長経略を開始し、旧大内領の併合を進める |
- |
1565年(永禄8) |
城主・杉原盛重、伯耆にて尼子軍の補給路遮断作戦を展開 |
第二次月山富田城の戦いを本格化。兵糧攻めを開始 |
毛利軍の包囲下で補給路の確保に奔走 |
1566年(永禄9) |
(城は平穏)城主・杉原盛重の活躍が尼子滅亡に貢献 |
11月、月山富田城を開城させ、戦国大名尼子氏を滅ぼす |
当主・尼子義久が降伏し、大名家として滅亡 |
1568年(永禄11) |
城主・杉原盛重が毛利主力の九州出兵に従軍し、城は手薄に |
北九州の覇権をめぐり大友氏との抗争が本格化 |
山中鹿介ら残党が、主家再興の機会を窺う |
1569年(永禄12) |
8月3日、藤井皓玄が尼子再興軍に呼応し神辺城を奪取 |
吉田郡山城の元就が即座に討伐軍を派遣 |
出雲に侵攻し、一時的に旧領の大部分を回復 |
1569年(永禄12) |
8月7日、毛利討伐軍により4日で鎮圧され、皓玄は自刃 |
九州の主力軍を動かさず、周辺国人の動員のみで反乱を鎮圧 |
- |
第一部:戦略拠点としての神辺城
神辺城をめぐる攻防を理解するためには、まず、この城が持つ地政学的な重要性と、関わった武将たちの人物像を把握することが不可欠である。
【表2:主要登場人物とその役割】
人物名 |
所属・立場 |
本報告書での役割 |
毛利元就 |
毛利家当主 |
中国統一の戦略家。尼子氏を滅亡させ、西日本最大の戦国大名となる。 |
吉川元春 |
毛利両川(山陰方面担当) |
元就の次男。猛将として知られ、杉原盛重の才能を見出す。 |
小早川隆景 |
毛利両川(山陽・瀬戸内担当) |
元就の三男。智将として知られ、瀬戸内海の制圧と水軍の統率を担う。 |
山名理興 |
神辺城主(大内→尼子→毛利) |
備後の国人。二大勢力の間で翻弄されつつも、7年間神辺城を守り抜いた悲運の将。 |
杉原盛重 |
神辺城主(毛利家臣) |
元・山名理興の家老。毛利氏の忠臣となり、尼子氏攻略で多大な功績を挙げた猛将。 |
藤井皓玄 |
旧山名家家臣 |
山名理興の元家老。毛利支配に反旗を翻し、神辺城を一時的に奪取する反逆者。 |
山中鹿介幸盛 |
尼子再興軍中心人物 |
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話で知られる、不屈の尼子家再興の象徴。 |
第一章:地政学的要衝「神辺」
神辺城が戦国時代を通じて争奪の的となった理由は、その地理的条件に集約される。備後国南部に広がる神辺平野を見下ろす黄葉山に築かれたこの城は、まさに地域の喉元を扼する戦略拠点であった 7 。
第一に、神辺は古代から畿内と西国を結ぶ大動脈、山陽道が通過する交通の要衝であった 8 。山陽道は神辺宿で屈曲しており、これは神辺が単なる通過点ではなく、城下町として敵の侵攻を想定した防御機能を持つ都市であったことを示している 8 。この街道を押さえることは、軍勢の移動、物資の輸送、情報の伝達といった、勢力圏を維持・拡大するための生命線を掌握することを意味した。
第二に、神辺城は備後国における政治的中心地としての歴史を持っていた。室町時代には備後守護の山名氏が拠点を置き、守護所として機能していたと推測されている 10 。これは、神辺城の支配が単なる軍事的な優位性だけでなく、備後一国を統治する上での正統性と権威を象徴するものであったことを意味する。
そして第三に、16世紀の中国地方は、西の周防を本拠とする大内氏と、東の出雲を本拠とする尼子氏という二大勢力が覇を競う時代であった 12 。備後国、とりわけ神辺城は、その両勢力の勢力圏が直接衝突する最前線であり、緩衝地帯でもあった 14 。どちらの勢力にとっても、神辺城を確保することは、敵対勢力への圧力を強め、自国の防衛線を固める上で死活的に重要な課題だったのである。
第二章:神辺合戦(1543-1549)に見る攻防の激しさ
神辺城の戦略的重要性と、その攻略がいかに困難であったかを如実に物語るのが、天文十二年(1543年)から実に7年間にわたって繰り広げられた「神辺合戦」である 1 。
この合戦の直接的な引き金は、天文十一年(1542年)から翌年にかけて行われた「第一次月山富田城の戦い」における大内軍の歴史的大敗であった 4 。大内義隆自らが総大将として出雲に攻め込んだものの、尼子氏の堅い守りの前に撤退を余儀なくされ、嫡男の晴持を失うなど甚大な被害を受けた 4 。この敗北により大内氏の権威は大きく揺らぎ、これまで大内方に属していた備後の国人たちが次々と尼子方へと寝返った。その筆頭が、神辺城主の山名理興(当時は杉原理興を名乗っていたが、後に山名氏の名跡を継ぐ)であった 15 。
備後における影響力低下を座視できない大内義隆は、失地回復と権威の再建をかけ、重臣の陶隆房(後の晴賢)や弘中隆兼、そして当時まだ大内氏麾下の有力国人に過ぎなかった毛利元就らを大将とする大軍を神辺城へと派遣した 1 。その兵力は安芸の国人衆などを合わせて1万を超えたとされる一方、神辺城に籠もる山名理興の兵は1,000から1,500程度であり、兵力には圧倒的な差があった 1 。
しかし、神辺城(当時の正式名称は村尾城 1 )は天然の要害である黄葉山に築かれた堅城であり、理興と、その家老であった杉原盛重らの奮戦により、大内・毛利連合軍は攻めあぐね、戦いは長期にわたる籠城戦の様相を呈した 1 。この戦いは、後の毛利家を飛躍させる上で重要な意味を持つことになる。毛利元就はこの戦いを通じて、備後内陸部の国人衆を自らの指揮下に置き、地域への影響力を着実に浸透させていった 1 。また、彼の息子たちにとっても、この合戦は貴重な実戦経験の場となった。元就の三男で、後に毛利両川の一翼を担う小早川隆景は、この戦いで神辺城の支城である龍王山砦(坪生要害)を攻略し、初陣を飾ってその将才の片鱗を見せた 21 。次男の吉川元春もまた、城下で杉原盛重の部隊と激しく衝突し、その武勇を敵将である盛重に深く印象付けた 1 。
この神辺合戦は、毛利元就にとって、単に大内氏の一将として戦った合戦ではなかった。備後国人衆を掌握する政治的手腕、息子たちの能力を実戦で見極める機会、そして神辺城という要害を力攻めにすることの困難さ。これら全てを身をもって学ぶことで、後の独立と備後経営、さらには中国統一に向けた戦略眼を養うための、いわば壮大な実地演習の場となったのである。
最終的に、大内・毛利軍は稲薙(青田刈り)による兵糧攻めや周辺支城の攻略を執拗に続け、神辺城を完全に孤立させることに成功する 1 。7年にも及ぶ抵抗の末、天文十八年(1549年)、山名理興はついに降伏し、神辺城は大内氏の支配下へと入った 1 。この長く過酷な戦いは、神辺城が中国地方の覇権を左右する上でいかに重要な拠点であったかを、関係者全員に深く刻み込むことになった。
第二部:永禄九年(1566年)の中国地方大変動
神辺合戦から十数年の時が流れ、中国地方の勢力図は激変した。神辺城をめぐる状況もまた、新たな局面を迎えていた。
第一章:第二次月山富田城の戦い
神辺合戦の後、大内義隆は家臣・陶晴賢の謀反によって非業の死を遂げた(大寧寺の変) 24 。この混乱を好機と見た毛利元就は、弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち破ると、すぐさま防長経略に着手し、広大な旧大内領を併合した 25 。これにより毛利氏は、安芸の一国人から中国地方の西半分を支配する大大名へと飛躍を遂げ、長年の宿敵・尼子氏と直接対決する時代が到来したのである。
尼子氏では、当主・晴久の急死後、家督を継いだ尼子義久が家中を完全に掌握できず、かつての勢いに陰りが見え始めていた。元就はこの機を逃さず、尼子氏を完全に滅亡させるべく、永禄五年(1562年)頃から出雲への本格的な侵攻を開始した。
元就が採用した戦略は、かつての神辺合戦や、尼子氏の侵攻を撃退した吉田郡山城の戦いの教訓を活かしたものであった。難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城への無謀な力攻めを避け、周辺の支城を一つずつ着実に攻略し、兵站線を完全に遮断して敵を孤立させる、いわゆる「鳥の巣ごもり」と呼ばれる徹底した兵糧攻めであった 5 。
数年にわたる包囲と執拗な補給路の破壊工作により、月山富田城内は次第に食糧が欠乏し、士気は低下、逃亡兵や投降者が続出した 4 。そして永禄九年(1566年)十一月、尼子義久はついに城兵の助命を条件に降伏。ここに、経久の代から山陰・山陽に覇を唱えた戦国大名・尼子氏は滅亡した 3 。この勝利により、毛利元就は中国地方のほぼ全域をその手中に収め、名実ともに西日本最大の戦国大名となったのである 6 。
第二章:神辺城主・杉原盛重の役割
では、この永禄九年(1566年)の歴史的瞬間に、神辺城はどのような役割を果たしたのか。結論から言えば、神辺城そのものが戦場になることはなかった。しかし、その城主であった杉原盛重は、月山富田城を陥落させるという毛利元就の大戦略において、極めて重要かつ決定的な役割を担っていたのである。
山名理興の死後、神辺城主の座は、理興の家老であった杉原盛重が継承した 7 。これは、先の神辺合戦における盛重の勇猛果敢な戦いぶりに深く感銘を受けた吉川元春が、元就に強く推挙したことによるものであった 3 。こうして毛利氏の直臣となった盛重は、その武勇を主家のために遺憾なく発揮することになる。
永禄九年に至る月山富田城攻めにおいて、神辺城は防御拠点ではなく、毛利の中国統一戦略を支える「前方作戦司令部」であり、兵站基地として機能した。そして城主・杉原盛重は、神辺城を拠点としつつも、自ら兵を率いて主戦場である出雲・伯耆方面へと積極的に出兵し、元就の兵糧攻め戦略の実行者として暗躍した 3 。
盛重の功績の中でも特筆すべきは、尼子氏の補給路を完全に遮断した一連の作戦である。
- 伯耆・尾高城主の兼任: 元就の戦略に基づき、盛重は備後神辺城主でありながら、日本海に面した伯耆国の要衝・尾高城主を兼任した 30 。これは、日本海側から中海を経由して月山富田城へ物資を運び込む海上補給路を断つための、極めて重要な戦略的配置であった 3 。
- 弓ヶ浜の戦い(永禄八年): 盛重が尾高城に入ると、案の定、尼子方は補給路を確保すべく、猛将・山中鹿介幸盛を大将とする部隊を派遣してきた。盛重はこれを弓ヶ浜半島で迎え撃ち、寡兵ながら巧みな戦術で鹿介の軍を撃破した 3 。
- 江美城の攻略(永禄八年): 海上補給路の遮断に成功した盛重は、続いて内陸の補給路を断つべく、同年八月、吉川元春の命を受けて江美城を攻撃。城主の蜂塚右衛門尉を自刃に追い込み、陸路をも完全に遮断した 3 。
これらの盛重の活躍により、月山富田城は陸路・海路双方からの補給を絶たれ、完全に孤立無援の籠城を強いられることになった。元就が描いた「戦わずして勝つ」という兵糧攻め戦略の成功は、まさに杉原盛重のような別動隊による地道かつ苛烈な働きなくしてはあり得なかったのである。
つまり、1566年における「神辺城の戦い」は、神辺城の外で、その城主・杉原盛重によって遂行されていた、と結論付けることができる。神辺城は、間接的に、しかし決定的に尼子氏滅亡に貢献した。これこそが、歴史の深層に隠された「神辺城と永禄九年の繋がり」の真実である。
第三部:尼子残党の反攻と「もう一つの神辺城の戦い」
永禄九年(1566年)の尼子宗家の滅亡は、中国地方における毛利氏の覇権を決定づけた。しかし、それは必ずしも戦いの終わりを意味するものではなかった。主家を失った尼子家の旧臣たちによる、執念の再興運動が始まろうとしていたのである。
第一章:執念の尼子再興軍
尼子氏が滅亡した後も、山中鹿介幸盛をはじめとする多くの旧臣たちは、主家再興を諦めていなかった。彼らは京にいた尼子氏一族の尼子勝久を擁立し、再起の機会を虎視眈々と窺っていた 31 。
その好機は、意外な形で訪れた。永禄十一年(1568年)頃から、毛利氏は北九州の覇権をめぐり、豊後の大友宗麟との抗争を本格化させたのである 3 。毛利元就・輝元父子をはじめとする主力軍が九州方面に釘付けにされた結果、山陰・山陽における毛利の支配地域は一時的に手薄になった 33 。
永禄十二年(1569年)、山中鹿介率いる尼子再興軍はこの千載一遇の好機を捉え、出雲へと上陸。彼らの蜂起の報に、毛利の支配を快く思っていなかった旧尼子方の国人衆が次々と合流し、その勢力は瞬く間に拡大。一時は月山富田城を除く出雲国の大部分を奪還するほどの猛威を振るった 3 。そして、この動きに呼応する者が、備後国にも現れた。
第二章:藤井皓玄の乱(1569年)-リアルタイム・クロノロジー
出雲における尼子再興軍の快進撃は、備後国で逼塞していた一人の武将の心を動かした。その男の名は、藤井皓玄。かつて神辺城主・山名理興の二番家老を務めた人物である 31 。山名家が毛利氏の軍門に降り、実質的に杉原氏に乗っ取られる形でその支配体制に組み込まれた後、皓玄は歴史の表舞台から姿を消していた。彼の蜂起は、単に旧主の縁から尼子に与するというよりも、山名家を蔑ろにした毛利・杉原氏への積年の遺恨と、新たな支配体制への不満が根底にあったと推察される。
前夜:毛利支配の脆弱性
永禄十二年夏、神辺城主・杉原盛重は、毛利本軍に従って九州へ出陣中であった 3 。主を失った神辺城の守りは、城代の所原肥後守に任されていたが、その兵力は手薄であった。尼子再興軍の出雲侵攻という報は、皓玄にとって、まさに天佑であった。
永禄十二年八月三日-神辺城、電撃的陥落
出雲での同胞の蜂起に呼応した藤井皓玄は、大江田隼人介らと共に手勢わずか500を率い、神辺城へと向かった 3 。その動きは電光石火であった。守りの手薄な神辺城は、皓玄の急襲の前に為す術もなく、城代・所原肥後守は盛重の妻女と次男の景盛を連れて城から辛うじて脱出するのが精一杯であった 3 。かつて大内・毛利の大軍を7年間にわたって退け続けた難攻不落の神辺城は、この時、わずか一日で皓玄の手に落ちたのである。
毛利元就の迅速な対応
備後の要衝・神辺城陥落という凶報は、直ちに安芸・吉田郡山城にいた毛利元就の元へと届けられた 35 。この時、元就は70歳を超えていたが、その知略と決断力に衰えはなかった。九州の主力軍は動かせない。しかし、この反乱を放置すれば、備後全域、さらには隣国の国人衆までが動揺し、尼子再興軍に同調する恐れがある。元就の判断は、迅速かつ的確であった。
彼は遠方の主力軍の帰還を待つことなく、即座に備後・安芸の在地勢力、すなわち楢崎豊景、村上亮康、三吉高亮といった国人衆に皓玄討伐の命令を下した 3 。これは、毛利氏が構築した現地の国人衆を自在に動員する支配ネットワークと、その危機管理体制がいかに優れていたかを物語っている。
八月七日-わずか四日間の夢
元就の命を受けた毛利方の討伐軍は、速やかに神辺城へと進軍した。藤井皓玄の500の手勢に対し、周辺から集結した討伐軍は圧倒的な兵力を有していたと推測される。皓玄と、彼の息子である新助広吉、喜三郎らは城を枕に討死する覚悟で奮戦したが、衆寡敵せず、その抵抗は長くは続かなかった 31 。
追い詰められた皓玄は神辺城を脱出し、備中国浅口郡西大島の石砂まで逃れたが、そこでついに自刃して果てた 31 。その首級は討伐軍の手によって元就の元へ届けられたという 31 。皓玄が神辺城を奪取してから、わずか四日後のことであった。
この藤井皓玄の乱は、一見すると毛利の支配が盤石に見えて、その実、主力軍が不在となれば旧勢力による反乱が起こりうるという脆弱性を露呈した事件であった。しかし、それ以上に重要なのは、この反乱をわずか四日間という驚異的な速さで、しかも現地の兵力のみで鎮圧したという事実である。この毛利の圧倒的な動員力と指揮系統の優秀さは、備後の国人衆に対して「毛利支配は絶対に揺るがない」という現実を強烈に印象付けた。この事件の鎮圧こそが、利用者様の言う「備後の支配線が固まった」真の画期であったと言えるだろう。
結論:1566年と神辺城の繋がり、そして備後支配の確立
本報告書は、「神辺城の戦い(1566年)」という問いを起点に、永禄九年(1566年)という年が持つ歴史的意義と、備後の要衝・神辺城がその中で果たした役割、そしてその後に続く尼子残党の反攻との因果関係を解明してきた。
結論として、歴史の連鎖は以下のように要約できる。
永禄九年(1566年)の尼子氏滅亡は、神辺城主・杉原盛重による補給路遮断作戦という多大な貢献によって支えられた、毛利元就の中国統一事業の頂点であった。この時点では、神辺城そのものは戦場となっていない。
しかし、この尼子宗家の滅亡がなければ、山中鹿介幸盛らによる尼子再興軍の執念の蜂起も起こりえなかった。そして、その再興軍の動きに連動して、永禄十二年(1569年)に藤井皓玄が神辺城を奪取するという事件もまた、発生しなかったのである。
利用者様が当初の概要で指摘された「備後の支配線が固まった」という認識は、歴史的に見て極めて的確である。ただし、その画期となったのは1566年ではなく、1569年の藤井皓玄の乱を、毛利氏が圧倒的な力をもって、わずか四日間で鎮圧した時点であった。この迅速な危機管理能力を内外に示すことで、毛利氏は備後国における自らの支配が盤石であることを証明し、この地における反抗の芽を完全に摘み取った。
したがって、「神辺城の戦い(1566年)」という問いは、1566年の尼子滅亡と、その結果として生じた1569年の神辺城での反乱鎮圧という、二つの重要な出来事を内包した、歴史の本質を突く問いであったと言える。神辺城をめぐる一連の出来事は、毛利氏が数多の抗争を乗り越え、中国地方の覇者としてその支配体制を確立していく過程を、鮮やかに象徴する物語なのである。
引用文献
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- 神辺合戦とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E8%BE%BA%E5%90%88%E6%88%A6
- で 137年 https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1985/08/171dd24af3b8c8410500cc3634a68a39.pdf
- 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 尼子盛衰記を分かりやすく解説 - 安来市観光協会 https://yasugi-kankou.com/amagokaisetsu/
- あきたかた NAVI | 毛利元就とは - 安芸高田市観光 https://akitakata-kankou.jp/main/motonari/history/
- 備後 神辺城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/bingo/kannabe-jyo/
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- 神辺城 登城 https://k-yagumo.sakura.ne.jp/web6/kansi.htm
- 神辺城の歴史 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page005.html
- 第1章 福山市の概要 https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/uploaded/attachment/285703.pdf
- 尼子経久は何をした人?「牢人に落ちぶれるも下克上で国を奪って謀聖と呼ばれた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/tsunehisa-amago
- 尼子氏(あまごうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F-27143
- 神辺城の見所と写真・200人城主の評価(広島県福山市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/550/
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- 小早川隆景の初陣と備後神辺城 | 史跡散策 https://ameblo.jp/chikuzen1831/entry-12346530813.html
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- 第99話 毛利軍の富田籠城 - 島根県古代文化センター https://shimane-kodaibunka.jp/history/history-2730/
- 武家家伝_藤井氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/b_huzi.html
- あきたかた NAVI | 毛利元就と郡山城 - 安芸高田市観光 https://akitakata-kankou.jp/main/motonari/
- 毛利三兄弟のふるさとへようこそ - 三本の矢 伝説の地 - 三原市 https://www.city.mihara.hiroshima.jp/uploaded/life/149494_470734_misc.pdf