第一次長島一向一揆(1571)
元亀二年、織田信長は弟の仇を討つべく長島一向一揆を攻めるも、輪中地帯の地の利と信仰で結ばれた一揆勢の前に大敗。柴田勝家が負傷、氏家卜全が戦死するなど甚大な被害を被った。この屈辱的な敗北は、信長の戦争観を根底から変え、後の徹底した殲滅戦へと繋がる転換点となった。
元亀二年の蹉跌:織田信長を打ち破った信仰の要塞 - 第一次長島一向一揆の徹底分析
序章:炎上する聖域
戦国時代の日本において、織田信長の「天下布武」という野望の前に立ちはだかった勢力は数多い。しかし、その中でも最も執拗かつ大規模な抵抗を示したのが、浄土真宗本願寺派の門徒たち、すなわち一向一揆であった。元亀2年(1571年)に勃発した「第一次長島一向一揆」は、単なる一地方の反乱ではない。それは、信長の統一事業そのものを揺るがしかねない、巨大な宗教ネットワークとの全面戦争の幕開けを告げる戦いであった。この合戦は、信長に生涯最大級の敗北を喫させ、彼の戦争観を根底から変えるほどの衝撃を与えたのである。
元亀元年の前哨戦
第一次長島一向一揆が歴史の表舞台に登場する半年前、既に戦いの火種は燻っていた。元亀元年(1570年)11月21日、織田信長が近江の地で浅井・朝倉連合軍と対峙し、膠着状態に陥っていた「志賀の陣」の最中、その背後で事件は起こった 1 。伊勢長島に拠点を置く一向一揆勢が、信長の弟である織田信興が守る尾張国・小木江城に突如として殺到したのである 2 。
この攻撃は、信長の主力が近江に釘付けにされている隙を突いた、極めて戦略的な行動であった。信長包囲網の一翼を担う一揆勢が、他の反信長勢力と明確に連動していたことを示す動かぬ証拠である 1 。孤立無援となった小木江城で、信興は奮戦虚しく自害に追い込まれた 1 。この一報は、信長にとって単に肉親を失ったという個人的な悲しみにとどまらなかった。それは、自らの本拠地である尾張の喉元に、統制の取れた恐るべき敵性勢力が存在することを天下に知らしめる、戦略的な大失態を意味していた。この屈辱と怒りが、翌年の大規模な報復攻撃へと信長を駆り立てる直接的な動機となったのである。
天下布武の前に立ちはだかる「仏敵」の正体
長島の一揆勢の背後には、巨大な宗教組織、石山本願寺が存在した。第十一世法主・顕如は、信長の勢力拡大を座視せず、全国の門徒に対して「仏敵・織田信長を討て」との檄文を発していた 3 。信長と本願寺の対立は、信長が宗教を弾圧したという単純な構図では説明できない。その根源には、より複雑な政治的・経済的要因が絡み合っていた。信長は永禄11年(1568年)の上洛の際、本願寺に対して5,000貫という巨額の矢銭(軍用金)を要求し 3 、さらには元亀元年(1570年)には大坂の石山本願寺そのものの明け渡しを要求したとも言われている 6 。
これは、信長が本願寺を単なる宗教団体ではなく、独立した経済力と軍事力を有する一大政治勢力と見なしていたことの表れである 8 。本願寺にとって、これらの要求は自らの独立性を脅かす到底受け入れがたいものであった。こうして顕如は、三好三人衆や浅井・朝倉氏といった反信長大名と連携し、信長包囲網の中核を形成するに至る 3 。この巨大な反信長ネットワークにおいて、長島は東海地方における最重要戦略拠点であり、信長の支配を認めない人々の聖域、すなわち「アジール」としての役割をも担っていたのである 2 。
第一章:対立の構造 - なぜ戦いは避けられなかったのか
長島での激突は、織田信長と本願寺顕如という二人の指導者の個人的な対立を超え、新しい時代を築こうとする力と、旧来の秩序を守ろうとする力がぶつかり合った、時代の必然であった。その根底には、相容れない二つの世界観の存在があった。
信長の合理主義と本願寺の独立性
織田信長は、戦国時代において際立って合理的な思考の持ち主であった。彼は、血縁や家格といった旧来の権威を重んじず、能力主義を徹底した。同様に、宗教勢力が政治や経済に深く介入し、独立した権力として君臨する中世的な体制を、統一国家建設の障害と見なしていた 10 。彼が目指したのは、あらゆる権力を自身の元に一元化する、強力な中央集権国家であった。
一方、石山本願寺を中心とする一向宗教団は、まさに信長が打破しようとした旧体制の象徴であった。彼らは「寺内町」と呼ばれる自治都市を各地に形成し、楽市・楽座を導入するなど独自の経済圏を確立していた 7 。さらに、信仰で結ばれた門徒たちは、時に武装して「一向一揆」として立ち上がり、守護大名をも打ち破るほどの軍事力を誇った。彼らにとって、本願寺の法主の命令は、世俗の領主のそれよりも絶対的なものであった。この治外法権的ともいえる独立性は、信長の目指す国家像とは根本的に相容れないものであり、両者の衝突は避けられない運命にあった。
法主・顕如の決断と信長包囲網
本願寺法主・顕如は、単なる宗教指導者ではなかった。彼は、激動の時代を生き抜くための鋭い政治感覚と戦略眼を兼ね備えた、卓越した政治家でもあった。信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内に覇を唱え始めると、顕如は信長の野望がやがて本願寺の独立を脅かすことを見抜いていた。
顕如の決断は、信長と敵対する諸大名と積極的に連携し、巨大な軍事同盟「信長包囲網」を形成することであった 9 。彼の発した檄文に応じ、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、摂津の三好三人衆、そして後には甲斐の武田信玄といった反信長勢力が次々と蜂起した 3 。本願寺は、この包囲網の精神的支柱であると同時に、各地の門徒一揆を動員できる実質的な中核戦力となった。本願寺の蜂起は、信仰を守るための受動的な抵抗ではなく、信長政権を打倒し、自らの独立を能動的に確保するための、極めて政治的な戦略行動だったのである。
長島願証寺:東海における反信長の拠点
この広域な信長包囲網の中で、伊勢長島は極めて重要な戦略的価値を持っていた。長島の願証寺は、文亀元年(1501年)の創建以来、この地域に深く根を張り、強大な影響力を持つ本願寺教団の一大拠点であった 13 。木曽三川の河口に位置するその地理的条件は、信長の本拠地である尾張・美濃の心臓部に匕首を突きつけるに等しかった。
顕如の檄に応じ、長島の願証寺には周辺地域の熱心な門徒だけでなく、信長に領地を追われた地侍や、社会からはじき出された牢人たちが続々と集結した 2 。彼らは願証寺証意を盟主として団結し、数万規模の一大武装勢力を形成した 3 。信長にとって、長島は背後を脅かす看過できない脅威であり、断固として殲滅すべき対象であった。一方、一揆勢にとって、長島は信仰と生活を守るための最後の砦であり、信長の支配に屈しない人々の希望の地であった。こうして、両者の存亡をかけた戦いの舞台は整えられたのである。
第二章:水の城塞 - 長島「輪中」という戦場
第一次長島一向一揆の勝敗を分けた最大の要因は、兵力でも戦術でもなく、戦場となった長島そのものの特異な地形であった。木曽三川が作り出したこの低湿地帯は、一揆勢にとっては天然の要塞となり、信長の大軍にとっては抜け出すことのできない泥沼の迷宮となった。
木曽三川が育んだ特異な地形
長島は、木曽川、長良川、揖斐川という日本有数の大河が伊勢湾に注ぎ込む河口部に形成された、広大な三角州地帯である 15 。この地域の大部分は海抜ゼロメートル地帯であり、古くから絶え間ない洪水の脅威に晒されてきた 17 。この過酷な自然環境の中で生きるため、人々は集落や耕地の周囲を堤防でぐるりと囲む「輪中(わじゅう)」と呼ばれる独特の生活共同体を築き上げた 17 。
輪中地帯は、無数の大小の河川や水路、沼地が網の目のように張り巡らされた、まさに「水の迷路」であった。陸地は狭く分断され、道は細く、一度雨が降れば一帯はぬかるみと化す。このような地形は、騎馬隊を含む大軍の迅速な展開や、兵糧・武具を運ぶ兵站部隊の維持を著しく困難にする 21 。織田軍が誇る兵力的な優位性や、組織的な集団戦術は、この特異な地形の前ではその効果を大きく削がれることになった。
地の利を活かした一揆勢の防衛戦略
一揆勢は、この複雑な地形を自らの最大の武器として活用した。彼らは輪中地帯の要所に十数か所もの砦を巧みに配置し、それらを水路で結ぶことによって、相互に連携可能な一大防衛ネットワークを構築していた 1 。彼らは土地勘に優れ、小舟を自在に操って水上を移動し、織田軍の予測不能な側面や背後から神出鬼没の奇襲攻撃を仕掛けることを得意とした 13 。
織田軍が正面の一つの砦に兵力を集中させ攻めかかると、別の砦から出撃した一揆勢が水路を伝って背後に回り込み、補給部隊を襲撃する。あるいは、ぬかるみにはまった織田軍の足軽隊を、葦の茂みから鉄砲で狙撃する。これは、近代戦におけるジャングルでのゲリラ戦にも通じる戦術であり、規律と統制を重んじる正規軍である織田軍を大いに苦しめ、絶え間ない消耗を強いたのである。
地形が育んだ「共同体意識」という精神的要塞
長島の一揆勢が示した驚異的な抵抗力の源泉は、単に地形が有利であったという物理的な理由だけでは説明できない。その根底には、輪中という土地が長年にわたって育んできた、強固な「共同体意識」という精神的な城塞が存在した。
輪中の堤防は、一個人の力で築けるものではない。それは、集落の全住民が世代を超えて協力し、維持管理に努めてきた共同作業の結晶である 17 。洪水という共通の脅威に立ち向かう中で、「自分たちの土地は自分たちで守る」という強い連帯感と自治の精神が培われた。「輪中根性」という言葉が示すように、共同体の存続のためには個人の犠牲を厭わないという気風が、この土地には深く根付いていた 22 。
この「自然の脅威に対する共同防衛」の意識が、そのまま「外部からの侵略者である織田軍に対する共同防衛」の意識へと転化したのである。彼らにとって信長の軍勢は、生活と共同体を根こそぎ破壊しにくる「洪水」と同じ、抗うべき災厄であった。人々は、堤防で濁流を防ぐのと同じ覚悟で、砦と地の利を盾に織田軍の侵攻を防いだ。この精神的な下地こそが、単なる宗教的熱狂だけではない、彼らの驚異的な粘り強さの本当の秘密であった。信長は、目に見える砦や兵士だけでなく、この土地に住まう人々の目に見えない団結心そのものと戦わなければならなかったのである。
第三章:両雄、相見える - 開戦前夜の兵力と戦略
元亀2年5月、長島の地に、戦国最強と謳われる織田軍と、信仰で結ばれた一揆勢という、全く性質の異なる二つの軍勢が対峙した。短期決戦による殲滅を目指す織田信長と、地の利を活かした持久戦に持ち込もうとする一揆勢。開戦前夜、両者の戦略は既に対照的な様相を呈していた。
織田軍の陣容と戦略
この戦役に、織田信長は総勢およそ5万という、当時としては破格の大軍を動員した 1 。前年の弟・信興の仇を討ち、自らの権威に泥を塗った長島の一揆勢を根絶やしにするという、信長の固い決意の表れであった。
作戦は、敵を三方から包囲し、一挙に殲滅するという、兵力差を活かした正攻法であった 1 。
- 本隊(織田信長 指揮): 尾張国の津島(現在の愛知県津島市)に本陣を構え、全軍の総指揮を執る 1 。
- 東方軍(佐久間信盛 指揮): 浅井政貞、山田勝盛ら尾張衆を中心とし、北東の中筋口(小木江方面)から輪中地帯へ侵攻する 1 。
- 西方軍(柴田勝家 指揮): 氏家卜全、稲葉良通ら美濃三人衆をはじめとする美濃衆を主力とし、北西の太田口(現在の岐阜県海津市)から侵攻する 1 。
この布陣から見て取れるのは、信長の圧倒的な兵力による短期決戦への自信である。しかし、それは同時に、長島の特異な地形と、信仰に裏打ちされた一揆勢の抵抗力を過小評価していたことの証左でもあった。
一揆勢の組織と戦略
対する一揆勢の正確な兵力は不明だが、一説には10万人に達したとも言われる 6 。これは戦闘員だけでなく、輪中内の女性や子供を含む全人口に近い数字であった可能性が高い。その構成は、願証寺の僧兵を中核に、熱心な浄土真宗門徒、信長に敵対する地侍、そして行き場を失った牢人など、多岐にわたる混成部隊であった 2 。
彼らの戦闘力を飛躍的に高めていたのが、紀州からの援軍、雑賀衆の存在である。当代随一の鉄砲傭兵集団である彼らは、質の高い鉄砲とそれらを扱う射撃技術、そして海路を利用した兵糧・弾薬の補給を一揆勢にもたらした 23 。
彼らの戦略は、信長の短期決戦戦略とは全く逆のものであった。すなわち、広大な野戦での決戦を避け、輪中地帯に点在する無数の砦に立てこもり、地の利を最大限に活かした徹底的な持久防衛戦を展開することである。織田軍の進撃を遅滞させ、その長大な兵站線を奇襲によって断ち、敵が疲弊しきったところで反撃に転じる。信長の大軍を、出口のない泥沼の戦いに引きずり込むことこそが、彼らの勝利への唯一の道であった。
表1:第一次長島一向一揆 両軍戦力比較
項目 |
織田軍 |
長島一向一揆勢 |
総兵力 |
約50,000 1 |
不明(最大100,000との説あり) 6 |
指揮系統 |
総大将:織田信長 方面軍:柴田勝家、佐久間信盛 1 |
盟主:願証寺証意 実質的指揮官:下間頼旦など 23 |
兵種構成 |
武士、足軽(訓練された正規軍) |
僧兵、門徒、地侍、牢人、農民(混成部隊) 2 |
主要兵器 |
鉄砲、弓、槍 |
鉄砲(雑賀衆の支援により質・量ともに充実)、弓 23 |
強み |
圧倒的な兵力、統一された指揮系統、豊富な戦闘経験 |
信仰による強固な結束力、地の利、外部からの支援(雑賀衆) |
弱み |
地形への不慣れ、兵站線の長さ、敵の過小評価 |
指揮系統の複雑さ、兵員の訓練度のばらつき |
第四章:五日間の攻防 - 合戦のリアルタイム・クロニクル
元亀2年5月12日から16日までのわずか五日間。この短期間に凝縮された攻防は、織田信長の軍事キャリアにおいて最も屈辱的な敗北の一つとして刻まれることとなる。圧倒的な兵力を擁しながらも、地形と信仰の壁に阻まれ、撤退の過程で壊滅的な打撃を受けるに至った織田軍。そのリアルタイムの戦況を時系列で再現する。
【元亀2年5月12日】進軍と初動
この日、織田軍の各部隊は計画通り行動を開始した。信長は津島に本陣を構え、全軍を督戦。佐久間信盛率いる東方軍と、柴田勝家率いる西方軍は、それぞれ長島輪中地帯の外縁部へと進軍し、一揆勢が籠る砦群への攻撃を開始した 1 。しかし、一揆勢は織田軍の誘いには乗らなかった。彼らは大規模な野戦を巧みに避け、各個の砦に深く籠もり、防衛に徹する戦術を選択。織田軍の先鋒を、攻略の困難な砦へと引きずり込むことに成功した。
【5月13日~15日】泥沼の攻城戦
戦いは早々に膠着状態に陥った。織田軍は、一揆勢の砦を攻めあぐねた 1 。行く手を阻む無数の水路とぬかるみは、大軍の展開を許さず、兵力の優位性を無力化した。攻城櫓や大盾といった兵器の運搬も、この悪地形では困難を極めたと推測される。
数日にわたる攻防で戦果が上がらないことに業を煮やした信長は、戦術を転換。砦周辺の村々に次々と火を放ち、一帯を焼き払う焦土作戦を開始した 1 。これは、一揆勢の兵站を断ち、彼らの戦意を削ぐための心理的な圧力をかける狙いがあった。しかし、自らの家や田畑が焼かれる光景は、逆に門徒たちの抵抗心を燃え上がらせる結果となった。この間、一揆勢は地の利を活かし、小舟を駆って水路を自在に移動。散発的ながらも執拗な奇襲攻撃を繰り返し、織田軍の側面や後方を脅かし続けた。織田軍は、目に見えない敵からの攻撃に神経をすり減らし、兵士たちの士気は徐々に低下していった。
【5月16日 午前】信長の決断 - 撤退開始
開戦からわずか四日。信長は、このまま攻め続けてもいたずらに損害が増えるだけで、短期での攻略は不可能であると判断した 6 。梅雨の長雨が始まれば、輪中地帯はさらに泥沼化し、全軍が立ち往生する危険性すらある。非情なまでの現実主義者である信長は、作戦の失敗を認め、全軍に一時撤退を命令した 23 。
しかし、この決断こそが、一揆勢が待ち望んでいた瞬間であった。彼らは織田軍の動きを注意深く監視しており、撤退の兆候を察知するや、周到に準備された追撃戦へと移行した。攻める時よりも退く時の方が、軍は遥かに脆弱になる。その戦いの鉄則を、彼らは熟知していた。
【5月16日 午後】死の隘路 - 一揆勢の伏兵
信長の本隊と佐久間隊は、比較的混乱も少なく、速やかに戦線を離脱することに成功した 6 。全ての悲劇は、全軍の最後尾で敵の追撃を食い止める「殿(しんがり)」という最も危険な任務を担った、柴田勝家隊に降りかかった。
一揆勢は、勝家隊が必ず通るであろう撤退路に、完璧な罠を仕掛けていた。その場所は、西に養老山地の険しい山肌が迫り、東に揖斐川の急流が流れる、一本の狭い道であった 28 。『信長公記』が「一騎打ちするしかない」と記したほどの隘路である 23 。一揆勢は、この道の両脇の山中に、雑賀衆から供給された鉄砲兵と弓兵を多数配置し、息を殺して織田軍を待ち受けた 23 。隊列が長く伸び、指揮系統が最も乱れる撤退の瞬間を狙った、恐るべきタイミングの奇襲であった。
【5月16日 黄昏】殿軍の死闘と崩壊
柴田隊が隘路に差し掛かったその時、山の上から突如として銃声と矢の雨が降り注いだ 27 。狭い道で身動きが取れない織田軍の兵士たちは、次々と撃ち倒され、隊は大混乱に陥った。この乱戦の中、総大将の柴田勝家自身も深手を負い、さらには武将の魂ともいえる馬印(旗指物)まで敵に奪われるという、生涯最大の屈辱を味わった 1 。
この絶体絶命の危機に、傷ついた勝家に代わって殿軍の指揮を引き継いだのが、西美濃三人衆の重鎮、氏家卜全(直元)であった 6 。老練な卜全は、崩壊しかけた部隊を必死に立て直し、鬼気迫る奮戦を見せた。しかし、山から殺到してくる一揆勢の猛攻は凄まじく、多勢に無勢の状況を覆すことはできなかった。ついに卜全は、現在の岐阜県海津市南濃町安江村の地で、数多の家臣と共に壮絶な戦死を遂げたのである 29 。総大将の戦死によって殿軍は完全に崩壊。織田軍は、おびただしい数の死傷者を出しながら、這う這うの体で敗走した 1 。第一次長島攻めは、織田軍の完膚なきまでの敗北に終わった。
表2:第一次長島一向一揆 タイムライン(元亀2年5月12日~16日)
日付 |
時間帯 |
織田軍の動向 |
一揆勢の動向 |
主要な出来事 |
5月12日 |
終日 |
三方面(津島、中筋口、太田口)より長島へ侵攻開始 1 。 |
各砦に籠城し、防衛体制を固める。 |
第一次長島攻め、開戦。 |
5月13日 |
終日 |
各砦への攻撃を開始するも、湿地帯に阻まれ攻めあぐねる 13 。 |
砦に依拠し、頑強に抵抗。 |
戦況は膠着状態に。 |
5月14日 |
終日 |
砦周辺の村落に放火、焦土作戦を実行 23 。 |
小舟によるゲリラ的な奇襲で織田軍を攪乱。 |
織田軍に徐々に消耗が見られる。 |
5月15日 |
終日 |
攻勢を続けるが、決定的な戦果を挙げられず。 |
抵抗を継続。織田軍の撤退を予測し、伏兵の準備を開始か。 |
信長、戦況の不利を認識。 |
5月16日 |
午前 |
信長、一時撤退を命令。各部隊が順次撤退を開始 23 。 |
織田軍の撤退を捕捉。追撃態勢に入る。 |
戦局が攻防から追撃戦へ転換。 |
5月16日 |
午後 |
殿軍の柴田隊が、狭隘な撤退路で伏兵の奇襲を受ける 23 。 |
弓・鉄砲隊を山中に配置し、集中攻撃を敢行。 |
織田軍、大混乱に陥る。 |
5月16日 |
黄昏 |
柴田勝家が負傷 1 。氏家卜全が殿軍を交代するも戦死 29 。 |
猛追撃により、織田軍殿軍を壊滅させる。 |
織田軍の完全な敗北が確定。 |
第五章:敗北の分析 - 信長が得た教訓と一揆勢の勝利
第一次長島一向一揆における信長の敗北は、単なる一合戦の勝敗に留まらない、深い教訓と影響を後世に残した。この戦いは、信長の戦争のやり方を根底から変えさせ、同時に一揆勢の運命をも決定づける転換点となったのである。
戦略的評価:なぜ織田軍は敗れたのか
織田軍の敗因は、複合的であるが、主に三つの戦略的誤謬に集約される。
第一に、 地形の軽視 である。信長と彼の武将たちは、輪中地帯という特異な戦場環境を完全に侮っていた 13 。大軍の機動力を殺し、兵站を寸断するこの地形は、織田軍最大の武器である兵力差を無効化した。
第二に、 敵戦力の過小評価 である。信長は、一揆勢を単なる農民の集団と見なし、その信仰に裏打ちされた結束力、地の利を活かした戦術、そして雑賀衆という強力な援軍の存在を見誤った 11 。彼らは烏合の衆ではなく、明確な戦略目的を持った恐るべき敵であった。
そして第三に、最も決定的な敗因は、 兵站、特に制海権の軽視 であった。一揆勢は、桑名方面から海路を通じて雑賀衆からの人員、兵糧、鉄砲といった物資の補給を継続的に受けていた 23 。陸路からの包囲だけでは、この「海の生命線」を断つことはできず、一揆勢は持久戦を戦い抜くことができた。この手痛い失敗は、信長に水軍の重要性を痛感させ、後の第二次・第三次攻撃では、九鬼嘉隆率いる水軍を動員し、水陸両面からの完全包囲作戦へと戦術を転換させる直接的な原因となった 6 。
この敗北が信長の戦争を「近代化」させた
この第一次長島での惨敗が信長に与えた影響は、単に「次は水軍を使おう」という戦術レベルの教訓に留まるものではなかった。それは、信長の戦争に対する思想そのものを、より冷徹で包括的なものへと変質させる、パラダイムシフトの起点となったのである。
この戦い以前の信長の戦いは、基本的には他の戦国大名と同様、敵の戦闘部隊を野戦で撃破し、拠点の城を攻略するという、いわば「点と線」を制圧するものであった。しかし、長島で彼が直面したのは、武将が率いる「軍隊」ではなかった。それは、土地に深く根を張り、信仰で結ばれた「共同体」そのものであった 11 。ゲリラ兵は農民の中に紛れ、補給は地域社会全体から行われる。このような敵に対しては、単に戦闘員を殺傷するだけでは勝利とは言えないことを、信長は骨身に染みて学んだ。
この経験から、信長は敵対勢力を殲滅するためには、その軍事力だけでなく、それを支える経済基盤(田畑や補給路)、社会基盤(村落共同体)、そして信仰という精神的支柱(寺院)まで含めた、全てを根こそぎ破壊しなければならないという結論に至った。この思想の転換こそが、後の第二次・第三次長島攻めにおける、徹底した「兵糧攻め(経済封鎖)」 1 、水陸からの「完全包囲(制海権の確立)」 6 、そして最終的な「根切り(共同体の物理的絶滅)」という、凄惨な殲滅戦術へと繋がっていくのである 1 。
第一次長島一向一揆での敗北は、信長の戦争を、中世的な「武将対武将」の戦いから、敵対する社会システムそのものを破壊対象とする、ある種の「総力戦」へと変質させる決定的な転換点であった。この敗戦の屈辱が、後の世に「魔王」と恐れられる信長の、非情で合理的な殲滅戦術を完成させたと言っても過言ではない。
終章:終わりの始まり
元亀2年(1571年)5月、長島の一向一揆勢は、戦国最強の織田信長を打ち破るという、輝かしい勝利を手にした。この勝利は、門徒たちの士気を大いに高め、彼らの信仰の正しさを証明する奇跡として語り継がれたことであろう 33 。しかし、歴史の皮肉は、この栄光の瞬間こそが、彼らの破滅へと続く長い道のりの始まりであったことを示している。
この敗北は、信長の心に、長島の一揆勢に対する消えることのない憎悪と執念を植え付けた 1 。彼はこの屈辱を片時も忘れず、着実に復讐の準備を進めていく。天正元年(1573年)の第二次攻撃を経て、ついに天正2年(1574年)、信長は浅井・朝倉といった他の敵対勢力を滅ぼし、満を持して長島への最終攻撃を開始する。
この第三次攻撃において、信長は第一次攻撃の失敗から得た全ての教訓を活かした。8万ともいわれる大軍を動員し、水陸から輪中地帯を蟻の這い出る隙間もないほど完全に包囲。兵糧攻めによって一揆勢を飢餓地獄に陥れた後、降伏を許さず、砦に籠る者たちを女子供の区別なく焼き殺した 1 。この殲滅戦によって、2万人もの人々が命を落としたと伝えられている 2 。
長島の一揆勢にとって、元亀二年の勝利は、自らの力を過信させ、信長という敵の執念深さを見誤らせる、束の間の栄光であった。それは、より大きな悲劇を招き寄せるための序曲に過ぎなかったのである。この戦いは、信仰の力が時に強大な権力をも打ち破りうることを示す一方で、一度燃え上がった憎しみの連鎖が、いかに凄惨な結末をもたらすかという、戦国時代の非情な現実を我々に突きつけている。
引用文献
- 【解説:信長の戦い】長島一向一揆(1571・73・74、三重県桑名市) 殲滅までに再三の出陣を要した信長の天敵! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/337
- 長島一揆(ナガシマイッキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B3%B6%E4%B8%80%E6%8F%86-107688
- 長島一向一揆 - 桑名市 https://www.city.kuwana.lg.jp/hisyokoho/kosodatekyouiku/kidspage/nagashimaikkouikki.html
- 「長島軍記 〜伊勢長島一向一揆 450年~」旭堂南龍 feat. Mummy-D - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=zAcb3KzRJqI
- 一向一揆興亡史 (越前関連年表) https://www.big-c.or.jp/~makichan/1312ikki.pdf
- 長島一向一揆古戦場:三重県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/nagashima/
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- 卜全塚 -信長公を想う旅⑥ - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-4578.html
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- 歴史の目的をめぐって 氏家直元 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-03-ujiie-naomoto.html
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- 織田家族大浩劫-長島一向一揆 - WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/13320432/