最終更新日 2025-09-01

福与城の戦い(1545)

天文14年、武田晴信は福与城を攻囲。50日余りの激戦の末、後詰を破り城を陥落させ、伊那谷支配を確立。信濃経略の礎を築いた。

福与城の戦い(天文14年):武田信玄、伊那谷制圧の礎を築いた五十日の攻防

序章:天狼、伊那谷に吼ゆ - 武田信玄の信濃経略

天文10年(1541年)、父・信虎を駿河へ追放し、若くして甲斐国の主となった武田晴信(後の信玄)は、国内の掌握を迅速に進めると、その鋭い眼差しを北隣の信濃国へと向けた 1 。当時の信濃は、特定の戦国大名による統一支配が及ばず、信濃守護である小笠原長時を名目上の盟主としながらも、諏訪氏、高遠氏、藤沢氏、村上氏といった国人領主たちが各地に割拠し、複雑な勢力図を形成していた。晴信にとって、この分裂状態にある信濃は、領土拡大の好機であると同時に、甲斐の背後を脅かす潜在的な脅威でもあった。

信濃経略の第一歩として、晴信は天文11年(1542年)に諏訪郡へ侵攻し、諏訪頼重を滅ぼす。この諏訪郡という「点」の制圧は、信濃全土という「面」を支配するための重要な足掛かりであった。そして、次なる目標は、諏訪から南へ、信濃を南北に貫く伊那谷という「線」の確保であった。伊那谷は、南信濃への進出路であるだけでなく、西の美濃、南の三河方面へと通じる可能性を秘めた戦略的要衝である 2 。この地を抑えることは、北信の村上氏や、府中の小笠原氏といった強敵と対峙する上で、自軍の側面と背後を安定させるために不可欠な戦略であった。福与城の戦いは、まさにこの「線」を確保し、信濃支配を盤石にするための決定的な戦いであったと言える。

この戦いを理解する上で、登場人物たちの複雑な関係性を把握することが不可欠である。特に、福与城主・藤沢頼親と信濃守護・小笠原長時の間に結ばれた姻戚関係は、伊那の国人衆が武田氏という外部の侵略者に対抗する上での精神的・軍事的な支柱となっていた 3

表1:福与城の戦い 主要関連人物一覧

人物名

所属勢力

役職・立場

主要人物との関係・本合戦における役割

武田 晴信(信玄)

武田氏

甲斐国主

信濃侵攻軍の総大将。伊那谷平定を目指す。

板垣 信方

武田氏

譜代家老衆

武田軍の重臣。後詰の小笠原軍が籠る龍ヶ崎城攻略の主将を務める。

穴山 信友

武田氏

一門衆

武田軍の将。戦後の和議交渉を担当する。

小山田 信有

武田氏

郡内衆

武田軍の将。戦後の和議交渉を担当する。

藤沢 頼親

藤沢氏

福与城主

通称「箕輪次郎」。伊那の有力国人で、籠城軍の総大将。

藤沢 権次郎

藤沢氏

藤沢頼親の実弟。降伏の際、人質として武田方に差し出される。

高遠 頼継

高遠氏

高遠城主

藤沢頼親の同盟者。福与城の戦いに先立ち、武田軍に城を追われる。

小笠原 長時

小笠原氏

信濃守護

藤沢頼親の義兄。福与城の後詰(救援軍)として龍ヶ崎城に出陣する。

今川 義元

今川氏

駿河国主

甲相駿三国同盟に基づき、武田方に援軍を派遣する。

北条 氏康

北条氏

相模国主

甲相駿三国同盟に基づき、武田方に援軍を派遣する。

第一章:城主・藤沢頼親 - 反骨と苦渋の決断

福与城の主、藤沢頼親は、諏訪大社上社の神官の家系である諏訪神氏の傍流という名門の出自であり、居城が箕輪城とも呼ばれたことから「箕輪次郎」の通称で知られていた 1 。彼は単なる一地方の土豪ではなく、信濃国人社会において確固たる地位を築いていた武将であった。

彼の行動原理を最も強く規定していたのが、信濃守護・小笠原長時との関係である。頼親は長時の妹を妻に迎えており、この強固な姻戚関係は、甲斐からの侵略者である武田氏に対抗する上での大きな後ろ盾となっていた 3 。彼の武田への抵抗は、単なる領地保全のための戦いではなく、「信濃は信濃の者の手で守る」という、信濃国人としての矜持とアイデンティティに根差したものであった。

頼親の武田氏との関わりは、天文14年(1545年)の戦いが初めてではない。天文11年(1542年)、諏訪頼重を滅ぼした武田氏と高遠頼継が諏訪の支配を巡って対立した「宮川の合戦」において、頼親は高遠方に与して武田軍と戦った。しかし、高遠軍が敗れると、その勢いのまま伊那に侵攻してきた武田方の将・駒井高白斎に福与城を包囲され、降伏を余儀なくされる 3

一度は武田氏に服属した頼親であったが、その心は決して屈していなかった。天文13年(1544年)、高遠頼継の調略に応じ、義兄・小笠原長時と連携して再び武田氏に反旗を翻す 5 。これに対し、晴信は同年10月に伊那へ出兵。福与城へ至る街道の要衝である荒神山に築かれた支城を巡って激しい攻防が繰り広げられた(荒神山の戦い) 6 。この戦いで武田軍は福与城を攻めきれずに一旦甲府へ兵を引くが、両者の間の緊張関係は極限にまで高まっていた 6 。頼親の降伏は生き残るための戦術であり、離反こそが彼の本意であった。天文14年の福与城の戦いは、この一年にわたる対立の最終決戦として、避けられない運命にあったのである。

第二章:堅城・福与 - 天竜川の要害

藤沢頼親が武田氏の猛攻を相手に50日以上も持ちこたえることを可能にした最大の要因は、彼が拠点とした福与城の堅固さにある。福与城は天竜川東岸の河岸段丘上に築かれた大規模な平山城であり、その縄張りは、防衛拠点として極めて優れた構造を持っていた 8

城は、本城(主郭と二の郭で構成)、北城、南城といった複数の郭が巧みに配置され、それぞれが巨大な空堀によって区画されていた 9 。特筆すべきは、その地形を最大限に活用した防御設計である。城の西側は天竜川に面した断崖、北側は鎌倉沢と呼ばれる深い谷に切れ落ちており、天然の要害を形成していた 8 。これにより、敵軍の攻撃ルートは、唯一なだらかな地形が続く南東方面に限定される。当然、城の防御施設はこの南東の搦手口(裏門)方面に集中しており、幾重にも連なる堀や土塁が侵入者を阻んだ 11

この堅城は、1,500名以上とされる兵士を収容し、長期の籠城戦を戦い抜くための機能も備えていた 10 。籠城戦において生命線となるのは水の確保であるが、福与城では搦手口近くに設けられた二条の外堀にその水源(水の手)を求めていたとされ、武田軍が包囲中に「水の手を切る」戦術を用いたことからも、その重要性がうかがえる 9

しかし、福与城の真価は、単なる「防御拠点」としての機能に留まらない。それは、後詰(救援軍)の到着を待つための「待機拠点」という、もう一つの重要な顔を持っていた。頼親は、独力で武田軍を撃退できるとは考えておらず、義兄・小笠原長時が率いる後詰の来援を戦略の前提としていた 3 。実際、長時は天竜川を挟んだ西岸の支城・龍ヶ崎城に布陣した 12 。これは、福与城が東岸で敵を引きつけている間に、西岸の長時軍が機を見て渡河し、武田軍を挟撃するという作戦構想があったことを強く示唆している。福与城の堅固さは、味方の後詰が到着し、戦況を逆転させるまでの時間を稼ぐためにこそ、最大限の効果を発揮するよう設計されていたのである。

第三章:決戦前夜 - 高遠城、雨中に散る(天文14年4月)

天文14年(1545年)4月、伊那谷に暗雲が垂れ込めていた。武田晴信による再度の侵攻は、もはや時間の問題であった。

天文14年4月11日 、武田晴信は、穴山信友ら一門衆、小山田信有ら郡内衆を中核とする軍勢を率いて甲府を出陣した。『高白斎記』によれば、この出陣は降りしきる雨の中であったと記録されている 11 。この悪天候こそ、晴信が仕掛けた巧妙な罠の序章であった。

天文14年4月15日 、諏訪の上原城を経由した武田軍は、雨をついて杖突峠を越え、高遠領へと一気になだれ込んだ 11 。連日の雨に油断していた高遠城主・高遠頼継は、武田軍の電撃的な奇襲に全く対応できなかった。十分な迎撃態勢を整える間もなく城兵は混乱し、頼継はなすすべなく、

4月17日 には居城である高遠城を放棄して敗走した 12

この高遠城のあっけないほどの早期陥落は、福与城の藤沢頼親をはじめ、伊那の国人衆に計り知れない衝撃を与えた。武田軍は 4月18日 に高遠城へ無血入城し、ここを伊那攻略の最前線基地とした 14 。晴信の狙いは、福与城の重要な同盟者である高遠氏を戦いの序盤で無力化し、福与城を地理的に孤立させることにあった。さらに、悪天候を逆手に取った奇襲による圧勝劇は、「武田軍の強大さ」を伊那全域に見せつける強烈な心理的効果をもたらした。高遠城の攻略は、本丸である福与城を攻め落とすための、物理的・心理的双方における周到に計算された「布石」であり、戦術家・晴信の冷徹な合理主義を如実に示すものであった。次なる標的が福与城であることは、誰の目にも明らかであった。

第四章:福与城攻防戦 - 五十日の死闘(天文14年4月20日〜6月11日)

高遠城を制圧した武田軍の次なる目標は、藤沢頼親が守る福与城であった。ここから、50日以上にわたる壮絶な攻防戦の幕が上がる。その詳細な経緯を時系列で追うことで、戦場のリアルタイムな緊張感を再現する。

表2:福与城攻防戦 詳細年表(1545年4月〜6月)

年月日(時刻)

武田軍の動向

福与城・後詰軍の動向

戦況の要点・意義

4月20日 午の刻

高遠城を出発し、福与城を包囲。攻撃を開始。

城兵が出撃し、激しく応戦。

攻城戦の開始。武田軍は力攻めを試みる。

4月29日

攻城戦を継続するも、将・鎌田長門守が討死。

堅固な守りで武田軍に損害を与える。

福与城の防御力の高さと城兵の士気の旺盛さが証明される。

5月上旬

包囲を継続しつつ、水の手を断つなどの兵糧攻めに移行。

小笠原長時が後詰として龍ヶ崎城に着陣。

戦況が膠着。武田軍は背後に敵を抱える危険な状況に陥る。

5月22日

今川・北条からの援軍(各300)が到着。

籠城を継続。後詰との連携を維持。

武田軍の士気が高まり、戦況打開の機運が生まれる。

6月1日

板垣信方率いる別動隊が龍ヶ崎城を急襲、1日で陥落させる。

後詰軍が壊滅。小笠原長時は敗走。

戦いの決定的な転換点。福与城は完全に孤立する。

6月10日

穴山信友・小山田信有を介して和議交渉に応じる。

藤沢頼親が和議を申し入れ、弟・権次郎を人質に出すことで合意。

福与城の継戦能力が限界に達し、降伏が決定的となる。

6月11日

人質を受け取り、和議が成立。福与城を焼き払う。

藤沢頼親が降伏。城は開城される。

50日以上にわたる攻防戦が終結。武田氏が伊那谷の拠点を制圧。

第一幕:包囲と膠着(4月20日〜5月下旬)

4月20日、午の刻(午前11時から午後1時頃) 、高遠城を出立した武田本隊は福与城に到着し、直ちに城を幾重にも包囲した 11 。これに対し、城兵は城門を開いて打って出て、武田軍を迎え撃つ。攻防戦の火蓋は、初日から激しい白兵戦をもって切られた 10

武田軍は当初、高遠城を落とした勢いに乗り、力攻めでの早期攻略を目指した。しかし、福与城の守りは予想以上に堅かった。 4月29日 の戦闘では、武田方の将の一人、鎌田長門守が討死するという大きな損害を被る 11 。この出来事は、福与城の防御が堅固であること、そして藤沢頼親以下、城兵の士気が極めて高いことを武田方に痛感させた。

さらに戦況を複雑にしたのが、後詰の出現であった。藤沢頼親からの救援要請に応え、義兄である信濃守護・小笠原長時が自ら軍を率いて出陣。天竜川西岸に位置する福与城の支城・龍ヶ崎城に本陣を構えたのである 3 。これにより、武田軍は正面の福与城と、背後の龍ヶ崎城に挟まれる形となり、迂闊に総攻撃を仕掛けられない状況に陥った。戦いは完全な膠着状態となり、武田軍は力攻めを断念。包囲を維持しつつ、城の水源を断つなどの兵糧攻めに戦術を転換し、長期戦の構えを見せた 12

第二幕:転回点(5月22日〜6月1日)

一ヶ月以上にわたり続いた膠着状態を動かす、二つの大きな出来事が起こる。

第一に、 5月22日 、武田氏と三国同盟を結ぶ駿河の今川義元と相模の北条氏康から、それぞれ300の援軍が武田の陣に到着した 12 。兵力としては決して大きなものではないが、東海道の二大勢力が武田に味方したという事実は、籠城する藤沢方に大きな心理的圧力を与え、武田の外交的影響力の大きさを見せつける効果があった。

第二に、そしてこれが決定的な転換点となるが、武田晴信は戦況打開の鍵が、堅固な福与城そのものではなく、それを背後から支える龍ヶ崎城の小笠原軍にあると見抜いた。彼は、問題の根源を断つべく、攻略目標を「城」から「後詰」へと大胆に転換する決断を下す 11

6月1日 、晴信は武田四天王にも数えられる譜代の重臣・板垣信方と、到着したばかりの今川の援軍を主力とする精鋭の別動隊を編成し、龍ヶ崎城へと差し向けた 12 。板垣隊の攻撃は凄まじく、わずか一日で龍ヶ崎城を攻め落とし、敵兵の首46を挙げるという完璧な勝利を収めた 10 。この成功は、後の武田軍の攻城戦術における「後詰を叩く」という定石を確立させる、重要な一戦となった。

第三幕:落日(6月2日〜6月11日)

龍ヶ崎城の陥落と後詰軍壊滅の報は、福与城内で籠城を続ける将兵にとって、死刑宣告に等しいものであった。唯一の希望であった小笠原軍が敗れたことで、福与城は戦略的にも心理的にも完全に孤立無援となった 4 。藤沢頼親の戦意は、この報せと共に急速に萎えていった。

もはやこれまでと覚悟を決めた頼親は、継戦は不可能と判断。 6月10日 、武田一門の重鎮である穴山信友や小山田信有を仲介役として、武田方へ和議を申し入れた 4 。降伏の条件として、頼親は実弟である藤沢権次郎を人質として差し出すことを受け入れた 11

そして 6月11日 、藤沢権次郎が穴山信友の陣所へ引き渡され、和議は正式に成立。藤沢頼親と高遠頼継は武田氏に降伏した。その日のうちに、50日以上にわたり武田の大軍を寄せ付けなかった堅城・福与城は、武田方の手によって火を放たれ、紅蓮の炎の中にその歴史を閉じた 11

第五章:戦いの分析と歴史的意義

福与城の戦いは、武田氏の信濃経略における画期的な勝利であった。その勝敗を分けた要因を分析すると、武田晴信の卓越した戦略眼が浮かび上がってくる。

第一に、高遠城を先に攻略し、福与城を孤立させた戦略的周到さ。第二に、力攻めが難しいと見るや兵糧攻めに切り替え、さらに戦況が膠着すると見るや目標を後詰の撃破に転換した戦術的柔軟性。第三に、今川・北条という同盟国からの援軍を的確な時期に引き出した外交力。これらが複合的に作用し、勝利を手繰り寄せた。対照的に、藤沢・小笠原連合軍の敗因は、小笠原長時の後詰という一点に戦略の多くを依存しすぎた脆弱性にあったと言える。

この勝利により、武田氏は上伊那の最有力国人であった藤沢氏と高遠氏を完全に屈服させ、伊那谷における支配権を確立した 18 。これは、信濃統一を目指す武田氏にとって、次の標的である筑摩・安曇の小笠原氏や、小県・佐久の村上氏といった強敵との全面対決に向け、自軍の背後を固める重要な意味を持っていた。

戦後、降伏した藤沢頼親は波乱の生涯を送ることになる。一度は武田氏に服属するも、天文17年(1549年)の上田原の戦いで武田軍が村上義清に敗れると、再び小笠原氏と結んで離反 5 。その後、許されて武田家臣・穴山信友の配下となるが、天文23年(1555年)には小笠原長時と共に京へ上り、三好長慶に仕えるなど、流転の日々を送った 5 。やがて旧領の箕輪に戻り田中城を築いて再起を図るが、天正10年(1582年)、武田氏滅亡後の混乱(天正壬午の乱)の中、徳川家康に属する保科正直に攻められ、子と共に自害して果てた 3 。彼の生涯は、巨大勢力の狭間で翻弄され、最後まで己の矜持を貫こうとした信濃国人の悲哀を象徴している。

最後に、福与城が降伏後に焼き払われた意味について考察したい。武田軍は、この堅城を接収して自軍の拠点として利用することも可能であったはずだ。しかし、あえて城を完全に破壊した 12 。これは、伊那谷、ひいては未だ服従しない信濃全土の国人衆に対する、強烈な視覚的メッセージであったと考えられる。「武田に最後まで抵抗した者の拠点と誇りは、このように跡形もなく消し去られる」という恐怖を植え付けることで、今後の侵攻における無用な抵抗を抑制し、戦わずして勝利する状況を作り出すことを狙ったのである。これは単なる破壊行為ではなく、晴信の冷徹な合理主義に基づく、高度な心理戦・情報戦の一環であった。

結論:福与城の炎が照らしたもの

天文14年(1545年)の福与城の戦いは、信濃守護との姻戚関係を頼りに地域の独立を維持しようとした国人領主・藤沢頼親の意地と、それを圧倒的な軍事力、外交力、そして戦略で粉砕した新興勢力・武田晴信の現実を浮き彫りにした、戦国時代の縮図のような戦いであった。

この一戦は、単に伊那の一城を落としたという戦術的勝利に留まるものではない。それは、信濃の国人衆が形成していた反武田連合体制の南の要を断ち切り、武田氏による信濃統一事業を大きく前進させた、決定的な戦略的勝利であった。福与城を焼き尽くした炎は、信濃における旧来の秩序の終焉と、武田氏による新たな時代の到来を告げる狼煙だったのである。この勝利によって伊那谷という確固たる地盤を得た武田信玄は、ここから北信の雄・村上義清、そして越後の龍・上杉謙信との長きにわたる死闘へと突き進んでいくことになる。

引用文献

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  2. 甲州征伐と武田氏滅亡。戦場となった伊那谷 - あるぷす不動産 https://www.alps-realty.com/blog/?p=5002
  3. 福与城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/fukuyo.j/fukuyo.j.html
  4. 藤沢頼親 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/FujisawaYorichika.html
  5. 藤沢頼親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E9%A0%BC%E8%A6%AA
  6. 福与城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/FukuyoJou.html
  7. 「荒神山/松島/福与①の合戦 」(戦国)1544 | Local History Archive Project 新蕗原拾葉 | 柴徳昭 http://www.lhap.sakuraweb.com/tatakai/kojinyama_hukuyo.html
  8. 福与城 ~武田の侵攻に抗った平山城~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/hukuyojou
  9. 福与城 (長野県 上伊那郡蓑輪町) - ちょっと山城に (正規運用版) https://kurokuwa.hatenablog.com/entry/36975644
  10. 福与城 箕輪城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/nagano/minowamati.htm
  11. らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ - 福与城 (上伊那郡箕輪町福与) https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-385.html?sp
  12. 福与城の戦い:その2 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/FukuyoJou2.html
  13. 信濃 龍ヶ崎城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/ryugasaki-jyo/
  14. 高遠合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%81%A0%E5%90%88%E6%88%A6
  15. 板垣信方 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E4%BF%A1%E6%96%B9
  16. 福与城の見所と写真・100人城主の評価(長野県箕輪町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1182/
  17. 福与城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/fukuyojou.htm
  18. 八人塚 (伊那市指定史跡 伊那市長谷黒河内) - らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-1041.html
  19. 第3編近 - 箕輪町 https://www.town.minowa.lg.jp/material/files/group/1/daisannpennissyoukaragosyou.pdf