結城城の戦い(1590)
天正十八年、結城城の戦いは武力衝突ではなく、結城晴朝が秀吉に恭順し、小山城を攻略。秀康を養子に迎え、家門の安泰を図った政治的勝利である。
専門家報告:天正十八年 結城城無血開城の真相
―戦わずして勝者となった名門の生存戦略―
序章:天下統一の最終局面、小田無事令伐の勃発
天正十八年(1590年)に下総国で起こったとされる「結城城の戦い」は、単独の局地的な戦闘として理解することはできない。この出来事の真相を解明するためには、まず、それが豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げ、すなわち「小田原征伐」という、日本全体の勢力図を塗り替える巨大な地殻変動の渦中で発生したという大局的な視点を持つ必要がある。
天下人・秀吉の野望と「惣無事令」
天正十五年(1587年)、九州の島津氏を屈服させ西国をほぼ平定した関白・豊臣秀吉は、その視線を東国、すなわち関東・奥羽地方へと向けた 1 。彼の構想は、もはや個別の敵対勢力を武力で討伐するという次元にはなかった。日本全土に新たな秩序を構築し、自らがその唯一無二の支配者であることを天下に知らしめることが最終目標であった。
そのための布石として、秀吉は同年十二月、関東・奥羽地方の全ての大名に対し、大名間の私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を発布した 2 。これは、領土問題の裁定権は全て関白たる秀吉にあり、豊臣政権こそが日本全土における最高統治機関であるという強烈な宣言に他ならなかった。この命令に従うことは豊臣政権への服従を意味し、これに違反する者は、単なる敵対勢力ではなく「天下への反逆者」と見なされ、全国の大名を動員した討伐の対象となることを意味していた。
名胡桃城事件―引き返せなくなった後北条氏
この新たな秩序に対し、公然と異を唱えたのが、相模国小田原城を本拠とし、関東一円に覇を唱えていた後北条氏であった。当主・北条氏直とその父・氏政は、秀吉からの再三の上洛要求を拒否し続け、独立した戦国大名としての矜持を保とうとした 3 。
決定的な亀裂が生じたのは、天正十七年(1589年)十月のことである。惣無事令によって豊臣方大名である真田昌幸の所領と定められていた上野国の名胡桃城を、北条氏の家臣である猪俣邦憲が武力で奪取するという事件が発生した 3 。これは秀吉が定めた秩序への明確な挑戦であった。秀吉はこの惣無事令違反を口実とし、同年十一月二十四日には北条氏への宣戦布告状を発し、ついに北条氏討伐の意思を固めた 3 。徳川家康は娘の督姫を氏直に嫁がせていたが、秀吉の決定に同意し、北条氏との手切れを明確にした 3 。
天正十八年(1590年)正月、空前の動員令
明けて天正十八年(1590年)正月、秀吉は西国・東国の諸大名に対し、空前の規模の軍事動員令を発した 3 。その総兵力は、実に二十一万から二十二万に達したと記録されている 2 。対する後北条氏が領国全土から動員し得た兵力は約五万六千であり、その差は歴然としていた 2 。さらに、兵の質にも大きな違いがあった。北条軍が依然として農民兵を主力としていたのに対し、秀吉の軍勢は兵農分離が進んだ専業の武士が中核を成していた 2 。
この動員は、単に小田原城を攻略するための軍事作戦に留まらなかった。全国の大名を一つの目的の下に集結させ、指揮下に置くことで、新しい時代の支配者が誰であるかを天下に見せつけるための、壮大な政治的示威行動だったのである。この圧倒的な力の奔流は、結城氏を含む関東の諸大名に対し、北条氏と運命を共にするか、それとも秀吉の新たな秩序に加わるかという、家門の存亡を賭けた究極の二者択一を容赦なく突きつけることとなった。
第一部:関東の動乱と結城氏の戦略的立ち位置
秀吉による未曾有の大軍が関東に迫る中、下総国の名門・結城氏の当主、結城晴朝は、極めて冷静かつ戦略的に自らの立ち位置を定め、行動を開始する。彼の決断は、決してその場の状況に流された日和見的なものではなく、長年にわたる関東の複雑な政治情勢の中で培われた、深謀遠慮に基づくものであった。
下総の名門・結城氏の系譜と権威
結城氏は、鎌倉時代に源頼朝の挙兵に従い、多くの武勲を挙げた結城朝光を祖とする名門武家である 5 。その家格は関東においても際立っており、室町時代には関東公方・足利持氏に反旗を翻した「結城合戦」の舞台となるなど、常に地域の歴史の中心に存在してきた 6 。この長い歴史に裏打ちされた「名門」という権威とブランドは、単なる軍事力や石高では測れない価値を持ち、後に結城家が時代の転換点を乗り越える上で極めて重要な役割を果たすことになる。
当主・結城晴朝の外交戦略―反北条連合の一翼として
第十七代当主・結城晴朝は、複雑な関東の情勢を巧みに乗りこなしてきた老練な武将であった。彼は当初、時勢に応じて北条氏寄りの姿勢を見せたこともあったが、その勢力拡大が自領の独立を脅かすようになると、明確に方針を転換する 9 。天正四年(1577年)頃には、常陸国の「鬼義重」の異名を持つ佐竹義重や、下野国の宇都宮国綱といった北関東の有力大名と強固な同盟関係を構築 9 。彼らと共に「反北条連合」の一翼を担い、北条氏の北進を阻む防波堤としての役割を果たしていた。
この同盟は単なる名目上のものではなく、天正五年には連合して北条氏政・氏照の軍勢を撃退し、天正十二年(1584年)に佐竹義重が北条氏直と下野沼尻で対陣した際には、晴朝も主力として参陣するなど、実戦を通じてその結束を固めていた 10 。晴朝の小田原征伐における迅速な行動は、この十数年にわたる一貫した反北条外交の延長線上にあり、彼の決断が長年の戦略的思考に基づいていたことを物語っている。
兄弟の明暗―北条方についた実兄・小山秀綱
晴朝の立場をさらに複雑にしていたのが、彼の出自である。彼は下野国の名門・小山高朝の子として生まれ、結城政勝の養子となって結城家を継いだ身であった 10 。その実家である小山氏は、当主である実兄・小山秀綱の代に北条氏の傘下に入っていた 9 。これにより、晴朝は家門の存続のため、血を分けた実の兄と敵対するという、戦国時代特有の非情な選択を迫られる立場にあった。この兄弟間の対立は、晴朝が小田原征伐に際して最初に行う軍事行動に、極めて象徴的な意味合いを与えることになる。
来るべき日に備え、晴朝は北条氏との全面対決が避けられないこと、そしていずれ織田信長や豊臣秀吉といった中央の巨大な権力が関東の秩序を再編することを、冷静に見越していたと考えられる。佐竹氏や宇都宮氏との同盟は、その来るべき決戦の日に備え、自らが生き残るための周到な布石だったのである。
第二部:天正十八年(1590年)春―豊臣軍の進撃と結城晴朝の決断
天正十八年(1590年)春、豊臣秀吉の号令一下、二十万を超える大軍が怒涛の如く関東へとなだれ込んだ。この歴史的な大遠征の中で、結城晴朝がどのような決断を下し、いかにして行動したのか。そのリアルタイムな動向を時系列で追うことで、「結城城の戦い」という事象の核心、すなわち、それが籠城戦ではなく、自発的な軍事貢献であったという真実が明らかになる。
【時系列①】三月~四月:怒涛の進撃と小田原城包囲網の完成
- 三月 :豊臣軍は複数の経路から関東への侵攻を開始した。前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを擁する北国勢三万五千は、碓氷峠を越えて上野国へ進撃 11 。一方、豊臣秀次、徳川家康、織田信雄らを中核とする主力軍は東海道を東進した。三月二十九日、この主力軍は箱根の要衝・山中城をわずか半日で陥落させ、北条方の度肝を抜いた 11 。この報は、関東の諸大名に豊臣軍の圧倒的な戦闘能力をまざまざと見せつける効果があった。
- 四月 :四月三日には、難攻不落を誇った小田原城に対する包囲が開始される 2 。秀吉自身は四月五日に箱根湯本の早雲寺に本陣を構え、泰然自若と指揮を執った 13 。同時に、関東各地に点在する北条方の支城群に対し、各個撃破作戦が本格的に展開されていった。この間、結城晴朝は居城である結城城にあって、戦況の推移を注意深く見極めていたと推察される。彼の長年の同盟者である佐竹義重や宇都宮国綱も、四月十六日から北条方の壬生城や鹿沼城への攻撃を開始しており 11 、晴朝もまた、行動を起こす絶好の機会を窺っていた。
【時系列②】五月:晴朝、動く―豊臣方への忠誠の証
戦況が豊臣方の圧倒的優位で推移する中、五月に入り、結城晴朝はついに動く。しかし、その軍勢が向かった先は、自らの居城を守るためではなく、北条方に与する敵を討つためであった。ここに、「結城城の戦い」が籠城戦であったという一般的な認識を覆す、決定的な事実が存在する。
- 五月中旬:小山城・榎本城の攻略 :晴朝は、同盟関係にある多賀谷氏、水谷氏、山川氏らと共に軍勢を動かし、北条方についていた実兄・小山秀綱の居城である 小山城 、そして榎本城を攻撃し、これを攻略した 5 。
- 計算された軍事行動 :この行動は、秀吉から攻撃を命じられたからではない。晴朝が自らの判断で、豊臣方への明確な忠誠の証として、また自らの軍事的能力を誇示するために行った、極めて主体的かつ戦略的な軍事貢献であった。彼は、攻められる側に回るのではなく、自ら攻める側に立つことを選んだのである。実の兄の城を攻め落とすという非情な決断は、血縁よりも家門の存続を優先するという、戦国武将としての覚悟を示すものでもあった。
この時点で、結城晴朝はもはや中立的な傍観者ではなく、豊臣方の一員として小田原征伐に参画する、能動的なプレイヤーとなっていた。彼の「戦い」は、結城城ではなく、敵地である小山城で繰り広げられた。したがって、結城城において大規模な攻防戦が行われる理由は、もはや存在しなくなっていたのである。
第三部:結城城「開城」の刻一刻―軍事行動から政治交渉へ
小山城攻略という具体的な戦功を挙げた結城晴朝の次なる一手は、軍事から政治の舞台へと移る。彼は、戦場で示した忠誠心を最大限に活用し、小田原の陣中において、結城家の未来を盤石にするための、一世一代の政治交渉に打って出る。一般に「結城城の戦い」として語られる出来事の真相は、この政治交渉の結果として行われた、戦闘を伴わない儀礼的な「開城」にあった。
【時系列③】五月下旬:小田原への参陣と秀吉への謁見
- 五月二十四日 :小山城攻略という明確な「手土産」を携え、結城晴朝は重臣の多賀谷重経と共に、小田原に布陣する秀吉の本陣へと参陣した 11 。関東の諸大名の中には、戦況を最後まで見極めようと日和見的な態度を取る者も少なくなかったが、晴朝の参陣は比較的早い時期のものであり、その主体的な行動は秀吉から高く評価されたと考えられる 14 。
- 一世一代の願い出 :秀吉に謁見した晴朝は、戦功を報告すると共に、驚くべき申し出を行った。それは、自らに嫡子がいないことを理由に、結城家の跡継ぎとして「秀吉殿の近親者を養子として迎え入れたい」というものであった 5 。これは、単に所領を安堵されるに留まらず、天下人である豊臣家と直接的な血縁関係を結ぶことで、戦国乱世の最終局面を乗り切り、家の永続を確固たるものにしようとする、究極の生存戦略であった。
【時"戦"】なぜ「戦い」と呼ばれたのか:結城城で起こったことの真相
- 武力衝突なき「開城」 :晴朝が秀吉に恭順し、その一員として戦功を挙げた時点で、結城城はもはや「敵の城」ではなく、紛れもない「味方の城」となっていた。したがって、後に結城城で起こる「開城」とは、戦闘の末の降伏や明け渡しを意味するものではない。それは、豊臣政権との交渉によって新たに結城家の当主となることが決まった 結城秀康を、新しい主君として迎え入れるために、城門を丁重に開け放つ という、祝祭的かつ儀礼的な行為であった。そこには包囲も籠城も存在せず、一兵も血を流すことのない、完全な無血での城主交代が行われたのである。
- 三者の利害の一致 :晴朝の申し出は、秀吉にとっても渡りに船であった。当時、秀吉には実子・鶴松が誕生しており、それまで養子としていた徳川家康の次男・羽柴秀康の処遇は、政治的な懸案事項となっていた 16 。晴朝の申し出は、この秀康に「関東の名門・結城家の当主」という箔を付けて処遇する絶好の機会を提供した。さらに、家康の次男を関東の要衝に配置することは、家康への牽制と懐柔を同時に行うことができるという、秀吉にとっての政治的妙手でもあった。一方の家康にとっても、自身がやや冷遇していた次男・秀康を、秀吉の命令という形で十万石の大名にすることができ、来るべき関東支配の布石ともなるため、反対する理由はなかった 18 。かくして、晴朝、秀吉、家康という三者の思惑が奇跡的に一致し、この歴史的な養子縁組が成立したのである。
以下の表は、小田原征伐全体の動向と、その中での結城晴朝の動きを対比させたものである。これにより、晴朝の行動がいかに時機を捉えたものであったかが明確に理解できる。
年月日 |
豊臣軍・関東全体の動向 |
結城晴朝の動向と結城城の状況 |
3月29日 |
山中城、半日で陥落。豊臣軍の圧倒的戦力が示される。 |
結城城にて情勢を分析・静観。 |
4月3日 |
小田原城包囲開始。北条方の主要戦力が釘付けにされる。 |
豊臣方への与力を最終決断。行動の時機を窺う。 |
5月中旬 |
浅野長政らが岩槻城を、徳川家康が江戸城などを攻略。 |
北条方の小山城・榎本城を自発的に攻撃・攻略する。 |
5月24日 |
秀吉、小田原城を見下ろす石垣山城の築城を開始。 |
小田原へ参陣し、秀吉に謁見。戦功を報告する。 |
6月~ |
鉢形城、八王子城が落城。忍城水攻めが続く。 |
秀吉に対し、秀康の養子縁組を願い出て内定を得る。 |
7月5日 |
小田原城、開城。後北条氏が滅亡する。 |
結城城にて新当主・結城秀康の受け入れ準備を進める。 |
この時系列が示す通り、結城城が戦火に晒されることは一度もなかった。晴朝の先見性と大胆な政治行動が、戦わずして家門を守り、むしろ新たな発展の礎を築くという、最良の結果を導き出したのである。
第四部:結城秀康の入城―新時代の幕開け
小田原城の開城によって戦国大名・後北条氏が滅亡し、百年にわたる関東の戦乱が一つの終焉を迎えると、結城氏には新たな時代が到来する。それは、結城晴朝の老練な政略によって迎え入れられた新当主・結城秀康を中心とする、新しい体制の幕開けであった。
【時系列④】七月以降:戦後処理と新体制の始動
- 七月五日 :約三ヶ月にわたる包囲の末、小田原城は開城。秀吉は戦の責任者として北条氏政・氏照兄弟に切腹を命じ、ここに戦国大名・後北条氏は滅亡した 2 。
- 関東仕置と徳川家康の移封 :戦後処理として、秀吉は「関東仕置」に着手する。その最大の眼目は、北条氏の旧領に関東八カ国を与え、徳川家康を東海地方から移封させることであった 12 。これは家康の力を削ぐと同時に、広大な関東の統治を任せるという、秀吉の高度な大名統制策の一環であった。これにより、関東の勢力図は根底から覆された。
- 秀康、結城家十八代当主へ :この新たな関東の秩序の中で、結城晴朝の願いは正式に認められた。徳川家康の次男であり、豊臣秀吉の養子でもあった羽柴秀康が、名門・結城家の家督を継承し、「結城秀康」が誕生した 15 。時に秀康十七歳。彼は、父・晴朝から譲られた下総結城十万一千石の大名として、新たな一歩を踏み出すことになった 15 。
結城城への入部―徳川、豊臣、そして結城を繋ぐ存在
結城秀康の結城城への入部は、盛大な儀式と共に行われたと想像される。それは単なる城主交代ではなく、旧来の関東の秩序が終焉を迎え、豊臣政権下に組み込まれた新たな時代の始まりを、地域内外に象徴する出来事であった。
秀康自身は、実父家康からは疎まれ、養父秀吉のもとでも実子の誕生により微妙な立場に置かれるなど、不遇な青年期を過ごした人物である 19 。しかし、その一方で武勇に優れ、器量の大きな人物として知られており、伏見城で秀吉の寵臣が無礼を働いた際に斬り捨てたという逸話は、彼の剛毅な性格を物語っている 17 。徳川の血を引き、豊臣の養子となり、そして関東の名門・結城の名跡を継いだ秀康は、これら三つの権威を一身に体現する、他に類を見ない存在となった。彼の存在は、新たに関東の支配者となった徳川家康の統治を安定させる上で、極めて重要な役割を果たしていくことになる。
この複雑な政治的背景を理解するために、主要な登場人物たちの立場と思惑を以下の表に整理する。
人物名 |
立場・背景 |
小田原征伐における思惑・目的 |
結城晴朝 |
結城家17代当主。反北条連合の一角。老練な戦略家。 |
北条氏の脅威を完全に排除し、豊臣政権下で家門を存続させ、安泰を図ること。 |
豊臣秀吉 |
関白。天下統一を目前にした最高権力者。 |
関東・奥羽を完全に平定し、天下統一を完成させること。養子・秀康の処遇問題を解決し、徳川家康を巧みに統制すること。 |
徳川家康 |
豊臣政権下の最大の実力者。秀康の実父。 |
秀吉への恭順姿勢を貫き、さらなる勢力拡大の機会を窺うこと。次男・秀康の将来を確保し、来るべき関東支配の布石とすること。 |
結城秀康 |
家康の次男、秀吉の養子。複雑な出自を持つ青年。 |
不遇な立場を脱し、独立した大名としての地位を確立すること。自らの武将としての道を切り開くこと。 |
小山秀綱 |
晴朝の実兄。北条方の大名。 |
北条氏と共に領地を守ること。しかし、弟の晴朝に攻められ改易となり、弟を頼ることになる 11 。 |
この養子縁組は、晴朝の卓越した政治判断が、時代の大きなうねりの中で各々の権力者の利害を巧みに結びつけた結果であった。結城秀康の入城は、結城家が徳川一門に連なる大大名家へと飛躍する、輝かしい未来への第一歩だったのである。
結論:結城城の無血開城が関東、そして結城家にもたらしたもの
天正十八年(1590年)の「結城城の戦い」と称される一連の出来事は、その実態を精査すると、武力による攻防戦ではなかったことが明らかになる。それは、時代の大きな転換点を的確に読み、先んじて行動した結城晴朝による、見事な「情報戦」であり「政略戦」であった。彼は、圧倒的な武力の前には恭順し、その中で自家の利益を最大限に引き出すという、戦国乱世の最終局面における新しい戦い方を体現したのである。
結城氏が早期に豊臣方に与したことは、下総・常陸方面における北条方の抵抗を最小限に抑え、秀吉による関東全体の平定を円滑に進める上で、少なからぬ貢献を果たした。そして、小田原征伐後に徳川家康が関東へ入府すると、徳川の次男であり豊臣の養子でもある結城秀康の存在は、新たな支配体制を安定させる上で極めて重要な楔となった。東関東の諸勢力にとって、秀康は徳川・豊臣両家の権威を背景に持つ、無視できない存在であった。
最終的に、最後まで抵抗して滅亡の道を辿った後北条氏とは対照的に、結城晴朝は戦わずして家名を存続させただけでなく、徳川家康の次男を後継者とすることで、以前よりも遥かに盤石な地位を築き上げることに成功した。この決断がなければ、結城家は他の多くの関東の国衆と同様に、改易や減封の憂き目に遭っていた可能性も否定できない。秀康の血筋は、後に関ヶ原の合戦での功績により越前六十八万石へと大加増され、江戸時代を通じて親藩の名門・越前松平家として繁栄する 15 。その全ての原点が、天正十八年における晴朝の、血を流さずに勝利を収めた政治判断にあったのである。
したがって、「結城城の戦い」は、戦国乱世における大名家の生存戦略を考察する上で、武力のみが全てではないことを示す、極めて示唆に富む好例として、後世に語り継がれるべき出来事であると言えるだろう。
引用文献
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- 小田原征伐 ~豊臣秀吉の北条氏討伐 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/odawara-seibatu.html
- 小田原征伐(オダワラセイバツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90-40546
- 連載 結城家物語 -四百年の歴史-(令和4年5月号~) | 結城市公式ホームページ https://www.city.yuki.lg.jp/kosodate-kyouiku/shougaigakushuu/column/page008200.html
- 悠久の記憶を伝える遺跡から城下町結城の繁栄へ | 観光情報 https://www.city.yuki.lg.jp/kankou/history/page000707.html
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- 徳川家康の次男、秀康が継いだ結城氏とはどんな家柄? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/995
- 武家家伝_結城氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yuki.html
- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
- 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
- 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
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- 結城家18代・結城秀康 | 観光情報 - 結城市 https://www.city.yuki.lg.jp/kankou/history/page008693.html
- 結城秀康 茨城の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/kanto-warlord/kanto-hideyasu/
- 結城秀康の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46485/
- 結城秀康 ゆうき ひでやす - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/yuuki-hideyasu
- 実は双子だった!?家康の息子・結城秀康|戦国雑貨 色艶 (水木ゆう) - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n40d7aa6b47a4
- 結城氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%B0%8F
- 徳川家康の次男・結城秀康はなぜ2代目将軍になれなかったのか? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/yukihideyasu/