最終更新日 2025-09-04

若桜鬼ヶ城再包囲(1581)

天正九年、羽柴秀吉は鳥取城「渇え殺し」を完成すべく、若桜鬼ヶ城を再包囲。毛利方の在番衆は無血開城し、鳥取城は完全に孤立。秀吉の兵糧攻めは成功し、吉川経家は自刃した。

天正九年 若桜鬼ヶ城再包囲戦記 ―鳥取城「渇え殺し」を完成させた最後の一手―

序章: 天正因幡の風雲 ― 再び戦渦へ

天正年間、織田信長による天下統一事業は最終段階を迎えつつあった。その巨大な軍事力は西へ、中国地方に覇を唱える毛利氏へと向けられた。この中国方面軍の総司令官に抜擢されたのが、羽柴秀吉である。彼の任務は、播磨、但馬、そして因幡を切り取り、毛利氏の東方への進出を完全に封じ込めることにあった。

天正8年(1580年)の攻防と因幡の動揺

天正8年5月、播磨・但馬を平定した秀吉は、破竹の勢いで因幡国へ侵攻した 1 。秀吉軍はまず、因幡国の中心である鳥取城に迫り、城主であった山名豊国を降伏させ、これを手中に収める。さらに、因幡東部の要衝である若桜鬼ヶ城や、西部の鹿野城といった主要な城郭も次々と攻略し、一時は因幡一国を制圧したかに見えた 1

しかし、この第一次因幡平定は、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていた。秀吉の主力部隊が播磨の三木城攻めに回帰し、因幡国内の支配体制が手薄になると、毛利方の驍将・吉川元春が間髪入れずに反攻を開始する。元春は東伯耆へ侵攻し、織田方に寝返っていた南条元続の居城・羽衣石城を攻撃、落城寸前まで追い詰めた 1 。これに呼応するように、因幡国内では織田支配に反発する国人一揆が頻発し、秀吉が築いたばかりの支配網は瞬く間に瓦解し始める 1

決定打となったのは、鳥取城内部で発生したクーデターであった。毛利氏に通じる重臣、中村春続や森下道誉らが、秀吉に降伏した主君・山名豊国を城から追放。毛利氏に対し、織田方に対抗しうる新たな城主の派遣を要請するに至ったのである 1 。これにより、秀吉の第一次因幡侵攻の成果は完全に水泡に帰し、因幡は再び毛利氏の勢力圏へと回帰した。天正9年(1581年)の若桜鬼ヶ城再包囲、ひいては第二次因幡侵攻は、この前年の平定策の完全な失敗に対する、雪辱を期した「やり直し」の戦いであった。それは、より周到かつ大規模な、殲滅を目的とした作戦の幕開けを意味していた。

吉川経家の鳥取城入城と毛利方の結束

毛利輝元と吉川元春は、鳥取城からの要請に応え、一族の勇将・吉川経家を新たな城主として派遣することを決定する。天正9年3月、経家は毛利方の援兵400を率いて鳥取城に入城した 4 。この時、経家は自らの首を納めるための首桶を持参したと伝えられており、その決死の覚悟は城兵の士気を大いに高めた 4

経家の入城により、因幡における反織田勢力は鳥取城を絶対的な中核として再結集し、毛利方の防衛体制は盤石なものとなった。秀吉にとって、因幡平定は振り出しに戻っただけでなく、より強固な抵抗勢力と対峙するという、一層困難な状況に置かれたのである。

この一連の情勢の推移を時系列で整理すると、第二次侵攻の戦略的必然性がより明確になる。

表1:天正8年~9年 因幡国周辺 主要動向年表

年月

勢力

主要な出来事

関連人物

備考(戦略的意義)

天正8年(1580)5月

織田方

秀吉、第一次因幡侵攻を開始。鳥取城を開城させる。

羽柴秀吉、山名豊国

秀吉、若桜鬼ヶ城・鹿野城なども制圧。

天正8年8月

毛利方

吉川元春が反攻。因幡国内で反織田一揆が頻発。

吉川元春、南条元続

織田方の支配体制が早くも動揺。

天正8年9月以降

毛利方

鳥取城の親毛利派が山名豊国を追放。

中村春続、森下道誉

鳥取城が完全に毛利方の拠点となる。

天正9年(1581)3月

毛利方

吉川経家が鳥取城主として入城。

吉川経家

毛利方の防衛体制が確立。

天正9年6月

織田方

秀吉、因幡周辺の米の買い占めを指示。

羽柴秀吉、黒田官兵衛

「渇え殺し」の準備段階。

天正9年7月

織田方

秀吉、2万の大軍で第二次因幡侵攻。太閤ヶ平に本陣を敷く。

羽柴秀吉、羽柴秀長

鳥取城の完全包囲を開始。

天正9年10月

織田方

秀吉軍、若桜鬼ヶ城を攻撃。毛利方在番衆は鳥取城へ撤退。

羽柴秀吉、八木豊信

鳥取城の孤立が決定的に。

天正9年10月25日

織田方

鳥取城が開城。吉川経家が自刃。

吉川経家、宮部継潤

因幡平定が完了。

天正9年11月以降

織田方

木下重堅が若桜鬼ヶ城主となり、因幡の新支配体制が始まる。

木下重堅、亀井茲矩

織豊政権下での新たな統治へ移行。

第一章: 戦略拠点・若桜鬼ヶ城と城将・八木豊信

若桜鬼ヶ城の再包囲を理解する上で、この城が持つ地理的・戦略的重要性、そして当時の城将が置かれていた複雑な立場を把握することが不可欠である。

因幡東部を扼する要衝 ― 城の地理的優位性と構造

若桜鬼ヶ城は、因幡国の東南、八東郡若桜の地にそびえる鶴尾山(標高452メートル)に築かれた山城である 6 。この地は、因幡から播磨、そして但馬へと通じる複数の街道が交わる結節点であり、古来より交通の要衝として極めて重要な位置を占めていた 6 。鳥取城から見れば、東南方面からの侵攻を防ぐ最後の砦であり、同時に、東からの補給路や連絡線を確保するための生命線でもあった。この城を失うことは、鳥取城が東方に対して完全に孤立することを意味した。

城の歴史は古く、鎌倉時代にこの地に入部した矢部氏によって築かれたとされる 9 。戦国時代には、尼子、毛利、そして織田といった大勢力による激しい争奪戦の舞台となった 7

ここで留意すべきは、1581年当時の城郭の姿である。現在、若桜鬼ヶ城跡で目にする壮麗な総石垣の遺構、特に本丸や二の丸に見られる高石垣や、全国的にも珍しいとされる「行き止まり虎口」といった技巧的な構造物は、この合戦の後に城主となった木下重堅によって施された大規模な改修の産物である 12 。天正9年の再包囲の時点では、若桜鬼ヶ城は矢部氏時代から続く、土塁や堀切、小規模な曲輪群を主体とした、典型的な中世山城の様相を色濃く残していたと考えられる 8 。防御力において、後の近世城郭とは比較にならない脆弱性を内包していた可能性は高い。

狭間に生きる武将・八木豊信

天正9年の動乱期に、若桜鬼ヶ城の城将という重責を担っていたのが、八木豊信という武将である。彼の経歴は、織田と毛利という二大勢力の狭間で翻弄された、当時の国人領主の典型的な姿を映し出している。

八木豊信は、元々但馬国八木城を本拠とする国人領主であった 16 。しかし、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による但馬侵攻の際に降伏し、織田方の配下となった 17 。秀吉は、降伏した但馬の国人たちを、次の戦場となる因幡国の最前線へと送り込んだ。八木豊信もその一人であり、第一次因幡侵攻の後、若桜鬼ヶ城の城将に任じられ、因幡智頭郡に2万石の所領を約束されたのである 17

この人事は、秀吉の巧みな戦略の一環であった。旧来の敵対勢力を最前線に配置することで、その忠誠心を試すと同時に、現地の反織田勢力に対する楔としようとしたのである。しかし、この戦略は、織田方の支配が盤石であって初めて機能するものであった。

前述の通り、秀吉の主力不在を突いた吉川元春の迅速な反攻と、因幡国内の根強い反織田感情の前に、この楔はあまりにも脆かった。但馬からの「移入組」であり、因幡に強固な地盤を持たない八木豊信が、山陰地方に絶大な影響力を持つ吉川元春の圧力に単独で抗うことは不可能であった。毛利方の勢力が盛り返すと、豊信は若桜鬼ヶ城を守りきれず、その支配権を失い、やがて「消息不明」となったと記録されている 18

彼の失脚は、単に一個人の力量不足に帰せられるべきではない。それは、地盤の弱い外様の将を最前線に配置するという秀吉の人事戦略が、毛利方の迅速かつ強力な反攻という想定外の要因によって構造的な欠陥を露呈し、必然的にもたらされた結果であった。天正9年の再侵攻の時点で、八木豊信はすでに城の実権を失い、城内に駐留する毛利方の在番衆の監視下に置かれるか、あるいは城から離脱していた可能性が極めて高い。いずれにせよ、若桜鬼ヶ城の運命を左右する立場にはなかったのである。

第二章: 秀吉、再び因幡へ ― 鳥取城大包囲網の構築

前年の失敗を徹底的に分析した羽柴秀吉は、天正9年の第二次因幡侵攻において、全く異なる戦術を選択した。それは、力攻めによる短期決戦ではなく、兵站を断ち、敵を内部から崩壊させる、冷徹かつ近代的な兵糧攻めであった。

「渇え殺し」の策、発動

秀吉の戦略は、軍勢が因幡に入る数ヶ月も前から始まっていた。軍師・黒田官兵衛らの献策に基づき、秀吉は若狭や但馬の商人たちを動員し、因幡国内の米を平時の数倍という高値で買い占めさせたのである 4 。鳥取城の城兵や領民たちは、目前の利益に目がくらみ、秋の新米の収穫を当てにして、蓄えていた兵糧米まで売り払ってしまった。これには、小西行長のような、商人に扮した秀吉の部下も深く関与していたとされる 4

この周到な経済戦により、鳥取城は籠城を開始する以前から、すでに深刻な兵糧不足という致命的な弱点を抱え込むことになった。秀吉は、武力を用いる前に、経済の力で敵の生命線を断ち切っていたのである。

太閤ヶ平への着陣と鉄壁の布陣

天正9年7月、秀吉は2万ともいわれる大軍を率いて、満を持して因幡に着陣した 20 。秀吉は、鳥取城の東方わずか1.4キロメートルに位置する本陣山に、長大な土塁と空堀を巡らせた巨大な本陣を構築した。これが後世に「太閤ヶ平」と呼ばれる陣城である 21

この本陣を司令塔として、秀吉は鳥取城を完全に取り囲む一大包囲網を築き上げた。本陣山の尾根続きには弟の羽柴秀長が陣を構え、鳥取城への主要な連絡路を遮断 5 。さらに、宮部継潤、蜂須賀家政、黒田官兵衛といった歴戦の諸将を、城の周囲に点在する山々や街道沿いに隙間なく配置し、蟻一匹這い出る隙間もないほどの厳重な包囲陣を完成させた 2

陸路の封鎖に加え、秀吉は若狭水軍などを動員して日本海を制圧し、海からの兵糧搬入ルートも完全に遮断した。これにより、鳥取城は陸からも海からも補給を断たれた、完全な孤島と化したのである。

包囲網の最終仕上げ

秀吉の戦略の射程は、鳥取城本体のみに留まらなかった。彼は、鳥取城の周辺に点在し、籠城の支えとなりうる支城群を一つずつ確実に無力化していくことで、城兵の士気を内側から削ぎ、外部からの援軍という最後の望みを完全に断ち切ることを目指した。

この文脈において、因幡東部の最後の毛利方拠点であった若桜鬼ヶ城の制圧は、この鉄壁の包囲網を完成させるための、まさに「最後の仕上げ」であった。この城を落とすことで、鳥取城は四囲の全てを敵に囲まれ、完全な絶望の中に突き落とされることになる。若桜鬼ヶ城の再包囲は、この秀吉の大戦略における、極めて重要な一手に位置づけられていたのである。

第三章: 若桜鬼ヶ城、落日 ― 再包囲のリアルタイム詳解

若桜鬼ヶ城の落城は、壮絶な攻防戦の末に訪れたものではない。それは、羽柴秀吉が張り巡らせた巨大な戦略の網の中で、じわじわと生命力を奪われ、戦う前に勝敗が決していた、静かなる終焉であった。

天正9年(1581年)7月~9月: 圧迫と孤立

7月に秀吉の本隊が太閤ヶ平に着陣し、鳥取城への大包囲網が完成して以降、若桜鬼ヶ城は外部世界から完全に遮断された。城内に立て籠もる毛利方の在番衆は、本城である鳥取城との連絡を絶たれ、絶望的な孤立状態に陥った。

日々、包囲の締め付けは強化されていく。城の物見台からは、鳥取城を取り巻く織田軍の無数の旗指物が見えたであろう。吉川元春率いる毛利の援軍が伯耆国まで進出してきているという噂は届いていたかもしれないが、その援軍が秀吉の鉄壁の布陣を前に身動きが取れずにいるという現実も、やがて彼らの知るところとなったはずである 24 。外部からの情報が途絶え、食料もいつかは尽きる。城内には、日に日に重苦しい絶望の空気が満ちていったと想像される。

同年10月初旬(推定): 運命の進軍

鳥取城内の兵糧が完全に底を突き、城兵や領民が餓死し始め、城内が地獄絵図と化しつつあることを見計らい、秀吉は最後の仕上げに取り掛かる。包囲網の東方に唯一残された毛利方の拠点、若桜鬼ヶ城を無力化するため、一部隊を派遣したのである。この部隊に与えられた任務は、力攻めによる城の攻略ではなく、戦略的な降伏勧告、すなわち「戦わずして勝つ」ことであったと考えられる。

同年10月中旬(推定): 無血の開城

秀吉の軍勢が若桜鬼ヶ城下に姿を現した。しかし、諸記録の中に、この時に大規模な戦闘が行われたことを示す記述は存在しない 15

城内の毛利方在番衆が下した決断は、抵抗ではなく、撤退であった。彼らが直面していた現実は、あまりにも明白であった。第一に、自軍と城下に迫る織田軍との間には、圧倒的な兵力差が存在した。第二に、頼みの綱である鳥取城は、すでに落城寸前の惨状にある。第三に、吉川元春の援軍が到着する見込みは、もはや絶無であった。

このような状況下で、孤立した支城に立て籠もり玉砕することは、無益な死を意味するだけであった。在番衆は、城を放棄し、鳥取城へ合流(あるいは戦線を離脱し自領へ逃亡)する道を選んだ 15 。これは、敗北ではなく、戦略的状況を冷静に判断した上での、合理的な選択であった。

この時、名目上の城将であった八木豊信は、すでに毛利方によって実権を奪われていたか、あるいは織田軍の接近を好機と捉え、城を脱出していた可能性が高い 18 。いずれにせよ、彼が抵抗を示した形跡は見られない。

結果として、若桜鬼ヶ城は一戦も交えることなく、秀吉の手に渡った。「再包囲」は確かに実行されたが、それは軍事的な圧力によって敵の戦意を完全に喪失させ、戦略的降伏へと追い込むためのものであった。この一件における最大の戦いは、物理的な戦闘ではなく、秀吉が仕掛けた情報戦と心理戦であったと言える。秀吉は、鳥取城を完全に包囲し、外部との連絡を遮断することで若桜鬼ヶ城の戦略的価値を無に帰せしめ、戦わずしてこの要衝を無力化することに成功したのである。

第四章: 戦後処理と新たな支配者

若桜鬼ヶ城の無血開城は、因幡平定戦の最終章の幕開けを告げるものであった。東方の最後の拠点を失った鳥取城は、完全な絶望の中に突き落とされ、その悲劇的な結末は目前に迫っていた。

鳥取城の悲劇と因幡平定の完了

若桜鬼ヶ城が織田方の手に落ちてから間もない、天正9年10月25日。籠城開始から約四ヶ月、鳥取城はついに開城した。城主・吉川経家は、飢餓に苦しむ城兵と領民の助命を唯一の条件として、自刃して果てた 5 。この凄惨な兵糧攻めは「鳥取の渇え殺し」として後世に語り継がれ、戦国史上最も悲惨な籠城戦の一つとして記憶されることになる。

鳥取城の落城をもって、秀吉による第二次因幡侵攻は完遂され、因幡国は名実ともに織田家の支配下に入った。

木下重堅の入城と若桜鬼ヶ城の大改修

戦後、因幡国の支配体制は再編された。鳥取城には宮部継潤、鹿野城には尼子氏の遺臣である亀井茲矩が配置された 1 。そして、東方の要衝・若桜鬼ヶ城には、秀吉の家臣である木下重堅が封じられ、彼は因幡八東郡・智頭郡の二郡を治める2万石の領主となった 26

城主となった木下重堅は、若桜鬼ヶ城に大規模な改修を施した。彼は、従来の土塁と堀を主とした中世山城を、織豊政権の権威を示すにふさわしい、壮麗な近世城郭へと生まれ変わらせたのである。山頂部には本丸、二の丸、三の丸が直線的に配置され、その周囲は高く堅固な石垣で固められた 12 。特に、城の防衛線を画期的に強化する枡形虎口や、全国でも類例の少ない「行き止まり虎口」といった、最新の築城技術が導入された 7 。さらに、本丸には天守台も築かれ、山麓の城下町からその威容を仰ぎ見ることができたであろう 8 。現在、若桜鬼ヶ城跡に残る石垣遺構の大部分は、この木下重堅の時代に築かれたものである。この大改修は、若桜鬼ヶ城が単なる軍事拠点から、地域の政治・経済の中心地へと変貌を遂げたことを象徴している。

終章: 一つの合戦が語るもの

天正9年の若桜鬼ヶ城再包囲は、日本の戦史において、決して派手な合戦として記録されているわけではない。しかし、この一見地味な出来事の中には、戦国という時代の転換点を象徴する、数多くの重要な要素が凝縮されている。

若桜鬼ヶ城再包囲の歴史的意義

この一件は、羽柴秀吉という武将の卓越した戦略眼を何よりも雄弁に物語っている。彼の戦術は、旧来の武士が重んじた武力による正面衝突とは一線を画す。周到な事前準備(米の買い占め)、兵站の完全な遮断、そして鉄壁の包囲網による心理的圧迫。これらを組み合わせることで、敵の戦意そのものを根底から破壊し、抵抗を無力化する。この兵站と心理を重視した近代的な戦術思想こそが、秀吉を天下人へと押し上げた原動力であった。

若桜鬼ヶ城の無血開城は、単に一つの支城が落ちたという以上の意味を持っていた。それは、鳥取城に籠もる将兵に対し、「もはや外部からの援軍は絶対に訪れない」という最終的な絶望を突きつける、決定的な一打となった。この心理的な打撃が、あの悲劇的な結末を早めたことは想像に難くない。若桜鬼ヶ城の静かなる落日は、鳥取城の壮絶な終焉と、密接に結びついていたのである。

武将たちのその後 ― 八木豊信の数奇な運命

合戦の渦中で歴史の表舞台から姿を消したかに見えた、若桜鬼ヶ城の城将・八木豊信。彼のその後の人生は、戦国武将の多様な生き様を我々に示唆している。

近年の研究により、因幡を追われた八木豊信が、遠く九州の地へ下り、薩摩の島津家久に仕えていたことが明らかになった 16 。驚くべきことに、彼が務めた役職は、主君の秘書役にあたる「右筆」であった。武人としてではなく、文人として新たな道を歩んだのである。

実は、豊信は但馬の領主であった頃から、当代一流の茶人であった津田宗及の茶会に参加するなど、高い教養を持つ文化人としての一面を持っていた 16 。彼の曾祖父は有名な歌人でもあり、その文化的素養は一族の血筋に根差したものであったのかもしれない。武力だけでは生き残ることが困難となった激動の時代にあって、彼は自らの文才と教養を新たな武器として、見事に生き抜いた。

八木豊信の数奇な運命は、戦国という時代が、単なる武力闘争の時代ではなく、個人の持つ多様な能力がその後の人生を左右する、複雑で奥深い社会であったことを我々に教えてくれる。一つの城の落城の裏には、こうした無数の人間たちの、知られざる物語が秘められているのである。

引用文献

  1. 織田信長の山陰出陣計画と秀吉/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/1020181.htm
  2. 中国攻めを進める羽柴秀吉は 石山本願寺の降伏を好機に因幡征圧の総仕上げとなる鳥取城を狙う〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5GpwGMPgHX0
  3. 秀吉の因幡攻めと民衆―八上郡弓河内郷を例に― /とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/847182.htm
  4. 1581 鳥取城籠城戰: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/13393741/
  5. 因幡太閤ヶ平羽柴秀長陣 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/taikouganaru_hidenagajin.htm
  6. 若桜鬼ヶ城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203696
  7. 若桜鬼ヶ城の見所と写真・900人城主の評価(鳥取県若桜町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/699/
  8. 【信長の野望紀行】クマ出没注意!若桜鬼ヶ城を空撮 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qCZpwxiy2hA
  9. 因幡 若桜鬼ヶ城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/inaba/wakasaoniga-jyo/
  10. 若桜鬼ヶ城跡 - とりネット https://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/785D5B942E01FACF49257AB4002925DA?OpenDocument
  11. 若桜鬼ヶ城(WakasaOniga-Castle) - 城絵巻 https://castle.toranoshoko.com/castle-wakasaoniga/
  12. 883 若桜鬼ヶ城 - KAGAWA GALLERY-歴史館 https://rekishi.kagawa5.jp/883%E3%80%80%E8%8B%A5%E6%A1%9C%E9%AC%BC%E3%83%B6%E5%9F%8E%E3%80%80/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C/
  13. 第50回 若桜鬼ヶ城 織豊期の石垣を堪能!3時期の変化もたまらない名城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1484
  14. 若桜城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chugoku/wakasa.j/wakasa.j.html
  15. 若桜鬼ヶ城の紹介 https://kanko.town.wakasa.tottori.jp/wordpress/wp-content/uploads/2022/04/onigajyou.pdf
  16. 但馬国人八木豊信の教養と島津家久/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/299693.htm
  17. 資料紹介【第5回】/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/847113.htm
  18. 八木豊信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E8%B1%8A%E4%BF%A1
  19. 但馬 八木城 山名四天王きっての教養人、八木豊信の居城 - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-580.html
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  23. もうひとつの天下分け目の戦 - 山陰海岸ジオパーク|San'in Kaigan UNESCO Global Geopark https://sanin-geo.jp/routes-05/
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  28. 若桜藩(わかさはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E6%A1%9C%E8%97%A9-153876
  29. 若桜鬼ヶ城 [3/5] ホウヅキ段南面の数十mに渡って残る石垣は必見 https://akiou.wordpress.com/2015/10/30/wakasa-onigajo-p3/