要害山城の戦い(1582)
天目山の戦い(1582年):甲斐武田氏、滅亡への道程 ― 時系列で辿る最後の十日間
序章:要害山城と天目山 ― 武田家終焉の地の再定義
日本の戦国史において、天正10年(1582年)3月11日は、平安時代より続く甲斐源氏の名門・武田氏の宗家が滅亡した日として記憶されている。この武田家最後の戦いは、しばしば「要害山城の戦い」として語られることがある。しかし、史実を丹念に追うと、その終焉の地は要害山城ではなかったことが明らかとなる。
要害山城は、武田信虎が永正17年(1520年)、本拠地である躑躅ヶ崎館の背後に築いた詰城(つめじろ)である 1 。平時の政庁兼居館である躑躅ヶ崎館に対し、有事の際に立て籠もるための最終防衛拠点として機能した 3 。武田信玄生誕の地という伝承も残り 5 、武田家にとって極めて象徴的な城であったことは間違いない。長篠の戦いで大敗を喫した後、武田勝頼がこの城の修築を命じていることからも、その戦略的重要性が窺える 5 。
この「詰城」という象徴性ゆえに、武田家滅亡という最終局面と結びつけられ、「要害山城の戦い」という認識が広まったものと推察される。しかし、勝頼が最後の抵抗を試み、その生涯を閉じたのは、要害山城から遠く離れた甲斐国東部の天目山、その山麓に位置する田野(たの)という地であった 6 。
本報告書は、「武田氏の詰城を巡る攻防」という利用者の根源的な関心に応えるべく、まず甲州征伐に至る背景を解き明かし、武田家最後の戦いとなった「天目山の戦い」を、あたかもその場にいるかのような臨場感をもって、時系列に沿って徹底的に再現・解説するものである。
第一章:滅亡への序曲 ― 甲州征伐に至る道
武田氏の滅亡は、天正10年に突如として訪れたわけではない。その兆候は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける大敗に始まり、外交、内政の両面で徐々に、しかし確実に進行していた。
外交的孤立の深化 ― 御館の乱と甲相同盟の破綻
武田家にとって致命的な転換点となったのが、天正6年(1578年)に越後で勃発した上杉氏の家督争い「御館の乱」である。この争いにおいて、勝頼は長年の同盟国であった相模北条氏当主・北条氏政の実弟・上杉景虎ではなく、上杉景勝を支持した。一説には景勝側からの黄金の賄賂が影響したとも言われる 9 。この決定は、武田家の外交戦略における最大の失策であった。景虎が滅ぼされたことで、60年近く続いた甲相同盟は完全に破綻。これにより武田家は、西の織田・徳川に加え、東に強大な北条氏という第三の敵を抱え込むことになり、三方を敵に囲まれるという絶望的な戦略的劣勢に陥った 6 。
求心力の失墜 ― 高天神城の戦い
外交的孤立に加え、勝頼の威信を国内的に失墜させる事件が起こる。天正9年(1581年)、徳川家康に包囲された遠江の要衝・高天神城である。城将・岡部元信らは必死の防戦を続け、勝頼に再三の援軍を要請したが、勝頼はついに後詰(援軍)を送ることができず、高天神城は玉砕した 6 。父・信玄であれば決して見殺しにしなかったであろうこの一件は、武田家中の家臣や国衆に「勝頼は我らを見捨てる」という深刻な不信感を植え付け、後の裏切りの連鎖を招く大きな要因となった 10 。
内政の疲弊と人心の離反 ― 新府城築城
三方面からの軍事的圧力という危機的状況下で、勝頼は天正9年(1581年)12月、本拠を古くからの躑躅ヶ崎館から、韮崎に新たに築いた新府城へと移転する 12 。これは防衛力を高め、政治体制を刷新しようという意図があったとされるが 13 、その築城はわずか2ヶ月という驚異的な短期間で強行された 9 。この大規模な普請は、疲弊していた国衆や領民に過大な負担を強いる結果となり、武田家からの人心離反をさらに加速させた 10 。
滅亡の引き金 ― 木曽義昌の裏切り
そして天正10年(1582年)2月1日、決定的な一撃が加えられる。信濃と美濃の国境に位置する要衝・木曽谷の領主であり、信玄の娘婿でもある一門衆・木曽義昌が、織田信長に寝返ったのである 6 。高天神城での威信失墜と新府城築城の負担が蓄積した国衆の不満に、信長の調略という火種が投じられた瞬間であった。この裏切りに激怒した勝頼は、人質として甲府にいた義昌の母と妻子を処刑するという強硬手段に出るが 6 、これは他の国衆の離反を抑えるどころか、むしろ恐怖心を煽り、武田家を見限らせる逆効果を生んだ。木曽義昌という最初のドミノが倒れたことで、武田家の統治システムは、もはや求心力を失い、内部から崩壊していく連鎖反応が始まったのである。
第二章:甲州征伐の勃発 ― 織田・徳川連合軍の侵攻
木曽義昌の寝返りは、織田信長にとって武田家を滅ぼす絶好の口実となった。2月3日、信長は嫡男・織田信忠を総大将に任じ、武田領への総攻撃を命令。世に言う「甲州征伐」の火蓋が切られた 12 。武田家が直面したのは、単一の敵との戦いではなく、東西南の三方から、総勢10万に迫る大軍が同時に押し寄せる、国家的規模の殲滅戦であった。
表1:甲州征伐 侵攻軍編成 |
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方面 |
総大将/主要将帥 |
兵力(推定) |
主要進軍ルート |
伊那方面(織田本隊) |
織田信忠(総大将)、滝川一益(軍監)、森長可、河尻秀隆 |
約50,000 |
岐阜 → 木曽谷・伊那谷 → 諏訪 |
駿河方面(徳川軍) |
徳川家康、穴山梅雪(案内役) |
約15,000 |
浜松 → 駿府 → 甲斐南部 |
飛騨方面(織田別動隊) |
金森長近 |
約3,000 |
飛騨 → 信濃北部 |
関東・駿河方面(北条軍) |
北条氏政・氏直 |
約20,000 |
小田原 → 御坂峠・駿河東部 |
織田信忠率いる本隊は木曽口・伊那口から 16 、徳川家康軍は駿河から、北条氏政軍は関東から、そして金森長近軍は飛騨から、それぞれ武田領へと雪崩れ込んだ。武田方の防衛網は、この圧倒的な物量の前に瞬く間に寸断され、各地の城は抵抗らしい抵抗もできずに次々と陥落していった。
高遠城の攻防 ― 最後の組織的抵抗
この崩壊劇の中で、唯一、武田武士の意地を見せたのが、勝頼の弟・仁科盛信が守る信濃・高遠城であった。織田信忠率いる数万の大軍に包囲された盛信は、降伏勧告を一蹴し、徹底抗戦の道を選ぶ 18 。3月2日、織田軍の総攻撃が開始されると、城兵は果敢に抵抗し、織田方にも多くの死傷者を出したが、衆寡敵せず、城はわずか一日で陥落した 9 。盛信は自刃して果て、その壮絶な最期は敵である織田方からも賞賛されたという 6 。この高遠城の戦いが、甲州征伐における武田方の最後の組織的抵抗となった。
第三章:崩壊の連鎖 ― 新府城放棄と逃避行
【時系列:3月1日~3月3日】
- 3月1日: 高遠城がまだ持ちこたえている最中、勝頼のもとにさらなる衝撃的な報せが届く。武田一門の重鎮であり、親族衆の筆頭格であった穴山梅雪(信君)が、徳川家康に内通し、織田方に寝返ったというのである 16 。南方の駿河方面の守りの要を、内部から明け渡されたに等しいこの裏切りは、甲斐本国が直接の脅威に晒されることを意味し、勝頼を精神的に極限まで追い詰めた。
- 3月2日: 高遠城落城の報が届き、信濃における防衛線は完全に崩壊した。諏訪上原城に布陣していた勝頼は、本国での決戦を期して、完成間もない新府城への撤退を開始する 6 。この時点で1万人いたとされる武田本隊は、すでに士気を失い始めていた 6 。
- 3月3日: 新府城にて、武田家の運命を決する最後の軍議が開かれた。ここで、二つの撤退案が提示される。
- 真田昌幸の「岩櫃城(いわびつじょう)籠城案」: 昌幸は、自らの本拠地である上野・岩櫃城への撤退を進言した。岩櫃城は天然の要害であり、甲斐から距離があるため、織田軍の追撃を振り切り、時間を稼いで再起を図ることが可能であった 19 。
- 小山田信茂の「岩殿城(いわどのじょう)籠城案」: 一方、譜代の重臣である小山田信茂は、自らの居城である郡内・岩殿城への撤退を強く主張した。岩殿城もまた難攻不落の堅城であり、勝頼の側近・長坂光廉もこれを支持した 19 。
この軍議における勝頼の決断は、武田家の滅亡を決定づけた。彼は、戦略的合理性よりも、人間的な感情を優先した。外様であり、領地も遠い真田昌幸の策よりも、譜代の重臣であり、親族でもある小山田信茂の言葉に最後の望みを託したのである。危機的状況下において、客観的な最善手よりも、心理的に安心できる選択肢を選んでしまうという、指導者の陥りやすい罠であった。この信頼こそが、最大の裏切りを呼び込むことになるとは、この時の勝頼は知る由もなかった。
- 3月3日夜: 小山田信茂の案を採用した勝頼は、岩殿城への撤退を決定。そして、完成からわずか68日、一度もその真価を発揮することのなかった未完の巨城・新府城に、自らの手で火を放った 6 。燃え盛る炎の中、多くの将兵の妻子が取り残され、阿鼻叫喚の地獄絵図が現出したと伝えられる 6 。武田本隊の統制は、この時点で完全に崩壊していた。
第四章:最後の望み、そして裏切り ― 小山田信茂の変心
【時系列:3月3日~3月9日】
新府城を後にした勝頼一行の逃避行は、惨憺たるものであった。燃え落ちる居城を背に、離散していく家臣たち。数日のうちに、数百名にまでその数は激減した 6 。一行は現在の甲州市鶴瀬付近で、最後の希望である岩殿城からの迎えを待った 23 。
一方、一足先に居城に戻った小山田信茂は、重大な決断を迫られていた。彼は武田家の譜代家臣であると同時に、郡内地方を治める独立性の高い国衆(こくしゅう)でもあった 24 。彼の第一の責務は、先祖伝来の領地とそこに住む領民を守ることにある 25 。すでに勝敗が決した戦において、滅亡寸前の主君を迎え入れれば、自領が戦場と化し、一族もろとも滅びることは火を見るより明らかであった。武田家への忠誠か、自領と一族の存続か。この戦国領主としての究極のジレンマの中で、信茂は後者を選んだ。彼の行動は、絶対的な忠誠という理想論と、生き残りをかけた現実主義との間で引き裂かれた、戦国武将の悲劇的な選択であったと言える 26 。
- 3月9日夜: 勝頼一行が郡内への入り口である笹子峠に差し掛かったその時、事態は急変する。道は固く封鎖され、待ち構えていた小山田勢から突如、鉄砲による威嚇射撃が浴びせられたのである 6 。最後の頼みの綱であった信茂の裏切り。この一斉射撃は、勝頼一行の退路を断つと共に、彼らの心に残っていた最後の希望を打ち砕く絶望の銃声であった。
第五章:天目山・田野の死闘 ― 合戦のリアルタイム再現
完全に行き場を失った勝頼一行は、武田氏ゆかりの地である天目山を死に場所と定め、最後の歩みを進めた 7 。この道中でも兵の逃亡は続き、3月11日の未明、天目山麓の田野にたどり着いた時、その数はおよそ40名余りの武士と女子供のみとなっていた 7 。かつて数万の軍勢を率いた武田家当主の、あまりにも無残な姿であった。
表2:天目山の戦い 両軍戦力比較 |
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軍勢 |
指揮官 |
兵力 |
主要な人物 |
武田方 |
武田勝頼 |
約40~50名 |
武田信勝、北条夫人、土屋昌恒、小宮山友晴、秋山紀伊守など |
織田方 |
滝川一益 |
約3,000~5,000名 |
滝川儀大夫、篠岡平右衛門など |
【時系列:3月11日 未明~午前】
- 夜明け: 滝川一益率いる数千の織田軍追手が、田野に迫る。勝頼主従は、鳥居畑と呼ばれる場所に粗末な柵を設け、最後の陣を構えた 7 。もはや「合戦」と呼ぶことすら憚られる、一方的な掃討戦が始まろうとしていた。
- 戦闘開始: 織田軍の先鋒が鬨の声を上げて殺到する。この絶望的な状況下で、最後まで付き従った者たちの真価が問われた。
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忠臣の鑑、土屋昌恒:
勝頼の側近・跡部勝資が「天目山に籠って様子を見るべきだ」と未練がましい進言をしたのに対し、土屋昌恒は激昂。「御家の滅亡は、貴殿ら側近の無分別な進言が招いた結果ではないか!」と涙ながらに詰問した 28。そして、戦闘が始まると自ら殿(しんがり)を引き受け、狭い崖道で敵の前に仁王立ちになった。片手で岩角の藤蔓に掴まり、もう一方の手で太刀を振るい、押し寄せる敵兵を次々と斬り倒しては谷底へ蹴落としたという。この鬼神の如き奮戦は、後に「片手千人斬り」として語り継がれることになる 23。彼の目的は勝利ではなかった。ただひたすらに、主君一家が覚悟を決め、自害を遂げるための時間を稼ぐことであった 12。 -
側近たちの末路:
土屋昌恒に論破された跡部勝資は、いざ戦闘が始まると馬に乗って逃亡を図った。しかし、その卑劣な姿を見た昌恒に弓で射抜かれ落馬し、敵兵に首を取られたと伝わる 20。同じく側近であった長坂光廉は、この時にはすでに姿を消していた 28。極限状況は、人間の忠誠と卑劣さを無慈悲に炙り出した。
第六章:名門武田氏の最期
【時系列:3月11日 午前11時頃】
土屋昌恒らが死力を尽くして時間を稼ぐ中、勝頼は田野の地で最後の儀式を執り行った。武田家嫡流の証である家宝「御旗(みはた)」と「楯無(たてなし)」の鎧を傍らに置き、数え16歳の嫡男・信勝の元服の儀を執り行ったのである 23 。滅びゆく一族の最後の当主として、武田太郎信勝が誕生した瞬間であった。
- 武田信勝の最期: 元服を終えた信勝にとって、これが初陣にして最後の戦いとなった。父と共に奮戦し、その勇猛果敢な戦いぶりは敵味方の目を引いたという。しかし、衆寡敵せず、やがて被弾。父に今生の別れを告げると、敵中に切り込み、壮絶な最期を遂げた 28 。辞世の句は「あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほどは 春の夜の夢」 32 。
- 北条夫人の最期: 勝頼は、数え19歳の若き正室に、実家の北条家へ落ち延びるよう諭したが、夫人は「冥途までお供いたします」と毅然としてこれを拒絶した 28 。静かに法華経を読誦した後、自刃。介錯は勝頼自身が務めたとも伝わる 28 。辞世の句は「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消る 露の玉の緒」 28 。
- 武田勝頼の最期: 最愛の妻子が果てたのを見届けた後、勝頼は静かに自らの腹に刃を突き立てた。享年37 34 。天正10年3月11日、午前11時頃のことであった 34 。これにより、平安時代から400年以上にわたり甲斐国に君臨した名門・武田氏の嫡流は、ここに完全に途絶えた。
-
辞世の句:
「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」
32
。
この句は、乱れた世(雲かすみ)が晴れ、西方浄土(西の山の端)へと向かうという、彼の最期の心境を詠んだものと解釈されている。
第七章:戦後の甲斐・信濃と武田遺臣の行方
勝頼父子の首は、滝川一益によって信濃にいた織田信忠のもとへ送られ、その後、信長による首実検が行われた 18 。首は京で晒された後、武田家とゆかりのあった妙心寺によって葬られた 37 。
主君を裏切った小山田信茂は、織田信忠に降伏して自らの功を訴えたが、「古今東西の不忠者」として許されず、甲斐善光寺で一族もろとも処刑された 6 。また、信玄の菩提寺である恵林寺は、武田の残党を匿ったとして信長の命により焼き討ちに遭い、住職の快川紹喜をはじめ百数十名の僧侶が山門上で焼死するという悲劇に見舞われた 19 。
信長は諏訪で論功行賞を行い、広大な武田の旧領を滝川一益、河尻秀隆、森長可、徳川家康らに分割して与えた 16 。武田氏の滅亡は、織田信長にとって長年の宿敵を排除した戦術的勝利であった。しかし、この戦いで最大の戦略的果実を得たのは、徳川家康であった。
信長が武田一族の根絶やしを図る一方で、家康は密かに武田の有能な遺臣たちを保護し、自らの陣営に組み込んでいた 6 。これは単なる温情ではない。家康は、武田家臣団が持つ高度な軍事ノウハウ(武田流軍学)、鉱山経営などの統治技術、そして何より甲斐・信濃の地理と人脈を熟知した人材が、将来この地を支配する上で計り知れない価値を持つことを見抜いていたのである。
この先見の明は、わずか3ヶ月後に起こる「本能寺の変」で絶大な効果を発揮する。信長の死によって旧武田領が権力の空白地帯となると、家康は保護した武田遺臣たちの全面的な協力を得て、北条氏や上杉氏を退け、この広大な領地を掌握することに成功する(天正壬午の乱) 39 。武田氏の滅亡は、結果的に家康を一大名から天下を狙う存在へと飛躍させる、最大の契機となったのである。
結論:要害山城の戦いから天目山の戦いへ ― 武田氏滅亡が残した教訓
武田氏の滅亡は、長篠での軍事的敗北に始まり、外交の失敗による孤立、内政の疲弊による人心離反、そして最終的には勝頼自身のリーダーシップの限界が複合的に絡み合った、必然的な結末であった。
天目山の戦いは、戦国最強と謳われた武田家の終焉を象徴する出来事であり、旧時代の権威が、織田信長という新しい時代の覇者の前に完全に屈服したことを意味する。しかし、その滅亡は単なる終わりではなかった。武田氏が培った統治システムや軍法、そして有能な家臣団という「遺産」は、最大のライバルであった徳川家康に引き継がれ、後の江戸幕府の礎の一部となったのである 38 。
武田家は天目山の露と消えた。しかし、その魂は家康の中で生き続け、日本の歴史を形作っていくことになる。名門の滅亡劇は、我々に組織の崩壊と、その遺産が如何にして次代に継承されていくかという、普遍的な教訓を今なお示している。
引用文献
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- 要害山(ようがいさん) - 甲府市 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/006.html
- 躑躅ヶ崎館の見所と写真・3000人城主の評価(山梨県甲府市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/57/
- 躑躅ヶ崎館 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/tutujigasaki.j/tutujigasaki.j.html
- 要害山城の見所と写真・1000人城主の評価(山梨県甲府市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/716/
- 【合戦図解】甲州征伐〜迫る織田・徳川!甲斐の名門武田家滅亡の軌跡〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nd4ty1cf7Dw
- 城郭図鑑/天目山の戦い http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/996kosenjyo/020tenmokuzan/tenmokuzan.html
- 天目山の戦(てんもくざんのたたかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6-1188439
- NHK大河ドラマ どうする家康 「解説」改訂版 甲州征伐から武田家滅亡へ 勝頼の判断が https://www.youtube.com/watch?v=_Dg7cqp7Dpw
- NHK大河ドラマ どうする家康 「解説」甲州征伐から武田家滅亡へ 勝頼の判断が・・ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=GIEUjFtpV3U
- 新府城 http://shirabe.sunnyday.jp/castle/011.html
- 土屋惣蔵の墓 | 八田 | 文化財Mなび https://103.route11.jp/?ms=2&mc=85&mi=289
- 新府城と武田勝頼公2 https://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-166.html
- ふる.さとの城を語ろう https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/9/9167/7099_1_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B5%AA%E6%BC%AB%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E.pdf
- 324 武田家の滅亡を『三河物語』から見る ~『どうする家康』を楽しむため https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12811619741.html
- 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
- 甲州征伐と武田氏滅亡。戦場となった伊那谷 - あるぷす不動産 https://www.alps-realty.com/blog/?p=5002
- 『武田勝頼の最期』度重なる裏切り、凛々しく天目山での自害 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/takeda-katsuyori-saigo/
- [合戦解説] 10分でわかる天目山の戦い 「信長の甲州征伐で武田氏滅亡」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=-_eGJCKTbR0
- 天目山の戦い・武田勝頼の最期&その首級のゆくえ #どうする家康 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=iw462HONLCE
- 鉄道唱歌にも悪しざまに唄われる小山田信茂の岩殿城 https://yamasan-aruku.com/aruku-319/
- 戦国大名武田家が滅亡寸前に築いた幻の城「新府城」(山梨県韮崎市)|かいのすけ - note https://note.com/kainosuke_his/n/n38397c5f1231
- 甲州征伐・天目山の戦い~武田勝頼の滅亡~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/koshu-seibatu.html
- 「小山田信茂」武田の譜代家老にして、最後に裏切り者として武田家滅亡を決定づけた男の数奇な人生とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/739
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- 武田家を裏切った小山田信茂は本当に卑怯者だったのか?隠された深い理由とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=adNgOQ1diBU
- 武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8919
- 武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8919?p=1
- 土屋惣蔵片手切り https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/katatekiri.k/katatekiri.k.html
- 最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70294?page=1
- 武田勝頼の最期 http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/takeda-katsuyori.htm
- 冥途もお供いたします…政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【下】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 3 https://mag.japaaan.com/archives/130440/3
- 武田勝頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%A0%BC
- 著名人が遺した辞世の句/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/historical-last-words/
- 261 『信長公記』を読むその35 巻15の3 :天正十(1582)年 武田勝頼の最期 https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12803801776.html
- 最後は串刺し!? 信玄の後継者、武田勝頼の最期 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7153/
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