縣城(延岡城)の戦い(1587)
天正十五年、日向縣城の陥落 ― 豊臣の威光、島津の退路を断つ要衝制圧の時系列全記録
序章:天下人の視線、西へ
天正14年(1586年)、日本の西端、九州は一つの巨大な勢力によって席巻されつつあった。薩摩の島津氏である。島津義久を当主とし、弟の義弘、歳久、家久という稀代の武将たちを擁した島津家は、天正6年(1578年)の耳川の戦いで豊後の名門・大友氏を、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで肥前の龍造寺氏を打ち破り、その勢威は九州全土に及ばんとしていた 1 。
この島津の圧倒的な軍事力の前に、かつての九州探題たる大友氏は滅亡の淵に立たされていた。当主・大友義統は島津軍の猛攻に抗しきれず、父である大友宗麟(義鎮)は居城の府内を追われ、豊後南部の丹生島城(臼杵城)に籠城し、最後の抵抗を試みる有様であった 1 。九州における旧勢力の灯火は、今まさに消えようとしていた。
この絶体絶命の窮状を打開すべく、大友宗麟は最後の望みを託し、海を渡った。目指すは、畿内、四国を平定し、天下統一に王手をかけていた関白・豊臣秀吉の座す大坂城である。宗麟は秀吉に臣従を誓い、その庇護下に入ることで、島津討伐の援軍を請うたのである 5 。
一方、秀吉はすでに天下人として、全国の大名に私闘を禁じる「惣無事令」を発していた。当然、九州の大友・島津両氏にも停戦を命じていたが、九州統一を目前にした島津氏がこれに従うはずもなかった 6 。島津家は秀吉の命令を事実上黙殺し、豊後への侵攻を続行した。この行動は、秀吉にとって九州出兵の絶好の口実を与えることになった。秀吉が残した「(島津が)御意に背き候処、幸の儀」という書状は、彼の戦略的意図を如実に物語っている 6 。秀吉の視線は、もはや単なる大友氏の救援に留まらず、天下統一事業の総仕上げとしての九州平定、さらにはその先に見据える大陸への野望の第一歩として、西に向けられていたのである 6 。
秀吉はまず、先遣隊として仙石秀久を軍監とし、四国の長宗我部元親・信親父子、十河存保らを豊後へと派遣した 5 。しかし、秀吉が厳命した籠城策を無視した仙石秀久の独断により、豊臣先遣隊は戸次川において島津家久の巧みな「釣り野伏せ」戦法の前に誘い出され、壊滅的な敗北を喫する。この戦いで長宗我部元親の嫡男・信親や、歴戦の勇将・十河存保が討死するという悲劇が起こった 1 。この手痛い敗戦は、もはや小規模な援軍では九州の情勢を覆せないことを天下に示し、秀吉自身による未曾有の大軍の出兵を不可避なものとしたのである。九州の地域的覇権を巡る争いは、ここに天下統一戦争の一環へと完全に組み込まれ、日向國北部の要衝・縣城(あがたじょう)の運命もまた、この巨大な歴史の潮流の中に巻き込まれていくこととなる。
第一章:未曾有の大軍、九州を呑む
戸次川での先遣隊の敗報は、秀吉の怒りと共に、彼の本腰を入れた九州征伐の号令を促した。天正15年(1587年)1月1日、秀吉は石田三成、大谷吉継、長束正家といった子飼いの奉行たちに対し、兵力25万人、兵糧30万人分、馬飼料2万頭分という、九州の諸大名が動員しうる総力を遥かに凌駕する、まさに国家事業とも言うべき規模の動員を命じた 5 。これは、島津が得意とする戦術的な勝利を、圧倒的な戦略的物量によって無力化しようとする秀吉の明確な意志の表れであった。戦は、始まる前から兵站の差で決していたのである。
秀吉が立案した九州攻略の基本戦略は、九州を二方面から挟み撃ちにする「鉗形攻勢」であった。
一方の東路軍は、秀吉の弟である豊臣秀長を総大将とし、総勢は10万から15万ともいわれる大軍団であった 6 。その陣容は、毛利輝元、小早川隆景、吉川元長といった中国地方の雄に加え、宇喜多秀家、そして軍師として名高い黒田孝高(官兵衛)ら、西国の錚々たる大名たちで構成されていた 5 。この軍団は豊前国から豊後国を経て、日向国を南下し、島津氏の支配域を東から切り崩す任を負っていた 8 。
もう一方の西路軍は、秀吉自らが率いる本隊であり、こちらも10万余の兵力を擁していた 6 。筑前国、肥後国を経由して、島津氏の本拠地である薩摩国を直接衝くことを目的としていた 8 。この豪華な武将たちの布陣は、単なる軍事力としてだけでなく、西国の大名たちに「豊臣政権の一員」として九州平定という一大事業に参加させることで、その支配体制を誇示し、確立するという高度な政治的デモンストレーションでもあった。
この豊臣軍の九州上陸と、その想像を絶する物量の情報は、島津方の陣営に大きな衝撃を与えた。天正15年3月20日、島津義久は日向の都於郡城(とのこおりじょう)に一族の将を集めて軍議を開き、苦渋の決断を下す 8 。広げすぎた戦線を縮小し、豊後に展開していた島津義弘、家久らの精鋭部隊を日向へと撤退させることを決定したのである 1 。これにより、島津軍は豊後を放棄し、大友軍の追撃を受けながらも、日向、大隅、薩摩の三国に戦力を集中させ、得意の野戦に持ち込む持久戦略へと転換せざるを得なくなった。九州統一という島津の夢は、天下人の巨大な軍事力の前に、防衛戦へとその姿を変えたのである。
第二章:日向路を南下する奔流 ― 縣城への道
天正15年3月25日、赤間関(現在の下関市)において豊臣軍の最終軍議が開かれ、秀長率いる東路軍の日向侵攻が正式に決定された 8 。これを受け、秀長軍は怒涛の如く豊後から日向へと進撃を開始した。その進路上に点在していた島津方の城砦は、10万を超える大軍を前にして、戦わずして降伏するか、あるいは城を放棄して退却するかの選択を迫られた 8 。豊臣軍の南下は、島津が構築した日向の防衛線を、内側から瞬く間に崩壊させていくプロセスであった。
この進軍の中で、豊臣軍の当面の最大目標となったのが、日向における島津方の最重要拠点、高城(たかじょう)であった。4月6日、秀長軍は高城を完全に包囲する 8 。城将・山田有信はわずか1,300の兵で籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 8 。しかし、総大将・秀長の狙いは、高城の攻略そのものよりも、この城を救援するために必ずや現れるであろう島津の本隊を殲滅することにあった。
秀長と軍監・黒田孝高は、高城を見下ろす根白坂(ねじろざか)に堅固な砦を幾重にも築き、大量の鉄砲隊を配備して、島津軍を待ち構えた 8 。これは、島津軍お得意の野戦に誘い出されるのではなく、自らが構築した陣地で敵を迎え撃つという、鉄壁の迎撃態勢であった。
そして、運命の天正15年4月17日、島津義久、義弘、家久が率いる約2万の島津本隊が高城救援のために根白坂の豊臣軍砦に夜襲を敢行した 8 。島津軍の猛攻は凄まじく、一時は豊臣軍の一部を突き崩す勢いを見せたが、宮部継潤らの奮戦と、幾重にも設けられた防御陣地、そして圧倒的な火力を誇る鉄砲隊の前に、その勢いは次第に削がれていった。この「根白坂の戦い」において、島津軍は島津忠隣をはじめとする多くの将兵を失うという壊滅的な大敗を喫し、猛将・島津義弘自身も奮戦の末に敗走を余儀なくされた 8 。
この根白坂での敗北は、日向方面における島津軍の組織的抵抗能力を事実上、完全に奪い去った。それは、縣城を含む日向北部の諸城にとって、救援の望みが絶たれたことを意味する、決定的な一戦だったのである。
表1:豊臣秀長軍の日向侵攻タイムライン(天正15年3月~4月)
日付(天正15年) |
場所 |
主要な出来事 |
関連武将 |
縣城(松尾城)への影響 |
3月20日 |
都於郡城 |
島津軍、軍議を開き豊後からの戦略的撤退を決定 8 。 |
島津義久、義弘、家久 |
防衛ラインが日向国内に後退し、縣城が豊臣軍の侵攻ルートにおける前線拠点となる可能性が高まる。 |
3月25日 |
赤間関 |
豊臣軍、軍議。秀長軍の東路(日向方面)侵攻が最終決定される 8 。 |
豊臣秀吉、秀長 |
縣城が豊臣軍の明確な攻略目標となることが確定する。 |
4月6日 |
高城 |
秀長軍、高城を包囲。同時に、後詰の島津本隊を迎え撃つため根白坂に砦を構築開始 8 。 |
豊臣秀長、黒田孝高 |
縣城の南方、日向中部の最重要拠点が包囲され、南北の連絡が遮断される危険性が増大。孤立の危機が現実味を帯びる。 |
4月17日 |
根白坂 |
根白坂の戦い 。高城救援に来た島津本隊が、豊臣軍に夜襲をかけるも大敗を喫する 8 。 |
島津義弘、宮部継潤 |
救援の望みが完全に絶たれる。島津軍の組織的抵抗が事実上終焉し、縣城の戦略的価値は抵抗拠点から降伏対象へと変化する。 |
4月18日以降 |
日向北部 |
根白坂で勝利した秀長軍が、縣城へ向けて進軍を開始。 |
蜂須賀家政、毛利輝元ら |
圧倒的な大軍が目前に迫り、物理的・心理的に完全な包囲下に置かれる。 |
4月21日 |
(日向) |
島津義久が人質を出し、豊臣秀長との和睦交渉を開始する 8 。 |
島津義久、豊臣秀長 |
島津宗家の降伏が現実のものとなり、縣城が単独で抵抗を続けることの無意味さが決定的となる。 |
第三章:縣城、運命の刻 ― リアルタイム・ドキュメント
合戦前夜の縣城
根白坂での決戦の喧騒が遠のいた頃、日向北部の縣城は、嵐の前の静けさに包まれていた。当時の縣城とは、後の高橋元種が築く石垣の城・延岡城ではなく、古くからこの地を治めた土持氏の居城であった松尾城を指す 2 。五ヶ瀬川と大瀬川が合流する地点に位置するこの城は、天然の要害に守られた堅城であった 10 。
城を守る将は、島津配下の土持久綱 16 。その名は、この地の悲劇の歴史そのものを背負っていた。土持氏は、かつて日向北部に威を誇った名族であったが、天正6年(1578年)、キリスト教の理想郷建設を目指した大友宗麟の大軍の前に滅亡の憂き目に遭う 2 。久綱ら一族の生き残りは、宿敵・大友氏を破った島津氏に仕えることで、旧領回復の悲願を託していたのである 17 。先祖代々の土地を、島津の将として守るという、数奇で皮肉な運命が、彼の双肩にのしかかっていた。
無血開城への時系列
【4月17日以降】衝撃の伝播
根白坂から逃れてきた敗残兵が、断続的に城にたどり着く。彼らがもたらす情報は、断片的でありながらも、その内容は絶望的であった。「本隊は壊滅」「忠隣様、討死」「義弘様も危うかった」。これらの報は瞬く間に城内に広がり、兵たちの士気を根底から揺るがした。島津本隊による救援という最後の望みが、音を立てて崩れ去った瞬間であった。城内では、もはや組織的な抵抗は不可能であるという空気が支配的になっていった。
【4月18日頃】大軍の接近
やがて、北の山々の向こうから、陽光を反射してきらめく無数の槍先と、地響きのような進軍の音が近づいてくる。豊臣秀長軍の先鋒部隊が、縣城周辺への展開を開始したのである。その総勢は9万ともいわれ、城を幾重にも包囲する様は、まるで大地を埋め尽くす鉄の奔流であった 16。その軍勢の中には、毛利輝元、小早川隆景、黒田孝高といった、当代一流の武将たちの旗印が翻っていた 5。物見櫓からその光景を目の当たりにした城兵たちが、戦意を喪失するのに時間はかからなかった。それは「合戦」の気配ではなく、抗うこと自体が無意味であると悟らせる、絶対的な力の誇示であった。
【4月下旬】完全なる孤立と決断
城主・土持久綱は、評定の間で重臣たちと向き合っていた。南の最重要拠点・高城は包囲下にあり、救援に向かった本隊は壊滅した。北や西からの援軍など、もはや望むべくもない。縣城は、九州の地図の上で、敵軍の海に浮かぶ孤島と化していた。
そこへ、決定的な情報がもたらされる。当主・島津義久が、秀長に人質を送り、和睦の交渉を開始したというのである 8 。宗家が降伏へと舵を切った今、一個の支城が抵抗を続けることに、もはや何の意義も見いだせない。それは無駄な死を招くだけの、無益な行為であった。
久綱は決断を下した。開城である。それは臆病からの逃避ではなく、城兵と、戦火に怯える領民の命を救うための、指揮官としての最も合理的かつ苦渋に満ちた選択であった。一族の再興を夢見て島津に仕え、ようやく取り戻した故郷の城を、自らの手で戦わずして明け渡す。その胸中は、察するに余りあるものがあっただろう。
【4月下旬】開城
縣城(松尾城)の城門は、静かに開かれた。一切の矢も放たれず、一人の血も流れることなく、城は豊臣軍の手に渡った。歴史に記録された「縣城の戦い」とは、物理的な戦闘を伴う合戦ではなかった。それは、情報戦、心理戦、そして圧倒的な兵站戦の前に、抵抗という選択肢そのものが消滅した「制圧」だったのである。
第四章:戦後処理と新たな秩序
縣城の無血開城と時を同じくして、九州全土の戦局は最終段階を迎えていた。根白坂での決定的敗北に加え、秀吉自らが率いる本隊が薩摩国に迫る中、天正15年5月、島津義久は泰平寺にて秀吉に降伏し、ここに九州平定は完了した 8 。最後まで徹底抗戦を主張した猛将・義弘も、兄の決断に従い、ここに九州における戦国の世は事実上の終焉を迎えたのである 5 。
同年6月7日、秀吉は筑前箱崎に陣を構え、九州の新たな支配体制を定める「九州国分(仕置)」を発表した 8 。この戦後処理において、縣の地は新たな領主を迎えることとなる。日向国縣(延岡)と宮崎の地は、高橋元種に5万3,000石の所領として与えられたのである 5 。
この人事は、秀吉の巧みな大名統制術を象徴するものであった。高橋元種は、筑前の有力大名であった秋月種実の次男である 21 。秋月氏は島津方に与した主要勢力の一つであったが、秀吉軍の侵攻が始まると、その支城である岩石城が蒲生氏郷らの猛攻によりわずか一日で陥落 8 。これに衝撃を受けた父・種実は、早々に秀吉に降伏していた 8 。秀吉は、迅速に降伏した元種の父の判断を評価し、その子に新たな領地を与えることで、「早く降伏すれば有利になる」という前例を他の大名たちに示したのである。同時に、筑前という旧来の地盤から秋月・高橋一族を切り離し、縁もゆかりもない日向へ移封することで、在地勢力としての力を削ぎ、豊臣政権に従順な大名として再配置するという、高度な政治的計算が働いていた。
開城後、歴史の表舞台から姿を消した土持氏に代わり、縣の新たな領主となった高橋元種は、慶長年間(1601年~1603年頃)に入ると、土持氏の松尾城があった場所に、壮麗な石垣などを備えた本格的な近世城郭の築城に着手する 10 。これが、現在にその名を残す「縣城」、後の「延岡城」である。敵の侵入を防ぐために築かれ、礎石を外すと崩れ落ちるという伝説を持つ「千人殺しの石垣」も、この時に築かれたものであった 22 。天正15年の無血開城は、中世以来この地を支配した土持氏の時代の終わりを告げると共に、近世城下町・延岡の誕生へと繋がる、歴史の大きな転換点となったのである。
結論:縣城の戦いが示すもの
天正15年(1587年)の「縣城の戦い」は、その名に反し、実際には戦闘が行われなかった。この事実は、本件を理解する上で最も重要な核心である。それは、豊臣秀吉が展開した戦争が、個々の戦術的勝利を積み重ねる旧来の戦国時代の合戦とは、次元を異にするものであったことを明確に示している。
第一に、これは「戦わずして勝つ」という、孫子の兵法を地で行く典型例であった。根白坂における決戦での軍事的勝利と、それを前提とした圧倒的な物量による戦略的包囲網は、縣城から抵抗という選択肢そのものを奪い去った。城主・土持久綱の開城は、敗北ではなく、巨大な権力の前に下された合理的な判断だったのである。
第二に、この出来事は九州における戦国時代の真の終焉を象徴している。九州統一まであと一歩に迫った島津氏のような強大な地域権力でさえ、天下人の動員する国家規模の軍事力と兵站の前には無力であった。戦後の九州国分において、高橋元種のような旧敵対勢力の子息が、故郷から遠く離れた縣の領主として配置されたことは、土地と領主の有機的な結びつきが断ち切られ、すべての大名が豊臣政権という中央集権的なピラミッドの一角に組み込まれる新秩序の到来を告げるものであった。
最後に、縣城の無血開城は、この地域の歴史における決定的な転換点であった。中世以来、日向北部に根を張ってきた土持氏の時代は完全に終わりを告げ、代わって入部した高橋元種によって近世城郭としての延岡城とその城下町の礎が築かれた。単なる一つの城の明け渡しではなく、地域の歴史が中世から近世へと、新たなステージに移行する画期的な瞬間だったのである。かくして縣城の戦いは、火花を散らす戦闘の記録としてではなく、巨大な力の奔流が、戦わずして一つの時代を終わらせた静かなる証人として、歴史にその名を刻んでいる。
引用文献
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- 島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/03/07/155220
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- 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
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- 【宮崎県のお城/飫肥城・延岡城・佐土原城・都於郡城】伊東氏と島津氏の激闘と、九州を代表する戦国大名ゆかりの城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1802
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- 天正六年 四月 土持氏滅亡し、大友勢 日向国北部を ... - 佐土原城 遠侍間 http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo4.htm
- 【島津軍団、肥後、日向に進攻】「日向に於ける戦い」(中) | こじ http://zx2hsgw.blog.fc2.com/blog-entry-2634.html
- 血筋絶やさん土持氏 その③|平井俊徳 - note https://note.com/kucky918/n/n3122eb3bc0fc
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- 観光スポット紹介「延岡地域」延岡城跡・城山公園 - 延岡市公式ホームページ https://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/site/miryoku/1288.html
- 延岡城跡・城山公園 | 観光スポット | 宮崎県公式観光サイト「みやざき観光ナビ」 https://www.kanko-miyazaki.jp/spot/1107
- 延岡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E5%9F%8E