最終更新日 2025-09-03

虎御前山砦の戦い(1573)

天正元年、信長は虎御前山砦を築き、浅井・朝倉連合を滅ぼした。この戦いは信長包囲網を崩壊させ、羽柴秀吉の台頭を促し、長浜城の築城へと繋がった。中世から近世への転換を象徴する、天下布武の分水嶺であった。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天正元年 小谷城攻防戦詳報 ―虎御前山砦を基軸とした浅井・朝倉滅亡の軌跡―

序章:天下布武の分水嶺

天正元年(1573年)、日本の歴史が大きく転換する年である。織田信長による天下布武事業は、数年にわたり彼を苦しめ続けた「信長包囲網」という巨大な壁に直面していた。しかしこの年、その壁は音を立てて崩れ始める。虎御前山砦をめぐる一連の戦いは、単に近江国の一城をめぐる攻防戦に留まらず、この歴史的転換を決定づけた分水嶺であった。本報告書は、この戦いを戦略的背景から戦後の影響まで網羅し、特に合戦の推移を時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。

元亀4年(天正元年)の天下情勢:

元亀4年4月、包囲網の東の要であり、信長が最も恐れた甲斐の武田信玄が西上作戦の途上で病死した 1 。これにより信長は東方からの最大の脅威を脱した。さらに7月、信長は包囲網の盟主であり、その大義名分となっていた室町幕府第15代将軍・足利義昭を槇島城の戦いで破り、京から追放する 3 。これにより、信長は初めて東西の脅威から解放され、全軍事力を一点に集中できる戦略的自由を手に入れたのである。この状況下で、信長の背後を脅かす最後の有力な抵抗勢力として残ったのが、浅井・朝倉連合であった 3

この信長の行動は、単なる好機を捉えたものではなく、彼が周到に創り出した「必勝の局面」であった。信玄の死と義昭の追放という二つの大きな戦略的勝利を経て、満を持して8月8日に北近江へ侵攻を開始したことは、信長の戦略的忍耐と、好機を逃さず一気に勝負を決する政治的・軍事的嗅覚の鋭さを証明している。

北近江の地政学的重要性:

古来より「近江を制する者は天下を制す」と言われ、近江国は京都と北陸、東国を結ぶ交通の要衝であった 6 。その中でも北近江を支配する浅井氏の拠点・小谷城は、標高495メートルの急峻な小谷山に築かれた難攻不落の山城として名高く、日本の五大山城の一つに数えられるほどの堅城であった 6 。信長が元亀元年(1570年)の姉川の戦い以降、実に4年もの歳月をかけても攻略できなかった事実が、その防御力の高さを物語っている 8

浅井・朝倉同盟の黄昏:

かつて信長は妹のお市の方を浅井長政に嫁がせ、強固な同盟関係を築いていた 9 。しかし元亀元年、信長が浅井氏との盟約(朝倉氏への不戦)を破り、越前の朝倉義景を攻撃した(金ヶ崎の戦い)ことで、長政は信長を裏切り、同盟は破綻した 2 。この長政の離反理由は、旧来の「不戦の誓いを信長が破ったため」という説が有力であったが、現在では同盟締結当時に織田・朝倉間に敵対関係がなかったことから、この説は有力視されていない 11

金ヶ崎での裏切り以降、姉川の戦い、志賀の陣と、3年以上にわたる一進一退の攻防は、浅井・朝倉双方の国力を著しく疲弊させた 6 。特に朝倉家中では、度重なる近江への援軍派遣に対する不満が鬱積し、厭戦気分が蔓延していた 4 。この旧来の義理や地縁で結ばれた同盟の構造的脆弱性は、明確な目標を掲げ強力な中央集権体制で家臣団を統率する信長との決定的な差であり、決戦の局面で内部から崩壊する大きな要因となった。

第一章:小谷城に突きつけられた刃 ― 虎御前山砦の築城と戦略

浅井・朝倉連合を滅ぼす最終段階として、信長が打った決定的な一手が、小谷城の眼前に巨大な前線基地を築くことであった。この虎御前山砦は、単なる陣城ではなく、兵站、心理戦、そして後の総攻撃の拠点として機能する、多角的な戦略兵器であった。

虎御前山の選地と戦略的価値:

虎御前山は、小谷城から南へわずか500メートルの距離にあり、平地を挟んで対峙する独立丘陵である 7 。この位置からは小谷城の全貌、特に城内の動きを一望することができ、監視拠点として絶好の地理的優位性を持っていた 7 。元亀3年(1572年)7月27日に築城が開始され、8月中には完成したこの砦群により、信長はそれまでの前線基地であった横山城からさらに包囲網を前進させ、小谷城を完全に封じ込める態勢を完成させた 15

この至近距離からの絶え間ない圧力は、籠城する浅井軍にとって計り知れない心理的負担となった。砦は物理的に小谷城を封鎖するだけでなく、織田軍の圧倒的な国力と殲滅の意志を視覚的に見せつけ、籠城兵の士気を内側から崩壊させることを狙った、信長の得意とする心理戦術の一環であったと解釈できる。

砦の構造と『信長公記』に見る威容:

虎御前山砦は単一の砦ではなく、南北約500メートル、東西約300メートルに及ぶ広大な領域に、複数の砦が連携して機能する大規模な陣城群であった 19 。稜線上には多数の曲輪が築かれ、現在でも土塁、堀切、竪堀、虎口といった遺構が良好な状態で残存している 19

信長の側近であった太田牛一はその著書『信長公記』において、この砦の出来栄えを「これまで見聞きした多くの砦に見られぬもの」「口に出しては表現しようもないほどの素晴らしい眺め」と絶賛している 15 。この記述から、当時の最新の築城技術が惜しみなく投入され、機能性のみならず、敵を圧倒するほどの威容を誇る堅固な城砦であったことが窺える。

織田軍の陣立てと兵站路の確保:

この一大軍事拠点には、織田軍の錚々たる武将たちが布陣した。山の最高所には信長自らの本陣が置かれ、小谷城に最も近い最前線の北端には、城番として木下秀吉(後の羽柴秀吉)が配置された 18 。その他、柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、堀秀政、丹羽長秀といった織田軍の主力が各所の曲輪に陣を構え、鉄壁の包囲網を形成した 20

【表1】虎御前山砦 織田軍主要武将陣立図(伝承)

位置

担当武将

北端(最前線)

伝・柴田勝家、伝・羽柴秀吉

中央(本営)

伝・佐久間信盛、伝・織田信長

南麓

伝・堀秀政、伝・滝川一益、伝・丹羽長秀

さらに信長は、砦本体の構築以上に、後方との兵站線の確保に注力した。虎御前山から南東の後方拠点・宮部までの悪路を幅約6メートルに拡幅・整備し、その道沿いには小谷城側に向けて高さ約3メートル、長さ約5キロメートルにも及ぶ長大な土塁の塀を築き、外側には水を引いて防御を固めた 15 。この徹底した補給路の要塞化は、かつて金ヶ崎の退き口で浅井軍に背後を突かれ、兵站を断たれて壊滅寸前に陥った苦い経験から得た教訓を、次なる戦略に昇華させた証左である。この盤石な兵站線は、朝倉軍の援軍を物理的に妨害すると同時に、織田軍の長期滞陣能力を誇示し、浅井・朝倉連合に「持久戦では絶対に勝てない」と悟らせる効果も持っていた。

第二章:決戦の幕開け ― 1573年8月8日~11日

天正元年8月8日、信長が虎御前山に本陣を移したことで、3年以上にわたる北近江での攻防は最終局面を迎えた。開戦から数日間の両軍の動きは、決戦を前にした緊迫した睨み合いと、水面下で進む戦略の応酬を物語っている。

8月8日:信長、虎御前山に着陣

信長は3万と号する大軍を率いて岐阜城を発つと、一路北近江へと侵攻した 3 。この進軍の直前、浅井氏の重臣で山本山城主の阿閉貞征が信長の調略に応じて寝返るという決定的な出来事が起きていた 4 。山本山城は小谷城の側面を守り、琵琶湖の湖上交通を抑える要衝である。その離反は、小谷城の防御体制に大きな亀裂を生じさせた。信長はこの好機を逃さず、一気に軍を進め、小谷城の眼前にそびえる虎御前山に本陣を布いた 4 。阿閉氏の寝返りは、単なる兵力減少以上の戦略的意味を持っていた。それは信長が小谷城の西側からも包囲網を広げることを可能にし 3 、浅井氏の補給・連絡路を完全に遮断する道を開いた。同時に、譜代重臣の離反という事実は、籠城する他の将兵の士気を著しく低下させる心理的打撃となった。

浅井長政の籠城と朝倉義景への援軍要請:

織田軍3万に対し、浅井軍はわずか5千 4 。この圧倒的な兵力差を前に、長政に残された選択肢は、難攻不落の小谷城に籠城し、援軍を待つことだけであった。長政は最後の望みをかけ、長年の盟友である越前の朝倉義景に救援を要請した 4

朝倉義景、2万の軍勢を率いて出陣:

義景の治める越前では、長年の戦による疲弊から、重臣の魚住景固らがこれ以上の近江出兵に強く反対した 4 。しかし義景は、浅井氏を見捨てることの政治的損失を恐れ、家中の反対を押し切って自ら2万の軍勢を率いて出陣する 3 。この決断は、家中を完全に掌握できていない義景の統率力の欠如を露呈するものであり、士気の低い軍を率いての出陣は、極めて危険な賭けであった。朝倉軍は小谷城の北方、木之本・田上山に本陣を敷き、小谷城と連携して織田軍を挟撃する構えを見せた 3

8月10日~11日:両軍の対陣と牽制:

信長は虎御前山に本陣を置きつつ、一部の部隊をさらに前進させ、朝倉軍と小谷城の中間に位置する山田山に布陣させた 3 。これにより、浅井・朝倉両軍の連携を物理的に分断し、朝倉軍を挑発・牽制した。しかし、信長は堅固な朝倉方の陣地に対して無理な力攻めは行わなかった 4 。両軍は大嶽砦などの前線拠点を挟んで対峙し、戦線は数日間にわたり膠着状態となった。信長が万全の態勢を整えた後に出陣してきた朝倉軍は、完全に後手に回り、信長が仕掛けた罠の前に自ら主力軍を晒す形となってしまったのである。

第三章:戦局崩壊の72時間 ― 運命の8月12日~14日

数日続いた膠着状態は、天候の急変と、それを好機と捉えた信長の常人離れした決断によって、わずか一日で劇的に崩壊する。この72時間は、浅井・朝倉連合軍の運命を決定づけ、戦国時代の合戦における情報戦と追撃戦の重要性を鮮やかに示した。

【8月12日】暴風雨の中の決断:

8月12日、近江一帯を激しい暴風雨が襲った 3 。通常の将であれば、視界も悪く、鉄砲も使えないこの天候では作戦行動を中止するのが常識であった。しかし信長は、この悪天候こそ「敵が油断している絶好の機会」と逆手に取った 3 。彼は本陣から自ら選りすぐりの手兵・馬廻り衆わずか1,000人ほどを率いると、朝倉方の最前線拠点である大嶽砦への奇襲を敢行した。総大将が僅かな手勢で敵の堅陣に奇襲をかけるのは極めて高いリスクを伴う作戦であったが、信長は成功した場合の戦略的リターンがリスクをはるかに上回ると判断したのである。

大嶽砦・丁野砦の電撃的陥落:

小谷城の背後、より高所に位置し、朝倉軍の防衛線の中核であった大嶽砦の守兵は、暴風雨の中での奇襲を全く想定しておらず、ほとんど抵抗できないまま降伏した 3 。ここで信長は、捕らえた兵を斬り捨てることなく、あえて解放するという驚くべき行動に出る。これは、敗兵たちが恐怖と共に朝倉本陣へ逃げ帰ることで、実際の被害以上にパニックと混乱を広めることを計算した、高度な情報戦であった 3 。勢いに乗った信長軍は、続いて越前平泉寺の僧兵が守る丁野砦も攻撃し、これも陥落させた 3

【8月13日】朝倉義景、撤退を決意:

大嶽砦と丁野砦という二つの重要拠点を一日で失ったことで、小谷城との連携は完全に不可能となった 27 。前線は崩壊し、織田軍に挟撃される危険に晒された義景は、全軍の越前への撤退を決断する 4 。しかし、この動きは完全に信長の予測の範囲内であった。

【8月13日夜~14日】刀根坂の追撃戦:

信長は朝倉軍の撤退を予期し、事前に柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、佐久間信盛といった織田軍の主力を追撃部隊として配置していた 3 。撤退を開始した朝倉軍に対し、信長は自ら先頭に立って追撃の指揮を執った 25 。機動力に優れる織田軍は、北国街道を敗走する朝倉軍に刀根坂(現在の福井県敦賀市)で追いつくと、夜陰に乗じて猛烈な追撃戦を開始した 4

もともと士気の低かった朝倉軍は、この予期せぬ夜襲に組織的な抵抗もできず、総崩れとなった 13 。戦いは一方的な殲滅戦の様相を呈し、『信長公記』によれば、この刀根坂の戦いで朝倉軍は、美濃の名族の末裔である斎藤龍興や重臣の山崎吉家、朝倉景行といった名のある武将38名、兵3,800人以上が討ち取られるという壊滅的な打撃を受けた 4 。この徹底した追撃により、朝倉軍は単に敗北したのではなく、二度と再起できないまでにその軍事力を喪失した。刀根坂での勝利が、事実上、朝倉氏の滅亡を決定づけたのである。

第四章:名門の終焉 ― 朝倉義景、滅亡への道程(8月15日~20日)

刀根坂で主力を失った朝倉義景の運命は、もはや風前の灯火であった。軍事的な敗北以上に、彼を絶望の淵に追い込んだのは、長年築き上げてきたはずの主従関係の崩壊であった。居城・一乗谷に逃げ帰ってから自刃に至るまでの悲劇的な6日間は、戦国大名という権力構造の脆弱性を浮き彫りにしている。

8月15日:一乗谷への敗走と家臣団の離散

刀根坂の死地を脱した義景は、鳥居景近や高橋景業といった僅かな側近に守られ、命からがら本拠地の一乗谷に帰還した 13 。しかし、彼を待っていたのは、再起を誓う家臣たちの姿ではなかった。本隊の壊滅という報が伝わると、城の留守を守っていた将兵の大半は義景を見限り、すでに逃亡していた。義景が再度の出陣を命じても、集まったのは従兄弟の朝倉景鏡(かげあきら)の軍勢のみで、他の重臣たちは誰一人として応じなかった 27 。この時点で、朝倉家という組織は事実上崩壊していた。

8月16日~19日:逃避行と裏切り

  • 16日: 進退窮まった義景は、景鏡の「大野郡にて再起を図るべし」との勧めに従い、100年以上にわたり朝倉氏の栄華の象徴であった一乗谷を放棄し、越前大野の洞雲寺へと落ち延びた 25
  • 17日: 最後の望みを託して援軍を要請した平泉寺の僧兵は、すでに信長の調略を受けており、義景の要請に応じるどころか、逆に洞雲寺を襲撃するという始末であった 25
  • 18日: その頃、織田軍の先鋒・柴田勝家が一乗谷に突入。信長の厳命により、壮麗な寺社仏閣や武家屋敷が立ち並んだ「越前の小京都」は、「谷中一宇残さず」三日三晩にわたって徹底的に焼き払われ、灰燼に帰した 27 。これは単なる占領ではなく、朝倉氏100年の歴史と文化を地上から抹消することで、旧秩序の完全な破壊と新時代の到来を人々に刻み込むという、信長の強烈な意志の表れであった。
  • 19日: 義景は、景鏡が最後の避難場所として用意した賢松寺へと身を移した 25

8月20日:朝倉景鏡の謀反と義景の自刃

8月20日の早朝、義景の最後の信頼は、最悪の形で裏切られた。信長に寝返っていた朝倉景鏡が、自らの手勢200騎を率いて賢松寺を完全に包囲したのである 4 。全てを悟った義景は、もはや抵抗することなく、辞世の句「七顛八倒 四十年中 無他無自 一物も無し」を詠み、自刃して果てた。享年41 25 。介錯を務めた高橋景業もまた、主君の後を追い殉死したという 29 。ここに、越前に100年以上君臨した名門・朝倉氏は滅亡した。義景の母・光徳院と嫡男・愛王丸も景鏡によって捕らえられ、信長のもとへ送られた後、処刑された 28 。朝倉氏の滅亡は、織田軍との軍事的敗北以上に、平時からの求心力の欠如と、家臣団との信頼関係の崩壊が招いた、内部からの崩壊であった。

第五章:小谷城、落日の賦 ― 浅井氏最後の1週間(8月26日~9月1日)

最大の支えであった朝倉氏が滅亡し、小谷城は風の前の塵と化した。信長は越前の戦後処理を迅速に済ませると、再び虎御前山に戻り、浅井氏に最後の鉄槌を下す。完全に孤立無援となった小谷城で、浅井長政とその一族がたどった壮絶な最後の攻防は、戦国の世の非情さと、武士としての矜持、そして家族への情愛が交錯する悲劇であった。

【8月26日】信長、虎御前山へ帰還。総攻撃を指令

朝倉氏滅亡からわずか6日後、信長は電光石火の速さで主力を率いて北近江へ引き返し、虎御前山の本陣に帰還した 4 。そして、全軍に対し小谷城への総攻撃を命じた。

【8月27日】木下秀吉、京極丸を占拠。父子の分断

総攻撃の火蓋を切ったのは、木下秀吉であった。彼は虎御前山から長期間にわたり小谷城を観察し、その防御の弱点を見抜いていた。8月27日の夜半、秀吉は3,000の兵を率いると、城の防御が手薄な清水谷の崖を密かに登り、浅井長政が籠る本丸と、父・久政が守る小丸の中間に位置する重要拠点「京極丸」を奇襲した 4 。不意を突かれた浅井軍は混乱し、守将の三田村定頼、海北綱親らが奮戦するも討死 4 。京極丸は秀吉の手に落ちた。

この京極丸の陥落は、小谷城の運命を決定づけた。長政の本丸(兵500)と久政の小丸(兵800)は完全に連絡を遮断され、城は分断されたのである 4 。この戦功は、力攻めによる多大な損害を避け、最小の犠牲で最大の戦略目標を達成するものであり、後の秀吉の戦い方に通じる知略の片鱗を示すものであった。

【8月28日】父・浅井久政の自刃

京極丸を落とした織田軍は、その勢いのまま小丸に猛攻を集中させた。完全に孤立し、追い詰められた長政の父・久政は、もはやこれまでと覚悟を決め、浅井惟安ら一族郎党と共に自害して果てた 4

【8月29日~9月1日】長政、最後の務めと自刃

父の死後も、長政が籠る本丸はしばらく持ちこたえた。信長は不破光治や木下秀吉を使者として送り、再三にわたり降伏を勧告したが、長政は武士としての最後の意地からこれを断固として拒絶し続けた 1

落城が目前に迫る中、長政は当主として最後の務めを果たし始める。まず、嫡男の万福丸を家臣に託して密かに城外へ逃がした(万福丸は後に捕らえられ処刑される) 2 。そして、最も心を砕いたのが、妻・お市の方と三人の娘たち(茶々、初、江)の身の上であった。長政は、彼女たちを織田の血を引く者として信長に引き渡し、その安全を確保した 4 。これは、滅びゆく当主として、武士の面目(義)と一族の未来(血脈の維持)という二つの責任を果たそうとした、長政の人間的な葛藤と覚悟の表れであった。

全ての務めを終えた長政は、9月1日(『信長公記』では8月28日)、重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に、城内の赤尾屋敷にて静かに自刃した 4 。享年29。ここに、北近江に三代にわたって君臨した戦国大名・浅井氏は滅亡したのである 4

長政と久政の首は京で晒された後、信長の苛烈な性格を示す逸話として、金箔を施され(薄濃)、翌年の正月の宴席で諸将に披露されたと伝えられている 2

【表2】浅井・朝倉滅亡に至る詳細年表(1573年8月8日~9月1日)

日付

時間帯

場所

織田軍の動向

浅井・朝倉軍の動向

8月8日

終日

虎御前山

信長、3万の軍勢を率いて着陣。小谷城包囲網を完成させる。

浅井重臣・阿閉貞征が織田方に寝返る。長政は5千の兵と小谷城に籠城。

8月10日頃

終日

木之本・田上山

山田山に布陣し、朝倉軍を牽制。

朝倉義景、2万の軍勢を率いて小谷城の救援に到着。大嶽砦などに布陣。

8月12日

昼~夜

大嶽砦・丁野砦

暴風雨に乗じ、信長自ら手兵を率いて奇襲。両砦を電撃的に陥落させる。

奇襲を全く予期せず、抵抗できずに敗走。本陣に混乱が広がる。

8月13日

北国街道

朝倉軍の撤退を予測し、追撃を開始。

義景、全軍の越前への撤退を決断。

8月14日

未明~

刀根坂

信長自ら先頭に立ち、夜襲を敢行。朝倉軍を追撃し、壊滅させる。

組織的抵抗ができず総崩れ。3,000人以上が討死。義景は僅かな供と敗走。

8月15日

終日

一乗谷

-

義景、一乗谷に帰還するも、家臣の大半は逃亡。

8月18日

終日

一乗谷

柴田勝家を先鋒とし、一乗谷に侵攻。城下町を三日三晩焼き払う。

-

8月20日

早朝

賢松寺

-

朝倉景鏡の裏切りにより包囲される。義景、自刃。 朝倉氏滅亡

8月26日

終日

虎御前山

信長、越前から帰還。全軍に小谷城総攻撃を命令。

小谷城、完全に孤立。

8月27日

夜半

小谷城・京極丸

木下秀吉、奇襲により京極丸を占拠。本丸と小丸を分断する。

守将・三田村定頼らが討死。城の防御体制が崩壊。

8月28日

終日

小谷城・小丸

小丸に猛攻を集中。

父・浅井久政が自刃。

9月1日

終日

小谷城・本丸

降伏勧告を続ける。

長政、お市と三姉妹を城外へ出した後、自刃。 浅井氏滅亡

終章:新たなる秩序の胎動

浅井・朝倉両氏の滅亡は、一個の大名家の終焉に留まらず、戦国時代の勢力図を大きく塗り替え、新たな時代の到来を告げるものであった。戦後処理と、この戦いが歴史に与えた影響は、信長が目指した新しい秩序の姿を色濃く反映している。

戦後処理:羽柴秀吉の北近江拝領と長浜の街づくり

信長は、小谷城攻めにおける最大の功労者である羽柴秀吉に、浅井氏の旧領である北近江三郡(坂田、浅井、伊香)を与えた 24 。これは、秀吉が初めて一国一城の主となった瞬間であり、彼の天下人への道を切り開く重要な一歩であった。

秀吉は、中世的な山城である小谷城を廃城とし、琵琶湖畔の今浜に新たに平城として長浜城の築城を開始した。そして地名を、信長の「長」と自身の旧姓・羽柴の「柴」の音(芝=浜)にちなみ「長浜」と改めたとされる 33 。秀吉は長浜の城下町建設において、楽市楽座を導入し、年貢や諸役を免除するなど、商業活動を重視した革新的な都市計画を断行した 33 。信長が秀吉にこの戦略的要衝を与えたのは、単なる恩賞ではなく、この地を新たな経済・物流拠点として開発させる「実験場」としての役割を期待したからであり、秀吉はその期待に見事に応えた。この長浜での成功体験は、後の大坂城下の整備など、彼の天下人としての都市政策の礎となった。

浅井・朝倉旧臣たちのその後:

滅びた両家の家臣たちは、それぞれ多様な道を歩んだ。浅井氏の旧臣であった藤堂高虎は、その後、主君を幾度も変えながらも、最終的に徳川家康に仕え、築城の名手として大成した 38 。彼の生き様は、主家への盲目的な忠誠よりも、自身の能力を最大限に発揮できる場を求める、新しい時代の武士の価値観を象徴している。

一方、主君・義景を裏切った朝倉景鏡は、信長に仕え所領を安堵されるも、後に勃発した越前一向一揆に攻められ、自刃するという皮肉な末路を辿った 44 。山崎吉家のように最後まで忠義を尽くして討死した者、前田家など他の大名に仕えた者など、旧臣たちの運命は様々であった 29

虎御前山砦の戦いが戦国史に与えた影響:

この一連の戦いは、戦国史において極めて重要な意味を持つ。第一に、信長包囲網が完全に崩壊したことである。これにより信長は畿内と背後の脅威を完全に払拭し、その後の石山本願寺との戦いや西国の毛利氏攻略など、天下布武事業を本格的に加速させることが可能となった。

第二に、浅井・朝倉という旧来の名門大名が滅び、その旧領が出自の低い羽柴秀吉に与えられたことは、実力主義を掲げる信長の新しい秩序が、古い権威を打ち破ったことを天下に示す象徴的な出来事であった。

そして最後に、虎御前山砦そのものが、城郭史において重要な価値を持つ。小谷城のような中世山城から、信長が後に築く安土城のような政治・経済の中心地としての近世城郭へと移行する、過渡期の陣城の姿を今に伝えており、戦国時代の築城技術と思想の変遷を物語る貴重な史跡なのである 15 。虎御前山をめぐる戦いは、まさに一つの時代の終わりと、新しい時代の胎動を告げる戦いであった。

引用文献

  1. 浅井長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7483/
  2. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第20回【浅井長政】信長を苦しめた北近江の下克上大名 https://shirobito.jp/article/1787
  3. 一乗谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  5. [合戦解説] 10分でわかる小谷城の戦い 「浅井長政の最後と戦乱に巻き込まれた女性たち」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=9c3CFlza0l8
  6. 小谷の歴史|小谷城戦国歴史資料館 https://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/azai.html
  7. 小谷城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odanijo/
  8. 小谷城が堅牢なワケ part1【お城と地形&地質 其の四-1】 - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n53c35eccb5ba
  9. 浅井長政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF
  10. 小谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11097/
  11. お市と浅井長政が信長を裏切った理由とは?~朝倉義景に従属を続けた国衆 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/azainagamasa-uragiri/
  12. 一乗谷城の戦い古戦場:福井県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/ichijodanijo/
  13. 刀根坂の戦い http://historia.justhpbs.jp/tonesaka.html
  14. 小谷城跡をめぐる城々 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042772.pdf
  15. 歴史と伝説の虎御前山 https://kitabiwako.jp/wp_sys/wp-content/uploads/2013/05/54bd9b59f13f34d6e1161493b2d7a2cc.pdf
  16. 虎御前山城・横山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no33/
  17. 姉川の古戦場から虎御前山へ http://www.ken-tmr.com/siseki/toragozen-yama/toragozen-yama.html
  18. 虎御前山砦 http://www.eonet.ne.jp/~bird-etc/castle-toragozeyama.html
  19. 虎御前山城(滋賀県長浜市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6206
  20. 近江 虎御前山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/toragozeyama-jyo/
  21. 虎御前山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2061
  22. 虎姫町と湖北町にまたがる標高約230mの山。 まるで龍が伏せているかのように見えるそ https://kitabiwako.jp/wp_sys/wp-content/uploads/2013/08/366abce818b03ea07caca81562738af3.pdf
  23. 虎御前山城の見所と写真・300人城主の評価(滋賀県長浜市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1486/
  24. 虎御前山砦 三田村氏館 丁野山城 中島砦・大鳳山砦 山本山城 今西城 ... http://mizuki.my.coocan.jp/siga/nagahamasi02.htm
  25. 刀根坂の戦い http://historia.justhpbs.jp/tonesaka1.html
  26. 小谷城攻め1570〜73年<その3>~上洛途上の信玄が病没、巻き返しの好機を失う浅井・朝倉勢 https://www.rekishijin.com/8800
  27. 朝倉義景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
  28. 朝倉氏の歴史 - 福井市 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
  29. 朝倉家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/asakuraSS/index.htm
  30. 干支(寅)の山 虎御前山(224m) - よたよた山歩き(仮称) - FC2 https://yotayotayoshi.blog.fc2.com/blog-entry-1316.html
  31. 義に生きた戦国武将、小谷城城主「浅井長政」 | Good Sign - よいきざし - https://goodsign.tv/good-sign/%E7%BE%A9%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%80%81%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E5%9F%8E%E4%B8%BB%E3%80%8C%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF%E3%80%8D/
  32. 其の六・小谷城攻略と浅井氏の滅亡 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000106.html
  33. 第2章 長浜市の維持向上すべき歴史的風致 https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000001/1238/R7rekimachikeikaku_2-1_compressed-cleaned.pdf
  34. 羽柴秀吉と長浜城下町 - nagahama.net https://nagahama.net/jyoukamachi/about-01/
  35. 長浜「黒壁」におけるまちづくり - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/236005698.pdf
  36. 今も長浜の町を守る、「豊臣秀吉」。 - Good Sign - よいきざし - https://goodsign.tv/good-sign/%E4%BB%8A%E3%82%82%E9%95%B7%E6%B5%9C%E3%81%AE%E7%94%BA%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E3%80%81%E3%80%8C%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%80%8D%E3%80%82/
  37. 長浜城下町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B5%9C%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA
  38. 藤堂高虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
  39. 変節漢?忠義者?~「城造りの天才」藤堂高虎 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/todo-takatora/
  40. 藤堂高虎とはどんな人物?戦国時代に10回主君を変えキャリアアップをした築城の名人! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/79740/
  41. 藤堂高虎 | 武将のり https://bushonori.amebaownd.com/posts/57110883/
  42. 0538藤堂高虎 - 写真で見る日本の歴史 http://www.pict-history.com/archive/series05/38-takatora.htm
  43. 藤堂高虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7563/
  44. 戦国 朝倉一族 - 探検!日本の歴史 - はてなブログ https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/sengoku-asakura