最終更新日 2025-09-07

能島城の戦い(1586)

天正十四年「能島城の戦い」は、秀吉による能島村上氏の解体過程を指す。秀吉は村上三家を分断し、無血開城と海賊停止令で海の支配を奪い、陸の論理に組み込んだ。海の独立勢力が終焉した戦いである。

能島城の攻防:天正十三年、海の大名の終焉

序論:「1586年の戦い」という問いの再定義

天正十四年(1586年)における「能島城の戦い」という特定の軍事衝突について、歴史的記録は沈黙している。しかし、この問いの核心は、瀬戸内海に覇を唱えた能島村上氏が、いかにしてその本拠地を失い、独立した権力としての地位を終焉させたのかという点にある。その意味において、「能島城の戦い」は1586年という単一の時点に限定されるものではなく、天正十年(1582年)頃から天正十六年(1588年)に至る、豊臣秀吉による一連の戦略的・政治的 subjugation の過程そのものを指す。

本報告書は、この過程を一つの広義の「戦い」と捉え、その全貌を時系列に沿って詳細に解明することを目的とする。具体的には、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による四国平定に伴う能島城の明け渡しをクライマックスとし 1 、その前史となる村上三家の内部分裂、そして後史となる「海賊停止令」による法的解体までを射程に収める。

特に天正十四年(1586年)という年は、この歴史的転換点を理解する上で極めて重要な意味を持つ。城が明け渡された直後、イエズス会宣教師ルイス・フロイスがこの海域を通過し、能島村上氏の依然として強大な影響力を記録しているからである 4 。政治的には降伏しながらも、その実質的な海上支配力はなお健在であったというこの歴史的皮肉は、能島村上氏の権力の本質と、秀吉が彼らを解体するためにいかに周到な手段を講じたかを浮き彫りにする。フロイスの証言は、城主村上武吉が本拠を去った後も、その組織とシステムがいかに強力に機能し続けていたかを示す貴重な断片である。それは、秀吉がなぜ単なる城の接収に留まらず、天正十六年(1588年)の「海賊停止令」という法的措置によって、彼らの存在基盤そのものを根絶やしにする必要があったのかを物語っている。

したがって、本報告書は「能島城の戦い」を、単なる軍事衝突ではなく、中世的な海の独立権力が、近世的な中央集権体制に飲み込まれていく時代の転換点を象徴する一連の出来事として、多角的に分析・再構築するものである。

第一章: 瀬戸内海の覇者「能島村上氏」の実像

能島村上氏を単なる「海賊」という言葉で理解することは、その実態を見誤らせる。彼らは、理不尽な略奪を生業とする集団ではなく、瀬戸内海の海上交通に秩序をもたらし、その対価として経済的・政治的権力を確立した「海の大名」と呼ぶべき存在であった 7

海の安全保障と経済基盤

彼らの権力基盤は、暴力的な略奪ではなく、「海の安全保障」という高度なサービス提供にあった 8 。芸予諸島の複雑な潮流は、古来より航海の難所として知られ、最大10ノット(時速約18km)にも達する激流は、航行者を絶えず危険に晒していた 8 。能島村上氏は、この海域に関する卓越した知識と操船技術を背景に、航行する船舶の安全を保障した。

その対価として徴収されたのが「駄別料(だべつりょう)」あるいは「過所銭(かしょせん)」と呼ばれる通行料である 7 。これを支払った船には、村上氏の紋章が入った「過所船旗(かしょせんき)」が与えられ、彼らの支配海域内での安全が保証された 4 。また、水先案内人として村上氏の者を船に乗せる「上乗り」という制度も存在した 4 。このシステムは、大名や商人にとって、予測不能な危険を回避し、安定した交易を行う上で不可欠なものであった。

彼らの経済活動を支えたのが、陸の諸大名の領国内に認められた「札浦(ふだうら)」と呼ばれる特定の港の存在である 7 。能島村上氏は、これらの港を拠点として通行料を徴収する権利を有しており、その見返りとして当該大名の船舶の安全を保障した。この相互依存関係こそが、彼らが特定の陸上勢力に完全に隷属することなく、独立性を保ち得た要因であった。彼らが大規模な戦争において中立を保とうとしたのは、いずれか一方に加担することで敵対勢力下の札浦を失うという経済的打撃を避けるための、極めて合理的な経営戦略だったのである 7

海の要塞「能島城」

彼らの本拠地である能島城は、単なる軍事拠点ではなく、彼らの海上支配を象徴する一大拠点であった。宮窪瀬戸の激流に守られた能島は、それ自体が天然の要害をなしていた 8 。近年の考古学調査により、この小さな島全体が高度に要塞化されていたことが明らかになっている。

島の岩礁には、船を係留するための柱穴(岩礁ピット)が約400基も確認されており、これは潮の満ち引きに関わらず多数の船舶を常時繋留できたことを示している 13 。また、海岸部を埋め立てて造成された平坦地からは、荷揚げや漁具の手入れ、鍛冶などが行われた工房跡の遺構や遺物も発見されており、能島城が平時における生活と経済活動の中心地でもあったことを物語っている 4 。ルイス・フロイスが「fortaleza grande(大きい要塞)」と記したこの城は 4 、戦時と平時の両面に対応した、洗練された海城だったのである。

このように、能島村上氏は独自の経済システムと軍事力、そしてそれを支える拠点を持つ独立した海上権力であった。しかし、彼らの存立基盤は、複数の陸上勢力が拮抗し、相互に牽制しあうという戦国時代特有の多極的な世界に依存していた。それゆえに、日本全土を単一の権力下に置こうとする豊臣秀吉の天下統一事業は、彼らの存在そのものを根底から揺るがす未曾有の脅威となったのである。秀吉の目指す中央集権体制は、海の独立主権者を許容せず、彼らが繁栄の基盤としてきた多極的な政治・経済秩序の終焉を意味していた 7

第二章: 天下布武の波紋と村上三家の亀裂

織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業の進展は、瀬戸内海にも大きな波紋を広げ、長らく連携と対立を繰り返しながらも一種の均衡を保ってきた村上三家(能島・因島・来島)の関係を決定的に引き裂いた。この内部分裂こそが、能島村上氏の独立性を失わせる最大の要因となった。

織田・毛利の対立と来島村上氏の離反

天正四年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、村上三家は毛利氏方として一致団結し、織田水軍を焙烙火矢などの新戦術で撃破、石山本願寺への兵糧搬入を成功させた 9 。この勝利は村上水軍の名声を最高潮に高めたが、同時に天下統一を目指す織田信長にとって、彼らが看過できない存在であることを証明した。

状況が変化したのは、天正六年(1578年)の第二次木津川口の戦いで、織田方が鉄甲船を投入して毛利・村上水軍に勝利してからである 18 。補給路を断たれた本願寺は降伏し、織田方の優位が明らかになる中で、信長は村上三家への調略を開始する 18

この調略に最も早く応じたのが、来島村上氏の当主・村上(来島)通総であった 10 。通総は、主家である伊予の河野氏や、河野氏と連携する毛利氏との間に何らかの確執を抱えていたとされ、そこに秀吉が巧みにつけ込んだ 19 。天正十年(1582年)初頭、秀吉が備中高松城を包囲し、毛利氏を窮地に追い込んでいた絶好のタイミングで、通総は織田方への寝返りを決断する 18

この決断は、単なる一勢力の寝返り以上の意味を持っていた。秀吉にとって、それは毛利水軍の中核を内側から切り崩す戦略的な大成功であった。通総の離反により、秀吉は瀬戸内海の地理と戦術を熟知した強力な水軍を味方につけただけでなく、村上三家という強固な同族連合に致命的な亀裂を生じさせたのである。

村上一族の内戦

通総の離反は、毛利氏、河野氏、そして能島・因島村上氏にとって許しがたい裏切りであった。毛利氏の命を受けた能島村上武吉と因島村上氏は、直ちに来島城への攻撃を開始した 18 。ここに、かつての盟友同士による骨肉の内戦が勃発する。

この戦いは、本能寺の変の後、秀吉と毛利が和睦した翌年まで続いたとされる 18 。激しい攻防の末、通総は本拠地である来島城を放棄せざるを得なくなり、秀吉のもとへ亡命、その庇護下に入った 18 。能島村上武吉は、裏切り者である通総の旧領を占領し、一時的に来島海峡の支配権を完全に掌握した 5

しかし、この勝利は能島村上氏にとって高くつくものであった。秀吉は、亡命してきた通総を豊臣政権の一員として厚遇し、彼を「旧領を不当に奪われた正当な領主」として位置づけた。これにより、秀吉は将来、四国へ侵攻する際に、単なる侵略者としてではなく、「来島通総の旧領を回復し、正義を取り戻す」という大義名分を手にすることになった。能島村上氏による来島占領は、彼らを秀吉の直接的な介入を招き寄せる格好の標的へと変えてしまったのである。村上三家の内紛は、秀吉の巧妙な分断工作の前に、彼ら自身の首を絞める結果となった。

第三章: 時系列で見る能島城明け渡し:天正十三年(1585年)無血の攻防

天正十三年(1585年)、豊臣秀吉は長宗我部元親の四国統一を阻止すべく、10万を超える大軍を四国へ派遣した。世に言う「四国平定」である。この軍事行動は、能島村上氏にとって、もはや回避不可能な運命の時を告げるものであった。能島城の明け渡しは、激しい戦闘の末ではなく、周到に張り巡らされた戦略的包囲網と、巧みな外交的圧力によって、無血のうちに遂行された。

年代

豊臣方の動向

毛利・小早川方の動向

能島村上氏の動向

来島村上氏の動向

天正10年 (1582)

備中高松城を水攻め。来島通総を調略し、味方に引き入れる。

秀吉軍と対峙。劣勢に陥る。

毛利方として留まり、離反した来島氏を攻撃、来島城を占領する 5

秀吉の誘いに応じ、毛利・河野方から離反。敗れて秀吉のもとへ亡命する 18

天正13年 (1585)

四国平定を開始。総大将は羽柴秀長。毛利輝元・小早川隆景にも出陣を命じる。

豊臣軍の一部として伊予へ侵攻。小早川隆景が軍を率いる 18

主家・河野氏への攻撃を拒否し、中立を表明。秀吉の不興を買う 18

小早川軍の先鋒として伊予に上陸。旧領回復を目指し、河野氏の諸城を攻略する 2

(同年)

-

小早川隆景が、秀吉の意向を受け、能島村上武吉に能島城の明け渡しを要求 2

圧倒的な兵力差と外交的孤立により、要求を受諾。能島城を明け渡す 23

戦功により伊予風早郡に1万4千石を与えられ、大名として復帰する 2

天正14年 (1586)

九州征伐を開始。

九州征伐に従軍。

秀吉方として九州征伐に従軍するも 25 、独立性は失われた状態。

豊臣大名として九州征伐に従軍する 22

天正16年 (1588)

全国に「海賊停止令」を発布。海上における私的な関銭徴収や武力行使を全面的に禁止する 26

-

海賊としての活動基盤を完全に喪失。能島城は廃城となる 23 。毛利氏の家臣団に完全に編入される。

豊臣政権下の船手衆として、大名としての地位を確立する 28

秀吉のグランドストラテジーと武吉のジレンマ

四国平定における秀吉の戦略は巧妙を極めていた。彼は、かつての敵であった毛利氏を味方として動員し、その先鋒に小早川隆景を任じた 18 。これにより、能島村上武吉は絶望的なジレンマに陥った。

長年の盟友であり、実質的な主家であった毛利・小早川軍が、秀吉の命令一下、四国に攻め寄せてくる。もし能島村上氏がこれに抵抗すれば、それは秀吉への反逆に加え、毛利氏への敵対をも意味する。一方で、侵攻軍に協力すれば、それは自らの旧主家である伊予の河野氏に弓を引くことになる。

武吉が選んだ道は「中立」であった。彼は「旧主・河野氏を攻めることはできない」という大義名分を掲げ、四国平定への協力を拒否した 18 。これは武士としての矜持を示す行動であったかもしれないが、天下人秀吉の前では、中立は反逆に等しいと見なされた。

小早川隆景による無血開城

この状況下で、能島城の明け渡しを直接交渉する役目を担ったのが、小早川隆景であった 2 。隆景は、かつて厳島の戦いで村上水軍を味方につけて以来、彼らと深い関係を築いてきた人物である 31 。その隆景からの降伏勧告は、単なる敵将からの通告ではなく、旧知の盟主からの最後通牒としての重みを持っていた。

具体的な戦闘記録が乏しいことから、隆景の「攻撃」は、大規模な上陸戦ではなく、能島周辺の海上を封鎖し、外交交渉を促すための軍事的圧力であった可能性が高い 2 。四方を秀吉の大軍に囲まれ、海からは隆景の艦隊に睨まれ、そして侵攻軍の先鋒には、かつての同族である来島通総がいる。武吉に残された選択肢は、無謀な玉砕か、降伏かの二つしかなかった。

最終的に武吉は、隆景の説得を受け入れ、能島城を明け渡すことを決断した 23

降伏条件に隠された意図:海の民から陸の臣へ

能島城の明け渡しは、単なる城の譲渡ではなかった。その降伏条件には、能島村上氏という特異な海上権力を解体し、無力化しようとする秀吉の明確な意図が込められていた。

武吉とその一族は、能島を退去させられた後、小早川氏の所領である安芸国竹原(現在の広島県竹原市)に移住させられた 2 。そして、その代償として与えられたのは、屋代島などで都合七千石の知行であった 24 。重要なのは、この知行が、海上通行料という彼らの伝統的な収入源ではなく、米の収穫量を基準とする「石高」で与えられたことである。

これは、彼らのアイデンティティを根底から覆す措置であった。海と共に生き、海の秩序を支配することで成り立っていた「海の大名」は、その本拠地と収入源を奪われ、陸地に固定された土地から上がる年貢に依存する、ありふれた「陸の家臣」へと強制的に変質させられたのである。彼らを、その力の源泉である芸予諸島の複雑な海流から物理的に引き離し、小早川氏の監視下に置くことで、秀吉は能島村上氏の牙を抜き、その独自の文化と存在意義を消し去ろうとした。能島城の無血開城は、軍事的な勝利である以上に、秀吉による周到な政治的・文化的改造の始まりであった。

第四章: ある一つの証言:天正十四年(1586年)宣教師フロイスの目撃録

天正十三年(1585年)に能島城が明け渡され、村上武吉が竹原へ移住させられたわずか数ヶ月後、一人のヨーロッパ人がこの海域を通過し、その克明な記録を残した。イエズス会宣教師ルイス・フロイスである。彼の著書『日本史』における天正十四年(1586年)の記述は、政治的に敗北したはずの能島村上氏が、なおも瀬戸内海においていかに絶大な実効支配力を維持していたかを示す、他に類を見ない貴重な証言となっている。

フロイス一行の航海と「日本最大の海賊」

1586年、堺から豊後の臼杵を目指していたフロイスの一行は、芸予諸島に差し掛かった 4 。彼はこの地の支配者を「日本最大の海賊」と記し、「その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し」「強大な勢力を有していた」と描写している 8

この「海賊(cossairos)」という言葉は、現代的な略奪者のイメージとは異なる。フロイスは文脈によって「piratas(海賊)」と「corsarios(私掠船業者、公認の海上武力)」を使い分けており、能島村上氏に対して後者の言葉を用いていることから、彼らを単なる無法者ではなく、一定の公権力を持つ海の支配者として認識していたことがわかる 4

通行保障を求める交渉

フロイス一行は、この危険な海域を安全に航行するため、能島村上氏の権力者に通行の保障を求めることにした。副管区長の司祭が中心となり、「能島殿」に使者を送り、彼らが発行する「署名」によって自由な通行が許可されるよう、寛大な処置を嘆願したのである 4

この事実は極めて示唆に富む。当時、すでに能島城は豊臣方の管理下にあり、当主の武吉は安芸竹原にいたはずである。にもかかわらず、経験豊富な宣教師たちが、瀬戸内海の安全を確保するためには、依然として「能島殿」の許可が不可欠だと判断したのである。これは、能島村上氏の権威が、城や当主個人の存在を超えて、瀬戸内海全域に及ぶ一個のシステムとして機能していたことを証明している。

「過所船旗」という権威の象徴

交渉の結果、能島殿はフロイス一行の願いを聞き入れ、「怪しい船に出会った時に見せるがよい」として、自身の紋章が入った絹の旗、すなわち「過所船旗」を交付した 4 。この旗を掲げることで、一行の船は能島村上氏の支配下にある海域での安全を保障されたのである 4

フロイスのこの体験は、能島村上氏の権力が、単なる軍事力に依存していたのではないことを明確に示している。彼らの力は、長年にわたって築き上げられた「ブランド」と、それによって維持される広域のネットワーク、すなわち「システム」そのものであった。当主が本拠地を追われても、その紋章が持つ権威は揺るがず、海の秩序は依然として彼らの名の下に維持されていた。航行者たちは、豊臣政権の役人ではなく、村上氏の旗に安全を求めたのである。

この状況は、秀吉にとって看過できないものであった。城を奪い、当主を移住させても、海の支配権が完全に自らの手に帰したわけではない。村上氏が築き上げたシステムそのものを解体しない限り、瀬戸内海における二重権力構造は解消されない。フロイスが目撃した「亡霊のごとき権威」こそが、秀吉をして、二年後に「海賊停止令」という、より根本的な法的措置へと踏み切らせる直接的な動機となったのである。

第五章:「海賊停止令」と海の秩序の終焉

能島城を明け渡し、当主を移住させてもなお、瀬戸内海に根強く残る村上氏の影響力—それをルイス・フロイスの報告は図らずも証明した。豊臣秀吉にとって、この状況は天下統一の総仕上げにおける最後の障害であった。彼が目指すのは、畿内と、大陸への玄関口となる九州を結ぶ海上交通路の完全な掌握と安全確保である 7 。そのために、彼は天正十六年(1588年)七月八日、村上氏をはじめとする全国の海上勢力の息の根を止める、決定的な一手を打った。それが「海賊停止令(海上賊船禁止令)」である。

海賊停止令の三カ条とその狙い

この法令は、わずか三カ条からなるが、その内容は海上勢力の存在基盤を完全に破壊するよう、極めて巧妙に設計されていた 27

  • 第一条: 諸国の海上における賊船(海賊行為)を改めて厳禁する。これは、備後・伊予間の伊津喜島で発生した盗船事件を口実としているが、その適用範囲は全国に及ぶものであった 27
  • 第二条: 国々浦々の船頭や漁師など、舟を扱う者全てのリストを作成させ、「今後一切海賊行為をしない」という旨の誓紙を連判で提出させる。そして、それを国主(大名)が取りまとめて秀吉に上申することを命じている 27 。これは、海に生きる人々を直接、豊臣政権の管理下に置こうとするものであった。
  • 第三条: 最も重要な条文である。今後、もし領内に海賊行為を働く者が現れた場合、その者自身の成敗はもとより、それを見過ごした給人・領主(地元の領主や大名)の知行地をも没収するという、厳しい連帯責任を課した 27

この第三条こそが、能島村上氏のような独立海上勢力にとって致命的な一撃となった。これ以前、海の支配権は村上氏に、陸の支配権は毛利氏に、という形で、両者は同盟関係にありながらも、ある種の権力分担がなされていた。しかしこの法令によって、海上の治安維持の全責任が、陸の領主である毛利氏に一方的に押し付けられたのである。

もし村上氏がこれまで通り通行料の徴収(秀吉から見れば海賊行為)を続ければ、その責任は同盟者である毛利氏が問われ、最悪の場合、毛利氏自身の領地が没収される危険が生じた。毛利氏にとって、自らの広大な領国を守るためには、もはや村上氏の独立した活動を黙認することは不可能となった。彼らは、秀吉からの処罰を避けるため、村上氏を完全に自らの統制下に置き、その一切の独立行動を禁じる以外に選択肢はなくなったのである。

海の論理から陸の論理へ

この法令は、単に海賊行為を禁じただけではない。それは、中世を通じて続いてきた「海の論理」—すなわち、海に生きる者が海の秩序を自律的に形成するという考え方—を完全に否定し、全てを「陸の論理」—すなわち、土地を基盤とする中央権力が海をも支配するという考え方—の下に再編成する、一種の統治革命であった 17

通行料(警固料)の徴収、札浦の運営、独自の武力による航路の安全保障といった、村上氏の生業そのものが犯罪とされた 25 。これにより、彼らは経済的基盤を完全に失った。独立した「海の大名」であることはもはや許されず、陸の大名に仕える家臣となるか、あるいは単なる漁民となるかの選択を迫られた。

この結果、能島村上氏は、毛利氏の家臣団に完全に組み込まれ、「船手組(ふなてぐみ)」という藩の水軍組織として再編された 36 。かつて瀬戸内海に覇を唱えた本拠地・能島城は、その存在意義を失い、天正十六年(1588年)を境に正式に廃城となった 23 。ここに、数百年にわたって瀬戸内海に君臨した能島村上氏の独立王国は、名実ともに終焉を迎えたのである。

結論: 陸の論理による海の支配

「能島城の戦い」は、天正十三年(1585年)の無血開城から天正十六年(1588年)の海賊停止令に至る一連の過程であり、それは単一の城の陥落に留まらない、日本の統治構造における歴史的なパラダイムシフトを象徴する出来事であった。能島村上氏の終焉は、戦国時代の断片的で多極的な世界が終焉を迎え、近世の中央集権的な統一国家が誕生する過程で、海に生きた独立勢力が必然的に淘汰されていく様を凝縮して示している。

この広義の「戦い」において、豊臣秀吉は武力による殲滅ではなく、より巧妙で根源的な戦略を用いた。第一に、村上三家の内部分裂を誘発し、来島氏を味方に引き入れることで、彼らの強固な同盟関係を内側から崩壊させた。第二に、四国平定という圧倒的な軍事力を背景に、盟友であった小早川隆景を通じて外交的圧力をかけ、能島村上氏を戦わずして降伏へと追い込んだ。第三に、降伏した村上武吉を、その力の源泉である能島から引き離し、内陸の竹原へ移住させ、石高という陸の論理に基づく知行を与えることで、彼らの「海の大名」としてのアイデンティティを剥奪した。

そして最終的に、ルイス・フロイスの証言が示すように、それでもなお残存する彼らのシステム的権威を根絶するため、「海賊停止令」という法的な枠組みを構築した。この法令は、海上の治安維持責任を陸の領主に転嫁させることで、毛利氏のような大名に、村上氏のような独立勢力を自らの家臣団へ完全に吸収させることを強いた。これにより、中世を通じて存在した、陸とは異なる独自の秩序を持つ「海の領域」は消滅し、日本の全ての海は、陸の中央権力が支配する「内なる池」へと変貌したのである 7

能島村上氏の物語は、戦国という時代の終焉そのものである。彼らの没落は、海の自由と自律が、統一政権による秩序と管理に取って代わられる過程を象徴している。秀吉による瀬戸内海の制圧は、その後の朝鮮出兵における兵站線の確保を可能にし、さらには江戸幕府による鎖国体制へと続く、国家による海上支配の先駆けとなった。能島城をめぐる攻防は、日本の歴史が「海の論理」から「陸の論理」へと大きく舵を切った、決定的な転換点として記憶されるべきである 17

引用文献

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  29. 来島村上氏と文禄・慶長の役 https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/record/1730/files/KJ00008786375.pdf
  30. 重要文化財 村上家文書 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/umi12.pdf
  31. 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
  32. 「村上武吉」 毛利水軍の一翼を担った、村上水軍当主の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1187
  33. 刀狩令との異同について 二、初出の海賊禁止令の存在 三 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/4077/files/BS004210209.pdf
  34. 天正16年7月8日豊臣秀吉朱印状(海賊禁止令)(1) - 日本中近世史史料講読で可をとろう https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20221025/1666678970
  35. 秀吉株式会社の研究(4)「海賊停止令」で基盤強化|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-055.html
  36. 10 戦国の海に生きた人々ー杉原・村上・渋谷氏 [PDFファイル - 尾道市ホームページ https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/47866.pdf
  37. 海賊 ﹁水軍﹂︑ 船 手 - 今治市 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/event/2018/736-1.pdf
  38. 企画展「村上家のおもてなし」いよいよ明日から! http://suigun-staff.blogspot.com/2021/10/blog-post.html
  39. 能島城 [1/3] 激しい潮流に守られた村上水軍の拠点城。 https://akiou.wordpress.com/2018/07/10/noshima/
  40. 能島城の見所と写真・1000人城主の評価(愛媛県今治市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/365/
  41. 能島 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%B3%B6