最終更新日 2025-09-03

置塩城の戦い(1577)

天正五年、羽柴秀吉は播磨平定のため置塩城を攻めた。黒田官兵衛の仲介と上月城の悲劇を背景に、赤松則房は無血開城。秀吉は戦わずして播磨最大級の堅城を手に入れ、中国攻めの足がかりとした。
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天正五年、置塩城の無血開城:羽柴秀吉の播磨平定における戦略的勝利の考察

第一章:序論 ― 「置塩城の戦い」の実像と本報告書の視座

天正5年(1577年)に播磨国で起きた「置塩城の戦い」は、しばしば「赤松氏の本拠を掃討」した合戦として認識される。しかし、史料を詳細に分析すると、そこには大規模な攻城戦や野戦の記録は見当たらず、むしろ播磨の名門守護・赤松氏が、織田信長の中国方面軍総司令官である羽柴秀吉に対し、戦わずして降伏したという事実が浮かび上がる 1 。本報告書は、この通説と史実の間の乖離を調査の出発点とし、「なぜ播磨最大級の堅城であった置塩城で戦闘が起きなかったのか」という問いを解明することを目的とする。

したがって、本報告書における「戦い」とは、刀槍を交える物理的な戦闘ではなく、羽柴秀吉が展開した圧倒的な軍事力を背景とする政治的圧力、巧みな外交交渉、そして敵対勢力の心理を突いた戦略的駆け引きの総体を指す。秀吉の勝利は、城壁を打ち破ることによってではなく、敵将の戦意を砕くことによってもたらされたのである。

この出来事を理解するためには、天正5年という時代背景の把握が不可欠である。この年、織田信長は近畿一円をほぼ手中に収め、安土城の築城に着手するなど、その権勢は頂点に達しつつあった 4 。そして、次なる目標として西国の雄・毛利輝元が支配する中国地方に照準を合わせ、「中国攻め」を発令した 6 。羽柴秀吉の播磨派遣は、この壮大な天下統一事業の第一歩であり、播磨平定はその成否を占う重要な前哨戦であった。

「置塩城の戦い」という呼称が定着している背景には、この一連の軍事行動が「中国攻め」という大きな戦争の一部であったことが挙げられる。大規模な軍事作戦内において、一地方の最重要拠点が支配下に入るという戦略的に決定的な出来事は、たとえ直接的な戦闘がなくとも「戦い」として記録され、後世に伝えられることがある。置塩城の無血開城は、秀吉にとって一大合戦に勝利したに等しい戦略的成果であり、その本質は、武力と知略を融合させた近代的な征服戦の萌芽であった。

第二章:天正五年の播磨国 ― 織田と毛利、二大勢力の狭間で

天正年間、播磨国は日本の地政学上、極めて重要な位置を占めていた。東に織田信長、西に毛利輝元という二大勢力が睨み合う最前線であり、その動向は天下の趨勢を左右する緩衝地帯であった 6 。信長が中国地方へ進出するためには播磨の掌握が絶対条件であり、毛利にとっては織田勢の西進を阻む防波堤として、その戦略的価値は計り知れないものがあった。

かつて播磨国は、室町幕府の四職に数えられた名門・赤松氏が守護として君臨していた。しかし、戦国時代の動乱の中でその権威は大きく揺らぎ、天正5年頃には、惣領家当主・赤松則房の支配が及ぶのは播磨北部に限定されるなど、往時の勢いを完全に失っていた 9 。この権力の空白は、播磨国内における国人衆の台頭を促し、複雑な政治情勢を生み出す要因となった。

当時の播磨は、統一された権力主体が存在しない、群雄割拠の様相を呈していた。東播磨には三木城を拠点とする別所氏が、中播磨には御着城の小寺氏が、そして西播磨には龍野赤松氏や上月城の赤松政範など、多くの国人領主が割拠し、それぞれが独自の勢力を保持していた 10 。彼らは互いに連携・対立を繰り返し、播磨の政治地図は常に流動的であった。

このような状況下で、羽柴秀吉率いる織田の大軍が播磨に侵攻してきた。播磨の国人衆は、否応なく究極の選択を迫られることとなる。すなわち、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長に服属するのか、それとも長らく西国の覇者として君臨してきた毛利輝元に与するのか 12 。この決断は、一族の存亡を賭けた重大な岐路であった。

播磨が統一された勢力下に置かれていれば、秀吉は強力な抵抗に直面したであろう。しかし、現実には国人衆が分裂し、互いに牽制しあう状況にあった。これこそが、秀吉が巧みに利用した播磨の最大の脆弱性であった。秀吉は、正面から全ての勢力と戦うのではなく、各個撃破と外交交渉を組み合わせる「分割統治」戦略を採用した。特に、旧守護家としての権威は失墜していたとはいえ、名目上の盟主であった赤松氏の弱体化は、播磨国人衆の結束を阻み、秀吉の調略が功を奏する土壌を提供したのである。播磨平定は、純粋な軍事侵攻というよりも、外部勢力が現地の内部分裂を利用して主導権を握っていく政治的再編のプロセスであったと言える。

第三章:盤上の主要人物 ― 交錯する三者の思惑

置塩城の無血開城という結末は、三人の主要人物の思惑が複雑に絡み合った結果であった。それぞれの立場と動機を理解することが、事件の真相を解き明かす鍵となる。

赤松則房:没落する名門の当主

後期赤松氏最後の惣領家当主である赤松則房は、極めて困難な立場に置かれていた。父・義祐との不和の末に家督を継いだともされ、その権力基盤は脆弱であった 9 。かつて播磨・備前・美作の三国を領した赤松氏の栄光は過去のものとなり、その支配力は限定的で、もはや守護としての実権をほとんど失っていた 9 。彼の最大の関心事は、武将としての覇権争いではなく、いかにして「赤松」という名跡を存続させるかという点にあったと考えられる。圧倒的な織田軍を前に、勝ち目のない籠城戦で一族の歴史を終わらせるよりも、降伏という現実的な選択肢によって家名を保つことが、彼にとっての最優先課題であった。

羽柴秀吉:野心に燃える方面軍司令官

一方、織田信長から中国攻めの総大将という重責を任された羽柴秀吉にとって、播磨での長期戦は絶対に避けなければならない事態であった 6 。播磨平定は、あくまで毛利本領へ侵攻するための足掛かりに過ぎない。ここで兵力と時間を消耗することは、作戦全体の遅滞を意味する。そのため、秀吉の戦略は、無用な戦闘を極力避け、調略と威嚇によって迅速に播磨を支配下に置くことに主眼が置かれていた 13 。彼は兵站の重要性を熟知しており、効率的な征服を何よりも重視する現実主義者であった 14 。置塩城のような堅城を力攻めにするのは、彼にとって最後の手段でしかなかった。

黒田官兵衛(孝高):未来を見据える在地戦略家

この両者の間を繋ぎ、無血開城というシナリオを実現させたのが、小寺氏の家老であり、姫路城主であった黒田官兵衛である。官兵衛は、播磨の在地領主でありながら、天下の情勢を冷静に分析し、いち早く織田信長の将来性を見抜いていた 12 。彼は主君である小寺政職を説得して織田方に恭順させると、自らの居城である姫路城を秀吉の拠点として提供するという破格の申し出を行った 4 。これにより、官兵衛は秀吉の絶対的な信頼を得るとともに、播磨国人衆と秀吉軍との間の重要な仲介役となった。播磨の内部事情に精通した彼の存在なくして、秀吉の迅速な誘降工作は不可能であった 19

結局のところ、置塩城の運命は、この三者の利害が奇妙に一致したことで決定づけられた。則房の「弱さ」が交渉の余地を生み、秀吉の「野心」が迅速な解決を求め、そして官兵衛の「知略」がその両者をつなぐ道筋をつけた。官兵衛がいなければ、秀吉は播磨の国人衆をまとめ上げるのに多大な労力を要したであろう。則房が徹底抗戦の意思を持っていれば、たとえ官兵衛の説得があっても、血が流れる事態は避けられなかったかもしれない。この三者の相互作用こそが、「戦わずして勝つ」という稀有な結末を生み出したのである。

第四章:播磨の巨城・置塩城 ― 戦国山城の威容と構造

羽柴秀吉が力攻めを躊躇し、赤松則房が最後の拠り所とした置塩城は、当時の日本において最大級の規模と機能性を誇る山城であった。その構造を理解することは、なぜこの城が戦わずして降伏の切り札となり得たのかを考察する上で不可欠である。

規模と構造

置塩城は、姫路市北部の標高370メートルの城山山頂から尾根にかけて築かれた広大な城郭である 1 。城内は、最高所に位置する「本丸」、政治・居住空間の中心であった「二の丸」、そして「三の丸」といった主要な曲輪群で構成され、それらが土塁、石垣、堀切、そして急峻な斜面を削り出した切岸によって有機的に連結されていた 21 。その縄張り(城の設計)は複雑かつ堅固であり、容易に攻め落とせる城ではなかった。

戦闘拠点と政庁・邸宅機能の融合

発掘調査により、置塩城が単なる軍事要塞ではなかったことが明らかになっている。城内で最も広い区画である二の丸跡からは、大規模な礎石建物の跡や、格式の高い屋敷の存在を示す築地塀の基礎が発見された 21 。さらに、枯山水の庭園跡や茶室跡と伝わる区画も確認されており、山上でありながら雅な文化的生活が営まれていたことが窺える 21 。本丸跡からは瓦の破片が多数出土しており、瓦葺きの壮麗な建物が存在したことを示唆している 21 。これらの発見は、置塩城が赤松氏の政庁であり、家臣団が居住する城下町的な機能をも山上に備えた、複合的な拠点であったことを物語っている。

置塩城の戦略的パラドックス

この城の持つ二面性、すなわち「堅固な要塞」としての側面と、「華麗な文化・政治の中心」としての側面が、皮肉な形でその運命を決定づけた。

秀吉にとって、この城を武力で攻略することは、多大な時間と兵力、そして兵站の負担を強いる非効率な選択であった。彼の目的は城の破壊ではなく、播磨の支配であり、無傷の置塩城を手に入れることは、その後の統治においても有利に働いた。

一方、城主である赤松則房にとって、置塩城は赤松家百年の権威と栄光を象徴する最後の砦であった。もし籠城して徹底抗戦すれば、この壮麗な城郭が焦土と化すことは避けられない。一族のレガシーそのものである城を、勝ち目のない戦いで失うことは、彼にとって降伏以上の敗北を意味したであろう。

このように、置塩城の堅固さと文化的価値は、逆説的に戦闘を回避させる要因として機能した。則房にとって、この城は戦うための武器ではなく、交渉のための最大の「切り札」だったのである。秀吉が攻撃をためらうほどの価値を持つ城を平和的に明け渡すことこそが、則房が自らの一族の存続を勝ち取るための唯一にして最良の手段であった。城の持つ戦略的価値が、当事者双方に戦闘を回避させるインセンティブを与えた結果、無血開城という結末が導かれたのである。

第五章:播磨平定のリアルタイム・クロノロジー(天正五年十月~十二月)

置塩城の無血開城は、単独で発生した出来事ではない。天正5年10月から12月にかけて、羽柴秀吉が播磨全域で展開した、軍事・外交両面にわたる緻密な作戦のクライマックスであった。その時系列を追うことで、赤松則房が降伏に至るまでのリアルタイムな情勢変化を浮き彫りにする。

  • 天正5年(1577年)10月下旬:秀吉、播磨入り
    10月23日頃、羽柴秀吉は信長の命を受け、京都を出立した 17。播磨に入ると、彼は黒田官兵衛が提供した姫路城を拠点として確保する 7。これは秀吉にとって計り知れない戦略的利点となった。在地に強力な足場を得た秀吉は、官兵衛の案内と仲介のもと、直ちに播磨各地の国人衆への誘降工作を開始した。服属の証として人質を要求し、織田家の威光を示すことで、国人たちの心理を揺さぶった。
  • 同年11月上旬:外交圧力の浸透
    秀吉の迅速な行動と官兵衛の説得は、早くも効果を現し始めた。官兵衛の主君である小寺政職をはじめ、旧守護家の赤松則房もこの段階で恭順の意向を固めつつあった 7。東播磨の雄、別所長治も当初は織田方への協力を約束している 11。秀吉は播磨の大部分が靡いたと見るや、一度北方の但馬国へ兵を進め、岩洲城・竹田城を攻略。これにより背後の安全を確保し、播磨平定に専念できる体制を整えた 7。
  • 同年11月下旬~12月初旬:上月城の悲劇 ― 「見せしめ」としての殲滅戦
    播磨の国人衆が次々と秀吉に恭順する中、西播磨の国境地帯に位置する上月城の城主・赤松政範(則房の同族)は、毛利氏・宇喜多氏との連携を頼み、秀吉への抵抗を選択した 7。秀吉はこれを、播磨における反抗勢力の芽を摘み、自らの力を内外に示す絶好の機会と捉えた。

    11月27日、秀吉軍は上月城を包囲 7。毛利からの援軍を巧みに撃退しつつ、猛攻を加えた。そしてわずか一週間後の12月3日、上月城は陥落する。城主・赤松政範は自害。秀吉はここで、播磨全土を震撼させる決断を下す。彼は城兵の降伏を一切認めず、女子供に至るまでことごとく処刑したのである 7。この徹底した殲滅戦は、秀吉に逆らう者がどのような運命を辿るかを、最も残酷な形で示すための計算され尽くしたパフォーマンスであった。
  • 同年12月上旬:置塩城、無血開城
    上月城の悲報は、瞬く間に播磨中を駆け巡った。赤松則房にとって、同族が籠る城が、援軍も及ばず一瞬で蹂躙され、その末に待っていた無慈悲な結末は、想像を絶する恐怖であったに違いない。抵抗の意思は完全に打ち砕かれた。上月城の惨劇は、秀吉の要求を拒否した場合の未来を具体的に、そして明確に突きつけていた。則房は直ちに置塩城を明け渡し、秀吉に完全降伏した。こうして、播磨最大級の山城は一滴の血も流すことなく、秀吉の手に渡ったのである。

以下の時系列表は、この約二ヶ月間の出来事をまとめたものである。

年月日(天正5年)

羽柴秀吉軍の動向

赤松則房および置塩城の状況

播磨国内の主要な出来事

10月23日頃

京都を出発、播磨へ向かう

秀吉の来訪を前に、織田方か毛利方かの最終判断を迫られる

黒田官兵衛、姫路城を秀吉の拠点として提供

10月下旬

姫路城着陣。黒田官兵衛らを通じ、播磨国人衆への誘降を開始

秀吉からの使者を受け、恭順の意向を固め始める

小寺政職など、多くの国人が秀吉に人質を提出

11月上旬

但馬国の岩洲城、竹田城を攻略し、側面を固める

(情報収集と情勢分析)

別所長治も当初は織田方に協力姿勢を示す

11月27日

抵抗する赤松政範の上月城を包囲開始

上月城の動向を注視。自らの決断の正当性を確認

西播磨の赤松政範が毛利・宇喜多と結び、秀吉に徹底抗戦

12月3日

上月城を陥落させ、城主・政範は自害。城兵・家族を処刑

上月城の悲報を受け、完全な無抵抗・恭順を最終決定

上月城の陥落により、播磨における反織田勢力は壊滅

12月上旬

置塩城の降伏を正式に受理。西播磨を完全に掌握

城を明け渡し、秀吉の指揮下に入る。事実上の「無血開城」

秀吉、わずか2ヶ月足らずで播磨一国をほぼ手中に収める

第六章:置塩城の終焉と赤松氏のその後

置塩城の無血開城は、赤松氏の家名を存続させたが、城そのものの運命を保証するものではなかった。むしろ、その降伏は、播磨における新たな権力構造の始まりを告げるものであり、置塩城と赤松氏の双方にとって、栄光の時代の終わりを意味していた。

城割令と置塩城の解体

播磨を平定した秀吉は、天正8年(1580年)、国内の統制を強化するため「城割(しろわり)」を命じた 1 。これは、国人衆の軍事拠点を破却させ、反乱の芽を摘むと同時に、支配体制を中央集権的なものへと再編する政治的意図があった。播磨における旧来の権威の象徴であった置塩城も、この城割令の対象となり、廃城が決定された。かつて播磨に君臨した名城は、新たな支配者の手によってその歴史に幕を閉じることとなったのである。

姫路城への転用 ― 権威の吸収と再構築

置塩城の終焉は、単なる破壊ではなかった。伝承によれば、解体された置塩城の部材、すなわち壮麗な建物の木材や堅固な石垣の石材は、秀吉が新たな播磨支配の拠点として大改修を進めていた姫路城へと運ばれ、再利用されたという 1 。特に、現在の姫路城に残る「との一門」は、置塩城から移築されたものだと伝えられている 1 。この行為は、極めて象徴的である。秀吉は、旧権力(赤松氏)の物理的な象徴(置塩城)を解体し、その構成要素を新権力(秀吉)の象徴(姫路城)へと吸収させた。これは、単なる資材の再利用に留まらず、播磨における支配の正統性が赤松氏から秀吉へと完全に移行したことを、視覚的に天下に示す政治的パフォーマンスであった。古い権威は、文字通り新しい権威の礎となったのである。

赤松氏の流転

一方、城主であった赤松則房は、降伏によって命を繋ぎ、秀吉の家臣として仕えることとなった 2 。彼は賤ヶ岳の戦いや四国攻めなどに参陣し、武功を挙げた。その功により、天正13年(1585年)、故郷の播磨から遠く離れた阿波国住吉(現在の徳島県)に1万石の所領を与えられ、移封された 9 。これにより、播磨守護として長きにわたり君臨した赤松惣領家は、その本拠地を完全に失った。則房の最期については諸説あり、定かではない 32 。その子・則英は関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗戦後に自害 33 。ここに、戦国大名としての赤松氏は名実ともに終焉を迎えた。則房の降伏という決断は、一族の血脈を一時的に保つことには成功したが、かつての栄華を取り戻すには至らなかった。

第七章:結論 ― 「置塩城の戦い」が示す秀吉の戦略の本質

天正5年(1577年)の「置塩城の戦い」は、その名に反して、大規模な戦闘が行われなかった点で特異な事例である。しかし、その内実を詳細に分析すると、羽柴秀吉という武将の戦略的本質、そして彼が後の天下統一事業で繰り返し用いることになる勝利の方程式の原型が見えてくる。この出来事は、力攻めによらない「戦略的勝利」の典型例であった。

秀吉が播磨平定で用いた手法は、後に彼の代名詞となる「飴と鞭」の巧みな使い分けに集約される。

  • 鞭(Muchi): 上月城の殲滅戦は、秀吉が敵対者に見せつけた容赦ない「鞭」であった。抵抗すれば、家臣や家族、そして自らの命に至るまで、全てを失うという恐怖を播磨全土に植え付けた 7 。これは、単なる戦術的勝利ではなく、敵の戦意そのものを根底から破壊する心理戦であった。
  • 飴(Ame): 一方で、黒田官兵衛のような在地有力者を通じた柔軟な外交交渉と、恭順の意を示した者への寛大な処置は、巧みな「飴」として機能した。赤松則房は、城と領地を失ったものの、家名の存続と一定の知行を保証された 2 。この「鞭」の恐怖と「飴」の魅力の間に置かれた播磨の国人衆にとって、選択肢は事実上、降伏以外には残されていなかった。

置塩城の無血開城は、この戦略が見事に結実した瞬間であった。秀吉は、播磨最大級の堅城を、一人の兵も失うことなく手中に収めた。これは、彼の軍事力、兵站管理能力、そして何よりも人間心理を深く理解した上での知略が融合した結果である。

天正5年の播磨平定の成功は、単なる一地方の征服に留まらない。それは、後の鳥取城における兵糧攻め(渇え殺し)や、備中高松城の水攻めなど、秀吉が天下統一の過程で展開する数々の独創的な戦術の試金石となった。武力で敵を殲滅するのではなく、戦略と調略によって敵を屈服させ、最小限のコストで最大限の成果を上げる。この効率性を極めたアプローチこそが、秀吉を信長の後継者として天下人の地位に押し上げた原動力であった。戦われなかった「置塩城の戦い」は、羽柴秀吉という類稀なる戦略家の台頭を天下に告げる、静かな、しかし決定的な号砲だったのである。

引用文献

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