最終更新日 2025-09-02

葛尾城の戦い(1553)

天文二十二年、武田信玄は二度敗れた村上義清の葛尾城を攻める。信玄は調略を駆使し、国人衆を切り崩して城を無血開城。義清は越後へ逃れ、信濃統一の礎を築くと共に、川中島の戦いの幕開けとなった。

天文二十二年、信濃葛尾城の攻防 ― 猛将・村上義清の没落と川中島合戦前夜

序章:二度の敗北 ― 武田信玄、村上義清打倒への執念

天文二十二年(1553年)に繰り広げられた「葛尾城の戦い」は、単発の軍事衝突として理解することはできない。それは、甲斐の武田信玄(当時は晴信)と北信濃の雄・村上義清との間に長年にわたり蓄積された因縁、とりわけ信玄が喫した二度にわたる屈辱的な敗北に端を発する、周到に計画された戦略の帰結であった。この戦いの本質を理解するためには、まず両者の力関係と、信玄の戦略を根底から覆させた過去の戦いを詳らかにする必要がある。

「甲斐の虎」を二度退けた「信濃の雄」村上義清

村上義清は、信濃源氏の名門・村上氏の当主として、北信濃に絶大な勢力を誇った戦国大名である。その支配領域は埴科郡の葛尾城(現在の長野県坂城町)を本拠に、佐久、小県、更級、高井、水内の六郡に及び、信濃国人衆の盟主として君臨していた 1 。義清は「猛将」と呼ぶにふさわしい人物であり、その武勇は広く知れ渡っていた 1

一方、父・信虎を追放して甲斐の国主となった若き武田晴信は、信濃全土の制圧を宿願とし、破竹の勢いでその版図を拡大していた 2 。諏訪氏、小笠原氏といった信濃の有力大名を次々と打ち破り、その矛先が村上氏の領する北信濃に向けられるのは、もはや時間の問題であった。

上田原、砥石崩れでの惨敗と信玄の戦略転換

天文十七年(1548年)二月、両雄は上田原(現在の上田市)で初めて激突する。世に言う「上田原の戦い」である。この戦いで、村上軍は武田軍を正面から粉砕。信玄は板垣信方、甘利虎泰といった譜代の重臣を一度に失い、自身も傷を負うという、生涯初の大敗を喫した 1

この雪辱を期す信玄は、二年後の天文十九年(1550年)九月、再び村上領へ侵攻し、義清の重要拠点である砥石城(戸石城)を包囲した。信玄は七千の大軍を動員したのに対し、砥石城の守兵はわずか五百であった 4 。しかし、砥石城は天然の要害であり、村上方の兵は崖をよじ登る武田兵に石や熱湯を浴びせて頑強に抵抗した 4 。攻城戦が二十日以上に及び膠着状態に陥る中、義清自らが二千の兵を率いて武田軍の背後に出現。城兵と義清本隊による挟撃を受け、武田軍は総崩れとなった 5 。この壮絶な追撃戦で、武田方は宿将・横田高松をはじめ千人以上もの将兵を失うという、上田原を上回る惨敗を喫した 1 。後世、「砥石崩れ」と語り継がれるこの敗北は、信玄の軍事的評価に大きな傷をつけた 7

「攻め弾正」真田幸隆の登用と調略戦の幕開け

二度にわたる野戦での敗北は、信玄に村上義清という敵の強大さを骨身に染みて理解させた。義清の武勇と、彼を支持する北信濃国人衆の結束を、力攻めだけで打ち破ることは不可能である。この痛切な認識が、信玄の対村上戦略に根本的なパラダイムシフトをもたらした。すなわち、戦略の主軸を「武力による攻略」から、敵の内部を切り崩す「調略による自壊」へと大きく転換させたのである 3

この新たな戦略を遂行する上で、白羽の矢が立てられたのが、かつて村上氏らによって旧領を追われ、武田氏に身を寄せていた真田幸隆であった 3 。信濃の地理、そして何より国人衆の人間関係や内情に精通した幸隆は、この調略戦の指揮官としてまさに適任であった。信玄が義清に合戦で敗れたことにより、皮肉にも調略の重要性に気づかされた瞬間であり、これ以降、葛尾城を巡る攻防の主戦場は、鬨の声が響く戦場から、水面下で繰り広げられる静かなる謀略の舞台へと移っていくのである 3 。葛尾城の戦いは、軍事衝突である前に、過去の軍事的失敗から生まれた高度な政治・心理戦の最終局面であったと言える。

第一章:静かなる嵐 ― 調略の網と葛尾城包囲網の形成(天文20年~22年3月)

信玄の戦略転換は、直ちに具体的な成果となって現れ始める。真田幸隆を尖兵とする調略の網は、静かに、しかし着実に村上義清の支配体制を内側から蝕んでいった。天文二十年(1551年)から二十二年(1553年)三月に至るまでの期間は、来るべき葛尾城攻略に向け、武田方が周到に外堀を埋めていった「静かなる嵐」の時期であった。

砥石城の陥落:村上支配体制に穿たれた楔

最初の大きな転換点となったのが、天文二十年(1551年)五月の砥石城陥落である 10 。前年、信玄が七千の兵を以てしても落とせなかったこの堅城を、真田幸隆は調略によって、ほとんど兵を損なうことなく奪取したのである 9 。幸隆は、村上方に寝返ったと見せかけた家臣を送り込むなどの謀略を用い、城の守備兵を買収し、内部から切り崩したと伝わる 11 。一説には、幸隆の弟で砥石城の足軽大将であった矢沢頼綱の内通があったとも考えられている 8

この事件が村上方に与えた衝撃は計り知れない。武力では武田を圧倒したはずの義清が、謀略によって重要拠点をいとも容易く失ったという事実は、彼に従う国人衆の心に大きな動揺と不信感を植え付けた 12 。武田の力はもはや武勇だけではない。「信玄には勝てないかもしれない」という疑念は、村上連合の結束に初めて楔を打ち込むことに成功した。

天文22年1月28日:信玄、出陣。「砥石城再興」という偽計

砥石城奪取から二年近くが経過した天文二十二年(1553年)一月二十八日、信玄はついに村上義清討伐の総仕上げに向けて出陣する 14 。しかし、その動きは極めて巧妙に偽装されていた。信玄は佐久の内山城を守る小山田備中守に宛てた書状の中で、次のように指示している。「これから兵を出すが、世間には砥石城再興のための出馬と触れること。必ず砥石の城普請のために信玄と(嫡男の)義信が出向いたとしておくこと」 15

この「砥石城の普請(修理・改築)」という名目は、村上方を油断させるための完璧な偽計であった。砥石城は既に武田の手に落ちており、その城を修理するために当主自らが出向くことは、一見すると自然な行動に映る。この情報操作によって、信玄は自らの真の目的である葛尾城攻略の意図を隠蔽し、村上方の警戒を解き、初動を遅らせることに成功したのである。

国人衆への働きかけ:屋代氏、塩崎氏らの内応と村上方の孤立化

信玄の出陣と並行して、真田幸隆らによる国人衆への調略は最終段階を迎えていた。標的とされたのは、葛尾城の南方を固める上で死活的に重要な拠点、屋代城(現在の千曲市)の城主・屋代政国(正国)と、その周辺に勢力を持つ塩崎氏、雨宮氏らであった 16

信濃の国人衆にとって、自家の存続は何よりも優先されるべき課題であった。彼らの村上義清への忠誠は、絶対的な主従関係というよりは、利害を共にする連合体の盟主に対するそれに近い。圧倒的な勢いを誇る武田氏と、砥石城を失い求心力に陰りが見え始めた村上氏。両者を天秤にかけた時、武田方につくことは、彼らにとって自領の安堵と一族の将来を保証する合理的な選択であった。信玄は、国人衆が持つこの「独立性と生存本能」という構造的脆弱性を見抜き、武田の軍事力という「恐怖」と、所領安堵という「利益」を巧みに提示することで、彼らの生存戦略を自軍の全体戦略に組み込んだ。

幸隆らの執拗な働きかけは実を結び、屋代政国、塩崎氏らはついに武田方への内応を決断する 15 。これにより、葛尾城は南からの防御網を完全に失い、あたかも裸の城同然の状態で、武田の大軍を迎え撃つことになったのである。これは、村上義清という一個人を標的にするのではなく、彼を支える社会構造そのものを解体する、高次の戦略の勝利であった。

国人衆

拠点城郭

当初の所属

武田方への帰順時期

備考

屋代政国

屋代城

村上方

天文22年4月以前

真田幸隆の調略に応じ、葛尾城の南方を脅かす 16

塩崎氏

塩崎城

村上方

天文22年4月以前

屋代氏らと共に武田方に内応 17

雨宮氏

(不明)

村上方

天文22年4月以前

屋代氏・塩崎氏と行動を共にする 16

大須賀氏

(坂木)

村上方

天文22年4月9日以降

葛尾城落城後に武田方へ出仕 15

室賀氏

室賀城

村上方

天文22年4月9日以降

葛尾城落城後に武田方へ出仕 15

表1:葛尾城の戦いにおける主要国人衆の動向

第二章:崩壊の刻 ― 天文二十二年四月、葛尾城陥落のリアルタイム詳解

天文二十二年(1553年)四月、信玄が周到に張り巡らせた包囲網は、一気呵成にその口を閉じた。この章では、武田軍の電撃的な侵攻と、それに伴う村上方の崩壊プロセスを、日付を追いながらリアルタイムで再現する。それは、もはや合戦と呼ぶには一方的な、計画された「解体作業」であった。

4月2日~5日:外堀を埋める ― 周辺拠点の制圧

武田軍の本格的な軍事行動は、四月二日に開始された。本隊は信濃府中(現在の松本市)の深志城を拠点に、まず筑摩郡へと侵攻。村上方の苅屋原城と塔原城を瞬く間に攻略した 14 。この動きは、葛尾城と信濃府中方面との連絡線を遮断し、西からの救援や連携の可能性を断つためのものであった。

時を同じくして、別動隊が千曲川右岸沿いに北上を開始した。この部隊の目標は、葛尾城の防衛ネットワークを構成する東側の支城群であった。部隊はまず狐落城、次いで荒砥城を相次いで攻略 19 。これらの支城は、葛尾城から善光寺平方面への連絡路を確保し、東側からの攻撃に備えるための重要な拠点であった。その陥落は、葛尾城が東と西から完全に孤立したことを意味した。武田軍は、城本体に直接攻撃を仕掛ける前に、その手足となる支城群を的確にもぎ取っていったのである。

4月6日~8日:死中に陥る ― 包囲網の完成と最後の離反

四月六日、周辺の支城群を制圧し終えた武田軍は、満を持して葛尾城へ進軍し、その包囲を完成させた 1 。この段階に至り、これまで水面下で内応していた勢力が、公然と武田方として牙を剥いた。葛尾城の南方に位置する屋代城の屋代政国、塩崎城の塩崎氏らが武田軍に合流し、村上軍の背後を脅かす陣形を取ったのである 15

この時点で、村上義清は完全に死中に陥った。西は武田本隊、東は別動隊、そして南は裏切ったかつての味方によって固められ、残された退路は北の越後方面のみ。しかも、その退路すら武田軍の騎馬隊によっていつ遮断されてもおかしくない、絶望的な状況であった。城は堅固であっても、それを支えるべき人的・地理的ネットワークは完全に破壊されていた。

4月9日:戦わずして城は落ちた ― 「自落」の真相と義清、北へ

四月九日、運命の日が訪れた。しかし、そこには壮絶な攻城戦も、城兵の玉砕もなかった。葛尾城は、大規模な戦闘を経ることなく、武田の手に落ちた。いわゆる「自落」である 1

この「自落」の背景には、複数の要因があったと考えられる。第一に、前述の通り、戦略的に完全に孤立し、これ以上の籠城は無意味であるという義清の冷静な判断があった 1 。第二に、城内における内通者の存在である。一説には、武田に内通していた重臣の計略により、守将の滝沢能登守が城門から打って出た隙を突かれ、城が内部から崩壊したとも伝わる 19

いずれにせよ、義清はこれ以上の抵抗を断念し、城を放棄して脱出。北信濃に勢力を持つ高梨氏らを頼り、越後国境を目指して落ち延びていった 13 。葛尾城の陥落は、物理的な戦闘の敗北ではなく、信玄の調略によってもたらされた戦略的・政治的敗北の象徴であった。この出来事は、戦国時代の城郭の価値が、単なる物理的な堅牢さから、それを支える政治的・人的ネットワークの強固さへと移行しつつあることを示す画期的な事例となった。

4月15日~18日:勝者への臣従 ― 戦後処理と新秩序の形成

葛尾城落城の報は、瞬く間に北信濃全域に伝わった。これまで村上氏の威勢を恐れて日和見を決め込んでいた国人衆は、雪崩を打って新たな支配者の元へと馳せ参じた。四月十五日から十八日にかけて、小県郡の室賀氏や更級郡の大須賀九兵衛といった有力国人が、相次いで武田方に出仕し、忠誠を誓った 15 。さらに、小泉氏、高坂氏といった諸氏もこれに続いた 18

これにより、武田氏による北信濃支配は既成事実となった。信玄は、軍事力で制圧するのではなく、調略によって敵の支配体制を内部崩壊させ、最小限の犠牲で広大な領域を支配下に置くという、極めて効率的な征服を成し遂げたのである。

日付

武田軍の動向

村上軍(および周辺勢力)の動向

関連する城郭

4月2日

筑摩郡へ侵攻、苅屋原城・塔原城を攻略 14

西方との連絡線を遮断される。

苅屋原城、塔原城

4月2日~5日

別動隊が千曲川右岸を北上、狐落城・荒砥城を攻略 19

東方の支城網が崩壊。

狐落城、荒砥城

4月6日

葛尾城の包囲を開始 1

完全に包囲される。

葛尾城

4月6日~8日

-

屋代政国、塩崎氏らが公然と武田方に離反 15

屋代城、塩崎城

4月9日

葛尾城を無血で接収 10

村上義清、城を放棄し越後方面へ脱出 1

葛尾城

4月15日~18日

-

室賀氏、大須賀氏らが武田方へ出仕 15

室賀城

表2:天文二十二年四月 葛尾城陥落までの詳細年表

第三章:猛将の逆襲 ― 葛尾城奪還と束の間の勝利(天文22年4月~5月)

一度は全てを失い、本拠地から追われた村上義清であったが、その闘志は潰えていなかった。猛将と謳われた男は、驚異的な速さで反撃に転じ、武田信玄の度肝を抜くことになる。この一連の出来事は、義清の不屈の精神を示すと同時に、北信濃の戦乱が新たな局面、すなわち越後の大国の介入を招く転換点となった。

越後の長尾景虎への救援要請

葛尾城を脱出した義清は、北信濃の国人衆である高梨氏らの仲介を経て、越後の守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)に庇護と救援を求めた 19 。武田氏の信濃侵攻は、越後長尾氏にとっても国境を脅かす重大な脅威であった。また、信義を重んじる景虎にとって、信濃の旧族が助けを求めてきたことを見過ごすことはできなかった 22 。景虎は義清らの要請に応じ、援軍の派遣を約束する。この決断が、以降十数年にわたり繰り広げられる「川中島の戦い」の直接的な引き金となったのである 23

4月22日:八幡での激突、武田軍を破る

景虎の支援を取り付けた義清は、すぐさま反攻作戦を開始した。長尾家からの援軍(一説には五千)と、なおも義清を支持する北信濃の反武田勢力を結集し、失地回復の兵を挙げた 19 。四月二十二日、義清率いる連合軍は、更級郡八幡(現在の千曲市、武水別神社付近)に布陣していた武田軍と激突した 26

葛尾城を落とし、油断していた武田軍にとって、義清のこれほど迅速な反撃は全くの想定外であった。勢いに乗る村上・長尾連合軍の猛攻の前に武田軍は敗走。義清は、葛尾城を追われてからわずか二週間足らずで、見事な勝利を収めたのである(八幡の戦い) 25

4月23日:葛尾城奪還と城将の討死

八幡での勝利の翌日、四月二十三日、義清はその勢いを駆って本拠・葛尾城へと殺到した。武田方は城将として於曾源八郎を配置し守りを固めていたが、敗戦の混乱と、義清の鬼気迫る攻撃の前に持ちこたえることはできなかった 25 。城は再び村上義清の手に戻り、城将・於曾源八郎は討ち取られた 25

葛尾城落城からわずか十四日での奪還という劇的な展開は、義清の猛将としての面目を保ち、北信濃における彼の影響力が未だ健在であることを内外に示した。しかし、この勝利が長尾景虎という「外部勢力」の支援によって成し遂げられたものであったことは、重要な意味を持っていた。義清の権力基盤は、もはや自領の国人衆の支持だけではなく、越後の軍事力に依存せざるを得ない構造へと変化していた。この勝利は義清の「復活」であると同時に、信濃の紛争が「甲斐対越後の代理戦争」へと質的に変容した瞬間を画定する出来事でもあった。

5月:信玄、一時撤兵。甲府帰陣の裏事情

義清の予期せぬ反撃と、その背後にいる長尾景虎の存在を認識した信玄は、戦況の立て直しを余儀なくされた。彼は深志城を経由して、五月には一旦甲府へと兵を引いた 13

この撤兵の公式な理由として、将軍・足利義輝からの使者を迎え、嫡男・太郎(後の義信)が将軍の一字を拝領し元服する儀式を執り行うためであったとされている 25 。これは事実であったが、同時に、本格的な長尾景虎との対決に備え、軍備を再編するための戦略的撤退であった側面が強い。信玄は、一時の戦術的後退と引き換えに、より大きな戦略的勝利を目指し、甲府で次の一手を練り始めたのである。

第四章:龍の介入 ― 北信濃の動乱と第一次川中島の戦いへの道(天文22年7月~10月)

村上義清による束の間の葛尾城奪還は、北信濃の情勢をさらに複雑化させた。それはもはや武田と村上の局地的な紛争ではなく、甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・長尾景虎という二大勢力が信濃の覇権を巡って直接対峙する、新たな時代の幕開けを告げるものであった。葛尾城を巡る一連の攻防は、この章で詳述する「第一次川中島の戦い」へと必然的に収斂していく。

7月:武田軍、再侵攻。村上方の最終抵抗

甲府で万全の準備を整えた信玄は、同年七月、再び大軍を率いて信濃へ侵攻を開始した 18 。その規模と勢いは、四月の侵攻を遥かに上回るものであった。武田軍は佐久郡から小県郡へとなだれ込み、義清方に残っていた城砦を次々と攻略していった。その数、実に十六城に及んだという 18

義清は、奪還した葛尾城ではなく、より防備の厚い塩田城(現在の上田市)に籠もり、最後の抵抗を試みた 18 。しかし、一度武田に靡いた国人衆が再び義清の元に戻ることはなく、彼の抵抗は孤立無援であった。

8月5日:塩田城陥落。義清、越後へ亡命

武田軍の圧倒的な物量の前に、塩田城の防衛も限界に達した。八月五日、ついに塩田城は陥落。村上義清は再び、そして今度は完全に信濃の地を追われ、越後へと亡命した 18 。これにより、鎌倉時代から北信濃に君臨した名門・村上氏は、事実上滅亡した。信玄は塩田城を川中島方面への前進拠点と定め、重臣の飯富虎昌を城代として配置し、北信濃支配を盤石なものとした 18

9月1日~:長尾景虎、出陣。第一次川中島の戦い勃発

村上氏という長年の緩衝地帯が消滅し、武田の勢力が自国の喉元である善光寺平にまで及んだことは、長尾景虎にとって看過できない事態であった。義清ら信濃国人衆の悲願に応えるという大義名分に加え、越後本国の安全保障という現実的な要請から、九月一日、景虎は自ら大軍を率いて信濃へ出陣した 18

景虎率いる上杉軍(当時は長尾軍)は、川中島南部の布施(現在の長野市篠ノ井)において武田軍の先鋒部隊を撃破(布施の戦い)。その勢いを駆って南下し、武田方の荒砥城、青柳城、虚空蔵山城などを次々と攻略した 18 。これは、武田軍を奥地へとおびき出し、決戦を挑むための示威行動であった。

9月~10月:両軍の睨み合いと撤兵。前哨戦の終わり

しかし、信玄は景虎の挑発には乗らなかった。彼は塩田城を拠点として守りを固め、景虎との直接対決を巧みに避けた 18 。信玄の目的は、確保したばかりの村上旧領(埴科・小県郡)を確実に保持することであり、未知数の敵である景虎との全面対決という高いリスクを冒す必要はなかった。

一方の景虎も、武田軍の堅い守りの前に決定的な打撃を与えることができず、戦線は膠着状態に陥った。九月十七日には坂木南条に放火するなど挑発を続けたが、信玄は動かない 18 。景虎は、信濃国人衆の救援という出兵目的をある程度達成し、武田の北上を川中島で食い止めたことで、一定の成果を上げたと判断。九月二十日に越後へと兵を引き上げた 18 。信玄もまた、十月十七日に甲府へ帰還した 18

この第一次川中島の戦いは、両軍の主力同士による大規模な会戦には至らず、小競り合いと睨み合いに終始した 18 。しかし、この戦いは両雄にとって極めて重要な意味を持っていた。それは「勝利」よりも、互いの用兵や実力を測る「情報収集」と、新たな勢力圏を確認する「地ならし」を主目的とした、高度に計算された前哨戦であった。信玄は信濃における実利を、景虎は越後の守りと信濃における影響力という名分を、それぞれ確保した。感情的な復讐戦ではなく、両者が互いの実力を冷静に分析し、来るべき本格的な対決に備えるための、高度な戦略的駆け引きの場だったのである。

終章:信濃統一の礎 ― 葛尾城の戦いが残した歴史的意義

天文二十二年(1553年)の一年間にわたる葛尾城を巡る一連の攻防は、単に一つの城の帰趨を決した戦いではない。それは北信濃の勢力図を塗り替え、戦国時代の歴史を大きく動かす転換点となった、極めて重要な出来事であった。

村上氏の没落と武田氏の北信濃支配の確立

最大の意義は、信玄を二度までも打ち破った猛将・村上義清の勢力を完全に信濃から駆逐したことにある 3 。これにより、武田信玄の信濃統一事業における最大の障害が取り除かれ、信濃のほぼ全域が武田氏の支配下に置かれることになった 2 。葛尾城の陥落は、一人の猛将の時代の終わりと、組織力と戦略に秀でた新たな覇者の時代の到来を告げる象徴的な出来事であった。

「川中島の戦い」という新たな時代の幕開け

第二に、この戦いは、戦国史に名高い「川中島の戦い」の直接的な原因となった点である。村上氏という甲斐と越後の間に存在した緩衝地帯が消滅したことで、武田と上杉(長尾)という二大勢力が、川中島を挟んで直接国境を接することになった 23 。村上義清の亡命と救援要請は、上杉謙信に信濃出兵の大義名分を与え、以降、永禄七年(1564年)まで、十二年間に五度にも及ぶ両雄の死闘が繰り広げられることとなる 10

調略が合戦の帰趨を決した一例としての教訓

最後に、葛尾城の戦いは、戦国時代の合戦の様相が、単なる兵力の衝突から、情報戦、心理戦、外交戦を駆使した総力戦へと変貌していく過程を示す好例である。信玄は、上田原と砥石での軍事的敗北という教訓から、武力一辺倒の戦略を捨て、調略によって敵の足元から切り崩すという、より高度な戦略を採用した。結果として、難攻不落とされた葛尾城を最小限の犠牲で手に入れた。この戦いは、戦国時代を勝ち抜くためには、武勇だけでなく、敵の弱みを見抜き、人心を掌握する知略こそが不可欠であることを、後世に強く示す教訓となったのである。

補遺:難攻不落の要塞 ― 葛尾城の構造と支城網

本文で詳述した通り、葛尾城は戦闘ではなく調略によって陥落したが、その物理的な防御能力が低かったわけでは決してない。むしろ、当時の信濃における最大級の堅城であった。

縄張りから見る葛尾城の防御思想

葛尾城は、標高約805メートルの葛尾山山頂に築かれた連郭式の山城である 30 。山頂の比較的狭い平坦地を本郭(主郭)とし、そこから北へ伸びる尾根筋に沿って二の郭、三の郭と続き、それらの間を幾重にも重なる巨大な堀切によって分断している 31 。特に本郭背後(北側)の二重堀切は大規模なもので、尾根伝いの侵入を阻む強固な防御施設であった 33 。また、城の北端には石垣で固められた櫓台の跡も確認されており、 strategic な防御思想に基づき築城されていたことがわかる 33 。城の麓には、村上氏の居館跡とされる満泉寺があり、平時の政務と戦時の城砦を分離した典型的な根小屋式山城の形態をとっていた 33

支城群との連携と、武田軍の攻略ルートの考察

葛尾城の防御力は、城単体で完結するものではなかった。南の尾根続きには姫城 34 、北の尾根には岩崎城 35 といった支城が配され、さらに千曲川を挟んだ対岸には荒砥城や狐落城などが点在し、これらが一体となって広大な防衛ネットワークを形成していた 19

天文二十二年の合戦において、武田軍が取った進軍ルートは極めて合理的であった。城の正面(大手)にあたる南側(坂城神社方面)は、すでに屋代氏らの内応によって無力化されていた 16 。そこで武田軍は、城の裏手(搦手)にあたる北側、千曲川右岸の往還道から侵攻し、まず支城である狐落城と荒砥城を攻撃した 19 。これは、村上義清の唯一の退路である越後方面への道を遮断し、心理的に追い詰める効果も持っていた。物理的な城壁を攻める前に、城を支えるネットワークを断ち切るという、信玄の戦略思想がここにも明確に表れている。

引用文献

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  2. 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
  3. 村上義清は何をした人?「信玄に二度も勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikiyo-murakami
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  7. 砥石崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A5%E7%9F%B3%E5%B4%A9%E3%82%8C
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  9. 砥石城跡[といしじょうあと] /【川中島の戦い】史跡ガイド https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000444.html
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  13. 永遠のライバル!武田信玄VS上杉謙信の川中島の戦いを改めて振り返る【その2】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/123545
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  33. 葛尾城 岩崎城 姫城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/nagano/sakakimati.htm
  34. 【姫城】の楽しみ方〜高崖の上に建ち、眼下に千曲川を臨む葛尾城の支城 https://japan-tourism-info.com/hime-castle/
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