最終更新日 2025-09-01

船田合戦(1527)

美濃国・船田合戦の深層分析:斎藤道三「国盗り」への二段階プロセス

序章:船田合戦(1527年)という問いの再定義

日本の戦国史において、美濃国(現在の岐阜県南部)を巡る動乱は、後の織田信長による天下統一事業の序章として極めて重要な位置を占める。その中でも、「斎藤道三の国盗り」の端緒として言及される「船田合戦」は、美濃の権力構造を根底から揺るがした画期的な出来事であった。しかし、この合戦を正確に理解するためには、年代の特定と歴史的文脈の整理が不可欠である。

ユーザー様が提示された「1527年」という年は、確かに斎藤道三台頭の物語における重要な転換点であった。だが、この年の出来事を単体で切り取って理解することは、歴史の複雑な因果関係を見誤ることに繋がりかねない。本報告書では、この歴史事象をより深く、そして正確に把握するため、約30年前に遡る明応四年(1495年)に勃発した本来の「船田合戦」を全ての始まり、すなわち「第一幕」と位置づける。そして、1525年(大永五年)から激化し、1527年前後に一つの節目を迎える土岐頼武・頼芸兄弟の骨肉の争い(美濃大永の乱)を、道三台頭の直接的な序曲となる「第二幕」として分析する。

この二つの連続した騒乱が、如何にして美濃の旧来の権力構造を解体し、斎藤道三とその父・長井新左衛門尉という新興勢力に「国盗り」の舞台を用意したのか。本報告書は、詳細な時系列の再構築と多角的な分析を通じて、その歴史的プロセスを徹底的に解き明かすことを目的とする。

第一部:第一次美濃騒乱 ― 船田合戦(明応四年~五年)の実相

第一章:烽火以前の権力構造 ― 下剋上の温床

船田合戦の烽火が上がる以前の美濃国は、一見すると守護・土岐氏による安定した統治が続いているかのように見えた。しかしその内実では、後の下剋上時代を準備する深刻な権力構造の変化が進行していた。

名門の血筋を誇る美濃守護・土岐氏であったが、全国を巻き込んだ応仁の乱(1467-1477年)を経て、その権威は徐々に形骸化しつつあった 1 。特に、八代守護・土岐成頼の治世下において、国政の実権は守護代であった斎藤氏の手に大きく傾いていた 2

その中心人物が、斎藤妙椿(さいとうみょうちん)である。彼は応仁の乱において卓越した軍事的・政治的手腕を発揮し、主家である土岐氏を凌駕するほどの勢力を美濃国内に築き上げた 2 。文明十二年(1480年)に妙椿が没すると、一族内での内紛を経て、その権勢は斎藤妙純(みょうじゅん、利国とも)へと継承された 2 。守護代として美濃の実権を掌握した妙純は、主君である土岐成頼としばしば緊張関係にありながらも、協力して国内を統治するという、危うい均衡の上に君臨していた 3

一方で、この新たな権力構造に不満を抱く勢力もまた、着実に力を蓄えていた。その筆頭が、小守護代の石丸利光(いしまるとしみつ)である 2 。彼もまた斎藤妙椿に仕え、数々の戦功を挙げてきた実力者であり、船田城を本拠として独自の勢力を形成していた 4 。妙純の権勢が拡大するにつれ、利光との間には潜在的な対立関係が生まれ、美濃国内に新たな火種を燻らせていた。

この複雑に絡み合った権力構造に、決定的な亀裂を入れる事件が起きる。守護・土岐成頼の後継者問題である。成頼は、正室の子である嫡男・政房(まさふさ)よりも、側室の子である末子・元頼(もとより)を深く寵愛し、政房を廃して元頼に家督を継がせようと画策し始めた 3 。この成頼の個人的な意向が、国内のあらゆる勢力の野心と結びつき、対立を一気に表面化させる触媒となったのである。

  • 元頼派 : 守護・土岐成頼と、その後継者候補である土岐元頼を旗印に、自らの勢力拡大を目指す小守護代・石丸利光が中核となった。さらに、妙純に実権を奪われた形となっていた前守護代・斎藤利藤(妙純の異母兄)が、権力奪還の好機と見てこれに加わった 3
  • 政房派 : 正統な後継者である土岐政房を擁立し、自らが掌握する美濃の実権を維持しようとする現守護代・斎藤妙純がこれを支持した 2

この対立構造を深く考察すると、船田合戦の根本原因が、単なる土岐家の「お家騒動」に留まるものではないことが明らかになる。それは、守護(土岐氏)と守護代(斎藤氏)という主従間の長年にわたる権力闘争、さらにその守護代家中の内部対立(妙純 対 利藤・利光)という、三層にわたる権力闘争が、「後継者問題」という格好の大義名分を得て爆発した「複合的な権力闘争」であった。石丸利光は「出世を目指し」、斎藤利藤は「権力奪回を図る」というそれぞれの野心から元頼を担ぎ上げた 3 。一方で妙純は、政房の廃嫡が自らの権力基盤の崩壊に直結するため、正統性を盾にこれを阻止しようとした。各々が自らの利権拡大と維持のために土岐家の兄弟を駒として利用したこの代理戦争こそが、後の斎藤道三による「国盗り」を可能にする、実力主義と下剋上の精神を美濃の地に深く根付かせる決定的な一歩となったのである。

第二章:船田合戦・合戦経過の時系列詳解

偽りの和睦によって一時的に回避されたかに見えた全面衝突は、年が明けると同時に、もはや誰にも止められない奔流となって美濃全土を飲み込んでいった。船田合戦は、暗殺未遂という陰謀から始まり、二度にわたる大規模な野戦を経て終結へと向かう。

【明応三年(1494年)十二月】発端:斎藤妙純暗殺未遂事件

戦乱の直接的な引き金となったのは、石丸利光による斎藤妙純の暗殺計画であった。

  • 12月9日以前 : 斎藤妙純は、自身が郡上郡に創建した大宝寺の開堂式に出席する予定を立てていた 3 。石丸利光はこの機会を捉え、道中での妙純暗殺を周到に計画した 3
  • 12月9日 : しかし、当日は悪天候に見舞われ、開堂式は延期。これにより、利光の暗殺計画は実行に移されることなく失敗に終わった 3
  • 12月10日 : 暗殺が不首尾に終わった利光は、直ちに次の行動に移る。居城である船田城(現在の岐阜市水主町付近と推定される 9 )において兵を挙げ、妙純の居城である加納城(船田城の北に位置)への奇襲攻撃を企てた 3
  • 12月10日~18日 : 利光の挙兵は、西尾直教という人物の密告によって、いち早く妙純の知るところとなった 3 。妙純は直ちに加納城の防備を固め、臨戦態勢を整える 2
  • 12月19日 : 事態の急変と全面戦争の危機を憂慮した守護・土岐成頼が仲介に乗り出し、両者の間に一時的な和睦が成立した。しかし、その和睦の条件は、密告者である西尾直教を追放するという、明らかに利光側に有利な内容であった 3 。このことは、成頼の心がいかに利光・元頼派に傾いていたかを物語っている。この和睦が偽りであることは双方にとって明白であり、特に妙純はこれを屈辱と受け止め、加納城のさらなる増強に努め、来るべき決戦に備え続けた 3

【明応四年(1495年)三月~七月】緒戦「正法寺の戦い」と追撃戦

偽りの和睦がもたらした束の間の静寂は、明応四年(1495年)三月、ついに破られた。

  • 3月 : 両軍の緊張は限界に達し、ついに開戦。斎藤妙純軍と石丸利光軍は、当時の正法寺(現在の岐阜市薬師町にあったと推定される 11 )に布陣し、美濃の覇権を賭けて激突した。これが「正法寺の戦い」である 2 。戦闘の具体的な経過に関する詳細な記録は乏しいものの、この戦いは斎藤妙純軍の決定的な勝利に終わった。敗れた石丸利光軍は算を乱して敗走し、居城の船田城へと撤退した 2
  • 7月 : 妙純は追撃の手を緩めなかった。同年七月、「西郡の合戦」と呼ばれる戦闘で再び石丸軍を打ち破り、その勢力を壊滅寸前にまで追い込んだ 2
  • 7月7日 : 度重なる敗戦によって完全に戦意を喪失した石丸利光は、もはやこれまでと覚悟を決め、拠点であった船田城に自ら火を放った。そして、擁立していた土岐元頼や、斎藤利藤の子である毘沙童ら僅か500騎の手勢を率いて、近江国へと落ち延びていった。彼らは近江守護・六角高頼の庇護を求めたのである 2
  • 9月 : この一連の戦乱の責任を取る形で、全ての元凶であった守護・土岐成頼もまた、城田寺城に隠居し、家督と守護職を嫡男の政房に正式に譲った。これにより、第一次美濃騒乱は一旦の終結を見たかに思われた 3

【明応五年(1496年)五月~六月】最終決戦「城田寺の戦い」

しかし、石丸利光の執念はまだ尽きていなかった。近江で再起の機会を窺っていた彼は、翌明応五年(1496年)、最後の決戦を挑むべく再び美濃の地を踏む。

  • 5月 : 南近江で兵力を再編した石丸利光と、その子・利高の軍勢は、伊勢国を経由して美濃へと再侵攻を開始した 2
  • 布陣 : 美濃に入った石丸軍は、隠居していた土岐成頼と土岐元頼を再び担ぎ出し、城田寺(現在の岐阜市城田寺、舎衛寺周辺 13 )を拠点として挙兵した 2 。これは、前年に成頼が隠居した場所であり、彼の権威を利用しようとする意図があったと考えられる。
  • 斎藤方の対応 : 迎え撃つ斎藤妙純は、今や正式な美濃守護となった土岐政房を奉じ、万全の態勢を整えた。さらに彼は、この決戦を確実に勝利するため、巧みな外交手腕を発揮する。婚姻関係を通じて同盟を結んでいた近江北部の京極高清や、越前の朝倉貞景に援軍を要請し、これを確保することに成功した 2 。この外部勢力の動員が、戦いの帰趨を決定づけることになる。
  • 戦闘と終結 : 城田寺において、両軍は最後の決戦に臨んだ(「城田寺の戦い」)。越前・近江からの援軍を得て兵力で優位に立った斎藤妙純軍は、終始戦いを有利に進め、石丸軍を圧倒した 2
  • 5月末 : 万策尽きた石丸利光・利高父子、そして二度にわたって争乱の旗印とされた土岐元頼は、敗北を悟り自刃して果てた 2 。彼らの死をもって、明応三年から続いた一連の抗争、すなわち「船田合戦」は完全に終結した。この合戦は、石丸氏の最初の拠点名に因んで後世に名付けられたのである 2

表1:船田合戦(1495-96年)主要関係者と勢力図

派閥

旗印(名目上の主君)

総大将(実質的指導者)

主要な与力武将

主要拠点

外部支援勢力

政房派(勝利)

土岐政房(成頼嫡男)

斎藤妙純(守護代)

西尾直教(当初)

加納城

越前・朝倉貞景、近江・京極高清

元頼派(敗北)

土岐元頼(成頼末子)

石丸利光(小守護代)

斎藤利藤(前守護代)、石丸利高、毘沙童

船田城、城田寺城

近江・六角高頼(庇護)


この表は、船田合戦が単なる土岐家の内訌ではなく、斎藤妙純と石丸利光という二人の実力者による代理戦争であったこと、そして斎藤妙純が巧みな外交によって外部勢力を味方につけたことが勝因であったことを明確に示している。

第二部:第二次美濃騒乱 ― 斎藤道三台頭の序曲(大永五年~)

第三章:束の間の平穏と次なる火種

船田合戦の勝利により、斎藤妙純は美濃国における自身の権力を盤石なものにしたかに見えた。しかし、歴史は皮肉な展開を用意していた。勝者の栄光はあまりにも短く、その突然の死は美濃に新たな権力の真空を生み出し、次なる三十年に及ぶ長い動乱の時代を招き寄せることになる。

美濃の内乱を平定した斎藤妙純は、その勢いを駆って近江の六角高頼討伐へと向かった。しかし、明応五年十二月七日(西暦1497年1月10日)、その撤退の途上、不意に蜂起した土一揆の襲撃を受けるという不慮の事態に見舞われる。この奇襲によって、妙純は嫡男の利親をはじめとする多くの将兵と共に、あっけなく戦死してしまった 3

この妙純の死は、美濃の歴史における決定的な転換点であった。船田合戦の勝利によって確立されるはずだった斎藤宗家(持是院家)による支配体制は、その頂点を失ったことで急速に瓦解へと向かう。妙純の跡を継いだ孫の利良(勝千代)はまだ幼く、後見した次男の又四郎やその弟の彦四郎には、妙純ほどの器量も人望もなかった。結果として、永正九年(1512年)には、守護・土岐政房との対立の末に彦四郎が美濃から追放される事態となり、美濃における斎藤宗家の権威は大きく失墜した 3

この権力の空白を突くように、かつての争いの火種が再び燃え上がった。一度は息子に家督を譲った守護・土岐政房もまた、かつての父・成頼と全く同じ過ちを繰り返したのである。彼は嫡男である頼武(よりたけ、資料によっては頼純とも記される 15 )よりも、次男の頼芸(よりのり、または頼芸)を寵愛し、頼武を廃して頼芸を後継者にしようと望んだ 3

この新たな家督争いは、弱体化した斎藤宗家に代わる新たなプレイヤーたちを歴史の表舞台へと引きずり出した。

  • 頼武派 : 嫡流としての正統性を主張する頼武には、かつての勝者である斎藤妙純の孫、斎藤利良が与した 3 。これは、斎藤宗家が正統性を重んじる立場を維持しようとしたことを示している。
  • 頼芸派 : 一方の頼芸には、小守護代の地位にあった長井長弘(ながいながひろ)と、その家臣であった長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)が与した 3 。ここに、後の斎藤道三へと繋がる「長井氏」が、美濃の歴史を動かす中心勢力として、初めてその名を明確に刻むことになる。

斎藤妙純の死は、船田合戦の結果を事実上「リセット」する効果を持った。旧守護代家である斎藤宗家が没落し、新たなプレイヤーである長井氏が参入する余地が生まれたのである。これは、斎藤道三の父とされる長井新左衛門尉にとって、まさに千載一遇の好機であった。彼がこの混乱に乗じていかにして勢力を伸張させていったか、その過程こそが、道三による「国盗り」の真の序章なのである。

第四章:美濃大永の乱・鷺山城攻防戦(大永五年~)

土岐頼武と頼芸の兄弟間の対立は、美濃国を再び内戦状態へと陥れた。この争いは、永正年間から始まり、ユーザー様が注目する大永五年(1525年)に一つの頂点を迎え、その後も断続的に続く長期の動乱となった。この過程で、長井氏がその影響力を決定的なものにしていく。

永正年間の攻防(前哨戦)

本格的な戦闘は永正十四年(1517年)に始まった。戦況は一進一退を繰り返した。

  • 永正十四年(1517年) : 最初の衝突では頼武派が勝利を収め、頼芸派は一時、尾張国へと逃亡した 3
  • 永正十五年(1518年) : 翌年、頼芸派は勢力を盛り返して逆襲に成功。今度は頼武が敗れ、妻の実家である越前の朝倉孝景を頼って亡命するに至った 3
  • 永正十六年(1519年) : 父・政房が死去すると、これを好機と見た頼武は、朝倉孝景からの強力な軍事支援を得て美濃へ侵攻。頼芸側を圧倒し、ついに美濃守護の座に就いた 3

大永五年(1525年)の再燃と鷺山城攻防戦

頼武が守護職に就いたことで一旦は収束したかに見えた内乱であったが、大永五年(1525年)、頼芸を奉じる小守護代・長井長弘が再び挙兵し、美濃で大乱が勃発した。これが「美濃大永の乱」である 3

この乱の中心的な舞台となったのが、鷺山城(さぎやまじょう)を巡る攻防戦であった。

  • 鷺山城占拠 : 大永五年、土岐頼芸派は機先を制し、戦略的拠点である鷺山城を占拠した 21
  • 戦況の推移 : これに対し、守護である頼武派は直ちに反撃し、一度は鷺山城を奪還することに成功する。しかし、頼芸派には長井長弘、そしてその背後で実力をつけていた長井新左衛門尉らの強力な支援があった。彼らの活躍により、頼芸派は最終的に鷺山城を再び奪い返し、この局地戦における勝利を決定的なものとした 22
  • 頼武の没落 : この鷺山城を巡る一連の戦いの中で、頼武派の重鎮であった斎藤利良が戦死し、頼武の勢力は致命的な打撃を受けた 17 。そして、この大永五年の争乱の最中、同年八月頃に頼武自身も戦死、あるいは暗殺されたと見られている 23 。これにより、頼芸が美濃守護の座を手中に収めた。

周辺諸国の介入と戦乱の泥沼化

この美濃国内の争いは、隣国の思惑も絡み、さらに複雑化・長期化していった。

  • 介入の構図 : 各勢力は、自らの正統性と軍事力を補強するため、積極的に外部勢力と連携した 19
  • 頼武(及びその後継者・頼純)派支援 : 頼武の妻が朝倉氏の出身であったことから、越前・朝倉氏は一貫して頼武派を支援した 24 。また、近江の六角氏も頼武方に与した 24
  • 頼芸派支援 : 頼芸派は主に長井長弘や長井新左衛門尉といった国内の新興勢力を基盤としていた 3
  • 朝倉氏の度重なる介入 : 朝倉氏は、永正十六年(1519年)の頼武復帰作戦に加え、大永五年(1525年)にも美濃へ出兵し、稲葉山城(後の岐阜城)にまで進出するなど、深くこの内乱に関与した 20
  • 和議と再戦の繰り返し : 頼武の死後も、その子・頼純(資料によっては頼充 24 )が朝倉氏らの支援を受けて抵抗を続けた。大永七年(1527年)頃には一旦和議が結ばれたものの 19 、根本的な対立は解消されず、享禄三年(1530年)には頼純が越前へ追放されるなど、争いの火種は燻り続けた 3 。守護である土岐氏は、もはや国人領主たちに擁立されるだけの無力な存在へと成り下がっていたのである 3

表2:美濃大永の乱(1525年頃~)主要関係者と勢力図

派閥

旗印(名目上の主君)

主導勢力(実権者)

主要な与力武将

外部支援勢力

頼武・頼純派(敗北)

土岐頼武、土岐頼純(頼武の子)

(旧来の守護代家)

斎藤利良

越前・朝倉孝景、近江・六角定頼

頼芸派(勝利)

土岐頼芸

長井長弘(小守護代)、長井新左衛門尉

西村勘九郎(後の道三)

(主に国内の新興勢力)


この表を先の表1と比較すると、約30年の間に美濃のパワーバランスが劇的に変化したことがわかる。守護代・斎藤宗家の影響力は低下し、代わって「長井氏」が実権を握る勢力として台頭した。名目上の主君である土岐頼芸を裏で操っていたのが長井氏であり、下剋上が着実に進行していたことを示唆している。

第五章:国盗りへの道程

美濃大永の乱を経て、土岐頼芸を守護の座に就けたことで、長井氏は美濃国における実質的な権力を掌握した。この権力基盤を築き上げたのが長井新左衛門尉であり、その遺産を継承し、さらに大胆な謀略によって「国盗り」を完成させたのが、その子・斎藤道三であった。近年の研究によって明らかになった「親子二代説」は、この美濃下剋上のプロセスをより深く理解する鍵となる。

長井新左衛門尉は、その出自が謎に包まれた人物である。一説によれば、京都の妙覚寺の僧侶であったが還俗し、西村と名乗って美濃へ下り、現地の有力国人であった長井氏に仕えたとされる 27 。彼は類稀なる才覚を発揮して次第に頭角を現し、主家の姓である「長井」を名乗ることを許され、ついには守護代・斎藤氏の重臣にまで成り上がった 28

彼の飛躍の決定的な舞台となったのが、大永五年(1525年)からの美濃大永の乱であった。彼は土岐頼芸を擁立することでその絶対的な信頼を勝ち取り、ライバルであった頼武派を排除することに成功した 30 。守護を自らの傀儡とすることで、彼は美濃の政治的実権を完全に掌握し、下剋上の雛形を完成させたのである。

この長井新左衛門尉が天文二年(1533年)頃に死去すると、その地位と権力、そして「国盗り」という野望は、息子である長井規秀(のりひで、新九郎とも。後の斎藤道三)に引き継がれた 31 。道三は、父が築き上げた盤石な基盤の上で、さらに冷徹かつ大胆な謀略を展開していく。

  1. 長井氏の乗っ取り : 享禄三年(1530年)頃、道三はまず、自らが仕える主筋であり、頼芸派の同僚でもあった長井長弘を殺害し、長井一族の惣領の地位を奪い取ったとされる。
  2. 斎藤氏の乗っ取り : 次に、美濃大永の乱で当主・利良を失い弱体化していた守護代・斎藤氏の名跡に着目。その家督を継承し、「斎藤新九郎利政(としまさ)」と名乗ることで、美濃守護代という伝統的な権威を手に入れた 33
  3. 土岐氏の追放 : 最後に、天文十一年(1542年)、長年擁立してきた主君・土岐頼芸を、もはや不要とばかりに尾張へ追放した 15 。これにより、道三は名実ともに美濃国主の座を手に入れ、一介の家臣から戦国大名へとのし上がるという、前代未聞の「国盗り」を完成させたのである。

斎藤道三の「国盗り」は、彼一人の才能や悪逆非道さのみによって成し遂げられたものではない。それは、明応四年の船田合戦から始まった三十年以上にわたる美濃の慢性的な内乱が、旧来の権威(守護・土岐氏)と権力(守護代・斎藤宗家)を完全に破壊した「結果」として生まれたものであった。美濃の武士たちには、「主君は絶対的なものではなく、実力さえあれば取って代われる」という下剋上の精神が深く浸透していた。道三の父・新左衛門尉は、この時代の混乱を巧みに「利用」して権力基盤を築き、道三はその遺産を元手に最後の仕上げを行ったに過ぎない。船田合戦は、美濃における「パンドラの箱」を開けた。一度開けられた箱からは下剋上という名の災厄が飛び出し、旧秩序を破壊し尽くした。斎藤道三は、その混沌の中から現れた、まさに時代の申し子であったと言えるだろう。

結論:船田合戦が戦国美濃史に刻んだもの

本報告書で詳述してきたように、明応四年(1495年)に勃発した「船田合戦」と、大永五年(1525年)から激化した「美濃大永の乱」は、単独の出来事としてではなく、約三十年をかけて美濃国の社会構造を根底から変革した、一つの連続した歴史プロセスとして捉えるべきである。

船田合戦は、守護・土岐氏の権威を決定的に失墜させ、血筋や家格といった旧来の価値観に代わり、実力のみが支配の正統性を担保する時代の到来を美濃に告げた。しかし、この戦いで勝利を収めた斎藤妙純のあまりにも早すぎる死は、権力の真空状態を生み出し、結果として美濃大永の乱という第二の、そしてより深刻な悲劇を引き起こした。

この三十年間にわたる絶え間ない動乱は、斎藤道三の父・長井新左衛門尉に、歴史の表舞台へと躍り出る絶好の機会を与えた。彼は内乱を巧みに利用して主家を凌ぐ力を蓄え、その子・道三が美濃一国を完全に手中に収めるための盤石な基礎を築き上げたのである。道三の「国盗り」は、この長期にわたる構造変化の最終的な帰結であった。

したがって、船田合戦とそれに続く一連の内乱は、美濃国が中世的な守護支配体制から、実力主義が支配する戦国時代へと完全に移行したことを象徴する、画期的な出来事であったと結論付けられる。斎藤道三によって統一された美濃は、やがてその娘婿である織田信長の手に渡り、天下統一事業の重要な拠点となる。船田の地で流された血は、遠く安土城、そして本能寺へと続く、大きな歴史のうねりの源流となったのである。

引用文献

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  18. 「土岐頼芸」美濃守護の座を掴むも、配下斎藤道三の手で追放される | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/800
  19. 道三の下剋上① - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%81%93%E4%B8%89%E3%81%AE%E4%B8%8B%E5%89%8B%E4%B8%8A%E2%91%A0/
  20. 朝倉孝景 (10代当主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_(10%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
  21. 斎藤道三(斎藤道三と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/13/
  22. 岐阜城 加納城 黒野城 鷺山城 革手城 船田城 枝広館 蝉土手城館 福光 ... http://yogokun.my.coocan.jp/gihu/gihusi.htm
  23. 第6話 斎藤道三との戦い1 戦いに敗れた光秀はどこで何をしていたの? | 一般社団法人 明智継承会 https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/435
  24. 2-7 美濃攻め・大柿城奪取と5千人討死 | nobunagamaps.com https://www.nobunagamaps.com/270mino5000deadmen.html
  25. 「斎藤道三」美濃のマムシの国盗りは実際は親子2代で成し得たものだった? https://sengoku-his.com/76
  26. 「加納口の戦い(1544 or 1547年)」道三の罠だった?織田信秀、マムシに大敗。信長と帰蝶縁組のきっかけに | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/872
  27. 斎藤道三は二人いた!親子で成した新説「国盗り物語」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/75390/
  28. 斎藤道三 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89
  29. 斎藤道三の国盗り伝説、じつは違う? 親子二代説を徹底解説【4/20は長良川の戦いの日】前編 https://note.com/nandemozatsugaku/n/n1c6524356112
  30. 長井氏 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001552213.pdf
  31. 斎藤道三の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7564/
  32. 斎藤道三の国盗り伝説、じつは違う? 親子二代説を徹底解説【4/20は長良川の戦いの日】後編 https://note.com/nandemozatsugaku/n/n9fd46a9fbae1
  33. 濃姫(帰蝶) 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46528/