興津城の戦い(1568)
永禄十一年、武田信玄は駿河侵攻を開始。興津城と薩埵峠で今川軍と対峙するも、信玄の巧みな調略により今川氏真は重臣の内通を恐れ撤退。今川軍は総崩れとなり、興津城は落城。今川氏滅亡の決定打となった。
興津・薩埵峠の戦い(1568年)―武田信玄の駿河侵攻と今川氏の終焉―
序章:戦国史における興津・薩埵峠の戦略的価値
永禄十一年(1568年)、日本の戦国時代の勢力図を大きく塗り替える画期的な出来事が、駿河国(現在の静岡県中部)で発生した。甲斐の虎、武田信玄が長年の同盟関係にあった今川氏の領国へ侵攻を開始したのである。この「駿河侵攻」の帰趨を決したのが、同年十二月に繰り広げられた「興津・薩埵峠の戦い」であった。本報告書は、一般に「興津城の戦い」として知られるこの合戦を、より広範な「薩埵峠の戦い」の文脈の中に位置づけ、その戦略的背景から戦闘のリアルタイムな経過、そして歴史的影響に至るまでを徹底的に分析・解説するものである。
東海道の隘路、薩埵峠
薩埵峠は、駿河湾に突き出した断崖絶壁が東海道を著しく狭める、古来より知られる交通の難所である 1 。甲斐国から駿河国の府中である駿府へ軍を進めるにあたり、この峠の通過は不可避であった 2 。防衛側にとっては、少数の兵で大軍を食い止めることが可能な天然の要害であり、今川氏にとっては駿府を守る最後の、そして絶対的な防衛線と位置づけられていた。この地理的特性が、薩埵峠を侵攻軍と防衛軍双方にとって、雌雄を決する戦略的要衝たらしめていたのである。
興津城(横山城)の役割
この薩埵峠の西麓に位置し、防衛網の中核をなしたのが興津城、別名を横山城という 3 。この城は、単に峠を守る砦というだけではない。眼下に広がる興津湊を支配下に置き、海運を掌握する水軍の拠点としての機能も有していた 4 。城主は代々興津氏が務め、今川氏の被官として活躍した 3 。また、今川家の軍師として名高い太原雪斎を輩出した庵原氏もこの地域の有力国衆であり、興津氏とは姻戚関係にあった 4 。
この戦いにおける「興津城の戦い」とは、すなわち「薩埵峠の戦い」と不可分一体の事象であった。峠の防衛戦は、興津城を拠点とする庵原・興津勢が主力となっており、峠の突破は興津城の攻略を意味した。内陸国である武田信玄にとって、駿河侵攻の最大の目的の一つは「海への出口」の確保であった 8 。その観点から見れば、興津の支配は、駿府への道を開くと同時に、念願の港と水軍の拠点を手に入れるという二重の戦略的価値を持っていた。それは単なる通過点の確保以上の、信玄の国家戦略の根幹に関わる重要目標だったのである。
第一章:崩壊する三国同盟―駿河侵攻の戦略的背景
武田信玄による駿河侵攻は、突発的な行動ではなく、長年にわたる東国情勢の変化と、信玄自身の周到な戦略の末に実行されたものであった。その根底には、かつて東海道一の弓取りと謳われた今川氏の急激な凋落と、それによって生じた権力の真空地帯があった。
桶狭間の残響と今川氏の凋落
永禄三年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたことは、今川家に致命的な打撃を与えた 9 。後を継いだ今川氏真は、父・義元のようなカリスマ性や軍事的才覚には恵まれず、領国の動揺を抑えることができなかった 9 。これを好機と見た三河の松平元康(後の徳川家康)は、長年の人質生活に終止符を打ち、岡崎城で独立を果たす 1 。さらに遠江国では、井伊氏や飯尾氏といった有力国衆が次々と離反する「遠州忩劇」と呼ばれる内乱状態に陥り、今川氏の支配体制は内部から急速に崩壊していった 5 。氏真自身は楽市楽座の先駆けとなる政策を実施するなど、領国経営に全く無関心だったわけではないが 11 、一度失われた求心力を取り戻すには至らなかった。
甲相駿三国同盟の形骸化
天文二十三年(1554年)に締結され、東国の安定に寄与してきた武田・北条・今川の三国同盟も、今川氏の弱体化によってその均衡を失った 13 。信玄の目には、もはや今川氏は信頼に足る同盟国ではなく、いずれ織田や徳川に奪われるであろう脆弱な領土としか映らなくなっていた。弱体化した同盟国は、もはや自国を守る防波堤ではなく、敵に奪われる前に自らが確保すべき戦略的資産である―この冷徹な現実認識が、信玄に同盟破棄と駿河侵攻を決断させたのである 8 。
通説では、永禄十年(1567年)に今川氏が武田領への塩の輸出を停止した「塩止め」が同盟破棄の直接的なきっかけとされる 14 。しかし、信玄が水面下で進めていた周到な準備を鑑みれば、これは侵攻を正当化するための格好の「口実」として利用されたに過ぎない。信玄の真の目的は、今川の弱体化という千載一遇の好機を逃さず、長年の悲願であった太平洋への出口を確保することにあった。
水面下の密約:武田・徳川による今川領分割
永禄十一年、信玄は今川氏の旧臣である徳川家康と密約を交わした。大井川を境として、東の駿河国を武田が、西の遠江国を徳川がそれぞれ領有するという、今川領の分割協定である 16 。この密約により、駿河侵攻は武田の単独行動ではなく、東西から今川領を挟撃する共同作戦となった。これは、防衛する今川氏にとっては二正面作戦を強いられる絶望的な状況を意味した。
信玄の周到な事前調略
信玄の恐ろしさは、軍事行動に先立つ調略の巧みさにあった。彼は侵攻開始前から、今川家臣団に対して執拗な切り崩し工作を行っていた。今川一門の朝比奈信置をはじめとする重臣層に内通を促し、多くの内応者(「新衆」と呼ばれた)を確保していたのである 11 。この事前調略は、実際の戦闘が始まる前に、今川軍の組織的抵抗力を内部から蝕んでいた。後に薩埵峠で起こる劇的な結末は、この時点で既にその伏線が張られていたと言える。
第二章:両軍の態勢―開戦前夜の武田と今川
永禄十一年十二月、駿河国の命運を懸けた決戦を前に、薩埵峠を挟んで対峙した武田・今川両軍の態勢は、兵力数では拮抗していたものの、その内実は対照的であった。
武田軍:精強を誇る侵攻軍団
甲府を発した武田軍の兵力は、およそ18,000から20,000と推定される 2 。総大将はもちろん武田信玄。その麾下には、馬場信春、山県昌景、内藤昌秀といった、後に「武田四天王」と称される歴戦の将帥たちが顔を揃えていた 1 。さらに、信玄の一族であり、後に興津城主となる穴山信君(梅雪)も主要な部隊を率いていた 18 。長年にわたる信濃平定戦で鍛え上げられた兵たちの士気は極めて高く、練度も随一であった。そして何よりも、事前調略によって敵の内部崩壊を誘い、速戦即決で駿府を陥落させるという明確な戦略を共有していた点が、最大の強みであった。
今川軍:内憂を抱える防衛軍
対する今川軍は、薩埵峠の防衛ラインに約15,000の兵力を動員した 2 。総大将は今川氏真。最前線の指揮は、興津を本拠とする重臣・庵原忠胤とその子・元政が執った 20 。また、朝比奈泰朝や岡部元信のように、最後まで氏真に忠義を尽くした勇将も存在した 5 。しかし、その一方で、一門衆や家老を含む21名もの重臣が武田方に内通、あるいは内通の姿勢を見せているという致命的な問題を抱えていた 2 。相次ぐ家臣の離反と当主氏真への不信感は軍全体の士気を著しく低下させており、唯一の頼みは、義父である北条氏康の援軍が到着するまで持ちこたえるという、他力本願な持久戦略のみであった 22 。
両軍の兵力・将帥比較
両軍の戦力を比較すると、その質的な差は歴然としていた。以下の表は、開戦前夜における両軍の態勢をまとめたものである。
項目 |
武田軍 |
今川軍 |
総大将 |
武田信玄 |
今川氏真 |
主要武将 |
馬場信春、山県昌景、穴山信君など |
庵原忠胤、朝比奈泰朝、岡部元信など |
推定兵力 |
約18,000~20,000 |
約15,000(薩埵峠防衛軍) |
士気・練度 |
非常に高い |
低い(内通者多数、当主への不信) |
戦略 |
速戦即決、調略による内部崩壊 |
北条の援軍を待つ持久戦 |
備考 |
事前調略により敵内部に協力者多数 |
一門・重臣21名が内通の疑い |
この表が示すように、今川軍は戦闘が始まる前から、既に敗北の要因を内部に孕んでいた。数では劣らない兵力を動員しながらも、組織としての結束力を失った軍隊が、いかに脆弱であるかをこの戦いは証明することになる。
第三章:興津・薩埵峠の激闘―永禄十一年十二月、二日間の詳細な時系列
武田信玄の駿河侵攻は、電光石火の如く進められた。特に、薩埵峠における攻防は、わずか二日間で決着がつき、その過程は情報戦と心理戦が勝敗を分けた劇的な展開を辿った。
興津・薩埵峠の戦い 主要行動年表(永禄十一年十二月)
詳細な時系列に入る前に、この期間の主要な出来事を以下の年表にまとめる。
日時 |
場所 |
武田軍の行動 |
今川軍の行動 |
結果・備考 |
12月6日 |
甲府 |
信玄、駿河へ向け出陣 22 |
- |
侵攻開始 |
12月9日 |
富士郡 |
大宮城を攻撃 23 |
富士信忠、防衛に成功 |
緒戦は今川方が善戦 |
12月12日 |
内房・薩埵峠 |
内房に到達、薩埵峠で対峙 22 |
氏真、清見寺へ出陣。庵原忠胤を派遣 2 |
戦闘開始。今川軍が峠を堅守 |
12月13日午前 |
清見寺 |
- |
氏真、重臣の内通を恐れ駿府へ撤退 1 |
今川軍の指揮系統が崩壊 |
12月13日午後 |
薩埵峠・興津 |
総崩れの今川軍を追撃、峠を突破 1 |
指揮官不在で総崩れ、敗走 1 |
興津城(横山城)落城 24 |
12月13日夕刻 |
駿府 |
馬場信春隊が駿府に突入、賤機山城を占拠 1 |
氏真、掛川城へ敗走 1 |
駿府陥落 |
十二月六日~十一日:侵攻開始
永禄十一年十二月六日、武田信玄は2万余の大軍を率いて甲府を出陣した 22 。侵攻経路は、今川方の警戒が手薄な富士川沿いの内房口が選ばれた 18 。九日、武田軍の別働隊が駿河国富士郡の大宮城を攻撃するが、城主・富士信忠の奮戦により撃退される 23 。この時点では、今川方の防衛網はまだ機能しており、信玄の侵攻は必ずしも順風満帆ではなかった。
十二月十二日【開戦】:崖上の対峙
午前 :武田軍本隊が薩埵峠の東、内房に到達したとの報が駿府にもたらされる 22 。今川氏真はこれを受け、自ら兵を率いて興津の名刹・清見寺に本陣を構えた 2 。清見寺は、かつて足利尊氏や今川義元も帰依した要衝であり、ここを拠点に全軍を指揮する構えであった 26 。
午後 :氏真は、興津の地を知り尽くした重臣・庵原忠胤に1万5千の兵を預け、先陣大将として薩埵峠の防衛に当たらせた 20 。庵原氏は、軍師・太原雪斎を輩出した名門であり、この地の守りとしては最適任と見なされていた 5 。
夕刻~夜 :薩埵峠にて、両軍の主力が激突する。断崖絶壁と狭隘な地形という地の利を最大限に活かした今川軍は、武田軍の猛攻をよく防ぎきった 22 。初日の戦闘は、今川方の堅守により膠着状態のまま日没を迎えた。
十二月十三日【決着】:内部からの崩壊
未明~早朝 :戦況が動いたのは、戦場ではなく清見寺の今川本陣であった。氏真のもとに、今川家の一門・重臣21名が信玄に内通し、氏真を捕縛して武田方に引き渡す密約を交わした、という衝撃的な情報がもたらされたのである 2 。この報は、氏真を極度の疑心暗鬼と恐怖に陥れた。もはや誰を信じて良いのか分からず、自軍の 한가운데で孤立していると感じた。
午前 :身の危険を察知した氏真は、総大将としての責務を放棄。僅かな供回りのみで清見寺を脱出し、駿府の今川館、そして詰城である賤機山城への籠城を目指して撤退を開始した 1 。これは事実上の敵前逃亡であった。
昼頃 :「総大将、御遁走」。この報は、薩埵峠の最前線で死闘を繰り広げていた兵士たちの間に瞬く間に伝播した。指揮官を失い、味方内に裏切り者がいるという事実を知った兵士たちの士気は、一瞬にして崩壊した。組織的な抵抗は完全に不可能となり、統制を失った軍勢は我先にと逃げ出す「総崩れ」の状態に陥った 1 。
午後 :今川軍の混乱を好機と見た武田軍は、全軍で追撃を開始。もはや抵抗する者もいない薩埵峠をやすやすと突破した。この追撃の過程で、峠の麓にあり、庵原氏の拠点であった興津城(横山城)も、ほとんど抵抗らしい抵抗もできぬまま落城した 24 。
夕刻 :武田軍の先鋒、馬場信春が率いる部隊は、敗走する今川兵を追撃し、その日のうちに駿府市中へ雪崩れ込んだ。さらに、氏真が最後の望みをかけて目指していた賤機山城を先回りして占拠し、その退路を完全に遮断したのである 1 。
この二日間の戦いの勝敗を分けたのは、兵の武勇や戦術の巧みさ以上に、「情報」の速度と精度であった。信玄は事前に内通者を確保するという「情報収集・調略」で優位に立ち、氏真は「内通」という情報の伝達によってパニックに陥った。そして、その「撤退」という情報が前線に伝わることで、堅固な防衛線は自壊した。武田軍の勝利は、情報を制した者の勝利であり、戦国時代の合戦が単なる兵の衝突ではないことを示す象徴的な事例となった。
第四章:駿府陥落と今川氏の敗走
薩埵峠の防衛線が崩壊したことで、駿府は無防備な状態で武田軍の前に晒された。今川氏が長年にわたり築き上げてきた都は、一日も経たずに侵略者の手に落ち、当主・氏真は屈辱的な逃避行を強いられることとなる。
炎上する今川の都
十二月十三日の夕刻、駿府に突入した武田軍の先鋒・馬場信春は、今川館を含む駿府の町に火を放った 1 。この焼き討ちは、単なる破壊行為や略奪が目的ではなかった。それは、今川氏による駿河支配が完全に終焉したことを領民や周辺諸国に知らしめるための、極めて政治的・心理的な効果を狙った焦土作戦であった 18 。燃え盛る炎は、戦国大名・今川家の権威が灰燼に帰したことを象徴する狼煙となったのである。
氏真の逃避行と早川殿の悲劇
最後の籠城拠点であった賤機山城への退路を馬場信春によって断たれた今川氏真は、万策尽きた 1 。残された道は、最後まで忠節を尽くしていた数少ない重臣の一人、朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城へと落ち延びることだけであった 1 。
この混乱を極めた逃避行の最中、一つの象徴的な悲劇が起こる。氏真の正室であり、相模の雄・北条氏康の娘である早川殿が、乗り物である輿を用意する暇もなく、徒歩で駿府から逃れざるを得なかったのである 1 。これは、単に一人の高貴な女性が苦難を強いられたという話にとどまらない。戦国大名の姫、それも三国同盟の一翼を担う北条家の息女が、敵兵に追われながら泥道を歩いて逃げるという事態は、夫である氏真の無力さを天下に晒すものであり、同時に彼女の実家である北条氏に対するこれ以上ない侮辱であった。
この早川殿の徒歩での逃避行という一件は、個人的な悲劇を超えて、重大な外交問題へと発展した。娘が受けた屈辱を知った北条氏康は激怒し、信玄に対する不信感を決定的なものにした 29 。結果として、かろうじて保たれていた甲相同盟は完全に破綻し、北条氏が今川氏救援を名目に駿河へ軍事介入する直接的な引き金となった。一人の女性の足元が、東国の勢力図を塗り替える大きな一歩となったのである。
第五章:戦いの影響と歴史的意義
興津・薩埵峠の戦いは、単に一つの合戦の勝敗を決しただけではない。それは今川氏の滅亡を決定づけ、東国全体のパワーバランスを根底から覆す、極めて大きな歴史的転換点であった。
戦国大名今川氏の終焉
駿府を失い、命からがら遠江の掛川城に逃げ込んだ今川氏真であったが、安息の時はなかった。西からは、密約に基づき徳川家康の軍勢が遠江に侵攻し、掛川城を包囲したのである 16 。東の武田、西の徳川という二正面からの挟撃を受け、半年近くにわたる籠城戦を戦い抜いたものの、ついに力尽き開城 16 。ここに、かつて「海道一の弓取り」と称され、駿河・遠江・三河の三国を領した名門、戦国大名としての今川氏は事実上滅亡した。
甲相同盟の破綻と新たな対立軸の形成
信玄の駿河侵攻、そして同盟相手である北条氏の娘・早川殿への処遇は、14年間にわたって東国の安定の基盤となってきた甲相同盟を完全に破壊した 13 。義理の息子を見捨て、娘を危険に晒した信玄に対し、北条氏康は怒りを爆発させ、武田との断交を宣言。さらに、これまで敵対してきた越後の上杉謙信と「越相同盟」を締結し、武田包囲網を形成した 13 。これにより、東国の政治情勢は「武田」対「北条・上杉・徳川」という新たな対立構造へと再編された。信玄は駿河を手に入れた代償として、三方に強力な敵を抱えるという深刻な戦略的苦境に立たされることになったのである。
漁夫の利を得た徳川家康
この一連の動乱の中で、最も大きな戦略的利益を得たのは徳川家康であった。武田信玄が駿河で北条軍と対峙し、身動きが取れなくなっている間に、家康は着実に遠江国の平定を進めた 16 。今川という東からの脅威が消滅し、遠江一国という広大な領地を確保したことで、家康は織田信長に次ぐ有力大名へと飛躍する確固たる礎を築くことに成功した。駿河侵攻は、結果的に家康の台頭を大きく後押しする形となった。
興津城のその後
武田軍によって攻略された興津城(横山城)は、その戦略的重要性を認められ、直ちに改修が施された。そして、信玄の一族であり重臣でもある穴山信君(梅雪)が城主として配され、武田氏の駿河経営と対北条氏の最前線拠点として、重要な役割を担うことになった 24 。この城は、武田氏が滅亡する天正十年(1582年)まで、武田方の駿河支配の楔として機能し続けるのである。
結論:調略が軍事を凌駕した電撃戦の結末
永禄十一年十二月の興津・薩埵峠の戦いは、武田信玄の軍事的天才と、それを支える冷徹な戦略眼がいかんなく発揮された合戦であった。しかし、その勝敗を最終的に決定づけたのは、武田軍の戦闘能力の高さ以上に、それを上回る信玄の周到な事前調略、すなわち情報戦と心理戦の巧みさにあった。
今川軍は、薩埵峠という天然の要害に拠り、兵力においても武田軍に大きく劣るものではなかった。事実、開戦初日には武田軍の猛攻を凌ぎきっている。しかし、その組織は既に内部から深く蝕まれていた。信玄によって仕掛けられた内通工作は、今川家臣団の結束を奪い、総大将である今川氏真を疑心暗鬼の淵に突き落とした。指揮官が自信と信頼を失った時、いかに堅固な要害も、いかに多くの兵力も、一夜にして砂上の楼閣と化す。今川軍は、武田軍と本格的に戦う前に、既に内部から自壊していたのである。
本合戦は、戦国時代の合戦が単なる兵力の衝突ではなく、情報、謀略、そして組織の結束力といった無形の要素がいかに重要であるかを示す、典型的な事例として歴史に刻まれている。武田信玄の駿河侵攻は、力と謀略を巧みに組み合わせ、敵の弱点を的確に突くことで勝利を収めた、戦国時代を象徴する電撃戦であったと結論付けられる。それはまた、一つの名門大名家が、時代の変化に対応できず、内部の脆弱性から滅び去っていくという、戦国の非情な現実を我々に突きつけている。
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- 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
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