最終更新日 2025-09-03

能登・穴水湾口の海戦(1577)

天正五年、能登で上杉謙信と織田信長の代理戦争が勃発。謙信不在中に長氏が穴水湾口を封鎖するも、謙信の帰還で壊滅。上杉水軍が七尾湾を制圧し、七尾城を陥落させた。この海戦は能登の運命を決定づけた。
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天正五年 能登・制海権争奪の真相 ―「穴水湾口の海戦」と七尾城陥落の力学 ―

序章: 天正五年、能登の風雲

天正五年(1577年)、能登国(現在の石川県能登半島)で繰り広げられた一連の攻防は、単なる一地方の合戦ではない。それは、天下統一へと突き進む織田信長と、それに「義」を掲げて立ちはだかる越後の龍、上杉謙信という、当時の日本を二分する二大勢力の巨大な戦略的対立が、能登半島という舞台で凝縮され、噴出したものであった。ご依頼の「能登・穴水湾口の海戦」は、この大局の中で、能登の制海権、ひいては七尾城の生命線そのものを巡って繰り広げられた、極めて重要な局面であった。本報告書は、この海戦の実態を、戦略的背景、戦術的展開、そして歴史的意義の三つの側面から徹底的に解明し、その真相に迫るものである。

第一節: 北陸の覇権 ― 上杉謙信と織田信長の角逐

天正四年(1576年)、織田信長による包囲網は事実上崩壊し、信長の天下統一事業は大きく前進していた。これに対し、室町幕府十五代将軍・足利義昭は備後の鞆に下向し、毛利氏の庇護下に入りながらも、反信長の檄を各地の有力大名に飛ばし続けていた。この呼びかけに最も鋭く応じたのが、上杉謙信であった 1 。謙信は長年敵対してきた甲斐の武田氏、相模の北条氏と和睦を結び、反信長体制の旗頭として西上作戦の準備を本格化させる 1

謙信にとって、織田軍との決戦に臨む上で、背後の安全確保は絶対条件であった。特に、越中、能登、加賀の北陸三国を完全に掌握することは、戦略上の最優先課題であった 2 。中でも能登半島は、越中・加賀・越後を結ぶ「扇の要」とも言うべき地政学的な要衝であり 4 、その良港群は日本海交易路の心臓部でもあった 5 。能登を制することは、北陸における覇権を確立し、来るべき信長との決戦において、兵站と戦略的優位を確保することに直結していたのである。

一方の織田信長も、北陸の重要性を深く認識していた。北陸方面軍司令官に柴田勝家を任命し、加賀の一向一揆を制圧させると同時に、能登への影響力拡大を画策していた 7 。こうして能登は、両雄の巨大な力が衝突する最前線と化したのである。

第二節: 落日の名門 ― 能登畠山氏の内部崩壊

この巨大な地政学的圧力の渦中にあったのが、能登の守護大名・畠山氏であった。足利一門の名家として約170年にわたり能登を治めてきた畠山氏であったが、その権威は度重なる内紛によって地に落ちていた 9 。当主は次々と家臣団によって追放、あるいは暗殺されたと噂され、天正五年当時には幼君・畠山春王丸が擁立されるも、実権は重臣たちに握られた完全な傀儡政権と化していた 10

この権力闘争の中で、家臣団は二つの派閥に分裂し、深刻な対立を繰り広げていた。

  • 親織田派: 筆頭家老であった長続連(ちょう つぐつら)と、その子・綱連(つなつら)を中心とする勢力。在地領主出身の長氏は、その強大な軍事力を背景に畠山家中での影響力を拡大 13 。中央で勢力を拡大する織田信長との連携を深めることで、家中での主導権を確立し、能登の安定を図ろうとした 14
  • 親上杉派: 守護代の家柄である遊佐続光(ゆさ つぐみつ)や、同じく重臣の温井景隆(ぬくい かげたか)らを中心とする勢力。彼らは、新興勢力である長氏の台頭に強い不満と危機感を抱き、能登畠山氏と伝統的に友好関係にあった越後の上杉謙信を頼った 4

この対立は、単なる家中の権力闘争に留まらなかった。それは、能登の未来を織田信長に託すのか、それとも上杉謙信に委ねるのかという、国家の存亡を賭した路線対立であった。長氏と遊佐氏の個人的な確執は、上杉・織田という二大勢力の「代理戦争」の様相を呈し、謙信の能登侵攻という外圧によって、破滅的な結末へと向かうことになる。

第三節: 能登半島における制海権の戦略的価値

能登半島の戦略的価値を語る上で、その海、特に七尾湾と穴水湾の存在は欠かせない。これらの湾は天然の良港であり、古くから日本海交通の要衝として栄えていた。越後で産出される青苧(あおそ)などの物産を京へ運ぶには、能登の湊を経由するのが最も効率的であり、能登の支配者は海上交通に絶大な影響力を持っていた 5

能登畠山氏の本拠・七尾城は、この七尾湾を見下ろす山上に築かれた巨大な山城であった 11 。その立地は、海からの補給を容易にするという大きな利点を持っていた。逆に言えば、この難攻不落の城を攻略するためには、陸上からの包囲と同時に、海上を完全に封鎖し、補給路を断つことが絶対条件であった 4 。能登の覇権を巡る争いは、必然的に、七尾湾の制海権を巡る争いへと発展する運命にあったのである。


【表1】七尾城の戦い 主要関係者一覧

所属勢力

氏名

役職・立場

主要な動向

上杉軍

上杉 謙信

総大将

能登平定のため大軍を率いて侵攻。

鰺坂 長実

家臣

七尾城陥落後、城代として配置される。

長沢 光国

家臣

謙信一時撤退の際、穴水城の守将となる。

畠山・親織田派

長 続連

筆頭家老

畠山家の実権を掌握し、徹底抗戦を主張。

長 綱連

続連の嫡男

父と共に籠城戦を指揮。謙信不在時に反攻作戦を実行。

長 連龍

続連の三男

織田信長への援軍要請のため、七尾城を脱出。

畠山・親上杉派

遊佐 続光

守護代

長氏との対立から、謙信に内応し、七尾城開城の首謀者となる。

温井 景隆

重臣

遊佐と共に謙信に内応。

三宅 長盛

重臣

遊佐・温井派の重臣。

畠山宗家

畠山 春王丸

能登守護

幼君。籠城中に病死し、城内の士気低下を招く。


第一部: 攻守逆転 ― 長氏の反攻と穴水湾の攻防(天正五年三月~閏七月)

「穴水湾口の海戦」の実態は、天正五年三月、上杉謙信が能登から一時的に兵を引いたことで生まれた、束の間の権力の空白期に発生した。これは、追い詰められていた畠山方の親織田派・長氏が、起死回生を賭けて敢行した反攻作戦の重要な一局面であり、陸戦と海戦が密接に連動した、局地的な制海権争奪戦であった。

第一章: 謙信、一時撤退(三月)

天正四年(1576年)十一月より開始された謙信による第一次七尾城攻城戦は、膠着状態に陥っていた。七尾城は日本三大山城の一つに数えられるほどの堅城であり、その広大な縄張りと天然の要害は、さすがの軍神・謙信をもってしても容易に攻め落とせるものではなかった 12

年が明けた天正五年三月、謙信の陣中に緊迫した報がもたらされる。関東の雄・北条氏政が、謙信の本国である越後を脅かすべく軍事行動を開始したというのである 12 。本国の危機を座視することはできず、謙信は七尾城の包囲を一部の部隊に任せ、主力を率いて一旦越後へ帰国するという苦渋の決断を下した。しかし、謙信は能登の支配を諦めたわけではなかった。彼は、攻略した能登各地の支城に信頼の置ける将兵を配置し、畠山方への圧力を維持したまま撤退した。この時、長氏の本拠地であり、穴水湾に面した要衝・穴水城には長沢光国と白小田善兵衛が、熊木城には三宝寺平四郎らが、そして富来城には藍浦長門が守将として残された 12

第二章: 長氏、反撃の狼煙(三月下旬~五月)

謙信の主力部隊の撤退は、籠城を続けていた長続連・綱連父子にとって、まさに千載一遇の好機であった。彼らは即座に七尾城から打って出て、上杉方に奪われた諸城を奪還すべく、電光石火の反撃作戦を開始した 12

まず標的となったのは熊木城であった。ここでは、畠山家臣・甲斐庄親家の巧みな謀略が功を奏した。城内にいた斉藤帯刀を寝返らせることに成功し、内部から城門を開かせたのである。これにより熊木城はあっけなく陥落し、城将の七杉小伝次は自害、三宝寺平四郎らは討ち死にした 12 。続いて、杉原和泉を総大将とする部隊が富来城に殺到。城を守っていた藍浦長門は奮戦及ばず捕縛され、処刑された 12

この二つの重要拠点の奪還は、長らく続いた籠城戦で疲弊していた畠山方の士気を大いに高揚させた。勢いに乗る長氏の軍勢は、次なる目標として、一族の本拠地であり、今や上杉方の手に落ちている穴水城の奪還へと駒を進めたのである。

第三章: 穴水城逆包囲と湾口の封鎖(五月下旬~)

長綱連率いる畠山軍の主力は、上杉方の長沢光国らが守る穴水城を陸上から完全に包囲した 19 。穴水城は、その名の通り穴水湾の最奥部に位置し、穏やかな内海を天然の堀とする要害であった 23

ここにおいて、長氏が長年培ってきた「能登水軍」とも言うべき海上戦力が、その真価を発揮する時が来た。長氏は穴水湾を拠点とする在地領主であり、能登の海上交通に大きな影響力を持つ存在であった 6 。彼らは陸からの包囲を完璧なものとするため、保有する舟艇を総動員し、穴水湾の湾口を海上から封鎖。城内の上杉方を海からも完全に孤立させ、補給を断つ作戦に出た。これが、後世に「穴水湾口の海戦」と伝わる一連の海上行動の始まりである。

この攻防は、大規模な艦隊同士が激突するような華々しい海戦ではなかったと推測される。むしろ、長氏側の小型で機動力に優れた小早船 26 が、湾口付近を絶えず哨戒し、越後方面からやってくるであろう上杉方の補給船や連絡船の侵入を阻止する、地道で粘り強い海上封鎖作戦がその実態であったと考えられる。

想定される戦術は、以下のようなものであっただろう。

  • 哨戒と奇襲: 長氏の小早船が数隻単位の小部隊で行動し、湾外から接近する不審な船を発見次第、その快速を活かして一気に接近し、奇襲をかけた。穴水湾が波の穏やかな内海であったことは、こうした小型船による機動的な作戦を有利にした 28
  • 火器による攻撃: 敵船に対しては、まず遠距離から火矢を射かけ、帆や船体を炎上させて混乱を誘ったであろう 29 。もし、当時最新の兵器であった焙烙火矢(ほうろくひや)を保有していれば、それを投擲し、炸裂による破片と爆音で敵兵を殺傷し、船に損害を与えることも試みられたかもしれない 29
  • 上杉方の抵抗: 一方、城に籠る長沢光国らも、ただ包囲されるがままではなかったはずだ。城に備え付けられていたであろう舟艇を用いて応戦し、海上からの補給路を確保しようと必死の抵抗を試みたであろう。特に、夜陰に乗じて物資を運び込もうとする小舟と、それを阻止しようとする長氏の哨戒船との間で、湾内各所で小規模な衝突が繰り返されたと想像される。

第四章: 膠着する戦線と長連龍の密命

しかし、長氏の陸海からの猛攻にもかかわらず、穴水城の上杉方は頑強に抵抗を続け、城は容易には陥落しなかった。陸戦では快進撃を続けた長氏であったが、海陸共同での攻城作戦を完遂するだけの決定力に欠けていた。彼らの水軍力は、湾口を完全に封鎖し、敵の抵抗を完全に断ち切るほどの規模と質を伴っていなかったのである。この事実は、彼らが在地領主として保有する水軍力の限界を露呈するものであった。能登水軍は、あくまで沿岸警備や海上交通の管理を主目的とするものであり、村上水軍や九鬼水軍のような専門的な戦闘集団とは一線を画していた 6

戦況が膠着する中、長綱連の焦りは募っていった。謙信が越後から能登へ帰還する前に、穴水城を落とせなければ、今度は自分たちが上杉の大軍に押し潰されることは火を見るより明らかであった。唯一の活路は、同盟者である織田信長からの援軍のみ。ここにきて、長綱連は最後の賭けに出る。弟の長連龍(ちょう つらたつ)に、上杉軍の包囲網を密かに突破し、安土の信長に直接救援を要請するという、極めて困難な密命を下したのである 9 。乞食僧に変装した連龍のこの決死の脱出行が、後に長一族の運命を、そして能登の未来を大きく左右することになる。


【表2】戦国期能登における想定水軍力比較

項目

上杉水軍

能登水軍(長氏)

想定される船種

関船、小早 26

小早が主力 26

推定される規模と役割

遠征軍としての兵員・物資輸送能力。大規模な海上封鎖作戦の遂行。

在地領主としての沿岸警備、局地的な海上交通の掌握が主目的。

主要兵装・戦術

大筒、鉄砲による遠距離射撃。組織的な艦隊行動による海上封鎖。

火矢、接舷しての白兵戦が主体 29 。ゲリラ的な奇襲・哨戒活動。


第二部: 軍神再来 ― 上杉水軍の逆襲と七尾湾封鎖(天正五年閏七月~九月)

謙信不在の隙を突いた長氏の反攻は、謙信自身の帰還によって、脆くも崩れ去る。戦局は一瞬にして逆転し、能登の制海権を巡る争いは、穴水湾での局地戦から、七尾湾全体を舞台とした大規模な海上封鎖へと移行する。制海権の喪失が、難攻不落を誇った七尾城の運命をいかに決定づけたか、その過程は、海が陸の戦いの帰趨を決した典型的な事例として、戦国史に刻まれている。

第一章: 謙信、能登へ再出陣(閏七月)

関東の憂いを払拭した上杉謙信は、天正五年閏七月、満を持して大軍を率い、再び能登の地を踏んだ 9 。その進軍速度は凄まじく、軍神再来の報は瞬く間に能登全土を駆け巡った。

穴水城を包囲していた長綱連は、謙信接近の報に戦慄した。上杉軍本隊と正面から戦えるだけの野戦能力がないことを悟った綱連は、直ちに穴水城の包囲を解き、全軍を七尾城へ撤退させることを決断する。しかし、この撤退は容易ではなかった。解放された穴水城の轡田肥後(くつわだ ひご)ら上杉方の部隊が、撤退する長軍の背後を執拗に追撃したのである。長綱連は多大な犠牲を払い、多くの将兵を失いながら、命からがら七尾城へと逃げ込んだ 19 。この手痛い敗走により、畠山方の野戦能力は事実上壊滅。彼らに残された道は、七尾城に籠城し、織田の援軍をひたすら待ち続けることだけであった。

第二章: 七尾湾の完全封鎖

七尾城に帰還した長綱連らが見たものは、絶望的な光景であった。謙信は陸上の各拠点から七尾城を幾重にも包囲すると同時に、かねてより準備していた上杉水軍の主力を七尾湾に展開。湾の出入り口を完全に封鎖し、七尾城を陸と海の両面から孤立させる大包囲網を完成させたのである 4

これにより、七尾城への兵糧、塩、武具、矢弾といったあらゆる物資の補給路は、完全に遮断された。城の後方に広がる海という唯一の活路が閉ざされたことは、城内に籠る兵士や領民に計り知れない心理的圧迫を与えた 18 。上杉水軍は、湾内に多数の関船や小早を配置し、昼夜を問わず厳重な監視を続けた。城からの脱出や外部からの侵入を試みるいかなる舟艇も、発見次第、撃沈・拿捕する鉄壁の体制が敷かれた。これは、前年の第一次木津川口の戦いで織田水軍が試みた海上封鎖を、より大規模かつ徹底的に実行するものであった 29 。かつて穴水湾で長氏が試みた不完全な海上封鎖とは比較にならない、圧倒的な制海権の誇示であった。

第三章: 難攻不落の城、内より崩る(閏七月~九月)

七尾城の悲劇は、ここから始まった。城内には、長氏の呼びかけに応じた兵士だけでなく、戦火を逃れてきた多くの領民も避難しており、その総勢は1万5000人近くに膨れ上がっていた 20 。この膨大な人口が、籠城戦においては致命的な弱点となった。

海上封鎖によって補給が途絶えると、備蓄されていた兵糧は瞬く間に底をつき始めた。さらに深刻だったのは、衛生環境の悪化であった。大人数が狭い城内に密集した結果、排泄物の処理が追いつかず、飲料水が汚染され、城内では瞬く間に疫病が蔓延した 20 。兵士たちは敵の刃ではなく、飢えと病によって次々と倒れていった。そして閏七月二十三日、城内の絶望を象徴するかのように、名ばかりの当主であった畠山春王丸が、数え年六歳の幼さで病に倒れ、その短い生涯を閉じた 10

求心力を失い、地獄絵図と化した城内の状況を、謙信は見逃さなかった。彼は武力による強攻を避け、より確実な調略をもって城を内部から崩壊させることを選ぶ。標的は、長氏と対立する親上杉派の重臣、遊佐続光であった。謙信は続光に密書を送り、「城を明け渡せば、畠山氏の旧領に加え、長一族の所領も与える」という破格の条件で内応を促した 34

織田の援軍は一向に現れず、城内は死の匂いに満ちている。この絶望的な状況下で、遊佐続光は決断した。天正五年九月十五日の夜、遊佐は軍議を開くと偽り、長続連・綱連父子をはじめとする長一族の主だった者たちを自らの屋敷に誘い出した。そして、待ち伏せていた兵によって、彼らを一人残らず謀殺するというクーデターを断行したのである 4

指導者を失った七尾城は、もはや抵抗する術を持たなかった。遊佐続光は城の木落口の門を開け放ち、上杉軍を城内へと引き入れた。こうして、一年近くに及んだ攻防戦の末、難攻不落を誇った七尾城は、一発の矢も放たれることなく、内部からの裏切りによって陥落した。鉄壁の城塞の最大の弱点は、物理的な防御力ではなく、追い詰められた人間の「人心」であった。上杉水軍による海上封鎖は、城の物理的な兵站を断ち切ると同時に、城内の人間関係という心理的な兵站をも破壊した。この二つの要素が連動した結果、名城は内側から自壊したのである。

終章: 海が決定づけた能登の運命

「能登・穴水湾口の海戦」を含む一連の海上での攻防は、単なる局地的な戦闘に留まらず、七尾城の戦い全体の帰趨、ひいては能登一国の運命を決定づける極めて重要な要素であった。この戦いは、制海権の掌握が、いかに陸上の戦いを有利に進め、最終的な勝利をもたらすかを雄弁に物語っている。

第一節:「穴水湾口の海戦」の歴史的評価

「穴水湾口の海戦」は、独立した海戦として歴史書に大きく記されるものではない。しかし、七尾城攻略戦という大きな物語における、重要な「序曲」としての価値を持つ。

長氏が主導したこの攻防は、能登の在地勢力が持つ水軍力の可能性と限界を同時に示した。彼らは謙信不在の隙を突いて反攻に転じ、局地的な海上封鎖を試みるだけの能力を有していた。しかしその一方で、敵の抵抗を排して拠点を完全に孤立させるだけの決定力には欠けていた。この穴水湾での攻防は、結果的に長氏の戦力を七尾城に封じ込めることに繋がり、後の謙信による陸海からの大包囲網の完成を容易にした。そして何より、この戦いは謙信に対し、能登を完全に平定するためには、中途半端な圧力ではなく、圧倒的な戦力による制海権の完全掌握が不可欠であることを再認識させたであろう。

第二節: 制海権が陸の帰趨を決した一例として

七尾城の戦いは、制海権の有無が、大規模な山城における籠城戦の運命を左右することを明確に示した、戦国時代の好例である。もし畠山方が七尾湾の制海権を維持し、海からの補給路を確保し続けることができていたならば、戦いの様相は大きく異なっていた可能性がある。兵糧不足や疫病の蔓延はある程度抑制され、城内の士気も維持されたであろう。そうなれば、遊佐続光の内応という最悪の事態は避けられ、織田信長が派遣した援軍の到着まで持ちこたえることも、決して不可能ではなかったかもしれない。

しかし現実は、海を完全に制した謙信が、敵を物理的にも心理的にも孤立させ、内部崩壊を誘発するという、最も効率的かつ兵力の損耗が少ない形で、難攻不落の城を攻略した。これは、謙信の卓越した陸戦能力だけでなく、陸と海を一体として捉える高度な戦略眼と、それを実行可能な水軍力の賜物であった。彼の「軍神」たる所以は、陸上のみならず、海をも含めた戦場全体を俯瞰し、統合的に戦力を運用する能力にあったと言える。

第三節: その後の能登 ― 手取川の戦いへ

九月十五日に七尾城を陥落させた謙信は、間髪入れずに次の行動に移る。七尾城落城の報を知らずに南下してきた柴田勝家率いる織田の援軍を、九月二十三日、加賀国の手取川にて迎え撃ち、これを撃破したのである(手取川の戦い) 4 。七尾城という強力な前線基地を確保し、万全の態勢で織田軍を迎え撃てたことが、この圧勝の大きな要因となった。陥落後、七尾城の本丸に立った謙信は、眼下に広がる七尾湾の絶景に感嘆し、「聞きしに勝る名地」と、その感慨を漢詩に詠んだと伝えられている 4

しかし、歴史の歯車は皮肉に回転する。能登を平定し、生涯最後の輝きを放った謙信は、翌天正六年(1578年)三月、居城・春日山城で急死する 12 。これにより上杉家は、養子である景勝と景虎の間で家督を争う「御館の乱」という内乱に突入し、能登の支配は急速に揺らいでいった。

この混乱の中、ただ一人生き残った長一族の長連龍が、歴史の表舞台に再び姿を現す。織田信長、そして後に前田利家に仕えた連龍は、父と兄の仇である遊佐続光・温井景隆らを執念の末に討ち果たし、能登における長家の再興を成し遂げた 20 。能登の海を巡る一連の攻防は、能登畠山氏という名門の滅亡の物語であると同時に、長一族の滅亡と再生の物語でもあったのである。


【表3】天正五年 能登攻防戦 主要経過年表

年月日(天正五年)

出来事

場所

関連人物・勢力

三月

上杉謙信、関東情勢の緊迫化により、能登から一時撤退。

能登・越後

上杉謙信、北条氏政

三月下旬~五月

長綱連、反攻作戦を開始。熊木城・富来城を奪還。

能登国

長綱連、甲斐庄親家

五月下旬~

長綱連、穴水城を陸海から包囲。「穴水湾口の海戦」が始まる。

穴水城・穴水湾

長綱連、長沢光国

閏七月

上杉謙信、大軍を率いて能登へ再侵攻。

能登国

上杉謙信

閏七月

長綱連、穴水城の包囲を解き、追撃を受けながら七尾城へ敗走。

穴水城~七尾城

長綱連、轡田肥後

閏七月~

上杉軍、七尾城を陸上から包囲。上杉水軍が七尾湾を完全封鎖。

七尾城・七尾湾

上杉謙信、上杉水軍

閏七月二十三日

当主・畠山春王丸が城内で病死。城内の士気が著しく低下。

七尾城

畠山春王丸

九月十五日

遊佐続光が内応。長続連・綱連ら長一族を謀殺し、城門を開放。

七尾城

遊佐続光、長続連

九月十五日

難攻不落の七尾城が陥落。能登畠山氏が事実上滅亡。

七尾城

上杉謙信

九月二十三日

手取川の戦い。上杉軍が、七尾城救援に向かっていた織田軍に大勝。

加賀国・手取川

上杉謙信、柴田勝家

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引用文献

  1. 年表で見る上杉謙信公の生涯 | 謙信公祭 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち https://joetsukankonavi.jp/kenshinkousai/chronology/
  2. 北陸を制し勢いに乗る上杉謙信、逃げる織田軍は川に飛び込み溺死…謙信最強伝説を生んだ「手取川の戦い」 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/83473
  3. 戦国時代の能登半島 ~支配者が変わる動乱期 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nb94c67293c4d
  4. 手取川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  5. 越後の勢力との外交関係 - 能登畠山氏七尾の歴史 http://nanao.sakura.ne.jp/special/gaiko-echigo.html
  6. 能登島と海と畠山氏 https://nanao.sakura.ne.jp/special/notojima.html
  7. 手取川の戦い古戦場:石川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tedorigawa/
  8. 尾 城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/292/292shiro.pdf
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  10. 能登守護 畠山氏とその子孫 高家畠山家と上杉家 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/noto-hatakeyama
  11. 【日本100名城・七尾城編】上杉謙信も落城に苦戦した能登の日本五大山城! - 城びと https://shirobito.jp/article/442
  12. 七尾城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  13. 長続連 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/person/cyo_tsugutura.html
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  18. 決戦!七尾城 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/wars/1576_nanaowars.html
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