最終更新日 2025-09-05

蟹江合戦(1584)

長久手敗戦後、秀吉は蟹江城を調略で奪うも、家康の迅速な反撃と海上封鎖で籠城失敗。この敗北は秀吉に家康の軍事力を再認識させ、政治的解決へと戦略転換を促した。

蟹江合戦(1584年):秀吉の野望を砕いた、知られざる海陸攻防の徹底分析

序章:長久手の敗北、秀吉の次なる一手

天正12年(1584年)4月9日、尾張国長久手。羽柴秀吉の天下統一への道程において、稀に見る痛烈な敗北が刻まれた日であった。秀吉配下の勇将、池田恒興と森長可が徳川家康の本隊による奇襲攻撃の前に討死し、岡崎城を衝くはずだった「中入り作戦」は無残な失敗に終わった 1 。この長久手での敗戦は、秀吉軍の士気を大きく挫くと同時に、戦局そのものを根底から揺るがすものであった。

家康は小牧山城を中心に堅固な防衛線を構築しており、尾張北部における戦線は完全に膠着状態に陥っていた 1 。力攻めによる短期決戦の望みは絶たれ、秀吉は戦略の根本的な見直しを迫られる。この状況は、秀吉にとって大きな焦燥をもたらした。家康の野戦における卓越した指揮能力と、徳川家臣団の結束力をまざまざと見せつけられた秀吉は、同じ土俵でこれ以上戦い続けることの非効率性を悟ったであろう。

そこで秀吉は、敵の強みと正面からぶつかることを避け、その弱点を突くという、彼本来の柔軟な用兵思想に立ち返る。彼の視線は、膠着する尾張北部の主戦線から、手薄でありながらも極めて重要な戦略的価値を秘めた尾張南西部の伊勢湾岸地帯へと注がれた 3 。これは単なる戦線の転換ではない。徳川・織田連合軍を支える構造的な生命線、すなわち「兵站」と「連携」を同時に断ち切ることを目的とした、高度な戦略的重心の移動であった。連合軍の総大将である織田信雄の本拠地は伊勢長島城、そして家康の前線拠点は清洲城 3 。この二大拠点を結び、伊勢湾の海運を扼する要衝こそが、次なる戦いの舞台、「蟹江」であった。

第一章:海陸の要衝、蟹江城の戦略的価値

秀吉が次なる一手として狙いを定めた蟹江は、当時の尾張において比類なき戦略的価値を持つ拠点であった。今日の長閑な風景からは想像もつかないが、天正年間の蟹江は伊勢湾に直接面した天然の良港であり、熱田や津島と並び称される尾張有数の港湾都市だったのである 5 。伊勢湾の制海権を掌握することは、伊勢・尾張・三河間の物資や兵員の輸送を支配することを意味し、経済と軍事の両面で絶大な影響力を持っていた。

この蟹江城の地理的位置は、まさに絶妙であった。徳川家康が陣取る清洲城と、織田信雄の本拠地である長島城から、それぞれ三里(約12km)という等距離に位置していた 5 。これは、連合軍にとって両者を繋ぐ重要な中継拠点であると同時に、敵に奪われれば両者の連携を分断する致命的な楔となりうることを意味していた 3 。秀吉の狙いは、この楔を敵の心臓部に打ち込むことであった。

さらに、蟹江城の防御体制は単独の城郭に留まるものではなかった。本丸・二の丸・三の丸から成る三重の堀を持つ堅固な主城に加え、その周囲には大野城、下市場城、前田城という三つの支城が配置され、相互に連携する一大防衛ネットワークを形成していた 5 。このことから、秀吉が狙っていたのは「蟹江城」という単一の「点」ではなく、この城を中心とする支城ネットワークと港湾機能を含めた「面」としての地域支配権そのものであったことが窺える。事実、後に実行される作戦では、蟹江城だけでなく前田城、下市場城も同時に調略によって奪取されており 2 、この地域一帯の支配体制を根底から覆そうとする秀吉の壮大な意図が明確に見て取れる。この複雑な水郷地帯を制圧することは、尾張西部における織田・徳川方の軍事行動を完全に麻痺させるに等しい効果をもたらすはずであった。

第二章:調略の影 ― 老将・滝川一益の乾坤一擲

この重大な作戦の実行者として秀吉が白羽の矢を立てたのは、一人の老将であった。その名は滝川一益。かつては織田信長の宿将として「西の秀吉、東の一益」とまで称された名将も、本能寺の変後の神流川の戦いでの敗北、そして賤ヶ岳の戦いでの秀吉への敗走を経て、不遇のうちに出家し、歴史の表舞台から姿を消していた 6 。秀吉は、この燻る老将に対し、一益自身に3千石、子の一時に1万2千石という破格の条件を提示し、再起を賭けた最後の大舞台を用意したのである 5

この人選は、秀吉ならではの深謀遠慮に満ちたものであった。一益は鉄砲の名手として知られる一方、その本領はむしろ外交交渉や調略にあった 9 。さらに重要なことは、彼がかつて長島城主や蟹江城主を務めた経験を持ち、この地域の地理や人脈に誰よりも精通していたという事実である 5 。秀吉は、武将の戦闘能力だけでなく、その人物が持つ歴史的背景や人間関係といった無形の資産まで計算に入れ、最大限に活用しようとしていた。

作戦成功の鍵を握っていたのは、内部からの手引きであった。当時、蟹江城主の佐久間正勝は信雄の命令により伊勢方面へ出陣中で、城の留守は家臣の前田長定(与十郎)が預かっていた 3 。この長定こそが、一益の調略に応じた内応者であった 11 。一益と前田氏は親類関係にあったともされ 5 、この旧縁が一益の調略を容易にした。城主不在という絶好の機会と、旧知の者による内応。作戦の前提条件は、完璧に整えられた。

さらに、この作戦は陸上部隊のみによるものではなかった。伊勢志摩の海を支配する「海賊大名」九鬼嘉隆率いる九鬼水軍が動員され、海上からの兵員・物資輸送と、伊勢湾の制海権確保という重要な役割を担った 3 。これは、蟹江攻略が陸海共同で遂行される、極めて高度な立体作戦であったことを示している。秀吉の一益起用は、単なる適材適所の配置ではない。旧織田家臣団の「過去の栄光と現在の不満」を巧みに利用し、彼らが持つ知見と人脈という「過去」を武器に変え、自らの覇業に組み込むという、秀吉の卓越した人事戦略の真骨頂であった。

第三章:電光石火の奇襲と致命的な兵站の誤算

天正12年6月16日、作戦は決行された。九鬼嘉隆率いる数十艘の船団が伊勢湾から蟹江川を遡り、城に迫る 4 。それに呼応し、城内では前田長定が謀反の狼煙を上げ、城門を開いて滝川一益の軍勢を招き入れた 11 。内と外からの連携は見事に功を奏し、蟹江城、そして支城である前田城、下市場城の三城は、ほとんど抵抗を受けることなく、電光石火の速さで羽柴方の手に落ちた 2 。作戦は、この時点では完璧な成功を収めたかに見えた。

しかし、この華々しい成功の裏には、致命的な誤算が潜んでいた。奇襲の際、潮時を逃したことや、想定を遥かに超える織田・徳川方の迅速な反応により、籠城戦に不可欠な武器、弾薬、そして何よりも兵糧といった物資を十分に城内へ搬入する時間がなかったのである 3 。蟹江城に入ることができた兵力は、一益麾下の約700名に内応した前田勢を合わせても、わずか千人程度に過ぎなかった 11

皮肉なことに、この作戦の最大の成功要因であった「速度」と「奇襲性」が、最大の失敗要因である「兵站の脆弱性」を招いた。奇襲作戦が成功するためには、敵が混乱している間に戦果を固める、すなわち人員や物資を搬入し、防御態勢を確立するための時間的猶予が不可欠である。しかし、織田・徳川方の反応は、一益や秀吉の想定を遥かに凌駕していた。清洲城からは蟹江城の煙が視認できるほどの距離であり 11 、異変を察知した家康は即座に出陣した。

この神速の反応により、一益軍は物資を揚陸し、防御を固めるための決定的な「時間」を失った。結果として、一益は「城は奪取したが、戦う準備ができていない」という最悪の状況で、数において圧倒的に優る敵の大軍に包囲されることになった。これは、作戦の前提そのものが崩壊した瞬間であり、奇襲の成功がそのまま籠城戦の絶望的状況へと直結した、「速度の逆説」とも言うべき事態であった。

第四章:合戦詳報 ― リアルタイムで追う半月間の攻防

6月16日の奇襲成功から7月3日の開城に至るまで、蟹江城とその周辺では約半月にわたり、息詰まる攻防が繰り広げられた。以下に、日々刻々と変化する戦況を、両軍の動きを対比させながら時系列で詳述する。

表1:蟹江合戦 詳細時系列表

日付 (天正12年)

羽柴方(滝川一益・九鬼嘉隆)の動き

織田・徳川方(家康・信雄)の動き

戦況の要点

6月16日

調略により蟹江・前田・下市場城を奪取。大野城攻撃に失敗。

異変を察知し、清洲・長島から即日出陣。

奇襲成功も、敵の反応が想定外に早い。

6月17日

蟹江城などで籠城準備を進めるも、物資不足が深刻化。

蟹江周辺に軍勢集結。3城の包囲網を形成。

包囲網が完成し、一益は完全に閉じ込められる。

6月18日

下市場城が猛攻を受け、前田長俊討死。

2万の兵で下市場城を集中攻撃し、陥落させる。

連合軍が緒戦に勝利し、勢いづく。

6月19日

九鬼水軍が「舟入の戦い」で敗北。

水軍が勝利し、伊勢湾からの海上ルートを完全封鎖。

海上封鎖が完成。籠城側の敗北が決定的に。

6月20日-21日

連合軍の猛攻に耐え、各所で防戦。

蟹江城への攻撃を本格化。家康は東、信雄は南西から。

籠城戦が本格化。

6月22日

滝川一忠と水野勝成の一騎打ちなど激戦。三ノ丸で大損害。

蟹江城への総攻撃を開始。

攻防は最も激しくなり、籠城側は消耗。

6月23日

前田城が開城し、蟹江城は完全に孤立。

前田城を降伏させる。家康が入城。

最後の支城が陥落。

6月29日

絶望的状況となり、和平交渉を開始。

攻撃の手を緩めず、交渉に応じる。

戦闘は小康状態へ。

7月3日

蟹江城を開城。一益は伊勢へ退去。前田長定は殺害される。

蟹江城を奪還。

合戦終結。織田・徳川方の完全勝利。

6月16日~17日:神速の反応、包囲網の形成

奇襲が成功した6月16日、滝川勢は勢いに乗って支城の一つである大野城にも調略を仕掛けるが、城主・山口重政はこれを断固として拒否し、抵抗の構えを見せた 3 。大野城攻略に失敗した滝川勢は蟹江城へ、九鬼勢は下市場城へと撤退し、籠城の準備に入る 5 。しかし、彼らに与えられた時間はあまりにも短かった。

蟹江城の異変を察知した家康は清洲城から、信雄も長島城から即日出陣するという驚異的な速度で反応した 3 。徳川軍の先鋒・井伊直政が真っ先に駆けつけたと伝わる 11 。翌17日までには、両軍は蟹江周辺に集結を完了し、一益らが立て籠もる三城に対する包囲網を瞬く間に形成した。

6月18日:緒戦 ― 下市場城の陥落

包囲網を完成させた家康と信雄は、2万と号する大軍を以て、まず防衛ネットワークの最も外側に位置する下市場城に兵力を集中させた 5 。この日の織田・徳川勢による猛攻の前に、城を守っていた前田長俊(長定の弟か)は奮戦空しく討死し、下市場城はわずか一日で陥落した 5 。羽柴方は早くも防衛網の一角を失い、蟹江城と前田城はさらに孤立を深めることとなった。

6月19日:決定打 ― 「舟入の戦い」と海上封鎖の完成

陸からの包囲が狭まる中、籠城側にとって唯一の希望は、九鬼嘉隆率いる水軍による海上からの補給・救援であった。その生命線を断つべく、織田・徳川方の水軍(間宮氏などが主力)が九鬼水軍に決戦を挑んだ。これが「舟入の戦い」である。

両軍は海上にて鉄砲を激しく撃ち合う、熾烈な海戦を繰り広げた 13 。『続武将感状記』には、織田方の間宮勢の兵が、鉄砲の名手として知られた九鬼方の村田七太夫によって射殺されるなど、一進一退の攻防が描かれている 9 。しかし、衆寡敵せず、最終的に九鬼嘉隆の水軍は敗北を喫した 5 。この海戦の敗北は決定的であった。これにより、織田・徳川方による海上封鎖が完成し、蟹江城は陸と海から完全に孤立無援となった 5 。外部からの救援の望みは絶たれ、籠城側の運命は、この日、事実上決したと言っても過言ではない。

6月20日~22日:蟹江城総攻撃

海上を制圧した連合軍は、満を持して蟹江城への総攻撃を開始する。6月22日には、最大規模の攻撃が敢行された。その布陣は、連合軍のこの戦いにかける本気度を物語っている。

表2:蟹江城総攻撃における両軍の武将配置(天正12年6月22日時点)

攻め口

織田・徳川連合軍の担当武将

羽柴方の守備武将(推定)

大手口(東)

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、大須賀康高、水野忠重、水野勝成

滝川一益(本丸にて総指揮か)

搦手口(西)

石川数正、内藤家長、酒井忠利、山口重政

前田長定、滝川儀太夫

浜手口(南)

織田信雄(総大将)、丹羽氏次、織田長益

滝川一忠、九鬼嘉隆(敗残兵か)

徳川四天王をはじめとする錚々たる猛将たちが、各攻め口から怒涛の如く押し寄せた。特に西口の平三ノ丸(三の丸)では激しい白兵戦となり、双方に多数の死者が出たという 13 。この激戦の中、滝川一益の子である滝川一忠は、攻め手の若武者・水野勝成と一騎打ちに及び、双方深手を負うという壮絶な戦いを演じた 5 。しかし、圧倒的な兵力差の前には、籠城側の奮戦も虚しく、城兵は徐々に消耗していった。

6月23日以降:最後の支城陥落と間に合わなかった秀吉の後詰

6月23日、石川数正らの猛攻に晒されていた前田城が、ついに開城し降伏した 4 。これにより、蟹江城は最後の支城を失い、完全に裸城となった。籠城側の士気は、もはや限界に達していた。

一方、この頃になって秀吉もようやく事態の深刻さを把握し、救援のための行動を開始していた。6月21日には美濃から近江・佐和山城へ移動し、25日には伊勢・椋本まで進軍 5 。信濃の木曾義昌らにも出陣を促し、7月15日を目途に6万2千の大軍で尾張西部へ総攻撃をかける壮大な計画を立てていた 1 。しかし、当時の情報伝達の遅さと、家康の電撃的な対応の前に、秀吉のこの動きはあまりにも遅きに失した。蟹江城の絶望的な戦況には、全く間に合わなかったのである。

第五章:降伏交渉と裏切り ― 戦国の非情

支城はすべて陥落し、兵糧も尽き、援軍の望みも絶たれた。6月29日、これ以上の籠城は無意味と悟った滝川一益は、ついに降伏を決断し、和平交渉を開始した 5

この困難な交渉において、仲介役として奔走したのが、織田信雄の叔父(信長の弟)にあたる織田長益(後の有楽斎)であった 15 。彼は信雄方の将でありながら、かつて同じ織田家に仕えた旧臣である一益の助命のために尽力したと伝わる 15 。長益の仲介もあり、交渉は成立。7月3日、一益の助命を条件に、蟹江城は織田・徳川方に明け渡されることとなった 2

しかし、この和睦には戦国乱世の非情さを示す後日談があった。和睦の約束に従い、城を退去する最中、この度の奇襲作戦を手引きした張本人である前田長定が、織田方の兵によって殺害されたのである 5 。これは、単なる裏切り者への報復に留まらない、信雄による冷徹な政治的判断の結果であった。敵将である一益は、旧織田家重臣という立場と長益の仲介によって助命の名分が立った。しかし、自らの直臣である前田長定の裏切りは、信雄の権威を根底から揺るがす行為であり、決して許すことはできなかった。長定を処断することで、「信雄に背く者には死を」という厳しい姿勢を内外に示し、自軍の統制を回復する必要があったのだ。和睦という形式的な「信義」よりも、自陣営の「現実的利益」と「大義名分」が優先された瞬間であった。

一益は辛くも伊勢へと逃れたが、その道のりは苦難に満ちていた。伊勢神戸城では城主の富田一白に入城を拒否されるなど、敗将の惨めさを味わった 5 。しかし、秀吉はこの敗戦にもかかわらず一益の奮闘を高く評価し、当初の約束通り、彼とその子に知行を与えている 5

終章:蟹江合戦が小牧・長久手の戦いに与えた影響

蟹江合戦は、一見すれば尾張南西部で起こった一局地戦に過ぎない。しかし、この戦いの結果は、小牧・長久手の戦い全体の帰趨に決定的な影響を与えた。

羽柴秀吉にとって、この敗北は戦略的な大失敗であった。彼が起死回生の一手として計画していた7月15日の尾張西部からの総攻撃計画は、蟹江城の陥落によって完全に頓挫した 1 。これにより、秀吉は徳川家康を純粋な軍事力のみで屈服させるという選択肢を、事実上放棄せざるを得なくなった 11 。長久手と蟹江、二度の敗北は、家康の軍事的能力と徳川家臣団の結束力が、秀吉の物量を以てしても容易には崩せないことを証明したのである。

この後、戦線は再び膠着状態に戻る。しかし、秀吉の戦略は大きく転換していた。彼は家康との直接対決を避け、連合の弱い環である織田信雄に的を絞り、外交と圧力を駆使して単独講和に持ち込むという、政治的解決へと舵を切った。蟹江合戦の敗北は、この秀吉の戦略転換を促す直接的なきっかけとなったのである。

この合戦は、関わった武将たちの運命にも影響を与えた。忠義を貫いた大野城主・山口重政は、この戦いで得た家康との縁により、後に常陸牛久藩の初代藩主へと至る道を歩み始めた 5 。一方、戦いの舞台となった蟹江城は、この合戦で大きく荒廃した上、翌年の天正13年(1585年)11月に発生した天正大地震によって壊滅的な被害を受け、城としての役目を終え、歴史の表舞台から静かに姿を消した 6

結論として、蟹江合戦は、織田・徳川連合軍にとっては明確な「戦術的勝利」であった。しかし、羽柴秀吉にとっては、家康という難敵の本質を深く理解し、天下統一へのアプローチを根本から見直すきっかけとなった、極めて重要な「戦略的教訓」の場であった。この手痛い敗北があったからこそ、秀吉は武力一辺倒の戦略から脱却し、後の関白就任や惣無事令といった、武力と権威を巧みに融合させた、より高度な天下統一戦略へと昇華させていく。蟹江での敗北は、秀吉が単なる「武将」から、天下を差配する「政治家」へと脱皮する上で、避けては通れない重要な通過儀礼だったのである。

引用文献

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  2. 「小牧・長久手の合戦」関連年表/小牧市 http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9161.html
  3. 蟹江城と蟹江合戦 - 蟹江町 https://www.town.kanie.aichi.jp/uploaded/attachment/17783.pdf
  4. 秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る 第5回 羽柴軍の城・砦②(蟹江城と支城 https://shirobito.jp/article/1610
  5. 蟹江城合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E5%9F%8E%E5%90%88%E6%88%A6
  6. 蟹江城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E5%9F%8E
  7. 滝川一益の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46490/
  8. 滝川一益-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44324/
  9. 蟹江・大野城合戦 後編 - 日々の探索 https://sh.tutujigaoka.net/2019/12/16/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%9F%8E%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E5%BE%8C%E7%B7%A8/
  10. (滝川一益と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/21/
  11. 蟹江城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/kanie.j/kanie.j.html
  12. 蟹江町歴史編 - 水郷楽人の塵芥録HP版 https://mizunosatogakuto.jimdofree.com/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E7%94%BA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A0/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E7%94%BA%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%A8/
  13. 大野・蟹江城合戦 後編で!! - 日々の探索 http://sahashi.vivian.jp/kaniekouhen.html
  14. 小牧長久手の戦いと関連がある蟹江合戦の舞台となった愛西市大野城址 https://sengokushiseki.com/?p=2260
  15. 織田長益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%8A
  16. 第8回 蟹江合戦とは? https://www.town.kanie.aichi.jp/uploaded/attachment/16036.pdf
  17. 見てみよう!歴史災害記録と旬のあいち https://www.gensai.nagoya-u.ac.jp/rekishijishin/common/pdf/2016/vol27.pdf