臼井城の戦い(1564)
永禄九年、軍神上杉謙信は臼井城を攻めるも、城主原胤貞と北条援軍の決死の反撃に遭い大敗。謙信の不敗神話は崩れ、関東の勢力図は北条氏優位へと転換。越相同盟の遠因となった。
臼井城の戦い(永禄九年)に関する詳細調査報告書:軍神の権威を揺るがした関東史の転換点
序論:軍神、下総に沈む ― 臼井城の戦いの歴史的位置づけ
日本の戦国時代史において、個々の合戦はしばしば、より大きな戦略的文脈の中で理解されるべき画期的な出来事として位置づけられる。「臼井城の戦い」もまた、その例外ではない。本報告書が主題とするこの戦いは、一般に永禄9年(1566年)に発生したとされる下総国(現在の千葉県)における攻防戦である 1 。当初の照会にあった永禄7年(1564年)は、本合戦の直接的な引き金となった「第二次国府台合戦」が勃発した年であり、この二つの戦いは分かちがたく結びついた一連の軍事・政治的変動として捉える必要がある。
この戦いは、単なる一城の攻防戦という範疇を遥かに超える歴史的意義を持つ。それは、「軍神」「越後の龍」と畏怖された上杉謙信(当時は輝虎)の不敗神話を事実上崩壊させ 2 、彼が生涯をかけて推し進めた関東経営に深刻な打撃を与えたからに他ならない。この一敗を境に、関東の勢力図は後北条氏優位へと決定的に傾き、やがては長年の宿敵であった上杉氏と北条氏が手を結ぶ「越相同盟」という、戦国史における一大政治的転換へと繋がっていく 1 。本報告書は、臼井城の戦いを多角的な視点から分析し、その背景、戦闘経過、そして関東の歴史に与えた深遠な影響を、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
第一部:戦雲、印旛沼に垂れ込める ― 合戦に至るまでの道程
臼井城の戦いは、突発的に生じた事象ではない。それは、関東の覇権をめぐる上杉氏と北条氏の長年にわたる角逐、そして直前の大規模な会戦の結果として、必然的に引き起こされたものであった。
第一章:関東の二大勢力 ― 越後の龍と相模の獅子
上杉輝虎(謙信)の関東経営
越後の長尾景虎(後の上杉謙信、本報告書では輝虎に統一)が関東の争乱に本格的に介入したのは、関東管領・上杉憲政を庇護したことに端を発する。北条氏康の圧迫によって領国を追われた憲政を助け、その大義名分を継承することで、輝虎は関東の諸将を糾合し、旧来の秩序を回復するという政治的目標を掲げた 4 。永禄4年(1561年)には、10万ともいわれる大軍を率いて関東へ侵攻し、北条氏の本拠・小田原城を包囲するに至る 5 。この遠征の帰途、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職を襲名し、名実ともに関東における反北条勢力の盟主となった 5 。しかし、輝虎の関東経営には構造的な脆弱性が内包されていた。越後からの遠征は兵站線が伸びきり、長期滞在が困難であること、そして彼に従う関東諸将の結束は、輝虎の軍事力と勝利への期待に依存する、極めて不安定なものであった 6 。
北条氏康の関東支配
一方、伊豆・相模を起点とした後北条氏は、初代・早雲以来、着実に関東での勢力圏を拡大してきた。三代目当主・氏康の時代には、巧みな外交戦略と軍事力によって、武蔵、下総、上野へと影響力を浸透させていた。北条氏の強みは、単に軍事力で制圧するだけでなく、婚姻政策や在地領主を「寄親・寄子」として組織に組み込むなど、支配体制を緻密に構築した点にある。特に、同盟関係にある大名家の有力家臣を、主家とは別の指揮系統に組み込む「他国衆」制度は、その支配の巧みさを示すものであった 8 。
第二次国府台合戦(永禄7年/1564年)の衝撃
輝虎の関東介入に対し、北条氏と長年同盟関係にあった房総の里見氏は、輝虎と連携して北条氏に対抗する道を選んだ。この両者の対立が頂点に達したのが、永禄7年(1564年)1月の第二次国府台合戦である。
この戦いの発端は、北条氏の家臣であった江戸衆の太田康資が、恩賞への不満から離反し、里見氏を頼ったことにあった 5 。里見義弘はこれを好機と捉え、岩付城主・太田資正らと連合し、下総国府台に進出する。緒戦では、里見軍が北条氏政の率いる先陣を破り、北条方の重臣・遠山綱景らを討ち取るなど優勢に戦いを進めた 5 。しかし、この勝利に油断した里見軍が祝宴を開いていたところを、北条氏康・氏政父子率いる本隊に奇襲され、大敗を喫した 5 。この敗戦により、里見義弘は命からがら安房へ撤退し、里見氏は下総における拠点のほぼ全てを喪失するという壊滅的な打撃を受けた 5 。
この第二次国府台合戦の結果は、臼井城の戦いを理解する上で決定的に重要である。1564年の里見氏の敗北は、下総における上杉方の橋頭堡を完全に破壊し、この地域におけるパワーバランスを北条氏優位へと一変させた。北条氏の勢力が房総半島に深く浸透し、上杉方の同盟者である里見氏が窮地に陥ったこの状況を打開するためには、上杉輝虎自身による大規模な軍事介入が不可欠となった。かくして、1566年の関東出兵と、その主目標となった臼井城への攻撃は、1564年の国府台での敗北に対する直接的な「巻き返し」として計画されたのである。
第二章:要衝・臼井城と城主・原胤貞
戦略拠点としての臼井城
輝虎が次なる攻撃目標として選んだ臼井城は、下総国における屈指の戦略拠点であった。この城は、広大な印旛沼の南岸に位置する台地上に築かれており、沼の水運を完全に掌握できる地政学的な優位性を持っていた 12 。印旛沼や利根川水系は、当時の関東における物資輸送の大動脈であり、ここを支配することは経済的・軍事的に絶大な意味を持った。輝虎が臼井城を狙った背景には、この水運を確保し、北条方と里見方の連絡を容易にすると同時に、北条氏の房総半島への補給路を断つという明確な戦略的意図があったと考えられる 14 。さらに、臼井城は千葉氏の本拠である本佐倉城の重要な支城であり、ここを落とすことは千葉氏全体への大きな圧力となるはずであった 13 。
城主・原胤貞の複雑な立場
この要衝を守る城主が、原上総介胤貞であった。原氏は、下総の名門・千葉氏の重臣でありながら、代々その勢力は主家を凌ぐとさえ言われ、「千葉に原、原に高城・両酒井」と俚謡に謳われるほどの実力者であった 8 。胤貞は、千葉氏の家臣という立場でありながら、その動向は単なる一被官に留まらなかった。
彼の立場を複雑にしていたのは、北条氏との関係である。永禄年間、原胤貞率いる勢力は、主家である千葉宗家の「作倉衆」とは別に、北条氏から直接指示を受ける「他国衆」として、「臼井衆」という独立した軍事単位として認識されていた 8 。北条氏との連絡役である「指南」も、千葉宗家が遠山氏であったのに対し、原氏は松田憲秀が務めており、明確に異なる指揮系統下に置かれていた 8 。これは、北条氏が同盟者である千葉氏を完全に信用せず、その内部に直接的な影響力を行使できる楔を打ち込むという、高度な支配戦略の現れであった。
したがって、輝虎が千葉氏の本拠である本佐倉城ではなく、臼井城を主目標とした理由は、単なる地理的な問題ではなかった。彼は、臼井城が名目上は「千葉氏の城」でありながら、実質的には「北条氏の城」という二重の性格を持つ、房総における北条支配の牙城であることを見抜いていた。輝虎の狙いは、千葉氏そのものを屈服させること以上に、その領内に深く食い込んだ北条氏の直接的な影響力を排除し、関東における北条氏の支配構造そのものに打撃を与えることにあったのである。
第二部:両雄、相見える ― 参戦勢力と主要人物
永禄9年(1566年)3月、印旛沼を望む臼井城には、関東の未来を決するべく二つの勢力が集結した。その兵力差は歴然としており、戦いの帰趨は誰の目にも明らかに見えた。
表1:臼井城の戦い 参戦勢力比較
項目 |
攻撃軍(上杉連合) |
防御軍(千葉・北条連合) |
総大将 |
上杉輝虎(謙信) |
原胤貞 |
主要武将 |
長尾景長、里見義弘、酒井氏など関東諸将 |
原胤貞、白井浄三(軍記物)、松田康郷(援軍)、千葉胤富(援軍) |
推定兵力 |
約15,000 |
約2,000(援軍含む) |
この表が示す通り、両軍の兵力には7倍以上の開きがあった 4 。この圧倒的な戦力差は、防御側がいかに絶望的な状況に置かれていたかを物語っている。この事実こそが、後の城方の奇跡的な勝利を際立たせ、この戦いが「謙信最大の敗北」として後世に語り継がれる根源的な理由となっている。
第一章:攻撃軍:上杉連合
総大将・上杉謙信
攻撃軍を率いるのは、言わずと知れた「軍神」上杉輝虎(謙信)である。その生涯において、合戦での敗北はほとんどないとされ、その戦術能力は戦国時代においても傑出していた。関東管領としての政治的権威も兼ね備え、彼がひとたび関東へ出兵すれば、多くの反北条勢力がその旗の下に馳せ参じた。しかし、その輝かしい戦歴の中で、城攻め、特に堅城の攻略には手こずる場面が散見され、一つの弱点と見なされることもあった 16 。
連合軍の構成
上杉軍の中核を成すのは、輝虎子飼いの越後衆であった。しかし、この時の軍勢の主力を構成していたのは、むしろ輝虎に呼応した関東の諸将であった可能性が高い。特に、第二次国府台合戦で雪辱を期す安房の里見氏や、上総の酒井氏といった反北条の国衆が、その多くを占めていたとみられている 17 。彼らの参陣は軍勢の規模を大きくしたが、一方でその結束は必ずしも強固ではなく、戦況次第では容易に離反する危険性を孕んでいた。
第二章:防御軍:千葉・北条連合
城主・原胤貞
絶望的な兵力差を前に、臼井城に籠城したのは城主・原胤貞であった。彼は、主家である千葉氏や同盟者である北条氏に援軍を要請したものの、十分な支援は得られなかった 14 。主家の千葉介胤富はわずか500の兵を派遣するに留まり、関東全域で上杉方と対峙していた北条氏に至っては、松田康郷が率いるわずか250騎(一説には150騎)を派遣するのがやっとであった 7 。この事実は、臼井城の将兵が、ほとんど独力で上杉の大軍と対峙しなければならなかったことを示している。このような状況下で籠城を決断し、兵の士気を維持した胤貞の指揮能力と人望は、高く評価されるべきであろう 8 。
第三章:戦場の鍵を握る者たち ― 史実と伝説の狭間で
臼井城の戦いを語る上で、二人の特異な人物の存在を欠かすことはできない。一人は史料にその名が見えない謎の軍師、もう一人は鬼神のごとき武勇で知られた猛将である。
謎の軍師・白井浄三
後世に編纂された『関八州古戦録』などの軍記物語において、臼井城の勝利を演出した天才軍師として描かれるのが、白井入道浄三(胤治)である 3 。彼の出自は不明で、千葉氏に代々仕えたとも、近畿の三好三人衆に仕えた後に東国へ下ったともいわれる 14 。物語の中で浄三は、天文や占術を駆使して戦況を予測し、城壁を意図的に崩して敵兵を誘い込み生き埋めにするなど、常人には思いもよらない奇策をもって上杉軍を翻弄したとされる 4 。
しかし、白井浄三という人物は、同時代の一次史料ではその存在を確認することができない 14 。彼の華々しい活躍は、後世の創作である可能性が極めて高い。だが、彼の存在を単なる虚構として片付けるべきではない。「なぜ軍神・上杉謙信が、圧倒的兵力を持ちながら、格下の城に大敗したのか」という、歴史上の大きな謎に対して、後世の人々が与えた「物語的な解答」が、白井浄三というキャラクターなのである。常識では説明のつかない敗北を合理化するために、常識を超えた「天才軍師」という存在が必要とされた。彼の物語は、この敗北がいかに当時の人々に衝撃を与えたかを物語る、文化的記憶の産物と言えるだろう。
「赤鬼」松田康郷
白井浄三が伝説上の人物であるのに対し、北条氏からの援軍を率いた松田肥後守康郷は、紛れもない実在の武将である 7 。彼は、原氏の指南役であった松田憲秀の縁者であり、わずかな手勢を率いて落城寸前の臼井城へ入城した 7 。『北条記』などの記録によれば、決戦の際、康郷は深紅の「朱具足」を身にまとい、鬼神のごとき働きで上杉軍の本陣にまで肉薄したという 7 。その勇猛な姿から「赤鬼」の異名で恐れられた 7 。数こそ少なかったものの、彼が率いた北条の精鋭部隊の奮戦が、戦局を覆す上で決定的な役割を果たしたことは間違いない。彼の存在は、伝説の背後にある、生の武勇と決死の覚悟がこの奇跡を生んだことを示している。
第三部:死闘の軌跡 ― 臼井城攻防戦の時系列的再構築
永禄9年(1566年)春、下総国臼井城を舞台に繰り広げられた攻防戦は、戦国史に残る劇的な逆転劇であった。ここでは、断片的な記録を繋ぎ合わせ、その死闘の軌跡を可能な限り時系列に沿って再構築する。
第一章:永禄9年2月~3月上旬 ― 包囲網の完成
永禄8年(1565年)11月、上杉輝虎は越後を発ち、三国峠を越えて関東へ侵攻した 14 。越冬後、永禄9年2月には常陸の小田城を数日で陥落させると 2 、下総へと軍を進めた。輝虎は小金城(現在の松戸市)近くの本土寺に本陣を構え、臼井城攻略の態勢を整えた 2 。そして3月上旬、輝虎率いる1万5千の大軍は、原胤貞の守る臼井城を完全に包囲した 4 。城兵わずか2千。圧倒的な兵力差を前に、城内には絶望的な空気が漂ったことであろう。
第二章:3月中旬~20日頃 ― 落城寸前の攻防
包囲完成後、上杉軍による猛攻が開始された。昼夜を問わず続けられる波状攻撃に、城方は必死の防戦を続けたが、徐々に外郭から削られていった。攻防は熾烈を極め、3月20日付で上杉方の重臣・長尾景長が下野国の足利へ送った書状には、「臼井之地実城堀一重を残すのみ」と記されている 14 。これは、城の防御施設が次々と破られ、本丸を囲む最後の堀を残すのみという、まさに落城寸前の状況であったことを示す生々しい記録である。援軍の当ても乏しく、城内の誰もが数日内の落城を覚悟したに違いない。
第三章:3月23日(または26日) ― 乾坤一擲の逆襲
絶体絶命の状況下で、城方は常識を覆す決断を下す。籠城による持久戦を放棄し、城から打って出ての一大決戦に賭けたのである。軍記物語では、この奇策は軍師・白井浄三の発案とされる 21 。
決行の日、臼井城の全ての城門が一斉に開け放たれた。予期せぬ敵の行動に上杉軍が戸惑う中、城兵は三隊に分かれて怒涛のごとく突撃を開始した 7 。不意を突かれた上杉軍の先陣は混乱に陥り、浮き足立つ。第一陣、第二陣が敵陣を切り崩し、活路を開くと、第三陣として「赤鬼」松田康郷が率いる部隊が突入した。
朱具足を身にまとった康郷の奮戦は、まさに鬼神の働きであった。『北条記』によれば、彼は刀が折れるまで敵を斬り伏せ、ついには素手で敵兵の首をねじ切ったとさえ伝えられる 16 。その猛烈な突進は上杉軍の指揮系統を麻痺させ、ついに輝虎の本陣にまで迫った 7 。この決死の突撃が、上杉軍の総崩れのきっかけとなった。
また、軍記物には、浄三が意図的に城壁の一部を脆くしておき、攻め寄せてきた上杉兵を誘い込んだ上で城壁を崩落させ、多数を生き埋めにしたという計略も描かれている 4 。これが史実である可能性は低いが、城方が知略と覚悟をもって、この絶望的な戦いを覆したことを象徴する逸話として語り継がれている。
第四章:4月 ― 潰走と撤退
城方の乾坤一擲の逆襲により、上杉軍は致命的な打撃を受けた。指揮系統は乱れ、将兵は算を乱して敗走した。この一戦における上杉軍の損害については、記録によって大きな隔たりがある。北条方の資料では死傷者数千人から5,000人にのぼると誇張されている一方、上杉方の記録では死者300人程度とされている 4 。数字の真偽はともかく、輝虎にとってこれが手痛い損害を伴う紛れもない大敗北であったことは確かである。
この敗戦を受け、輝虎は臼井城の攻略を断念。4月には関東から全軍を撤退させ、越後へと帰還した 4 。「軍神」の威信に、決して消えることのない深い傷を負っての敗走であった。
第四部:戦後の関東 ― 歴史を変えた一戦の影響
臼井城での一戦は、単なる局地的な戦闘の勝敗に留まらず、その後の関東全体の政治・軍事状況に長期的かつ決定的な影響を及ぼした。それは、関東における勢力図を塗り替え、長年の敵対関係すらも再編するほどの衝撃であった。
表2:関東のパワーバランス変動年表(1564年~1569年)
年月 |
出来事 |
影響 |
永禄7年(1564) 1月 |
第二次国府台合戦 |
里見氏が下総から後退。北条氏の房総への影響力が拡大。 |
永禄9年(1566) 3月 |
臼井城の戦い |
上杉謙信が大敗。謙信の軍事的権威が失墜。 |
永禄9年(1566) 閏8月以降 |
関東諸将の離反 |
小田氏、結城氏、宇都宮氏、由良氏などが次々と上杉方から離反し、北条方に転じる 3 。 |
永禄10年(1567) 8月 |
三船山合戦 |
里見氏が北条氏に勝利し、上総における勢力を一部回復するも、下総への影響は限定的 5 。 |
永禄12年(1569) |
越相同盟の締結 |
謙信の関東経営が頓挫し、武田信玄の脅威が共通課題となった結果、上杉氏と北条氏が同盟を締結 1 。 |
この年表が示すように、臼井城の戦いは、国府台合戦という「原因」から、関東諸将の離反と越相同盟という「結果」へと至る歴史の連鎖における、決定的な「転換点」であった。
第一章:上杉謙信の権威失墜
不敗神話の崩壊と関東諸将の離反
臼井城での敗北が上杉輝虎に与えた最大の打撃は、兵の損失以上に、その軍事的権威の失墜であった。戦国最強と謳われた「軍神」が、圧倒的優位な状況で格下の城を落とせず、大敗を喫したという事実は、関東の国衆に大きな衝撃を与えた 2 。彼らの輝虎への服従は、その絶対的な強さへの信頼と期待に基づいていた。その前提が崩れた時、彼らが離反するのは時間の問題であった。
この敗戦を機に、それまで輝虎に従っていた関東の諸将が、雪崩を打って北条方へと寝返った。常陸の小田氏、下野の結城氏、小山氏、宇都宮氏、そして上野の由良氏、成田氏といった有力国衆が、次々と上杉陣営から離脱していったのである 3 。これにより、輝虎が長年かけて築き上げてきた関東における反北条包囲網は、一挙に瓦解した。結果として、輝虎の生涯の目標であった関東平定の夢は、この一戦によって事実上、頓挫したと言っても過言ではない 7 。
この敗北の深刻さを物語る、もう一つの強力な証拠が存在する。それは、『上杉家御年譜』をはじめとする上杉側の公式な記録から、臼井城の戦いに関する記述が完全に抹消されているという事実である 2 。公式の歴史記録は、その家の権威を高めるために編纂されるのが常である。その記録から、これほど大規模な軍事行動が意図的に削除されているということは、この敗北が輝虎の経歴における最大の汚点であり、後世に伝えたくないほど屈辱的なものであったことを、記録の「沈黙」が雄弁に物語っているのである。
第二章:北条氏の覇権確立と関係者のその後
北条氏の房総支配
上杉勢力が関東から後退したことで、空白となった権力基盤を吸収したのは北条氏であった。輝虎の権威が失墜した今、関東の国衆はより身近で現実的な強者である北条氏に従うほかなく、北条氏の関東における覇権は盤石のものとなった 16 。特に、下総においては千葉氏への支配を決定的なものとし、房総半島全体への影響力を確固たるものにした 1 。
関係者のその後
臼井城を守り抜いた原胤貞は、その後も北条氏の有力な与力として活動を続けた。家督は子の胤栄に引き継がれ、原氏は臼井領に一大勢力を築き、独自の官途状を発給するなど、半ば独立した権力として君臨した 29 。しかし、その栄華も長くは続かず、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐において、宗主である北条氏と運命を共にし、滅亡した 25 。
一方、上杉方の里見氏は、永禄10年(1567年)の三船山合戦で北条軍に一矢を報い、上総における勢力を一部回復した 5 。しかし、臼井城の戦いで上杉氏が敗れた以上、かつてのように下総へ影響力を行使することはもはや不可能となっていた。
第三章:歴史の転換点 ― 越相同盟への道
臼井城での敗北は、輝虎に関東経営の限界を痛感させた。一方で、北条氏康は、西から駿河へ侵攻してくる甲斐の武田信玄という新たな脅威に直面していた。関東での優位を確立した北条氏と、関東経営に見切りをつけ、対武田戦に集中したい上杉氏。両者の利害がここに一致し、永禄12年(1569年)、長年にわたる敵対関係に終止符を打ち、軍事同盟を締結するに至った(越相同盟) 1 。臼井城の戦いは、この戦国史を揺るがす歴史的な同盟が結ばれる、間接的ながらも極めて重要な要因となったのである。
結論:臼井城の戦いが残した教訓
永禄9年(1566年)の臼井城の戦いは、戦国時代の数多の合戦の中でも、特筆すべき事例として記憶されるべきである。それは、圧倒的な兵力差という不利を、地の利、巧みな戦術、そして何よりも将兵の決死の覚悟によって覆した、籠城戦における稀有な成功例である。
しかし、その真の歴史的価値は、戦術的な勝利以上に、それが関東の政治・軍事状況に与えた戦略的な影響の大きさにある。この一戦は、「軍神」上杉謙信の関東戦略を破綻させ、関東諸将の勢力図を塗り替え、後北条氏の関東支配を決定づけた。そして最終的には、長年の宿敵同士を結びつける越相同盟という新たな国際関係を生み出す遠因となった。軍記物語が描く英雄譚と、史料に残された冷徹な政治的現実が交錯する臼井城の戦いは、戦国関東史における一大転換点として、その重要性を今日に伝えている。
引用文献
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