最終更新日 2025-08-30

脇城の戦い(1585)

天正十三年、秀吉の四国征伐で脇城は陥落。長宗我部親吉は岩倉城の降伏を受け、城兵の命を救うため開城。親吉は帰途に謀殺されたが、脇城の陥落は長宗我部氏の夢を砕き、豊臣の天下を象徴した。

天正十三年、阿波脇城の攻防 ― 四国統一の夢潰えし刻 ―

序章:天下統一の奔流、四国へ

天正13年(1585年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長の横死よりわずか3年、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いを経て、羽柴秀吉はその卓越した政治力と軍事力をもって信長の後継者としての地位を不動のものとし、天下統一事業の最終段階へと突き進んでいた 1 。その視線が次なる標的として捉えたのが、西国に独立した勢力圏を築きつつあった四国の雄、長宗我部元親であった。

時を同じくして、長宗我部元親もまた、その生涯における絶頂期にあった。天正3年(1575年)の土佐統一を皮切りに、阿波、讃岐、伊予へと破竹の勢いで進出。天正13年春には伊予の河野氏を降伏させ、ついに四国四箇国のほぼ全域を手中に収めるという積年の夢を成就させていた 1 。元親が築き上げたこの「四国の王国」は、彼自身の武力と才覚によって領土を切り拓くという、戦国乱世の価値観を体現したものであった。

しかし、畿内を中心に新たな秩序を構築しつつあった秀吉にとって、元親のこの「自力による天下」は容認できるものではなかった。ここに、二つの巨大な権力膨張は、日本列島という限られた空間の中で、物理的にも理念的にも衝突する運命にあった。

秀吉は当初、外交交渉による解決を試みた。元親に対し、臣従の証として讃岐・伊予の二国を返上するよう要求したのである 5 。これは、後の惣無事令にも通じる、天下人たる秀吉の裁定によって領土の分配を決定するという、新しい時代の秩序観の提示であった。対する元親は、多くの家臣の血と汗の上に勝ち取った領土を安易に手放すことを潔しとせず、妥協案として伊予一国のみの割譲を申し出た 4 。この交渉の決裂は、単なる領土問題に留まらない。それは、旧来の「切り取り次第」を是とする戦国的価値観と、中央集権的な新秩序の構築を目指す統一権力の論理との、根本的な思想的対立の表れであった。

交渉の余地なしと判断した秀吉の決断は早かった。既に同年正月には、毛利氏に対して戦後の恩賞として伊予・土佐を与えることを内約しており、征伐は既定路線であった 9 。同年3月から4月にかけて行われた紀州征伐は、四国侵攻の背後を固めるための周到な布石に他ならなかった 10 。そして6月、秀吉は病を理由に自らの出陣を見合わせ、最も信頼を置く弟の羽柴秀長を総大将に任命。ここに、脇城の戦いを含む未曾有の大規模軍事作戦、「四国征伐」の幕が切って落とされたのである 5

第一章:未曾有の大軍、阿波を呑む

羽柴秀吉が策定した四国侵攻計画は、その規模と周到さにおいて、長宗我部元親の予測を遥かに超えるものであった。それは、四国を三つの方向から同時に包囲し、抵抗勢力を一挙に殲滅せんとする壮大な立体作戦であった 3

  • 阿波方面軍(主力): 総大将・羽柴秀長、副将・羽柴秀次を戴き、和泉・大和・紀伊の兵を中心に編成された約6万の軍勢。淡路島を経由して阿波に上陸し、長宗我部軍の主力を叩く任を負った 8
  • 讃岐方面軍: 備前・美作の宇喜多秀家を総大将とし、播磨から黒田孝高、蜂須賀正勝・家政父子、そして仙石秀久らが加わった約2万3千の軍勢。備前から屋島に上陸し、讃岐を制圧後、阿波へと転進する計画であった 3
  • 伊予方面軍: 毛利輝元を名目上の総大将とし、小早川隆景、吉川元長といった毛利の両翼が率いる約3万の軍勢。安芸から伊予北部に上陸し、元親の本陣である白地城の背後を脅かす役割を担った 3

総兵力は実に10万以上。対する長宗我部方の最大動員兵力は4万とされ、その戦力差は絶望的であった 6

この三方面軍の中でも、脇城が直接対峙することになる阿波方面軍は、文字通り秀吉軍の中核を成す精鋭部隊であった。総大将の羽柴秀長は、温和で理知的な人柄から「仏の羽柴」と称され、諸大名との調整役として秀吉の絶大な信頼を得ていただけでなく、数々の戦場で大軍を的確に指揮する能力も証明済みの名将であった 11 。副将の羽柴秀次(当時は信吉)は秀吉の甥として、この大戦での武功を期待された若き将である 8 。そして、この軍団の真価を決定づけていたのが、軍監として加わっていた黒田孝高(官兵衛)の存在である。日本屈指の智将と謳われた彼の参画は、この戦いが単なる力押しではなく、調略や心理戦を駆使した高度な戦略の下に進められることを意味していた 7 。さらに、阿波の地理に精通する蜂須賀家政・正勝父子の存在は、円滑な進軍を保証すると同時に、戦後の阿波統治を既に見据えた布陣であった 6

天正13年6月16日、秀長率いる先発隊3万は堺を出航し、淡路島の洲本城へと渡った 9 。この城は、四国侵攻における前線基地として機能した。間もなく、明石海峡を渡ってきた秀次率いる3万の軍勢と合流。総勢6万となった羽柴軍主力は、6月下旬、阿波国北東部の土佐泊(現在の鳴門市付近)一帯への上陸を開始した 8 。圧倒的な大軍の出現は、阿波東部の長宗我部方諸城を震撼させた。羽柴軍は抵抗を各個撃破しながら、一路、吉野川流域を西進。その最終攻略目標の一つとして、阿波中西部の防衛拠点、脇城と岩倉城が定められていたのである 18

【表1】四国征伐における両軍の編成比較(阿波方面)

項目

羽柴軍(阿波方面軍)

長宗我部軍(阿波防衛軍)

総大将

羽柴秀長

長宗我部元親(総指揮:白地城)

方面軍大将

羽柴秀次

(各城主が分散して指揮)

主要武将

黒田孝高、蜂須賀家政、藤堂高虎、増田長盛など

谷忠澄、江村親俊(一宮城)、香宗我部親泰(牛岐城)、比江山親興(岩倉城)、長宗我部親吉(脇城)など

推定兵力

約60,000

阿波全体で10,000~15,000程度(脇城単体では約5,000 20

装備・士気

最新の鉄砲・大砲を装備。補給も潤沢で士気は高い 7

兵力・装備共に劣勢。長期戦は困難な状況 7

この戦力比較は、脇城の戦いが始まる以前から、既に戦略的優劣が決していたことを示している。後の城主・長宗我部親吉の決断は、この圧倒的な戦力差という冷徹な現実を前に下されたものであった。

第二章:吉野川の防衛線 ― 虎伏城、脇城の実像

羽柴軍の侵攻を迎え撃つ長宗我部元親の防衛戦略は、阿波国の地理的特性を最大限に活かしたものであった。彼は四国四箇国の結節点にあたる阿波西端の要衝・白地城に本陣を構え、自ら盤石の指揮体制を敷いた 5 。その上で、阿波の大動脈である吉野川流域に沿って防衛拠点を配置し、羽柴軍の西進を段階的に食い止める縦深防御を企図したのである。その防衛線の中核を成したのが、東から一宮城、岩倉城、そして、本稿の主題である脇城であった 8

脇城の戦略的重要性は、長宗我部方のみならず、羽柴方も深く認識していた。秀吉が総大将の秀長に宛てた指令書の中では、阿波攻略における最終目標として、一宮城と並び脇城の名が明確に挙げられている 18 。これは、脇城が吉野川中流域を扼し、美馬郡・三好郡、ひいては元親の本陣・白地城へと至る道筋を抑える、まさに「鍵」となる拠点であったことを示している。

この戦略的要衝、脇城は、吉野川北岸に広がる城山台地の西端、虎が伏せる姿に似ることから「虎伏城」とも呼ばれる舌状台地の先端に築かれた、天然の要害であった 22 。標高約100メートル、比高約60メートルの城は、南と西を急峻な崖に守られ、敵の接近を容易に許さない 19 。城の縄張り(構造)は、台地の先端に主郭(本丸)を置き、東の台地続きに二の郭、三の郭を直線的に配置する「連郭式」と呼ばれる比較的簡素なものであったが、各郭の間は大規模な空堀と土橋によって厳重に分断されていた 20

主郭内部には、籠城戦に不可欠な水源として、現在も水を湛える直径2メートルを超える石組みの見事な井戸が掘られていた 19 。そして、この城最大の防御施設は、主郭と二の郭を隔てる巨大な空堀であった。その規模は幅約6メートル、深さ4メートル、長さ42メートルにも及び、力攻めを試みる敵兵の前に大きな障壁として立ちはだかったであろう 23 。縄張り自体は中世山城の様相を色濃く残すものの、その規模は徳島県内でも最大級であり、一朝有事の際には堅固な砦として機能することが期待されていた 19

この重要拠点を守る将として元親が配したのが、一門の長老格である長宗我部親吉であった。元親の叔父ともされるがその系譜には謎が多く 26 、元親の四国平定戦で歴戦を重ねた経験豊富な武将であったことだけが確かである 27 。天正10年(1582年)、元親が旧城主の武田信顕を攻め滅ぼした後に脇城主として入城し、この地を守っていた 23 。彼が率いた兵力は一説に五千とされるが 20 、数千規模であったと考えるのが妥当であろう。

しかし、元親が描いたこの防衛計画には、構造的な脆弱性が内包されていた。それは、吉野川沿いの諸城を「点」として配置し、それぞれが独立して敵の進攻を遅滞させることに依存する戦略であった。これは兵力で劣る側が地形を利用して時間を稼ぐ、戦国時代の典型的な防衛思想である。だが、対する羽柴軍は、総兵力10万を超える圧倒的な物量で、四国全土を「面」として制圧する作戦を展開していた。彼らは一つの城(点)の攻略に固執することなく、必要とあらばこれを迂回し、戦略目標である元親本陣への最短ルートを確保することを優先した。讃岐方面軍が植田城の攻略を後回しにして阿波へ転進したのがその好例である 7 。この結果、脇城のような個別の城塞は、たとえどれほど堅固であっても、他の拠点が陥落すれば容易に孤立し、その戦略的価値を失う運命にあった。脇城の攻防戦は、戦国的な「点の防御」が、豊臣政権の近世的な「面の制圧」の前にいかに無力であったかを物語る、象徴的な戦いとなるのである。

第三章:攻防の刻 ― 迫る羽柴軍、揺れる長宗我部

天正13年7月中旬、吉野川流域を席巻しつつ西進してきた羽柴秀次率いる約3万の軍勢は、ついに阿波中部の防衛線、脇城とその東に隣接する岩倉城の眼前に到達した。二つの城は瞬く間に大軍によって包囲され、外部との連絡も援軍も完全に遮断された 18 。西方の白地城にいる元親の本隊も、東方の一宮城も、それぞれが敵軍と対峙しており、救援は絶望的であった 9 。孤立した城内で、長宗我部親吉と城兵たちは、かつて経験したことのない規模と質の攻城戦に直面することになる。

羽柴軍が展開した攻城戦術は、単なる力攻めではなかった。それは、圧倒的な武力、最新兵器による技術的圧力、そして巧みな心理戦を融合させた、新しい時代の戦いであった。軍監として全軍に睨みを利かせる黒田孝高は、「戦わずして勝つ」を信条とする調略の達人である 16 。本格的な攻撃に先立ち、幾度となく降伏勧告の使者が送られ、城外を埋め尽くす大軍を見せつけることで、抵抗の無益さを説いたと想像に難くない。

そして、その言葉が偽りでないことを証明するかのように、羽柴軍は当時の最新兵器を戦場に投入した。史料によれば、羽柴秀次軍は岩倉城に対して大砲を撃ち込んだと記録されている 10 。戦国時代後期における大砲(大筒や石火矢)は、城壁そのものを粉砕するほどの威力は持たなかったものの、木造の櫓や城門を破壊し、城兵に直接的な損害を与えるには十分な力を持っていた 29 。しかし、それ以上に恐ろしかったのは、その轟音と着弾時の衝撃がもたらす心理的効果であった。大地を揺るがし、耳をつんざく爆音とともに飛来する鉄や石の塊は、それまで弓矢と鉄砲の応酬しか知らなかった城兵たちの士気を根底から揺さぶり、戦意を削ぐのに絶大な効果を発揮したのである 31

一方、籠城する長宗我部親吉と配下の兵たちも、ただ恐怖に震えていたわけではない。一説に五千と伝わる城兵は、数日間にわたり羽柴軍の猛攻に耐え抜いた 20 。脇城の険しい地形と深く巨大な空堀は、羽柴軍の安易な突撃を許さず、城壁の狭間からは鉄砲や弓矢による必死の応戦が続けられたことであろう 33

だが、時間は籠城側に味方しなかった。日を追うごとに備蓄された兵糧は減り、矢弾も尽きていく。城外の敵は減るどころか、その勢いを増すばかりに見えたであろう。そして、東の岩倉城の方角から絶え間なく響いてくる大砲の轟音は、脇城の兵士たちに「次は我々の番だ」という抗いがたい恐怖と、もはやこれまでかという絶望感を植え付けていったに違いない。

この脇城の戦いは、戦国末期における攻城戦術の変容を如実に示している。伝統的な力攻めや兵糧攻めに加え、大砲という技術的圧力と、黒田孝高に象身される組織的な調略・心理戦が組み合わさった、豊臣政権の新しい戦いの形がここにあった。脇城の守備兵たちは、単に目前の敵兵と戦っていたのではない。彼らは、大砲の恐怖、補給断絶による絶望、そして降伏を促す甘言という、物理的・兵站的・心理的な三方向からの複合的な圧力に晒されていた。この多層的な攻撃こそが、比較的短期間での開城へと繋がる根源的な要因となったのである。

第四章:岩倉城の陥落と脇城の決断

脇城の運命を決定づけたのは、隣で共に奮戦していたはずの岩倉城の陥落であった。羽柴秀次軍は、二城を同時に包囲しつつも、まずは防衛線の突破口として、より東に位置する岩倉城に攻撃を集中させた 10 。数日間にわたる大砲による砲撃と猛攻の末、7月下旬、城主・比江山親興はこれ以上の抵抗は無意味と判断し、ついに降伏。城は羽柴軍の手に落ちた 10

この報は、包囲下の脇城に衝撃と動揺をもたらした。連携して敵を防ぐべき味方を失い、脇城は吉野川中流域における長宗我部方の最後の孤塁と化したのである。東からの脅威が全て脇城一点に集中することとなり、吉野川沿いに防衛線を形成するという当初の戦略は完全に破綻した 27 。もはや籠城を続ける戦略的意義そのものが失われ、城主・長宗我部親吉は究極の決断を迫られることとなる。

岩倉城の開城という現実は、脇城にとって戦術的な死刑宣告であると同時に、黒田孝高ら羽柴軍の交渉役にとっては絶好の好機であった。「岩倉城は賢明にも降伏し、城兵の命は救われた。これ以上無益な抵抗を続ければ、貴殿らの運命は岩倉城とは異なるものとなろう」― このような説得が、岩倉城の将兵の安堵した姿を見せつけながら行われたであろうことは想像に難くない。

味方はなく、援軍の望みも絶たれた。抵抗を続ければ、待つのは城兵全員の死のみ。長宗我部親吉は、武将としての名誉と、将兵の命を天秤にかけた。そして彼は、玉砕という道を選ばなかった。岩倉城が降伏したのを見て、それに倣う形で降伏を決意したのである 27 。これは、いたずらに将兵の血を流すことを避けた、指揮官としての現実的かつ人道的な判断であった。親吉は羽柴軍に和議を請い、城を明け渡した 22 。ただし、この時点ではまだ元親本体の降伏が確定していなかったため、脇城の武装解除後も羽柴軍による包囲は継続されたという 27 。これは親吉の降伏が個人的な投降ではなく、あくまで長宗我部軍の一部隊としての戦闘停止であったことを示唆している。

この岩倉城から脇城へと至る「連鎖的降伏」は、戦国時代の終焉期における特徴的な現象であった。圧倒的な軍事力と巧みな交渉術を併せ持つ豊臣という巨大な統一権力を前にした時、地域の勢力は組織的抵抗の限界を悟らざるを得ない。一つの拠点の陥落が、ドミノ倒しのように隣接する拠点の戦意を喪失させ、抵抗の合理性そのものを奪っていく。脇城の開城は、個々の武将の勇気や忠誠心といった精神論だけでは覆すことのできない、時代の大きなうねりを前にした、戦国武将の現実的な選択だったのである。

第五章:開城、そして悲劇 ― 長宗我部親吉の最期

脇城の無血開城により、戦いは終わったかに見えた。和議の条件に基づき、城主・長宗我部親吉と配下の将兵たちは武装を解かれ、故郷である土佐への帰還を許された 22 。しかし、親吉を待ち受けていたのは、戦場の死よりも非情な、謀略による最期であった。

親吉一行が土佐への帰路につき、美馬郡の貞光川に架かる栂橋(現在の徳島県つるぎ町周辺)に差し掛かった時、突如として何者かの襲撃を受けた 27 。不意を突かれ、満足な武器も持たない一行は、なすすべもなかった。この襲撃により、老将・長宗我部親吉は無念の死を遂げたのである 26

親吉の命を奪ったのは、小野寺吉家(史料によっては南氏とも記される)を頭目とする、その土地の土豪の一党であった 26 。彼らはもともと阿波の在地領主であったが、数年前の長宗我部元親による阿波侵攻の際に領地を奪われ、雌伏の時を過ごしていた 27 。彼らにとって長宗我部一族は、土地と誇りを奪った不倶戴天の仇敵であり、親吉はその復讐の格好の標的であった。

しかし、この事件は単なる在地土豪による私怨を晴らすための「落武者狩り」ではなかった。その背後には、阿波の新領主となることが内定していた蜂須賀家政による、冷徹な政治的計算が働いていたとする見方が有力である 27

新支配者である家政にとって、長宗我部一門の有力武将である親吉を生かして土佐に帰すことは、将来的な禍根を残すリスクを伴う。阿波国内には、依然として長宗我部氏に心を寄せる勢力が存在した可能性があり、親吉がその再結集の核となることを家政は恐れたのである。そこで家政は、自らの手を汚すことなくこのリスクを排除するため、長宗我部氏に深い恨みを抱く小野寺氏を扇動し、親吉を襲撃させたと考えられる。

小野寺氏にとって、この襲撃は積年の恨みを晴らすと同時に、新たな支配者である蜂須賀氏に忠誠を示し、取り入るための絶好の機会であった。親吉の首は、蜂須賀家への忠誠を誓う最上の「手土産」となったのである。事実、この事件の後、阿波一国は正式に蜂須賀家政に与えられ、親吉を討った小野寺氏は家臣として登用されるという形で報いられている 27

長宗我部親吉の悲劇的な最期は、戦国時代の終焉が、単に大規模な合戦の終結によってもたらされるのではなく、このような局地的で陰湿な権力闘争と、新旧支配者の交代に伴う非情な政治工作の積み重ねによって達成されていったことを、生々しく物語っている。

終章:戦後の阿波と脇城の戦いの歴史的意義

脇城、そして岩倉城という阿波中部の要衝が陥落したことで、長宗我部元親が築いた吉野川の防衛線は完全に崩壊した 20 。羽柴軍の奔流を食い止める術はもはやなく、東からは秀長・秀次軍が、西からは伊予を制圧し終えた小早川軍が、元親の本陣・白地城へと殺到する挟撃態勢が完成した 9 。長宗我部方最大の拠点であった一宮城も、20日間に及ぶ籠城戦の末に開城。城から脱出した重臣・谷忠澄は白地城へと駆け戻り、元親に対し、羽柴軍の武具や馬具が光り輝き、兵糧も潤沢で士気も極めて高いのに対し、味方の装備はみすぼらしく、兵糧も乏しいという圧倒的な戦力差を報告し、これ以上の抗戦は無謀であると涙ながらに説得した 5

万策尽きた元親は、ついに降伏を決断する。天正13年7月25日、秀長の和睦勧告を受け入れ、四国統一の夢は、その達成からわずか数ヶ月で幻と消えた 10 。戦後処理において、秀吉は元親に土佐一国の安堵のみを認め、苦心の末に手に入れた阿波・讃岐・伊予の三国は没収された 37 。そして、戦功第一として阿波国は蜂須賀家政に与えられたのである 38

阿波の新領主となった蜂須賀家政は、領国支配を盤石なものとするため、国内の要所に九つの支城を設け、重臣を配して統治させる「阿波九城」体制を構築した 40 。脇城もその戦略的重要性を高く評価され、阿波九城の一つとして位置づけられた。吉野川上流域を抑える「上郡表の惣押さえ」として、蜂須賀家筆頭家老の稲田植元が1万石の知行と共に城代として入城した 19 。稲田氏の統治の下、脇城は近世城郭として改修が加えられ、その城下町は阿波西部の政治・経済の中心地として大いに繁栄した。現在、国の重要伝統的建造物群保存地区として知られる「うだつの町並み」は、この稲田氏の時代にその基礎が築かれたものである 23 。その後、脇城は寛永15年(1638年)の一国一城令により廃城となるまで、蜂須賀藩の重要拠点としてその役割を果たし続けた 22

脇城の戦いは、四国征伐全体から見れば局地的な一戦闘に過ぎないかもしれない。しかし、この城の陥落が阿波戦線の趨勢を決し、長宗我部方の防衛網を連鎖的に崩壊させ、元親の早期降伏を促した決定的な転換点であったことは間違いない。それは、豊臣秀吉の圧倒的な軍事力と巧みな戦略が、一地方の雄をいかに容易に屈服させるかを見せつけ、天下統一事業が最終段階に入ったことを全国に知らしめる戦いであった。そして、戦後の脇城の変遷は、中世的な軍事拠点から近世的な行政・経済拠点へと、城の役割そのものが移行していく時代の姿を象徴している。脇城の歴史は、まさしく戦国時代の終わりと、近世社会の幕開けを体現していると言えるであろう。

【付録】脇城の戦い 主要関連年表

年月日(天正13年/1585年)

主要な出来事

関連史料・典拠

1月17日

秀吉、毛利に対し伊予・土佐の割譲を約束。四国征伐の意向を示す。

9

3月~4月

秀吉、紀州征伐を完了。四国侵攻の背後を固める。

10

6月16日

羽柴秀長軍、堺を出航し淡路・洲本へ。

9

6月下旬

秀長・秀次軍、阿波・土佐泊に上陸開始。

8

7月初旬

讃岐方面軍、喜岡城などを攻略後、阿波へ転進。

7

7月中旬

羽柴秀次軍、脇城・岩倉城の包囲を開始。

18

7月21日頃

羽柴軍、岩倉城に大砲を撃ち込み、陥落させる。

10

7月21-22日頃

岩倉城陥落を受け、長宗我部親吉、脇城を開城。

10

7月25日

長宗我部元親、白地城にて降伏。

10

7月下旬~8月初旬

親吉、土佐への帰還途中、貞光川にて土豪・小野寺氏に殺害される。

26

8月6日

秀吉、元親の降伏を正式に受諾。四国平定が完了。

37

8月以降

蜂須賀家政が阿波国主として入国。稲田植元が脇城代となる。

20

引用文献

  1. 四国攻めとは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81-3132294
  2. 四国平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11099/
  3. 秀吉軍と戦った讃岐武士 - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2875
  4. 四国平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  5. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  6. 四国の城(一宮城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle08/085502/sub085502
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  8. 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
  9. 「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗我部氏との決着 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/51
  10. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  11. 『羽柴秀長』兄・秀吉を支えた補佐役...実はお金の執着が凄かった? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/hidenaga-miser/
  12. 【信長の野望 天下への道】羽柴秀長の評価とおすすめ編制(編成)【信長天下道】 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/nobunagatenka/492062
  13. 豊臣秀長とは?兄・豊臣秀吉との関係やその活躍を紹介 - チャンバラ合戦 https://tyanbara.org/column/28751/
  14. 織田軍その9 織田(羽柴)秀勝・羽柴(宮部)秀次の家臣団と軍団|鳥見勝成 - note https://note.com/lively_nihon108/n/n64d94208731c
  15. 黒田孝高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
  16. 文庫】名参謀 黒田官兵衛 戦国最強の交渉人 | 書籍案内 - 文芸社 https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-14530-3.jsp
  17. 第3章 史跡洲本城跡の概要 https://www.city.sumoto.lg.jp/uploaded/attachment/8457.pdf
  18. 脇城(徳島県美馬市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/8055
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