茨木城の戦い(1580)
天正六年、荒木村重の謀反に際し、茨木城は不戦で陥落。信長の巧みな調略により、高山右近に続き中川清秀も降伏。これは荒木勢力崩壊の決定打となり、信長の心理戦の勝利を象徴する。
茨木城、不戦の陥落 ― 天正六年、織田信長の摂津調略戦・時間軸全記録 ―
序章:天正八年(1580年)の摂津国と「茨木城の戦い」という問い
天正8年(1580年)3月、織田信長と10年以上にわたり畿内の覇権を争った石山本願寺が、ついに大坂を退去し、長きにわたる石山合戦は終焉を迎えた 1 。この歴史的講和は、織田政権による摂津国(現在の大阪府北部および兵庫県南東部)の完全平定を意味するものであり、信長の天下布武事業における画期的な出来事であった。
利用者様がご提示された「茨木城の戦い(1580)」という問いは、この摂津平定が完了した年号を冠している。しかし、史料を丹念に紐解くと、天正8年に茨木城を舞台とした大規模な合戦が記録されているわけではない。むしろ、茨木城、ひいては摂津国全体の運命を決定づけた真の「戦い」は、その2年前に遡る。天正6年(1578年)、信長が最も信頼した重臣の一人、摂津国主・荒木村重が突如として叛旗を翻した「有岡城の戦い」である。
この大乱において、茨木城は物理的な砲火を交えることなく、織田信長の巧緻を極めた調略の前に「陥落」した。それは、城主・中川清秀の苦渋に満ちた決断によって成し遂げられた、血を流さぬ城明け渡しであった。しかし、その水面下では、忠義と保身、そして大局観が激しくぶつかり合う、極めて熾烈な政治的・心理的な攻防戦が繰り広げられていた。それはまさに、刀剣ではなく、人間の精神そのものを戦場とした「不戦の戦い」と呼ぶにふさわしいものであった。
本報告書は、この天正6年(1578年)11月に起きた茨木城の無血開城を中核に据える。荒木村重の謀反の兆候から、その与力であった高槻城主・高山右近の降伏、そして茨木城主・中川清秀の決断に至るまでの一連の出来事を、可能な限り日付を追いながらリアルタイムで再現する。これにより、1580年の摂津完全平定へと至る歴史の力学を解き明かし、「茨木城の戦い」という問いの背後にある真の歴史的実像に迫るものである。
第一章:摂津国の火種 ― 荒木村重、信長への叛旗(天正六年十月まで)
摂津国の戦略的重要性
戦国時代の摂津国は、単なる一地方ではなかった。京、大坂、堺という当時の日本の政治・経済・文化の中枢都市を内包し、西国街道と中国街道が交差する交通の要衝であった 2 。この地を制する者は、畿内を掌握し、西国への影響力を確保することができる。織田信長の天下布武事業において、摂津の安定はまさに生命線ともいえる戦略的価値を持っていた。
摂津国主・荒木村重という存在
この重要拠点、摂津一国を信長から任されていたのが、荒木村重である。もとは摂津の有力国人・池田氏の家臣であったが、その武才と智謀をもって頭角を現し、主家を凌ぐ実力者となった 4 。信長の上洛後は、いち早くその麾下に参じ、数々の戦功を挙げた。信長は村重を高く評価し、池田氏に代わって摂津の統治を委ね、有岡城(伊丹城)を本拠とさせた 3 。村重は、織田政権における方面軍司令官ともいうべき、破格の待遇を受けた重臣であった。
村重を支える二本の柱:高山右近と中川清秀
その荒木村重の支配体制を支えていたのが、二人の有力な与力(配下武将)であった。
一人は、高槻城主・高山右近である。父・友照とともに早くからキリスト教の洗礼を受けた、日本を代表するキリシタン大名として知られる 5 。その信仰は深く、領内での布教にも熱心であった 7 。しかし、その篤い信仰心は、戦国の武将として生きる上で、時に彼の精神を激しく揺さぶる葛藤の源ともなった。
もう一人が、本報告書の中心となる茨木城主・中川清秀である。清秀もまた摂津の在地土豪の出身で、荒木村重の躍進と共に勢力を伸ばし、茨木城主の地位を得た 4 。史料には「武骨者」と評される一方で 10 、冷静に時勢を見極める現実的な判断力も兼ね備えていた。彼は村重の家臣として、茨木城の整備拡充や城下町の整備に着手し、その支配基盤を固めていた 9 。
謀反への序曲と茨木城での決意
天正6年(1578年)10月、織田軍は播磨の三木城に籠る別所長治を攻撃中であった。しかし、この戦の最中、突如として荒木村重が何の断りもなく戦線を離脱し、居城・有岡城へと引き上げるという不可解な行動に出る 12 。謀反の噂が京にまで届き、信長は驚愕。真相を確かめるべく、明智光秀、松井友閑らを糾明の使者として派遣するが、村重は病と称して会おうとしなかった 14 。
一度は弁明のため、母を人質として安土城へ向かうことを決意した村重であったが、その運命を決定づける出来事が起こる。安土へ向かう道中、彼は中川清秀の居城である茨木城に立ち寄った。ここで村重は、清秀ら家臣団から「信長は一度裏切った人間を決して許すはずがない。いずれ必ず滅ぼされるであろう」と強く翻意を促される 14 。この進言を受け入れた村重は、ついに信長への叛旗を翻すことを決意し、有岡城へと引き返した。
皮肉なことに、荒木村重の謀反の決意を固めさせた舞台こそが、後に彼の勢力基盤を内部から崩壊させることになる茨木城であった。この一事をもって、茨木城は単なる村重配下の支城の一つではなく、この大乱の勃発と崩壊、その両方の転換点に深く関与する運命的な場所となったのである。
表1:主要登場人物とその関係性
人物名 |
役職・立場 |
関係性 |
織田信長 |
天下人 |
荒木村重の主君。摂津平定の総司令官。 |
荒木村重 |
摂津国主、有岡城主 |
信長に叛旗を翻す。高山右近・中川清秀の直接の主君。 |
高山右近 |
摂津高槻城主 |
村重の与力。熱心なキリシタン大名。 |
高山友照 |
右近の父、隠居 |
徹底抗戦を主張する強硬派。 |
中川清秀 |
摂津茨木城主 |
村重の与力。現実主義的な武将。 |
羽柴秀吉 |
織田家重臣 |
播磨方面軍司令官。後に清秀の後援者となる。 |
古田左介 |
織田家臣、茶人 |
村重の旧友。信長の命で清秀の調略にあたる。 |
オルガンティノ |
イエズス会宣教師 |
右近の信仰上の指導者。信長に利用され、調略の駒となる。 |
第二章:最初の駒倒し ― 高山右近の苦悩と高槻城の無血開城(天正六年十一月上旬)
荒木村重の謀反に対し、織田信長は即座に大軍を動員すると同時に、彼の最も得意とする調略戦を開始した。最初の標的は、村重の右腕であり、その勢力基盤の中核をなす高槻城主・高山右近であった。信長は、右近が単なる武将ではなく、篤い信仰を持つキリシタンであるという、その人間性の根幹に揺さぶりをかけた。これは物理的な城の包囲ではなく、個人の精神世界を包囲する「人間性の攻城戦」であった。
宣教師という駒と非情なる脅迫
信長は、京都の南蛮寺にいた宣教師ニェッキ・ソルディ・オルガンティノを呼び出すと、冷徹な最後通牒を突きつけた。「右近を説得し、味方に引き入れよ。もしそれができぬならば、畿内に存在する全ての教会を破壊し、キリスト教の宗門を根絶やしにする」 14 。これは、右近個人の忠誠心を問うだけでなく、彼が命懸けで守ろうとしてきた日本のキリスト教徒全ての運命を人質に取る、極めて苛烈な脅迫であった。信長は、キリスト教の教えが「主君に背くべからず」と説いていることを巧みに利用し、村重に背いて自分に従うことこそが信仰上の「正義」であるという論理を、宣教師自身の口から語らせようとしたのである 14 。
高山右近を襲う三重苦
この信長の策により、高山右近は逃げ場のない倫理的な袋小路へと追い詰められた。彼を苛んだのは、三つの引き裂かれるような苦悩であった。
第一に、 武士としての忠義 である。直接の主君である荒木村重を裏切ることは、武士道において最も恥ずべき行為であり、許されるものではない。
第二に、 人質の命 である。右近はすでに、自らの妹と長男を人質として有岡城の村重のもとへ送っていた 5 。もし裏切れば、彼らが惨殺されることは火を見るより明らかであった。
第三に、 信仰と信徒の命 である。信長の脅迫により、自らの決断一つが、日本のキリスト教の存亡と、高槻城下に暮らす1万人ともいわれる領民キリシタンの命に直結することになった 10 。村重への忠義を貫くことは、すなわち信仰への裏切りとなり、キリスト教徒を破滅へと導く行為に他ならなかった。
さらに、城内では徹底抗戦を主張する父・友照が「もし信長に寝返るようなことがあれば、お前の目の前で腹を切る」と迫り、家族間の対立も極限に達していた 5 。忠義、家族愛、信仰という、人間を形成する根源的な倫理観が互いに衝突し、右近の精神を蝕んでいった。
決断の夜 ― すべてを捨てる道
オルガンティノら宣教師による必死の説得も、膠着状態に陥る。万策尽きたかに見えた天正6年11月9日頃の夜、追い詰められた右近は、この全ての板挟みを解消する唯一の道を見出す。それは「すべてを捨てる」という、常人には考えも及ばない決断であった 5 。武士としての身分、高槻4万石の領地、家臣、そして家族さえも手放し、ただ一個のキリシタンとして信仰に殉じる道を選んだのである。
その夜の午後10時頃、右近は父への書状を遺すと、オルガンティノらを城外へ逃がすという名目で、僅かな供回りと共に城を抜け出した。そして城外に出るや、家臣たちの前で自らの決意を語り、脇差を抜いて元結を切り、髪をばらばらにした。驚き止めようとする家臣に大小の刀と肩衣を渡すと、着ていた衣服を脱ぎ捨て、その下に着込んでいた紙衣(かみこ)一枚の姿となった 5 。それは、世俗の全てを放棄した求道者の姿であった。
右近はそのまま信長の本陣へと向かい、投降した。そのあまりに潔い姿に信長は深く感じ入り、激怒するどころか、右近を許し、着ていた小袖と名馬を与え、さらに摂津芥川郡を加増して所領を安堵したのである 5 。高槻城は、こうして一滴の血も流れることなく、織田方の軍門に降った。信長の苛烈な心理戦は、最初の標的を完璧に打ち破ったのであった。
第三章:茨木城、決断の刻 ― 中川清秀の降伏(天正六年十一月)
高山右近の劇的な降伏は、巨大な衝撃波となって摂津全域を駆け巡った。荒木村重の右腕がもがれたという事実は、荒木陣営に計り知れない動揺を与えた。特に、高槻城と目と鼻の先に位置する茨木城主・中川清秀にとって、それは対岸の火事ではなかった。主君・村重への忠義を貫き運命を共にするか、それとも天下の趨勢を見極め、覇者・信長に降るか。清秀は、人生最大の岐路に立たされた。
信長の第二手 ― 旧友による調略
高槻城を落とした信長は、間髪入れずに次の一手を打つ。その矛先は、茨木城の中川清秀に向けられた。ここでも信長は、単純な武力による威嚇ではなく、人間関係の機微を突いた巧妙な調略を用いた。使者として選ばれたのは、茶人としても知られる古田左介(後の古田織部)であった。左介は、荒木村重とは旧知の間柄であり、その周辺の人間関係にも通じていた 10 。信長は、個人的な信頼関係を利用することで、清秀の心の壁を崩そうと試みたのである。
古田左介は、「武骨者」と評される清秀に対し、恩賞や地位といった物質的な条件だけでなく、「主に背くという順逆の道」、すなわち、この大乱においてどちらが正義であり、武門の家として生き残る道であるのかを、大局的な視点から説いたと伝えられている 10 。
茨木城内の攻防と「小さなクーデター」
しかし、清秀の決断は、彼一人の意思で下せるほど単純なものではなかった。当時の茨木城には、清秀の他に、荒木村重が送り込んだ熱心な主戦派の重臣、石田伊予と渡辺勘太夫が籠城していた 20 。彼らは、村重の目付役として、清秀や城内の動向を監視する役割を担っていた可能性が高い。城内では、信長への降伏を主張する清秀ら穏健派と、あくまで村重と共に戦うべきとする石田・渡辺ら強硬派との間で、激しい議論が交わされたことは想像に難くない。
古田左介の説得に応じるという決断は、同時に城内の権力闘争に勝利することを意味していた。もし決断を誤れば、清秀自身が逆に強硬派によって粛清される危険すらあった。彼の降伏劇の核心は、外部からの説得だけでなく、城内における「小さなクーデター」にあったのである。
【時系列再現】決断の日 ― 11月9日の激動
複数の史料が茨木城の開城日について異なる日付を記しているが、近年の研究によれば、事態が大きく動いたのは、高山右近が降伏したのと全く同じ、天正6年11月9日であった 20 。
高槻城開城の報は、即座に茨木城にもたらされた。この報に接した中川清秀は、もはや村重に勝ち目はないと判断。この機を逃さず、城内において実力行使に出る。彼は、最後まで徹底抗戦を主張する石田伊予と渡辺勘太夫の両名を城から追放し、城内の主導権を完全に掌握した 20 。これは、単なる寝返りではない。自らの命と家臣団の未来を賭けた、リスクを伴う主体的な政治的決断であった。
この11月9日の内部掌握の後、古田左介ら織田方との間で降伏の具体的な条件交渉が進められ、11月24日に正式な開城が成立したと見られる 10 。高槻城と茨木城という、荒木村重の支配を支える二大支城が、わずか半月の間に、しかも一兵も損なうことなく織田方の手に落ちた。信長の調略戦は、完璧な成功を収めたのであった。
表2:荒木村重の乱と摂津主要城郭の動向年表(天正6年10月~12月)
日付(天正6年) |
出来事 |
関連人物 |
場所 |
10月21日頃 |
荒木村重、播磨戦線から離脱し、有岡城にて信長に叛旗を翻す。 |
荒木村重、高山右近、中川清秀 |
有岡城 |
11月3日 |
織田信長、安土を出陣。摂津へ向かう。 |
織田信長 |
安土城 |
11月9日 |
高山右近、信長に投降。高槻城が無血開城となる。 |
高山右近、織田信長、オルガンティノ |
信長本陣、高槻城 |
11月9日 |
中川清秀、茨木城内の抗戦派・石田伊予らを追放し、降伏を決意。 |
中川清秀、石田伊予、渡辺勘太夫 |
茨木城 |
11月16日 |
高山右近が信長のもとへ御礼に参上。所領を安堵・加増される。 |
高山右近、織田信長 |
信長本陣 |
11月24日頃 |
茨木城、正式に開城。 |
中川清秀、古田左介 |
茨木城 |
12月11日 |
信長、茨木城の城番として福富平左衛門らを派遣する。 |
福富平左衛門、下石彦右衛門、野々村三十郎 |
茨木城 |
12月13日 |
有岡城の女房衆122人が尼崎で処刑される。 |
織田信忠 |
尼崎・七松 |
12月16日 |
村重一族ら36人が京の六条河原で斬首される。 |
織田信長 |
京都・六条河原 |
第四章:その後の摂津戦線と天正八年の平定(天正六年十二月~天正八年)
高槻・茨木という両翼をもがれた荒木村重は、有岡城に籠城するほかなくなった。彼の戦略的基盤は完全に崩壊し、毛利氏からの援軍も期待できないまま、絶望的な籠城戦へと突入する 12 。信長は有岡城を厳重に包囲する一方、村重への見せしめとして、捕らえた人質の処刑を命じた。尼崎の七松では女房衆122人が、京の六条河原では村重の一族36人が惨殺されるという悲劇が繰り広げられた 21 。
約1年にわたる籠城の末、天正7年(1579年)9月、村重は妻子や家臣を見捨て、単身で有岡城を脱出。ここに荒木村重の乱は事実上、終結した。
降将・中川清秀の処遇と羽柴秀吉の先見性
一方、信長に降った中川清秀の処遇は、すぐには定まらなかった。降伏直後の12月11日、信長は茨木城に福富平左衛門ら自らの直臣を城番として送り込み、城の管理を直接掌握した 20 。これは、信長が降将である清秀を完全には信用せず、その動向を注意深く監視下に置いたことを示している。清秀にとって、自らの将来が見えない不安定な日々が続いた。
この状況に変化をもたらしたのが、当時、播磨攻略の総大将であった羽柴秀吉である。天正7年(1579年)6月5日、秀吉は清秀と義兄弟の契りを結び、「清秀の本領を安堵し、さらに加増されるよう信長公に万事取り計らう」という内容の起請文(誓約書)を交わした 20 。これは、単なる降将の救済ではない。秀吉が、織田政権内部で自らの軍団を強化するための、極めて戦略的な人材登用であった。彼は、清秀の武将としての能力を高く評価し、信長への忠誠を前提としながらも、自らの派閥に積極的に引き入れたのである。この秀吉の先見性と政治力は、後の豊臣政権を支える人材を、この時点で巧みに確保する動きであったと分析できる。
秀吉という強力な後援者を得たことで、清秀の立場は安定した。同年9月28日には信長自身が茨木城を訪れており 20 、この頃には清秀による茨木城の支配が正式に認められたと考えられる。この秀吉との絆は、後に本能寺の変を経て、清秀が秀吉方として賤ヶ岳の戦いに臨み、奮戦の末に命を落とすという運命に直結していく 22 。
摂津平定の完了
荒木村重の脅威が去った後も、摂津には石山本願寺という巨大な抵抗勢力が残っていた。しかし、村重という最大の同盟者を失った本願寺は次第に孤立を深めていく。そして天正8年(1580年)3月、ついに信長との和睦に応じ、大坂の地を明け渡した 1 。ここに、10年以上にわたった石山合戦は終わりを告げ、信長による摂津国の完全平定が達成された。天正6年の茨木城における「不戦の戦い」は、この最終的な勝利へと至る、決定的な一里塚だったのである。
終章:茨木城「不戦の戦い」が残したもの
茨木城をめぐる一連の出来事は、物理的な戦闘を伴わなかったがゆえに、戦国史の中で大きく注目されることは少ない。しかし、その内実を深く探れば、そこには歴史の転換点における重要な力学と、時代を動かした人間たちのドラマが凝縮されている。
第一に、高槻城と茨木城の連続した無血開城は、荒木村重の乱における紛れもない決定打であった。これは単に二つの城を失ったという軍事的な損失に留まらない。最も信頼していたはずの与力たちが次々と離反したという事実は、村重の求心力を失墜させ、荒木陣営の心理的な結束を内部から崩壊させた。物理的な戦力以上に、勢いと大義名分を断ち切った点で、その影響は決定的であった。
第二に、この一件は、織田信長の戦いが単なる軍事力の行使ではなく、情報戦、心理戦、外交戦を駆使した総合的なものであったことを示す好例である。彼は敵の内部構造、すなわち高山右近の「信仰」や中川清秀の「現実主義」といった弱点、あるいは古田左介との「人間関係」を的確に見抜き、そこを突くことで、最小限の損害で最大限の効果を上げた。茨木城の「不戦の陥落」は、信長の天下布武を支えた戦略思想の本質を物語っている。
第三に、この決断は、中川清秀自身の運命をも大きく変えた。一度は主君を裏切った降将でありながら、彼は羽柴秀吉という新たな主君との絆を得て、織田政権、そして後の豊臣政権下で重要な役割を担うことになる。彼の現実的な判断は、中川家を存続させる道を開いたが、同時に彼自身を賤ヶ岳の露と消えさせる遠因ともなった 22 。
その後の茨木城は、賤ヶ岳で戦死した清秀の子・秀政が継ぐが、やがて播磨三木へと移封される 22 。城は秀吉の直轄地となり、片桐且元らが城主を務めた後、元和3年(1617年)、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり、その歴史に幕を下ろした 9 。
歴史は、必ずしも華々しい合戦だけで動くのではない。「茨木城の戦い」が教えるのは、目に見える戦闘の裏で繰り広げられる調略や交渉、そして極限状況に置かれた一人の武将の苦悩に満ちた決断が、時に万の軍勢による攻城戦以上の影響を歴史に及ぼしうるという、厳然たる事実である。
引用文献
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