最終更新日 2025-09-02

興津城再攻防(1570)

元亀元年、武田信玄と北条氏政は駿河興津で約90日間対峙。陸上での睨み合いと駿河湾での水軍戦が展開された。信玄は駿河支配を固め、北条は武田との全面戦争を回避。両者の戦略的判断が、後の甲相同盟再締結へと繋がった。

元亀元年の興津対陣:駿河湾をめぐる武田・北条の戦略的攻防

序章:崩壊した三国同盟と駿河争奪戦の序曲

戦国時代の東国に、一時の安定をもたらした甲相駿三国同盟。天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元という当代屈指の大名たちの間で結ばれたこの攻守同盟は、政略結婚を基盤とし、各々が背後の憂いなく領国経営と勢力拡大に専念することを可能にした 1 。しかし、この精緻なパワーバランスは、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける今川義元の横死によって、根底から覆されることとなる 4

甲相駿三国同盟の破綻と武田信玄の戦略目標「海道への進出」

今川家の家督を継いだ氏真には、父・義元が築き上げた広大な領国を維持する力量はなく、三河では松平元康(後の徳川家康)が独立し、今川家の権威は急速に失墜していった 5 。この状況を、千載一遇の好機と捉えたのが武田信玄であった。内陸国である甲斐の経済的・軍事的発展のため、かねてより海への出口、すなわち駿河国の領有を宿願としていた信玄は、今川家の弱体化に乗じてその戦略目標を達成すべく、大きく舵を切った 4

信玄は、同じく旧今川領の遠江国を狙う徳川家康と密約を結び、大井川を境として駿河を武田が、遠江を徳川が切り取るという領土分割を協定した 7 。これは、長年続いた三国同盟の一角を、信玄自らが崩すことを意味した。今川氏真の正室は北条氏康の娘・早川殿であり、武田と今川は北条を介して二重の姻戚関係にあった。信玄による同盟の破棄は、必然的に北条氏との甲相同盟の破綻をも招き、東国の雄・武田と北条は、全面的な敵対関係へと突入することになる 1

永禄11年(1568年)の第一次駿河侵攻と薩埵峠の戦い

永禄11年12月、信玄は周到な準備の末、2万5千とも言われる大軍を率いて駿河への侵攻を開始した 8 。信玄の調略は今川家の内部深くまで浸透しており、重臣である瀬名氏や朝比奈氏、葛山氏らが次々と武田方へ寝返った 8 。これにより今川軍は組織的な抵抗を見せる間もなく瓦解。氏真は興津の清見寺に本陣を構えるも、武田軍の猛攻を支えきれず、交通の要衝・薩埵峠での防衛戦にも敗北した 5

進退窮まった氏真は、本拠地である駿府を捨て、重臣・朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城へと落ち延びていった 7 。この時、正室の早川殿は輿を用意する暇もなく、徒歩で駿府から脱出したと伝えられる 5 。この報は、娘を溺愛していた北条氏康を激怒させ、「この耻辱そそぎがたく候」と上杉謙信への書状に記すほど、北条氏の武田氏に対する敵愾心を燃え上がらせた 5

今川氏真の敗走と、北条氏康・氏政父子の介入

娘婿・氏真の救援、そして何よりも自国の安全保障上の観点から、北条氏康・氏政父子は迅速に軍事行動を起こした。武田が駿河を領有することは、相模国の西側国境に強大な武田氏と直接隣接することを意味し、北条氏にとって看過できない地政学的脅威であった。永禄12年(1569年)正月、北条軍は駿河へ進出し、薩埵峠に着陣。駿府を占領した武田軍と対峙した 1

この北条軍の出現は、電撃的に駿河を制圧した信玄にとって大きな誤算であった。甲斐と駿府を結ぶ兵站線が寸断される危機に陥り、背後を常に脅かされる状況となったのである 9 。これにより、第一次駿河侵攻は膠着状態に陥り、信玄は一時的に甲斐への撤退を余儀なくされた 7 。駿河の完全領有は、今川軍を駆逐するだけでは完遂せず、関東の巨龍・北条氏を排除して初めて達成される、困難な事業であることが明らかとなったのである。


【表1:駿河侵攻から興津対陣終結までの時系列年表(1568年~1571年)】

年月

主要な出来事

永禄11年 (1568) 12月

武田信玄、徳川家康と密約し駿河へ侵攻開始(第一次駿河侵攻)。薩埵峠の戦いで今川軍を破り、駿府を占領。今川氏真は掛川城へ逃走。

永禄12年 (1569) 1月

北条氏政、今川救援のため駿河へ出兵し、薩埵峠で武田軍と対峙。武田信玄は一時甲斐へ撤退。

永禄12年 (1569) 8月-10月

武田信玄、戦略的陽動として2万の兵を率いて関東へ侵攻。10月1日に小田原城を包囲するも、4日で撤退。

永禄12年 (1569) 10月8日

三増峠の戦い。武田軍が撤退路を塞ごうとした北条軍に大勝し、甲斐へ帰還。

永禄12年 (1569) 12月6日

武田信玄、再び駿河へ侵攻(第二次駿河侵攻)。北条氏信が守る蒲原城を攻略。

元亀元年 (1570) 1月

武田信玄、駿河山西に進出し、花沢城などを攻略。

元亀元年 (1570) 1月-4月

興津対陣 。武田軍は横山城(興津城)に、北条軍は薩埵山に布陣し、約90日間にわたり対峙。この間、駿河湾海戦も発生。

元亀元年 (1570) 4月

両軍が撤兵。武田軍は穴山信君を江尻城主に任じ、駿河支配体制を固める。

元亀2年 (1571) 1月

武田軍、北条方の深沢城を攻撃。北条綱成は耐えきれず開城。

元亀2年 (1571) 10月3日

北条氏康が死去。

元亀2年 (1571) 12月

北条氏政が武田信玄との和睦を決断。甲相同盟が再締結され、駿河侵攻は終息。


第一章:戦場の前哨 - 永禄12年(1569年)の攻防

1570年の興津における大規模な対峙は、決して突発的に発生したものではない。それは、前年である永禄12年(1569年)を通じて繰り広げられた、武田・北条両軍による一連の戦略的応酬の直接的な帰結であった。信玄の巧みな陽動作戦と、それによって生じた北条軍の疲弊が、翌年の戦線の様相を決定づけたのである。

武田信玄の戦略的陽動:小田原城包囲と三増峠の戦い

駿河戦線が膠着し、北条軍が薩埵峠に強固な防衛線を築く中、信玄は戦局を打開するために、常人には思いもよらない大胆な一手に出る。駿河で北条軍と睨み合うのではなく、北条氏の本拠地そのものを直接叩くことで、駿河に展開する敵主力を引き剥がそうと企図したのである。

永禄12年8月24日、信玄は2万の精鋭を率いて甲府を出立。しかしその進路は駿河ではなく、碓氷峠を越えて上野国へと向かうものであった 1 。武田軍は北条方の諸城を次々と攻略、あるいは威圧しながら関東平野を南下し、10月1日には瞬く間に北条氏の本拠地・小田原城に到達し、城を包囲した 1 。この作戦の真の目的は、難攻不落で知られる小田原城を陥落させることではなかった。むしろ、本拠地の危機に狼狽した北条氏が、駿河から軍を撤退させることを狙った、大規模な戦略的陽動であった。

北条氏康・氏政父子は、かつて上杉謙信の大軍をも退けた堅城・小田原城での籠城を選択し、信玄の挑発には乗らなかった 1 。信玄もまた深追いはせず、わずか4日間の包囲の後、城下に火を放って悠々と撤退を開始する 1 。この武田軍の撤退を好機と見た北条方は、当主・氏政が率いる本隊の到着を待たず、北条氏照・氏邦らが率いる別動隊が先回りして武田軍の帰路を断つべく、相模国の三増峠に急行した 1

10月8日、三増峠で両軍は激突する。緒戦では、地の利を得た北条軍が優勢に戦いを進め、武田軍の左翼を担った浅利信種らが討ち死にするなど、武田軍は一時苦境に立たされた 1 。しかし、信玄はこれを予期しており、部隊を巧みに三分割して対応。山県昌景、馬場信春といった歴戦の将たちの奮戦により、武田軍は戦況を覆し、最終的に北条軍に2,000名を超える損害を与えて壊走させ、甲斐への帰還路を確保した 1

北条軍の疲弊と駿河戦線の再構築

三増峠の戦いは、武田軍の戦術的勝利に留まらず、北条氏に深刻な戦略的影響を与えた。この一戦で多くの将兵を失った北条軍は、戦力の再編成を余儀なくされ、駿河方面へ大規模な兵力を継続的に投入する能力が著しく低下した 13

さらに重要なのは、心理的な影響である。信玄は、この小田原攻めと三増峠の戦いを通じて、北条氏に対して「武田軍は駿河だけでなく、関東の本拠地をも直接攻撃する能力と意思がある」という事実を明確に突きつけた。これにより、北条氏は常に自国領内への侵攻を警戒せざるを得なくなり、その戦略的選択肢は大きく狭められた。翌1570年の興津対陣において、北条軍が決戦を避け、徹底した防御戦術に固執した背景には、この三増峠での手痛い敗北の記憶が色濃く影を落としていたことは想像に難くない。信玄の陽動作戦は、翌年の駿河戦線の主導権を握る上で、決定的な成功を収めたと言える。

武田軍による蒲原城攻略:駿河東部における橋頭堡の確立

関東での軍事行動を成功させた信玄は、休む間もなく駿河戦線の再構築に着手する。三増峠の戦いからわずか1ヶ月後の11月、信玄は再び駿河へと軍を進めた(資料によっては第三次侵攻とも呼称される) 12 。その目標は、駿河東部、すなわち北条領との国境地帯に位置する要衝・蒲原城であった。

12月5日の夜、武田軍は城下の宿場に火を放って北条方の動揺を誘い、翌6日未明に総攻撃を開始した 15 。この城は、北条氏の名門・北条幻庵の子である北条氏信が城主を務め、弟の長順らと共に固く守っていた 16 。しかし、三増峠の戦いで疲弊した北条本隊からの十分な援軍は期待できず、氏信らは奮戦空しく討死。蒲原城は一日で陥落した 14

蒲原城の陥落は、武田軍にとって計り知れない戦略的価値を持った。これにより、武田軍は駿河東部に確固たる橋頭堡を築き、甲斐からの補給路を安定させると同時に、北条領である伊豆への圧力を強めることが可能となった 14 。1569年末のこの勝利によって、翌年の大規模な軍事行動、すなわち興津への進出と北条軍主力との対決に向けた全ての準備が整ったのである。

第二章:興津再攻防(1570年)- 九十日間の対峙

永禄12年(1569年)の一連の攻防を経て、駿河における武田氏の優位は揺るぎないものとなりつつあった。年が明けた元亀元年(1570年)、信玄はこの優位を決定的なものとし、駿河の完全掌握を果たすべく、最後の大規模な軍事行動を開始する。その舞台となったのが、駿府の東、興津の地であった。しかし、ここで繰り広げられたのは、血で血を洗う激戦ではなく、両軍の戦略的意図が交錯する、約90日間に及ぶ静かなる戦い、「対陣」であった。

第一節:戦線の構築

元亀元年(1570年)正月:武田軍の駿河再侵攻と諸城の攻略

元亀元年正月、信玄は駿河山西(現在の静岡県焼津市、藤枝市一帯)に進出し、未だ抵抗を続ける今川方の残存勢力の掃討を開始した 3 。特に、大原資良が籠城する花沢城は激しい抵抗を見せ、穴山信君の重臣である万沢遠江守が討死するなど、武田軍は苦戦を強いられた 3 。最終的には信玄自らが本隊を率いて出陣し、同月下旬にようやく花沢城を陥落させた 3 。続いて徳一色城も手中に収め、これを後に大規模な城郭である田中城へと改修し、駿河中西部の支配を磐石のものとした 3

武田軍の布陣:穴山信君を将とする横山城(興津城)の改修と要塞化

駿河中西部を完全に平定した信玄は、次なる目標を対北条戦線の最前線となる興津に定めた。興津は、甲斐と駿河を結ぶ重要な補給路である身延街道の出口に位置し、この地を確保することは、駿河支配の維持にとって死活問題であった 19 。信玄は、古くからこの地を治めていた今川家臣・興津氏の居城であった横山城(通称、興津城)を接収 19 。そして、北条軍の東進を阻止するための拠点として、大規模な改修と要塞化を命じた 19

この重要な拠点の守将として信玄が選んだのは、武田一門の中でも特に信頼の厚い重臣、穴山信君(梅雪)であった 19 。武田軍は興津川の西岸に位置するこの横山城に堅固な陣を構え、東方から進出してくるであろう北条軍主力を迎え撃つ万全の態勢を整えた。

北条軍の進出:北条氏政を総大将とする大軍の薩埵山への布陣

武田軍の系統的な駿河平定に対し、北条氏も座して見過ごすわけにはいかなかった。当主・北条氏政は、一族を総動員し、4万5千とも伝えられる大軍を率いて駿河へ出陣した 22 。その目標は、武田軍が陣取る横山城と興津川を挟んで対峙する、東岸の薩埵山であった 19

薩埵峠は、山が駿河湾に険しく迫る隘路であり、古来より東海道の交通を扼する軍事上の要衝として知られていた 5 。北条軍はこの天然の要害に陣城を築き、武田軍の東進を阻む鉄壁の防衛線を構築した 24 。興津川を挟み、西に武田の横山城、東に北条の薩埵山陣城が睨み合う形で、東国二大勢力の全面対決の舞台が整ったのである。


【表2:1570年 興津対陣における両軍の戦闘序列(推定)】

武田軍

北条軍

総大将

武田信玄(後方支援・総指揮)

北条氏政

前線指揮官

穴山信君(横山城将)

北条氏照、北条氏邦

主要武将

山県昌景、馬場信春、内藤昌秀など

北条綱成、北条氏忠、垪和氏続(興国寺城)など

推定兵力

約20,000 - 25,000 8

約45,000 22

陸上拠点

横山城(興津城)、蒲原城、江尻城(築城中)

薩埵山陣城、興国寺城、深沢城

水軍指揮官

岡部貞綱、向井正重 25

梶原景宗 27

主要艦船

関船、小早船 29

安宅船(10艘)、関船 29


第二節:膠着する戦線 - 陸の睨み合い

対峙の実態:散発的な小競り合い、斥候戦、陣地構築

興津川を挟んで両軍が対峙を開始して以降、戦況は完全に膠着した。後世の我々が期待するような、両軍の主力が激突する大規模な会戦はついに起こらなかった。その代わり、約90日間(三ヶ月)にわたって、静かな、しかし極度に緊張した睨み合いが続いたのである 19

この期間中の軍事行動は、限定的なものに終始した。両軍から放たれた斥候部隊による情報収集活動や、前線における散発的な小競り合いが繰り返されるのみで、戦線全体を動かすような積極的な攻勢は双方から仕掛けられることはなかった 19 。戦国時代の合戦の実態が、華々しい会戦よりも、むしろこうした地味な陣地戦や小競り合いの連続であったことを、この興津対陣は如実に物語っている 31

戦術的考察:なぜ決戦は回避されたのか

この長期にわたる膠着状態は、どちらか一方の臆病さや決断力の欠如によるものではなく、両軍の指揮官による極めて合理的な戦略的判断の結果であった。決戦が回避された背景には、いくつかの複合的な要因が存在する。

第一に、 地形的制約 である。北条軍が陣取る薩埵峠は、大軍の展開には全く不向きな狭隘な地形で、守るにやすく攻めるに難い天然の要害であった 23 。武田軍がこの隘路に攻撃を仕掛ければ、多大な損害を被ることは必至であった。信玄がそのような無謀な力攻めを選択するはずはなかった。

第二に、 北条方の戦略 である。北条氏は伝統的に籠城や持久戦を得意とし、河越夜戦に代表されるように、敵の油断を誘って奇襲をかける戦術に長けていた 32 。前年の三増峠での手痛い敗戦の教訓もあり、氏政は不得手な野戦を避け、得意とする防御戦に持ち込むことで、武田軍の消耗を待つ戦略を選択した。武田軍の東進を薩埵峠で食い止めるという、限定的な防御目標を達成することに集中したのである。

第三に、 信玄の戦略目標 である。この時点での信玄の最優先課題は、北条軍を駿河から完全に駆逐することではなく、占領した駿河中西部における支配体制を確立することにあった。無理に薩埵山の要害を攻めて貴重な兵力を損耗させるよりも、大軍をこの地に釘付けにしておくことで、北条軍の反攻を抑止し、その間に後方で江尻城の築城を進めるなど、駿河の恒久的支配に向けた既成事実を積み重ねる方がはるかに合理的であった 34

兵站と心理戦:長期対陣が両軍に与えた影響

90日にも及ぶ対陣は、両軍の兵站に極めて大きな負担を強いた。特に武田軍は、甲斐本国から遠く離れた敵地での作戦であり、補給線の維持は常に大きな課題であった 9 。一方の北条軍も、4万5千という大軍を長期間維持するための兵糧や物資の調達は、決して容易ではなかったはずである。

この戦いは、物理的な衝突以上に、相手の継戦意欲を削ぐための心理戦、そして兵站能力を競う消耗戦の様相を呈していた。どちらが先に兵站の限界を迎えるか、どちらが先にしびれを切らして無理な攻撃を仕掛けるか。興津の地で対峙する両軍の将兵は、日々そのようなプレッシャーの中で、息詰まるような忍耐比べを強いられていたのである。

第三節:もう一つの戦場 - 駿河湾海戦

興津における陸上の膠着状態とは対照的に、眼前に広がる駿河湾では、もう一つの激しい戦いが繰り広げられていた。この対陣において、唯一積極的な動きを見せたのが双方の水軍であった 29 。興津対陣は、陸上での睨み合いと、海上での制海権争いが密接に連動した、複合的な軍事作戦であった。この陸と海の二つの戦場を一体として捉えなければ、この対峙の全体像を正確に理解することはできない。

陸上で北条軍を釘付けにしている間に、海上で制海権を確保し、海上からの補給路確立や、さらには北条領である伊豆半島への圧力をかけようとする武田。それに対し、伝統的な水軍力を背景に、武田の海上進出を断固として阻止し、逆に海から武田軍の兵站を脅かそうとする北条。両者の戦略的意図が、駿河湾の海上で火花を散らしたのである。

武田水軍の編成:旧今川水軍と伊勢水軍の取り込み

信玄は、駿河を占領すると同時に、今川氏が有していた水軍力の吸収に着手した。旧今川水軍の船大将であった岡部貞綱(忠兵衛)らに、武田水軍の編成を命じたのである 25 。さらに、信玄は既存の戦力に満足せず、伊勢湾で名を馳せていた海賊衆(水軍の専門家集団)である小浜景隆や向井正重らを高禄で招聘し、自軍に組み込んだ 25 。これにより、武田氏はわずか短期間のうちに、有力な水軍を組織することに成功した 36 。しかし、その戦力の中核は、機動性に優れた中・小型の軍船である関船や小早船であり、大型の戦闘艦は保有していなかった 29

北条水軍の迎撃:梶原景宗率いる伊豆水軍と安宅船

対する北条水軍は、伊豆半島を拠点とし、長年の経験を持つ強力な海上戦力であった 38 。その指揮を執ったのは、紀伊国出身で水軍の指揮に長けたことを氏康に見込まれた猛将・梶原景宗であった 27

北条水軍の切り札は、当時最新鋭の大型戦闘艦であった安宅船の存在である。安宅船は、船体の上部に矢や鉄砲を防ぐための分厚い板で覆われた「櫓」と呼ばれる構造物を持ち、高い防御力と攻撃力を兼ね備えていた。この海戦において、北条水軍は五十丁櫓(漕ぎ手が50人)クラスの安宅船を10艘も投入しており、質・量ともに編成されたばかりの武田水軍を圧倒していた 29

海戦の経過と、それが陸上の対陣に与えた影響

興津での対陣中、内浦湾から千本松原の沖合にかけての海域で、両軍の水軍が激突した 29 。『北条五代記』などの記録によれば、北条水軍が誇る安宅船団が、武田水軍の関船や小早船を終始圧倒し、追い回す展開であったと伝えられる 29 。しかし、武田水軍も巧みに戦い、決定的な打撃を受けることなく持ちこたえ、勝敗がつかないまま日没を迎え、両軍は引き分けたとされる 29

この駿河湾海戦の結果、武田水軍は北条水軍を駿河湾から排除することができず、制海権を完全に掌握するには至らなかった。これは、信玄が目指したであろう、海上からの兵站確保や伊豆半島への侵攻といった戦略的選択肢が大きく制限されたことを意味する。海での決着がつかなかったことが、結果として陸上での膠着状態をさらに長引かせる一因となった可能性は高い。

第三章:対陣の終結と戦略的帰結

元亀元年の春、興津の地で三ヶ月にわたり続いた武田・北条両軍の睨み合いは、あたかも雪解けのように静かに終わりを迎えた。この対陣の終結は、どちらか一方の軍事的勝利によるものではなく、両者がそれぞれの戦略的目標をある程度達成し、これ以上の対峙が不毛であると判断したことによる、高度な政治的・戦略的判断の結果であった。

雪解けの撤兵:両軍が対陣を解消した理由の考察

元亀元年4月、約90日間に及んだ対陣は、双方の示し合わせたかのような同時撤兵によって幕を閉じた 19 。この決断の背景には、いくつかの複合的な理由が考えられる。

第一に、 兵站の限界 である。前述の通り、長期にわたる大軍の駐留は双方の兵站に計り知れない負担をかけていた 9 。特に農繁期を前にして、これ以上兵士を動員し続けることは国力の消耗に繋がり、双方にとって得策ではなかった。

第二に、 戦略目標の達成 という側面である。信玄は、この対陣によって北条軍の反攻を薩埵峠以東に封じ込め、その間に駿河中西部の支配を固め、江尻城の築城に着手するなど、駿河領有という主目的を事実上達成した。一方の北条氏も、武田軍の東進を阻止し、相模・伊豆への侵攻を許さなかったことで、国境線を防衛するという最低限の防御目標は達成した。これ以上の対峙は、互いに得るものが少ない消耗戦に過ぎないと判断したのである。

第三に、 他方面の情勢変化 も無視できない。この時期、畿内では織田信長が浅井・朝倉連合軍との戦い(金ヶ崎の退き口)に直面しており、東国情勢も決して安定的ではなかった 18 。信玄も氏政も、自国の周辺で起こりうる不測の事態に備えるため、駿河戦線から兵力を引き上げる必要性を感じていた可能性も指摘される。

武田軍は、横山城と久能城に守備兵を残して甲斐へと撤退。呼応するように、北条軍も蒲原城の対岸に兵を残し、主力を相模へと引き上げた 19 。こうして、興津の地での緊張は解かれたのである。

武田氏による駿河支配の確立と江尻城の築城

興津対陣は、武田氏にとって駿河支配を確定させる上で決定的な意味を持った。この対陣を経て、富士川以西の駿河が武田氏の実効支配地域であることが内外に示された。一部の史料が武田の第三次駿河侵攻を「北条の妨害がなかった」と記しているのは 8 、一見すると90日間の対峙という事実と矛盾するように思える。しかしこれは、北条の軍事行動が、武田を駿河全土から駆逐しようとする全面的な「妨害」ではなく、国境線を確定させるための限定的な「示威行動」に留まったと解釈できる。結果として武田は駿河の大部分を手中に収めたため、武田方の視点に立てば、この侵攻は「成功した」と評価されたのである。

対陣の終結後、前線で指揮を執った穴山信君は、駿府近郊に新たに築かれた江尻城の初代城主に任命され、駿河支配の中核を担うこととなった 19 。後に山県昌景も江尻城主となり、この城は対徳川戦線の最重要拠点として機能していくことになる 42

北条氏の戦略転換と、後の甲相同盟復活への布石

一方、北条氏にとって興津対陣は、武田氏との全面戦争を継続することの困難さと不利益を痛感させる出来事となった。信玄の巧みな戦略の前に駿河の大部分を失い、関東の本拠地まで脅かされた現実は、北条氏の対武田政策の根本的な見直しを迫った。

この経験に加え、元亀2年(1571年)10月に、長年北条家を率いてきた「相模の獅子」北条氏康が病没したことが、大きな転機となった 44 。家督を完全に継承した氏政は、父の強硬路線から転換し、武田氏との和睦へと大きく舵を切る 3 。上杉謙信との越相同盟を破棄し、かつての宿敵であった信玄と手を結ぶという、現実的な外交判断を下したのである。

同年12月、甲相同盟は再締結され、2年以上にわたった駿河侵攻は完全に終息した 3 。この和睦の条件として、北条方が守っていた興国寺城などが武田方に引き渡され、駿河における両国の国境線が正式に確定した 3

結論:戦国史における興津対陣の歴史的意義

元亀元年(1570年)に繰り広げられた「興津城再攻防」は、その名称が示唆するような大規模な攻城戦や会戦ではなく、武田信玄と北条氏政という二人の戦国大名の戦略的意図が交錯した、約90日間に及ぶ大規模な「対陣」であったと結論付けられる。それは、陸上での息詰まるような睨み合いと、駿河湾における制海権争いが連動した、戦国時代においても稀有な、高度に複合的な軍事行動であった。

この対陣は、武田信玄の卓越した戦略眼を象徴する出来事であった。前年の小田原攻めという陽動によって北条軍の戦力を削ぎ、戦略的優位を確保した上で、興津では無理な攻撃を避けて北条軍主力を釘付けにした。その間に駿河国内の支配体制を固めるという、極めて合理的な手法で、長年の宿願であった駿河領有を成し遂げたのである。これにより背後の憂いを断った信玄は、次なる標的である徳川家康との対決、すなわち西上作戦へと戦力を集中させるための戦略的環境を整えることに成功した。

一方、北条氏にとっても、この対陣は重要な転換点となった。武田氏との消耗戦の不毛さを認識させられ、父・氏康の死と相まって、外交方針を180度転換させる契機となった。再び武田氏と同盟を結ぶという決断は、台頭著しい織田信長という新たな脅威に対抗するため、東国の二大勢力が下した現実的な選択であった。

かくして、興津対陣は、2年間にわたる駿河争奪戦の事実上の終結点となり、武田・北条両氏の関係を再構築し、その後の東国全体の政治・軍事バランスに大きな影響を与えた。それは、血が流れるだけが戦ではない、という戦国時代の冷徹な現実を示す、歴史的に極めて意義深い軍事対峙であったと言えるだろう。

引用文献

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