米子城の戦い(1600)
慶長五年 米子城無血開城の真相 ― 関ヶ原の裏面史と吉川広家の決断
序章:関ヶ原前夜の伯耆国と米子城
慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した年、伯耆国(現在の鳥取県中西部)に聳える米子城は、物理的な戦火を交えることなく、その支配者を劇的に変えることとなる。一般に「米子城の戦い」として知られるこの出来事は、しかしながら、鬨の声や鉄砲の轟音が響き渡る攻城戦ではなかった。それは、日本の歴史が戦国乱世から近世へと大きく舵を切る中で繰り広げられた、緻密な情報戦と政治的駆け引きの帰結であり、一人の武将の苦渋に満ちた決断がもたらした、静かなる城の明け渡しであった。この報告書は、所謂「米子城の戦い」の実像を、関ヶ原の戦いという大局的な視点と、城主・吉川広家の動向を軸に、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
伯耆国の戦略的位置づけ
米子城が位置する伯耆国は、古来より山陰と山陽を結ぶ交通の要衝であり、日本海交易における重要な拠点であった。特に米子の地は、天然の良港である中海に面し、経済的・軍事的に極めて高いポテンシャルを秘めていた。西国に覇を唱えた毛利氏にとって、この地域は東方の織田・豊臣勢力に対する最前線であり、また、山陰地方一帯を安定的に支配するための基点として、その戦略的価値は計り知れないものであった 1 。戦国末期、全国統一の潮流が加速する中で、伯耆国の支配は、西国大名の浮沈を左右する重要な要素となっていたのである。
吉川広家による築城の開始とその意図
天正十九年(1591年)、毛利元就の孫であり、毛利一門の重鎮である吉川広家は、豊臣秀吉から出雲・伯耆・隠岐など十二万石の所領を安堵された 2 。当初、広家は出雲の月山富田城を居城としていたが、山間部に位置するこの中世的な山城は、新たな時代の領国経営の中心としては不向きであった。広家は、経済と交易の活性化こそが領国を富ませる道であると考え、その拠点を日本海と中海に面した米子の地に移すことを決断する 2 。これは、城郭の機能が単なる軍事拠点から、政治・経済を司る「首都」へと変貌していく戦国末期の潮流を的確に捉えた、先進的な構想であった。
築城にあたっては、重臣の祖式九右衛門(そしきくえもん、諱は長吉)を築城奉行に任命し、湊山(みなとやま)と呼ばれる丘陵に近世城郭の普請を開始した 2 。広家の理想は、堅固な軍事要塞であると同時に、活気ある城下町を抱え、水運の利を最大限に活かした商都を築き上げることだったのである。
慶長五年(1600年)時点での米子城
関ヶ原の戦いが勃発した慶長五年、米子城はまだその壮大な構想の途上にあった。広家自身が文禄・慶長の役(1592年~1598年)で朝鮮半島へ長期間出兵していたため、築城工事は断続的にしか進められなかったのである 3 。当時の史料によれば、城の進捗率は約七割程度であったと記録されている 2 。
しかし、未完成とはいえ、その威容はすでに山陰随一と呼ぶにふさわしいものであった。標高約90メートルの湊山山頂に本丸を置き、北に連なる丸山に「内膳丸」、東の飯山に「采女丸」と呼ばれる出丸を配した、天然の地形を巧みに利用した大規模な平山城であった 9 。
特筆すべきは、その設計に当時の最先端技術が導入されていた点である。特に、朝鮮出兵の経験から学んだ倭城(わじょう)の築城技術、「登り石垣」が採用されていた可能性が高い。これは、山の尾根伝いに石垣を築き、山麓の郭と山頂の郭を連結させることで、敵兵の横移動を妨げ、城全体の防御力を飛躍的に高める防御施設である。近年の発掘調査により、内膳丸と本丸を結ぶ尾根にその遺構が確認されており 9 、広家が最新の軍事工学知識を自らの城に取り入れていたことを物語っている。天守についても、広家時代に四重櫓(後の副天守、あるいは小天守とも呼ばれる)が建てられ、内堀や堅固な枡形虎口などもすでに完成していたと見られる 2 。
この「未完成の最新鋭城郭」という状態こそが、慶長五年の米子城の運命を理解する上で極めて重要な鍵となる。広家にとって、この城は自らの理想とする領国経営の象徴であり、未来への大きな投資であった。しかし、天下分け目の動乱期にあっては、守り切ることが困難な戦略的弱点、いわば「アキレス腱」でもあった。主君である毛利輝元に従い、主力の軍勢を率いて畿内へ出陣した広家にとって、国元に残した兵力は手薄であった。そのような状況下で、東軍方についた因幡鹿野城主・亀井茲矩などの勢力が跋扈する国元において、防御施設が不完全な城で籠城戦を戦うことは、多大なリスクを伴う無謀な賭けに他ならなかった。この物理的な状況が、広家をして武力による抵抗ではなく、政治交渉による活路の模索へと向かわせた、見過ごすことのできない一因であったと考えられる。
第一章:城主・吉川広家の苦悩と決断 ― 毛利家存続への道
米子城の運命は、城壁の高さや堀の深さによってではなく、城主・吉川広家の政治的決断によって定まった。毛利一門の将来を一身に背負い、絶望的な状況下で下されたその決断は、彼個人のみならず、西国全体の勢力図を塗り替えるほどの重みを持っていた。
豊臣政権下での毛利家と吉川広家
豊臣秀吉の死後、五大老の一角として豊臣政権の中枢にいた毛利輝元は、徳川家康と並ぶ天下の有力者であった 13 。広家は輝元の従弟にあたり、毛利宗家を支える重鎮として、また秀吉からは独立した大名としても認められるという、複雑な立場にあった 2 。この独自の立ち位置が、彼に毛利家全体を客観的に俯瞰させ、時には宗家の意向とは異なる、より大局的な判断を下させる素地を形成していた。彼は、武人としての勇猛さだけでなく、冷静に時勢を読む政治的洞察力も兼ね備えていたのである。
西軍総大将への擁立と広家の危惧
慶長五年七月、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため大坂を離れると、石田三成、安国寺恵瓊らは家康打倒の兵を挙げた。彼らは、豊臣家への忠誠心厚い毛利輝元を説き伏せ、西軍の総大将として大坂城西ノ丸に迎え入れた 13 。表向きには、豊臣秀頼公を守護するという大義名分が掲げられたが、広家はこの動きが毛利家を破滅へと導く危険な罠であると直感していた。
広家は、家康の圧倒的な実力と政治的力量、そしてそれに比して西軍に参集した大名たちの結束の脆さ、利害の不一致を冷静に見抜いていた 14 。安国寺恵瓊らの甘言に乗って総大将という虚名に踊らされれば、戦の勝敗に関わらず、毛利家が最大の責任を負わされることは火を見るより明らかであった。この瞬間から、広家の思考は「西軍をいかに勝利させるか」ではなく、「いかにして毛利家をこの泥沼から救い出すか」という一点に集中することになる。
東軍との密約交渉
輝元の大坂城入城という、もはや覆すことのできない現実を前に、広家は一族の命運を賭けた危険な策動を開始する。それは、敵であるはずの東軍総大将・徳川家康との極秘裏の交渉であった。
広家は、旧知の間柄であった黒田長政を仲介役として、家康との内通を試みる 13 。福島正則もこの交渉に関与したとされる。広家から長政に託された密書の内容は、毛利家の存続を願う悲痛な叫びであった。その要点は、「輝元公には家康公に敵対する意志はなく、安国寺恵瓊らの策謀によって担がれたに過ぎない。来るべき決戦において、毛利の軍勢は決して家康公の敵とはならない。この忠節の証として、戦いの後には毛利本領を安堵していただきたい」というものであった 13 。
この交渉は、毛利家内部ですらごく一部の者にしか知らされておらず、西軍の諸将には完全に秘匿されていた 19 。もし露見すれば、広家自身の首が飛ぶだけでなく、大坂城にいる輝元の身も危うくなる、まさに綱渡りの密約であった。家康側も、中国地方に120万石の広大な領地を持つ毛利の大軍が戦闘に参加しないことの戦略的価値を即座に理解し、この提案を大筋で受け入れた 20 。
しかし、この密約を成功させるためには、西軍を欺き続けなければならない。広家は、西軍の一員として、家康に疑いの目を向けられないよう、矛盾に満ちた行動を取ることを余儀なくされる。彼は毛利軍の先鋒として伊勢路に進軍し、東軍方の城であった安濃津城の攻撃に参加、これを陥落させている 15 。この行動は、一見すれば東軍への明確な敵対行為である。しかし、その内実は、石田三成ら西軍首脳の疑念を逸らし、密約という真の目的を遂行するための、計算され尽くした偽装工作であった。もし広家が当初から戦意を示さなければ、彼の不審な態度はすぐに西軍内で問題視され、計画は水泡に帰していただろう。味方となるべき東軍の城を攻めるという非情な選択は、毛利家存続という至上命題を達成するために、彼が払わねばならなかった大きな代償だったのである。
第二章:慶長五年九月・天下分け目の攻防と米子城の運命
慶長五年九月十五日、美濃国関ヶ原。日本の運命を決する戦いの火蓋が切られたその日、遠く離れた伯耆国米子城の行く末もまた、この戦場の動向、とりわけ一人の武将の静かなるパフォーマンスによって決定づけられようとしていた。ユーザーが求める「リアルタイムな状態」とは、この関ヶ原での攻防と、伯耆国周辺の緊迫した情勢、そして米子城内で息を潜める留守部隊の心理が交錯する、多層的な状況の中にこそ見出される。
【時系列①】関ヶ原決戦(9月15日)
関ヶ原の戦いにおいて、毛利軍はその去就が勝敗を左右する最大の不確定要素であった。毛利輝元の名代として毛利秀元が率いる一万五千の主力軍は、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らの軍勢と合わせ、総勢約三万という大軍で、関ヶ原の東に位置する南宮山の山頂に布陣していた 19 。この軍勢がもし、東軍の背後を突く形で山を下りていれば、戦いの趨勢は大きく西軍に傾いていた可能性が高い 20 。
しかし、この大軍は最後まで動くことはなかった。その進撃路の最前線に、吉川広家の三千の兵がまるで防波堤のように陣取っていたからである。決戦が始まり、後方の安国寺恵瓊や長束正家から再三にわたり出撃の催促が来ても、広家は頑として動かなかった。有名な「宰相殿(毛利秀元)は今、弁当を食べておられる」という返答は、この時の意図的なサボタージュを象徴する逸話である 22 。実際には、東軍との密約に基づき、毛利軍全軍を戦場に参加させないという重大な使命を、広家は命懸けで遂行していたのである。彼のこの動かざる抵抗が、西軍敗北の決定的な要因の一つとなったことは、歴史が証明している。
【時系列②】同時期の伯耆・因幡国の情勢
畿内で天下分け目の戦いが繰り広げられている頃、米子城が位置する山陰地方もまた、静かなる緊張に包まれていた。特に、因幡国鹿野城主・亀井茲矩の存在は、米子城にとって直接的な脅威であった。
亀井茲矩は、豊臣政権下で広家としのぎを削ったライバルであり、早くから東軍への与力を表明していた 1 。家康は、茲矩に対して西軍に属する毛利方の鳥取城を攻撃するよう命じており、彼はその機会を虎視眈々と狙っていた 13 。関ヶ原の本戦が終わった十月以降、茲矩は実際に鳥取城への攻撃を開始している。
この時期、伯耆・因幡地方は、東軍につく亀井氏、西軍に属する毛利方の諸将、そして形勢を日和見する在地勢力が複雑に入り乱れ、一触即発の状態にあった 1 。もし吉川広家の政治工作がなければ、未完成で兵力も手薄な米子城は、亀井軍にとって格好の攻撃目標となっていた可能性は極めて高い。米子城の運命は、遠く関ヶ原の戦況と、目と鼻の先に存在する敵性勢力の動向という、二つの要素に固く縛られていたのである。
【時系列③】米子城の留守部隊
城主・広家が主力を率いて不在の中、米子城の守りを任されていたのは、築城奉行でもあった重臣・祖式長吉(九右衛門)らであったと推測される 2 。広家は出陣に際し、領内の住民の六割を動員して、昼夜兼行で城の普請を急がせていた 2 。これは、万が一の籠城戦に備えた措置であり、留守部隊が置かれた状況の厳しさを物語っている。
城内に詰める将兵たちは、関ヶ原で主君が西軍の一翼を担い、輝かしい武功を挙げていると信じていたかもしれない。彼らは主家の勝利を祈りつつ、周辺の不穏な動きに警戒の目を光らせ、固唾をのんで吉報を待っていたことであろう。しかし、その頃、彼らの主君は西軍を敗北させるための最大の工作を行っていた。この「現地(米子城)の認識」と「戦場(関ヶ原)の真実」との間に存在する、残酷なまでの乖離こそが、慶長五年九月十五日における米子城の最も「リアルタイムな状態」であった。それは、砲声の代わりに情報が錯綜する中で増幅される、静かなる極度の緊張状態だったのである。
表①:慶長五年(1600年)九月 米子城関連 時系列対照表
日付 |
全国的な動向(関ヶ原周辺) |
伯耆・因幡国の動向 |
米子城の状況(推定) |
9月14日 |
東軍・徳川家康が赤坂岡山に着陣。杭瀬川の戦い(前哨戦)が発生 26 。 |
亀井茲矩ら東軍方は臨戦態勢を固め、畿内の戦況を注視。 |
城代・祖式長吉らが籠城準備を最終段階に進め、情報収集に全力を挙げる。 |
9月15日 |
関ヶ原の戦い本戦。 吉川広家、南宮山で毛利軍を意図的に抑え、戦闘に参加させず 19 。 |
地域全体が固唾をのんで関ヶ原の戦況を見守る。 |
城兵は主家の勝利を祈りつつ、極度の緊張の中で待機。主君の真意を知る由もない。 |
9月16日 |
西軍は総崩れとなり敗走。広家は黒田長政らの指示に従い、秩序を保ちつつ南宮山から撤退を開始 13 。 |
西軍敗北の報が断片的に伝わり始め、地域の勢力バランスが動揺する。 |
関ヶ原での敗報がもたらされ、城内に衝撃と混乱が走る。今後の処遇に不安が広がる。 |
9月17日 |
東軍、石田三成の居城・佐和山城を攻略し、完全に勝利を決定づける 13 。 |
東軍方の優位が確定的となり、西軍に与した在地勢力は窮地に陥る。 |
広家からの正式な指示を待つ。城の明け渡しや改易の可能性が現実味を帯びる。 |
この対照表が示すように、米子城の運命は城そのものの攻防によってではなく、遠く離れた戦場での政治的パフォーマンスと、その結果がもたらした地域のパワーバランスの変化によって、一方的に決定されたのである。
第三章:「米子城の戦い」の実像 ― 無血開城と伯耆国主の交代
関ヶ原の戦いは、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。この結果は、日本の新たな支配者が徳川家康であることを天下に示し、全国規模での大名領地の再編、すなわち「戦後処理」の始まりを告げるものであった。伯耆国米子城の支配権移譲は、この巨大な権力移動の奔流の中で行われた、一つの象徴的な出来事であった。
戦後交渉と毛利家の処遇
西軍の敗北が確定すると、吉川広家は直ちに黒田長政、福島正則らを通じて家康との戦後交渉に入った 13 。彼の最大の目的は、西軍の総大将という大罪を犯した毛利輝元の赦免と、事前に交わされた「毛利本領安堵」の密約を履行させることであった。
しかし、現実は広家の期待通りには進まなかった。戦後、輝元が西軍諸大名に蜂起を促す副状に署名していたことが発覚し、家康を激怒させた 13 。これにより、毛利家は一時、改易(領地全没収)の危機に瀕する。広家は必死に嘆願を続けた。「輝元が処罰されるのであれば、自分も同罪である。もし毛利の家名を存続させていただけるのであれば、輝元はこの御恩を未来永劫忘れず、万が一にも徳川家に弓引くようなことがあれば、自分が輝元の首を討って差し出す」とまで述べ、主家の赦免を乞うた 13 。
この広家の捨て身の奔走により、毛利家は改易という最悪の事態は免れた。しかし、密約は事実上反故にされ、安芸・備後など八カ国120万石の広大な領地は没収、周防・長門の二カ国、実質約37万石への大減封という厳しい処分が下された 13 。広家の目的は、最低限の形でしか達成されなかったのである。
論功行賞と伯耆国の行方
家康は、関ヶ原の戦後処理、すなわち論功行賞を迅速に進めた。西軍に与した大名の領地を没収し、それを東軍に味方した大名たちに恩賞として再分配したのである 28 。
この過程で、吉川広家が治めていた伯耆・出雲などの領地も没収の対象となった。そして、伯耆一国(石高は17万5千石、または18万石とされる)は、駿河国府中(現在の静岡市)の城主であった中村一忠に与えられることが決定した 3 。一忠の父・中村一氏は、豊臣秀吉子飼いの武将で三中老の一人に数えられた人物であったが、関ヶ原では東軍に属して戦功を挙げていた。その功績に対する恩賞として、息子の一忠が伯耆一国の新たな国主として抜擢されたのである。
米子城の引き渡しプロセス
毛利家の大減封に伴い、吉川広家は毛利宗家に従い、周防国岩国三万石(後の検地で六万石)へと転封されることになった 3 。これにより、彼が心血を注いで築き上げてきた米子城は、その手を離れることが確定した。
重要なのは、この城の所有権移転が、一切の武力衝突を伴わずに行われたという事実である。米子城は、新たな領主となる中村一忠の軍勢によって攻め落とされたのではない。関ヶ原の戦いが終わった後、徳川家康の命を受けた「城請け取り役」として、古田重治(大膳太夫)と一柳直盛(監物)が現地に派遣された 4 。彼らは、徳川の権威を背景に、吉川方の城代・祖式長吉らから城の引き渡しを受け、その管理を代行した。
その後、中村一忠が正式に入国するまでの間は、西尾光教らが「城番(在番)」として城の維持管理にあたった 3 。この一連の流れは、完全に制度化された行政手続きであり、戦闘行為の介在する余地は全くなかった。これこそが、「米子城の戦い」が攻城戦ではなく、政治的な支配権の移譲であったことの動かぬ証拠である。
この無血開城のプロセスは、日本の歴史における大きな転換点を象徴している。戦国時代を通じて常識であった「実力によって領地を奪い取る」という価値観は、関ヶ原の戦いを境に終焉を迎え、「中央権力(徳川幕府)が領地を公的に付与する」という近世的な統治システムへと移行したのである。「城請け取り役」や「城番」といった役職の存在は、まさにこの新たな時代の到来を告げるものであった。
広家の決断は、結果として毛利家を滅亡から救った。しかし、その代償は大きかった。彼自身は理想の拠点であった米子城を失い、伯耆国には全く地縁のない中村氏が新たな支配者として君臨することになった。この急激な権力構造の変化は、地域の安定を著しく損ない、数年後に米子城内で繰り広げられる血の粛清劇、「米子城騒動」の遠因となる。広家の政治的決断は、一つの悲劇を回避する一方で、新たな悲劇の種をこの地に蒔いてしまったのである。
表②:米子城 新旧城主比較表
比較項目 |
旧城主:吉川 広家 |
新城主:中村 一忠 |
出自 |
毛利元就の孫。毛利一門の重鎮。 |
豊臣三中老・中村一氏の子。 |
石高 |
出雲・伯耆等で12万石(1591年時点)。 |
伯耆一国17万5千石(18万石とも)。 |
統治体制 |
広家自身による強力なリーダーシップ。 |
幼少(当時11歳)のため、家老・横田村詮が後見。 |
対徳川 |
西軍に属しつつ内通し、毛利家存続を画策。 |
父・一氏が東軍に属し、戦功を挙げる。 |
米子城との関わり |
近世城郭としての創始者。7割方を普請。 |
未完成の城を引き継ぎ、五重天守を加えて完成させる。 |
その後の運命 |
周防岩国3万石へ転封。岩国藩祖となる。 |
20歳で急死し、中村家は世継ぎなく断絶となる 3 。 |
第四章:新城主・中村一忠の入封と米子藩の成立
吉川氏が去った後の米子城は、新たな時代の支配者を迎えることになった。それは、戦国乱世の終焉がもたらした権力構造のダイナミックな変化を象徴する、新たな統治の始まりであった。しかし、その船出は必ずしも平穏なものではなかった。
中村一忠の入国
関ヶ原の戦いが終結した慶長五年(1600年)の暮れ頃、新たな伯耆国主となった中村一忠とその家臣団が領地に入った 31 。しかし、彼らが本拠とすべき米子城は、吉川氏によって七割方が普請されていたものの、未だ城主が居住できるような御殿などの施設は整っていなかった 11 。そのため、一忠一行は当初、米子城の西に位置する尾高城を仮の居城とし、そこから領国統治と米子城の完成に向けた指揮を執ることになった 8 。
横田村詮による統治と城の完成
新城主の中村一忠は、この時わずか11歳(一説には12歳)であった 32 。当然、自ら政務を執ることはできず、その後見役として、父・一氏の代からの宿老である横田村詮(よこたむらあき、通称は内膳)が実質的な権限を握った 30 。村詮は徳川家康からもその能力を高く評価されていた人物であり、優れた行政手腕を発揮して、新たな領国の基盤固めに着手した。
彼の最大の功績は、米子城の完成と城下町の整備である。村詮は、吉川広家が描いた壮大な都市計画を継承しつつ、城の普請を再開 35 。吉川氏が築いた四重櫓の隣に、新たに壮麗な四層五階の天守閣を建造し、二の丸に御殿を設けるなど、城郭全体を完成させた 3 。そして慶長七年(1602年)、ついに中村一忠は仮住まいの尾高城から完成した米子城へと移り、ここに名実ともに伯耆米子藩が成立したのである 3 。
「戦い」の余波 ― 米子城騒動への伏線
横田村詮の辣腕により、米子藩の統治は順調に滑り出したかに見えた。しかし、その有能さと強大な権力は、藩内に新たな火種を生むことになった。一忠の側に仕える安井清一郎、天野宗把といった側近たちが、村詮の存在を快く思わず、その権勢を嫉んだのである 32 。
彼らは、まだ年若い主君・一忠に対し、「村詮には藩を乗っ取る野心がある」「その態度は傍若無人である」といった讒言を繰り返し、主君と宿老との間に楔を打ち込んだ 37 。統治経験の乏しい一忠は、次第にこの讒言を信じ込むようになり、藩の創設に最も貢献したはずの村詮に対して、猜疑心と憎悪を募らせていった。
この藩内部の深刻な対立は、やがて最悪の結末を迎える。慶長八年(1603年)十一月十四日、一忠は慶事を口実に村詮を米子城二の丸の御殿に招き、宴席の場で自ら刃を振るい、だまし討ちの形で彼を殺害したのである 3 。
この暴挙に対し、村詮の子・主馬助や、村詮と親交のあった剣豪・柳生宗章ら横田一族とその与党は激しく抵抗。米子城の出丸である飯山(采女丸)や内膳丸に立て籠もり、城内で壮絶な戦闘が繰り広げられた 30 。事態を収拾できなかった一忠は、隣国・出雲松江藩主の堀尾吉晴に援軍を要請。堀尾軍の加勢によって、翌十五日、反乱はようやく鎮圧された。この一連の事件は「米子城騒動」と呼ばれ、多くの死者を出す悲劇となった。
ユーザーが当初想定していたであろう「米子城の戦い」―すなわち、城内での策略、戦闘、そして死―という要素は、皮肉にも1600年の無血開城ではなく、この1603年の「米子城騒動」にこそ、その全てが含まれていた。関ヶ原の戦後処理によって急遽成立した、地盤の脆弱な新体制の内部矛盾が噴出したこの事件は、1600年の静かなる城の明け渡しがもたらした、間接的ではあるが、極めて血生臭い結末であったと言えるだろう。
結論:戦わずして決した城の行く末 ― 戦国終焉の一断面
慶長五年(1600年)の「米子城の戦い」を巡る調査は、この出来事が城をめぐる物理的な攻防ではなく、関ヶ原という巨大な政治変動の余波が、一地方の城の運命を決定した政治的事件であったことを明らかにした。それは、戦国乱世の終焉と、徳川による新たな天下秩序の確立を象徴する、静かなる、しかし決定的な支配権の移譲であった。
この歴史劇の中心にいたのは、城主・吉川広家である。彼の決断は、西軍総大将という汚名を着せられた毛利家を滅亡の淵から救った。しかしその代償として、自らが理想の拠点として心血を注いだ米子城を、戦わずして明け渡すという苦渋の選択を余儀なくされた。この行動は、一個人の武勇や名誉よりも、組織を存続させるための冷徹な政治的判断が優先される、新たな時代の到来を告げるものであった。広家は、戦国武将としての矜持と、近世大名としての現実主義との狭間で、極めて困難な舵取りを行ったのである。
米子城の無血開城は、徳川家康による新たな天下の秩序が、遠く山陰の地にまで、いかに迅速かつ強制的に及んだかを示す動かぬ証左である。そして、その後に続いた新領主・中村氏の入封と、悲劇的な結末を迎えた「米子城騒動」は、新たな秩序が盤石なものとなるまでには、なおも多くの血と混乱を必要とした、時代の過渡期的な性格を鮮明に物語っている。
総じて、1600年の米子城をめぐる一連の出来事は、単なる一城の帰趨に留まらない。それは、吉川広家の苦悩と決断、関ヶ原の戦いにおける情報戦の重要性、そして中央の政変が地方に与える甚大な影響という、多層的な要素が絡み合った、戦国終焉の一断面である。戦火を交えずに主を変えたこの城の物語は、歴史が武力のみによって動くのではなく、時に水面下の政治交渉によって、より決定的に動かされるという真実を、我々に静かに語りかけている。
引用文献
- 幻の一大決戦!秀吉vs毛利 ~真説「鳥取城の戦い」~を巡る https://www.torican.jp/feature/eiyu-sentaku-tottorijou
- 米子城のここがすごい! 一史跡とまちづくりー https://www.city.yonago.lg.jp/secure/23896/siryou3.pdf
- 米子城について – 米子城公式ホームページ https://yonagocastle.com/about/
- 米子城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/142/memo/2031.html
- 米子城の歴史 https://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm
- 米子高専 知的セミナー:米子城を探る① 日本の城と米子城の歴史 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1NpZzrk_x6U&pp=0gcJCdgAo7VqN5tD
- 米子城の年表 - 米子歴史浪漫プロジェクト http://www.ydpro.net/history.html
- 第3章 米子城の概要 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/31030/3.pdf
- 米子城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%AD%90%E5%9F%8E
- 二の丸などが 国史跡に指定されました - 現在、建物は失われていますが、石垣などは往時 の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山 - 米子市 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/5799/yonago_castle_pamphlet.pdf
- 米子城|伯耆国古城跡図録 https://shiro-tan.jp/castle-yonago-yonago.html
- 二基の天守が存在した「米子城」 https://sirohoumon.secret.jp/yonagojyo.html
- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/
- 関ケ原不戦の真意は? - 岩国吉川会 - Jimdo https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E3%81%A8%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9F/
- 2つの天守を持ちながら、完成までに2度も領主が替わった米子城を旅する 鳥取県米子市 http://kadzzila.seesaa.net/article/438883211.html
- 関ヶ原の役における吉川広家の動向と不戦の密約 - 水野伍貴のブログ https://tomokimizuno.seesaa.net/article/473814652.html
- 吉川広家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6
- 小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/32499/
- 東軍 - 垂井町観光協会 https://www.tarui-kanko.jp/docs/2015080600017/file_contents/ryoumen.pdf
- 吉川広家相続~関が原直後 - 岩国市史 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images11/6.html
- 吉川広家に翻弄され、開戦に踏み切れず悩んだ「毛利秀元」(西軍) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/21643
- 亀井茲矩公の歴史 https://www.shikano-net.com/kamei/rekishi.html
- 因幡・伯耆の戦国武将たち(4)―山田重直について―/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/847157.htm
- 【伯耆国人物列伝】 祖式長好 https://shiro-tan.jp/history-so-soshiki-nagayoshi.html
- 【合戦地をゆく】「関ヶ原の戦い」前哨戦 杭瀬川の戦い(大垣市) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2MJw6ap2-jo
- 関ヶ原の戦い最後の前哨戦 杭瀬川の戦い - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト https://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%89%8D%E5%93%A8%E6%88%A6%E3%80%80%E6%9D%AD%E7%80%AC%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 矢橋藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E6%A9%8B%E8%97%A9
- 米子城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/tyugoku/yonago/yonago.html
- 中村伯耆守一忠 - 伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸たん」 https://shiro-tan.jp/history-na-nakamura-kazutada.html
- 城ぶら「米子城」!城を揺るがす、家康を激怒させた事件とは? https://favoriteslibrary-castletour.com/yonagojo/
- 絵図からみた城下町米子の空間構造の変化 https://www.ipc.shimane-u.ac.jp/geo/img/file7.pdf
- 市指定有形文化財 横田内膳墓碑及び遺品 - 米子市 https://www.city.yonago.lg.jp/33142.htm
- 米子城 内膳丸 - 伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸たん」 https://shiro-tan.jp/castle-yonago-naizenmaru.html
- 米子城跡 - 米子観光ナビ https://www.yonago-navi.jp/yonago/shitamachi/sightseeing/yonago-castle-trace/
- 柳生宗章の供養塔-恩義に殉じた知られざる柳生の剣豪-|Yuniko note https://note.com/yuniko0206/n/n0cbfd59fd31d
- 横田内膳正村詮|伯耆国人物列伝 https://shiro-tan.jp/history-y-yokota_muraaki.html
- 第3章 米子城の概要 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/32377/seibi_3.pdf
- 第2号 米子城 入門の巻 https://www.yonago-toshokan.jp/wp-content/uploads/2019/02/furusatoyonago02.pdf