箱根湯本口の戦い(1590)
箱根湯本口の戦いは、1590年の小田原征伐における豊臣軍による箱根防衛線攻略戦。山中城が半日で陥落後、足柄城も無血開城し、箱根の防衛線は崩壊。秀吉が早雲寺に本陣を置くことで、北条氏の権威を否定し、天下統一を決定づけた。
天正十八年、箱根隘路の攻防 ― 湯本口掌握に至る道程の時系列的再構築
序章:天下統一、最後の壁
天正も末期の天正十八年(1590年)、日本の統一を目前にした豊臣秀吉の眼前に、最後の、そして最大の障壁として関東の雄、後北条氏が立ちはだかっていた。秀吉は既に九州の島津氏、四国の長宗我部氏を屈服させ、その権威は西国一円に及んでいた 1 。天下の趨勢は、もはや誰の目にも明らかであった。残すは、百年にわたり関東に覇を唱え続けた後北条氏と、その影響下にある奥羽の諸大名を従えるのみとなっていた。
この巨大な両勢力の衝突を不可避とした直接の導火線は、天正十七年(1589年)に発生した「名胡桃城事件」である 2 。秀吉は、大名間の私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を天下に発布し、これに基づき後北条氏と真田氏の間で長年の係争地であった沼田領の裁定を下した 3 。しかし、この裁定を不服とした後北条氏家臣・猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を軍事力をもって奪取するに至る 4 。この行為は、秀吉の定めた天下の秩序、すなわち「公儀」への明確な挑戦であり、秀吉に後北条氏討伐の絶対的な大義名分を与える結果となった。
ここに、天下統一事業の総仕上げとなる空前の大戦役、「小田原征伐」の幕が切って落とされた。両軍の戦略構想は、その成り立ちからして対照的であった。
豊臣方は、全国から総勢22万ともいわれる未曾有の大軍を動員 5 。徳川家康、豊臣秀次、織田信雄らを主力とする東海道軍、前田利家、上杉景勝らを主力とする北陸道軍、そして九鬼嘉隆、加藤嘉明らが率いる水軍が、陸路と海路から後北条領を完全に包囲・封鎖する、まさに「面」で圧殺する戦略であった。この大軍の行動を支えたのは、長束正家を奉行とし、黄金一万枚を投じて周到に準備された兵站計画である 6 。兵糧を事前に買い付け、進軍路の港ごとに蔵を設けて配置することで、兵士による略奪を禁じ、規律の取れた長期戦を可能にした。これは、兵農分離を完了させた専業武士団を主力とする、当時の日本における最も「近代的」な軍事システムの顕現であった 5 。
対する後北条方は、領国支配の集大成ともいえる「根こそぎ動員」によって約5万6千の兵力を集めた 5 。その戦略の根幹は、過去二度にわたり上杉謙信、武田信玄という当代きっての軍略家による大軍を退けた、難攻不落の小田原城における籠城策であった 5 。城下町全体を総延長9kmにも及ぶ大外郭(総構)で囲い込み、領内各地から兵糧と将兵、その家族までをも城内に収容し、巨大な要塞都市と化すことで敵の疲弊を待つ 7 。そして、その小田原城を守るための第一次防衛線として、天険の要害である箱根の山々に防衛拠点を網の目のように配置し、敵主力の進軍を阻害・遅延させる「線」と「点」による縦深防御を企図した。
この後北条氏の防衛戦略において、箱根は単なる地理的要害以上の、まさに死活的な意味を持つ戦略拠点であった 6 。東海道の隘路を押さえるこの地を突破されることは、防衛計画の根幹が崩れ、本拠地である小田原城が敵の脅威に直接晒されることを意味した。したがって、本報告書で詳述する「箱根湯本口の戦い」とは、単一の地点で行われた会戦を指すものではない。それは、後北条氏が誇る箱根防衛線全体の攻略を目指した一連の軍事行動の総称であり、その最終局面としての豊臣軍による箱根湯本口の掌握までを含む、小田原征伐序盤の趨勢を決定づけた戦役として捉えるべきである。この戦いは、兵力や兵の質、そして兵站思想に至るまで、豊臣の「近代的」軍事システムが後北条の「中世的」軍事思想を凌駕していく過程を象徴するものであった。
第一部:鉄壁の防衛網 ― 後北条氏の箱根方面迎撃態勢
豊臣秀吉による西からの侵攻を予期した後北条氏は、その主進撃路となるであろう東海道正面、すなわち箱根方面に多層的かつ重層的な防衛ネットワークを構築していた。これは、単一の城で敵を食い止めるのではなく、複数の城砦が有機的に連携し、箱根の険しい地形を最大限に活用して敵の進軍を遅滞させ、消耗を強いることを目的としたものであった。この防衛網は「箱根十城」とも称され、後北条氏の築城技術と防衛思想の集大成であった 11 。
このネットワークの中核をなすのは、主要街道を押さえる三つの主城であった。
- 山中城: 静岡県三島市に位置し、箱根峠の西麓で東海道を直接見下ろす、防衛網の最重要拠点 6 。永禄年間(1560年代)に北条氏康によって築かれ、幾度となく改修が加えられた。特に、堀の底に畝(うね)を設けて敵兵の自由な移動を阻む「障子堀(しょうじぼり)」は、後北条流築城術の粋を集めたもので、その防御力は高く評価されていた 13 。この城の守将には、後北条氏の重臣である松田康長が任じられ、玉縄城主・北条氏勝らの援軍を含め、約4,000の兵力が配置されていた 14 。
- 足柄城: 神奈川県南足柄市に位置し、古代から中世にかけての主要道であった足柄路(足柄街道)を押さえる要衝 10 。山中城が守る東海道ルートと並行する、もう一つの箱根越えルートを封鎖する役割を担っていた。守将は、当主・氏直の叔父にあたる北条氏光であった 6 。
- 韮山城: 伊豆半島の付け根に位置し、伊豆方面からの侵攻に備える拠点 10 。後北条氏初代・早雲が関東経営の足がかりとした由緒ある城でもある。守将には、氏政の弟で、温厚な人柄と外交手腕で知られる北条氏規が就き、約3,640の兵と共に守りを固めていた 1 。
これら三つの主城を補完し、防衛網に深みを与えるため、箱根山中の尾根筋や街道沿いには、さらに小規模な城砦群が配置されていた。特に、鎌倉古道とも呼ばれる湯坂道沿いに位置する 鷹ノ巣城 や 湯坂城 は、山中城の後方連絡線を確保し、敵の別働隊による迂回攻撃に備える重要な役割を担っていたと推測される 11 。これらの城砦の具体的な守将に関する記録は乏しいが、小田原城の当主・氏直の直轄部隊が守備していたと考えられている 6 。
後北条首脳部、特に隠居の氏政と当主の氏直は、この鉄壁と信じる箱根防衛網と、小田原城の総構えを組み合わせることで、天正十八年(1590年)いっぱいを凌ぎきれると確信していた節がある 6 。彼らの脳裏には、永禄年間(1560年代)に上杉謙信や武田信玄の大軍を籠城によって退けた輝かしい成功体験があった 5 。この過去の経験が、秀吉という規格外の敵が持つ圧倒的な動員力、そしてそれを支える兵站能力への過小評価に繋がっていた。
しかし、この後北条氏の防衛戦略は、構造的な脆弱性を内包していた。各城は街道沿いに配置され、それぞれが独立した「点」として機能する側面が強かった。連携を前提としながらも、防衛の比重は東海道正面の山中城に極端に偏っており、あたかも直列に繋がれた鎖のようであった。この構造では、山中城という最も重要な環が破壊された場合、後方の足柄城や鷹ノ巣城は戦略的価値を大きく減じ、防衛線全体が連鎖的に破綻する危険性を常に孕んでいた。一点突破に弱いこの「直列型」防衛網の弱点は、間もなく現実のものとなる。
第二部:天正十八年三月二十九日 ― 山中城、落日の半日
天正十八年三月二十九日、箱根の山々は深い霧に包まれていた。この日、後北条氏の命運、そして戦国時代の終焉を事実上決定づける激戦の火蓋が切られようとしていた。
表1:山中城攻防における両軍の兵力と主要指揮官
勢力 |
軍団/部隊 |
兵力(推定) |
主要指揮官 |
典拠 |
豊臣軍 |
総計 |
約67,800 |
豊臣秀次(総大将)、徳川家康 |
15 |
|
右軍 |
約18,300 |
池田輝政、堀秀政、木村重茲、長谷川秀一、丹羽長重 |
15 |
|
中軍 |
約19,500 |
豊臣秀次、羽柴秀勝、中村一氏、一柳直末 |
15 |
|
左軍 |
約30,000 |
徳川家康 |
15 |
後北条軍 |
山中城守備隊 |
約4,000 |
松田康長(城主)、北条氏勝、間宮康俊、松田康郷 |
14 |
(時刻:夜明け前)
山中城の麓には、既に豊臣軍約7万の大軍が布陣を完了していた。城の東側、大手正面には総大将である関白秀吉の甥、豊臣秀次率いる中軍19,500。その右翼には池田輝政、堀秀政ら歴戦の将が率いる右軍18,300。そして、城の西側、最大の弱点とされる西の丸方面には、徳川家康率いる左軍30,000が配置された 15 。城を三重に囲むその様は、蟻一匹這い出る隙も与えぬという秀吉の固い意志の表れであった。対する城内には、老将・松田康長以下、わずか4,000の兵。17倍以上という圧倒的な兵力差が、開戦前から城兵に重くのしかかっていた。
(時刻:午前8時半頃)
霧がわずかに晴れ始めたのを合図に、豊臣方の陣から凄まじい鬨の声が上がった。総攻撃の開始である。豊臣秀次軍の先鋒、中村一氏、一柳直末らの部隊が、城の最前線である岱崎出丸(だいさきでまる)に怒涛の如く殺到した 15 。
(時刻:午前9時~10時)
岱崎出丸では、守将・間宮康俊らが率いる後北条軍が死に物狂いの抵抗を見せた。地形の利を生かし、狭い攻め手に鉄砲の集中射撃を浴びせかけ、豊臣方の第一波、第二波をことごとく撃退する。約2時間にわたり、間宮勢は驚異的な粘りを見せたが、次々と繰り出される豊臣方の波状攻撃の前に、ついに力尽き、出丸は敵の手に落ちた 15 。
(時刻:午前10時~11時)
岱崎出丸を突破した豊臣軍は、勢いを駆って三の丸へと殺到した。ここで、後北条氏が誇る障子堀がその牙を剥く。複雑に入り組んだ堀と畝は、攻め手の勢いを削ぎ、堀底に降りた兵士たちを格好の的とした 13 。しかし、豊臣方は兵の損害を全く意に介さなかった。屍を乗り越え、後続部隊が次々と投入される物量戦術の前には、いかなる巧妙な防御施設も時間を稼ぐ以上の意味を持たなかった。この三の丸を巡る凄惨な白兵戦の最中、豊臣軍の先鋒として勇猛を馳せた将、一柳直末が、城方から放たれた一発の銃弾に胸を撃ち抜かれ、陣没した 15 。
この秀次の正面からの力攻めは、一見すると貴重な将を失った無策な攻撃にも映る。しかし、それは秀吉の描いた大局的な戦略の一環であった。秀次が損害を顧みず正面に敵の全注意と兵力を引きつけている間、この戦いの勝敗を決定づけるもう一つの動きが、城の西側で静かに進行していた。
(同時刻)
徳川家康は、自軍3万の中から精鋭を選りすぐり、山中城の構造的弱点であった西の丸へと攻撃を集中させていた。正面の激戦とは対照的に、計算され尽くしたこの側面攻撃は着実に成果を上げ、ついに西の丸の守りを打ち破った 15 。
(時刻:正午過ぎ)
西の丸の陥落は、山中城の防衛システムに致命的な亀裂を入れた。そこから徳川軍が城内へ雪崩れ込み、正面の秀次軍も呼応して突入するに及び、城兵の戦線は完全に崩壊した。もはやこれまでと悟った城主・松田康長は、援軍に来ていた玉縄城主・北条氏勝らを城から脱出させると、手勢200と共に本丸に籠もり、最後の抵抗を試みた。しかし、衆寡敵せず、康長は壮絶な討ち死を遂げた 14 。
開戦からわずか半日。後北条氏が箱根防衛の要と頼んだ山中城は、凄まじい轟音と黒煙を上げて陥落した。
(同日中)
この山中城での主戦場の裏で、徳川家康はさらに周到な一手も打っていた。彼は、この城が手強いことを事前に秀吉に説明していた箱根山中のもう一つの拠点、鷹ノ巣城にも別働隊を派遣し、山中城が落ちたのと同日中にこれを攻略していたのである 15 。攻略後、家康は一時的にこの鷹ノ巣城を自らの本陣とした 19 。この動きは、家康が単なる秀吉の麾下の一将としてではなく、箱根全体の地理と戦略を深く理解し、自律的に作戦行動を展開できる卓越した指揮官であることを示している。それは、来るべき関東支配への静かな、しかし明確な布石であった。
第三部:ドミノ倒しの連鎖 ― 防衛線の全面崩壊(三月三十日~四月四日)
山中城がわずか半日で陥落したという事実は、物理的な打撃以上に、後北条軍全体に深刻な心理的衝撃をもたらした。鉄壁と信じられていた防衛線の中核が、かくも容易く粉砕されたという報せは、後続の拠点に連鎖的な動揺と崩壊を引き起こす。それは、計算された戦略が根底から覆されたことによる、戦意そのものの喪失であった。
三月三十日
山中城落城の報は、瞬く間に箱根の山々を駆け巡った。足柄城を守る北条氏光のもとにこの凶報が届いた時、彼は自らの置かれた状況の絶望的な変化を即座に理解したであろう。防衛線の最前線が突破され、主力の豊臣軍が背後に迫りつつある今、足柄城に籠城することは、孤立無援のまま各個撃破されることを意味する 10 。氏光は、無益な抵抗を避け、兵力を温存して小田原城の本隊に合流するという、苦渋の、しかし唯一の合理的な決断を下す。彼は城を放棄し、全軍を率いて小田原への撤退を開始した 16 。
四月一日
徳川家康配下の猛将、井伊直政率いる部隊が足柄城に到着した。彼らが目にしたのは、戦闘の痕跡もなく、静まり返ったもぬけの殻の城であった 16 。こうして、後北条氏が箱根越えのもう一つの関門としていた足柄城は、一戦も交えることなく豊臣軍の手に落ちた。これにより、箱根を越える二大主要ルートである東海道と足柄路は、完全に開かれたのである。
四月一日~三日
二大主城の陥落と撤退は、箱根山中に点在していた後北条方の小規模な砦や守備隊の運命を決定づけた。指揮系統は混乱し、戦意は失われ、彼らは次々と持ち場を放棄して小田原城へと退却していった 16 。豊臣秀吉率いる本隊は、もはや何の抵抗も受けない箱根路を、悠々と進軍した 15 。かつて後北条氏が鉄壁の防衛網を築いたはずの箱根の山々は、完全にその戦略的機能を停止した。
四月四日
山中城攻略の先鋒を務めた豊臣秀次、徳川家康らの軍勢が、ついに小田原城下に到達。直ちに城の包囲網の構築を開始した 15 。山中城の攻防からわずか6日。後北条氏が恃みとした箱根防衛線は、あたかもドミノ倒しのように、あっけなく全面崩壊したのである。この崩壊の速さは、豊臣軍の圧倒的な軍事力もさることながら、山中城での「ありえない敗北」が後北条方の指揮官たちに与えた「この敵には従来の常識が通用しない」という心理的打撃の大きさを物語っている。
第四部:関白、箱根に入る ― 湯本口の完全掌握(四月五日)
箱根の防衛機能が完全に無力化された翌日の四月五日、天下人・豊臣秀吉は、その後ろ備えと共に満を持して箱根の東の玄関口、湯本に到着した 15 。もはや彼の進軍を阻む後北条の兵は一人もおらず、その入山は軍事的な制圧というよりも、凱旋に近いものであった。
秀吉は、その一時的な本営として、箱根湯本にある早雲寺を選んだ。この寺は、単なる一寺院ではない。戦国大名・後北条氏の始祖であり、一族の神格化された祖である北条早雲(伊勢宗瑞)の菩提寺であり、後北条五代百年の栄華を象徴する、一族にとって最も神聖な場所の一つであった 15 。
秀吉による早雲寺の占拠と本営化は、複数の、そして極めて重い意味を持っていた。
第一に、 軍事的な意味 である。早雲寺は小田原城を間近に望む絶好の位置にあり、ここを司令部とすることで、20万を超える大軍による包囲戦を効率的に指揮することが可能となった。箱根湯本口は、まさしく対小田原城攻めの最前線基地となったのである。
第二に、そしてより重要なのは、 政治的・心理的な意味 である。敵対する一族の祖廟を、土足で踏み荒らすかのように自らの本営とすることは、後北条氏の権威と歴史そのものを否定し、足蹴にする行為に他ならない。それは、城内に籠もる氏政、氏直ら後北条一門に対し、言葉以上の強烈な屈辱と、もはや抗う術はないという絶望感を植え付けるための、計算され尽くした心理戦術であった 20 。
この秀吉の行為は、単なる軍事行動を超えた、新しい時代の支配者としてのパフォーマンス、すなわち「文化的なマウンティング」であった。彼は、後北条氏の築き上げた物理的な城だけでなく、その精神的な支柱である祖先の権威をも奪い去ることで、「お前たちの時代は終わった。これからは私がこの地の支配者である」と無言のうちに宣言したのである。後に秀吉が本陣を石垣山に移す際、この早雲寺を焼き払わせたことは 20 、旧時代の完全な破壊と、自らがもたらす新時代の到来を天下に示す、仕上げの儀式であったとも解釈できる。
この四月五日の秀吉による早雲寺占拠をもって、山中城の攻防に始まった箱根防衛線を巡る一連の戦闘は完全に終結した。「箱根湯本口」は名実ともに関白の手に落ち、戦いの舞台は、完全に小田原城そのものを巡る攻防戦へと移行していく。
終章:箱根陥落が意味したもの
天正十八年春、わずか一週間足らずで展開された箱根防衛線の攻防と、そのあっけない崩壊は、戦国時代の最終局面において決定的な意味を持った。それは単に一つの防衛拠点が失われたということではなく、後北条氏百年の栄華を支えてきた戦略思想そのものが破綻した瞬間であった。
箱根防衛線の崩壊は、後北条氏が描いていた籠城による持久戦というシナリオを、開戦早々に根底から覆した。支城ネットワークという幾重もの緩衝地帯を失った小田原城は、いわば鎧を剥がされたも同然の姿で、20万を超える豊臣の大軍と直接対峙する状況に追い込まれた。これにより、後北条方が期待した敵の消耗や兵站の寸断といった望みは、完全に断たれたのである。
さらに深刻だったのは、城内に与えた心理的影響である。鉄壁と信じていた箱根が、まるで紙のように破られたという事実は、小田原城内に籠もる将兵に計り知れない衝撃と動揺を与えた 15 。これが、勝機を見出せないままに議論ばかりが空転し、結論の出ない会議を指す「小田原評定」という故事を生む遠因となった 3 。先の見えない籠城生活の中で、豊臣方の圧倒的な力を目の当たりにした将兵の士気は低下し、やがて下野国の武将・皆川広照のように、城を脱出して豊臣方に投降する者まで現れ始めた 15 。
総括すれば、「箱根湯本口の戦い」とは、山中城における半日の激戦をクライマックスとする、豊臣軍による電撃的な箱根防衛線攻略戦であった。この戦いの勝利によって、秀吉は天下統一事業における最後の、そして最大の軍事的障壁を排除することに成功した。箱根の陥落は、戦国大名・後北条氏の滅亡を事実上決定づけ、長く続いた戦乱の世の終わりを告げる、歴史の転換点だったのである。そして三ヶ月後、小田原城は開城し、後北条氏は滅亡。秀吉による天下統一が完成した 5 。
引用文献
- 小田原征伐 ~豊臣秀吉の北条氏討伐 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/odawara-seibatu.html
- 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
- 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
- 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 - 【戦国BANASHI】日本史・大河ドラマ・日本の観光情報サイト https://sengokubanashi.net/history/odawara-seibatsu/
- 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
- [座談会]小田原合戦 −北条氏と豊臣秀吉− /永原慶二・岩崎宗純 ... https://www.yurindo.co.jp/yurin/article/420
- はじめての総構え 驚きの傾斜をあなたに | 周遊コース | リトルトリップ小田原 [小田原市観光協会] https://www.odawara-kankou.com/tour/hajimete-sougamae.html
- 小田原城~北条五代の城の歴史と見どころ~ https://www.yoritomo-japan.com/odawara-jyo.htm
- 小田原 | 関東の防衛拠点から箱根観光の中継地 - まちあるきの考古学 http://www3.koutaro.name/machi/odawara.htm
- <小田原北条氏の防衛戦(その8)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(3) - 歴史ぶらり1人旅 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2024/01/21/183942
- 北条氏城郭ネットワーク - 箱根ジオパーク https://www.hakone-geopark.jp/area-guide/hakone3/019houjiyou.html
- 小田原の西の防衛を担う最重要拠点 山中城 | きままな旅人 https://blog.eotona.com/yamanaka-castle-the-most-important-base-for-the-defense-of-the-west-of-odawara/
- 山中城跡(1) - まちへ、森へ。 https://machimori.main.jp/details9235.html
- 北条五代にまつわる逸話 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p17445.html
- 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
- 箱根の中世東海道『鎌倉古道(湯坂道)』をくだる 体験レポート ... https://www.scn-net.ne.jp/~yanya/event_20110715.htm
- 3.湯坂路(鎌倉古道) - まちへ、森へ。 https://machimori.main.jp/details9194.html
- [鷹の巣城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/1084
- 展覧会概要 | 2021年度特別展 開基500年記念 早雲寺-戦国大名北条氏の遺産と系譜- 特設サイト | 神奈川県立歴史博物館 https://ch.kanagawa-museum.jp/souun-ji/web.html
- 小田原合戦 - デジタルアーカイブ研究所 - 岐阜女子大学 https://digitalarchiveproject.jp/information/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6/