諏訪原城の戦い(1572)
武田信玄の西上作戦により築かれた諏訪原城は、徳川家康との攻防の要衝となる。長篠の戦い後、徳川が奪取し牧野城と改名。高天神城攻略の拠点となり、武田氏衰亡の序章を告げた。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
諏訪原城の戦い(天正三年)全史:武田氏遠江支配の終焉と徳川氏反攻の起点
序章:諏訪原城をめぐる歴史認識の再構築
日本の戦国時代史において、「諏訪原城の戦い」は、遠江国(現在の静岡県西部)の支配権を巡る武田氏と徳川氏の熾烈な攻防を象徴する一連の出来事の中核に位置する。当初、この合戦が元亀三年(1572年)に武田信玄によって行われたという認識が示されることがあるが、これは信玄が西上作戦によって遠江国に最大級の軍事的圧力をかけた年であり、諏訪原城という戦略拠点の存在意義を根源的に生み出した重要な歴史的背景である 1 。
しかしながら、諏訪原城そのものを主戦場とする直接的な攻防戦は、戦国史の大きな転換点である長篠の戦いを経た天正三年(1575年)に発生したものである 3 。この戦いにおける主役は、武田信玄の子・勝頼と、雪辱に燃える徳川家康であった。
したがって、本報告書は、これら二つの時点、すなわち1572年と1575年を断絶した事象としてではなく、明確な因果関係で結ばれた一連の歴史として捉え直すことを目的とする。1572年の信玄による遠江侵攻が如何にして諏訪原城築城の戦略的必要性を生み出したのかを解き明かし、その上で1575年の攻防戦の具体的経過を時系列で詳述する。これにより、一つの城が持つ重層的な歴史的価値と、それが戦国大名の興亡に与えた影響を、より深く、そして正確に理解することを目指すものである。利用者様の当初の視点は、物語の「発端」を的確に捉えており、本報告書はその発端からクライマックス、そしてエピローグまでを包括的に描き出す試みとなる。
第一章:遠江の震撼 ― 武田信玄の西上作戦と戦略的布石(元亀三年)
1. 信長包囲網と西上作戦の発動
元亀三年(1572年)9月、室町幕府第15代将軍・足利義昭からの再三の上洛要請に応じる形で、甲斐の武田信玄は大規模な軍事行動を開始した。これは、急速に勢力を拡大する織田信長を打倒すべく形成された「信長包囲網」の一翼を担うものであり、世に言う「西上作戦」の発動であった 2 。
この作戦は、単一の進軍路を取るものではなく、複数の軍団が連携して徳川領である遠江・三河へ多方面から侵攻するという壮大な構想に基づいていた。信玄自らが率いる約22,000の本隊は信濃から青崩峠を越えて遠江北部へ、そして重臣・山県昌景と秋山虎繁が率いる約5,000の別働隊は東三河へ侵攻した 6 。さらに、馬場信春にも約5,000の兵が預けられ、別路を進撃するなど、徳川領を面で制圧しようとする周到な計画が見て取れる 8 。
2. 遠江北部の席巻
10月3日に甲府を出陣した信玄の本隊は、遠江に侵入すると、破竹の勢いで徳川方の諸城を蹂躙していく。10月13日には、わずか一日のうちに天方城、一宮城、飯田城といった北遠江の城砦群を次々と陥落させた 8 。この電撃的な進軍は、徳川方の防衛体制に深刻な動揺をもたらした。特に、徳川に属していた国人領主の天野氏などが武田方に寝返る事態も発生し、徳川の支配基盤が内側から崩壊していく危険性を示した 6 。信玄の軍事行動は、単なる城の攻略に留まらず、地域の勢力図そのものを塗り替える政治的効果をも伴っていたのである。
3. 二俣城の攻防と落城
遠江北部を制圧した武田軍が次なる目標としたのは、遠江国の中央部に位置する要衝・二俣城であった。この城は天竜川と二俣川が合流する丘陵上に築かれた堅城であり、浜松城と他の支城とを結ぶ交通の要であった 6 。10月16日、信玄本隊は先行して城を包囲していた馬場信春の部隊と合流し、本格的な攻城戦を開始する 8 。
城主の中根正照は、圧倒的な兵力差にもかかわらず徹底抗戦の構えを見せ、武田軍を苦しめた。二俣城は断崖上にあり、城内の井戸の代わりに崖下を流れる天竜川から釣瓶で水を汲み上げていた。信玄はこの城の生命線を断つため、天竜川の上流から大量の筏を流し、その水流の勢いを利用して水を汲み上げるための井戸櫓に衝突させ、破壊するという奇策を用いたと伝えられている 6 。
水の確保が困難となり、織田信長が派遣した佐久間信盛らの援軍も間に合わず、約2ヶ月にわたる籠城の末、12月19日、中根正照は城兵の助命を条件に開城した 8 。二俣城の陥落は、徳川家康にとって戦術的にも精神的にも大きな打撃であり、これにより遠江の大半が武田の勢力圏へと組み込まれることとなった。
4. 三方ヶ原の激突
二俣城を落とした信玄は、家康の本拠地である浜松城を直接攻撃せず、これを無視するかのように西進を続けた。この動きは、家康を城から誘き出すための巧妙な陽動であった。血気にはやる家康は、重臣たちの制止を振り切って出陣を決意。元亀三年12月22日、浜松城北方の三方ヶ原台地で、武田軍と徳川・織田連合軍が激突した 1 。
兵力において武田軍約27,000に対し、徳川・織田連合軍は約11,000と劣勢は明らかであった 7 。結果は武田軍の圧勝に終わり、徳川軍は多くの将兵を失い、家康自身も命からがら浜松城へ逃げ帰るという、生涯最大の敗北を喫した 1 。
この一連の西上作戦は、単に徳川軍を戦場で打ち破っただけではなかった。それは遠江における徳川の防衛ネットワークを寸断し、支配の「戦略的空白地帯」を生み出したのである。特に、浜松城と東遠江の要衝・掛川城との連絡線は深刻な脅威に晒され、難攻不落とされた高天神城が孤立する危険性が現実のものとなった。この信玄が作り出した軍事的優位と戦略的空白を、恒久的かつ確実な支配へと転換するために、武田氏が打ち込むことになる「楔」、それこそが後の諏訪原城であった。
第二章:対徳川の楔 ― 諏訪原城の築城と戦略的価値
1. 信玄の死と勝頼の継承
三方ヶ原で徳川家康を打ち破り、西上作戦を順調に進めていた武田信玄であったが、元亀四年(1573年)に入ると持病が悪化。三河の野田城を攻略中に病状が深刻となり、進軍を断念。甲斐へ帰還する途上の4月12日、信濃駒場にてその生涯を閉じた 4 。
巨星の墜落は武田家中に大きな動揺をもたらしたが、跡を継いだ四男・武田勝頼は、父の遺志を継承し、遠江支配の継続とさらなる拡大を強力に推し進める姿勢を明確にした 4 。
2. 諏訪原城の築城(天正元年)
信玄の死から約半年後の天正元年(1573年)秋、勝頼は遠江支配を恒久的なものとするための新たな一手を打つ。それが、東海道の要衝である牧之原台地上への新城の築城であった 9 。普請奉行には、武田四天王の一人に数えられる宿老・馬場信春(信房)が任じられ、築城が開始された 3 。
この城は、城内に武田家が篤く信仰する守護神・諏訪大明神を勧請して祀ったことから、「諏訪原城」と名付けられた 3 。その立地は、南に東海道を見下ろし、大井川西岸に位置する、まさに戦略上の要であった 3 。
3. 戦略拠点としての機能
諏訪原城に与えられた第一の戦略的目標は、徳川方が保持する最重要拠点「高天神城」の攻略であった。当時、「高天神を制する者は遠州を制する」と謳われるほど、高天神城は遠江支配の鍵を握る難攻不落の山城であった 12 。諏訪原城は、この高天神城を攻め落とすための前線基地であり、兵員や兵糧を集中させる兵站拠点としての役割を期待されていたのである 9 。
信玄の西上作戦は、諸城を攻略する「点」の制圧に主眼が置かれていた。それに対し、勝頼による諏訪原城の築城は、既存の小山城などと連携させることで大井川西岸に恒久的な防衛「線」を構築し、さらに高天神城への補給「線」を確保するという、より高度で持続的な領国支配への戦略転換を象徴していた 4 。占領地をいかに維持し、経営していくかという、次世代の課題への解答がこの城には込められていた。
そしてその戦略的価値は、早くも翌天正二年(1574年)に証明される。勝頼は諏訪原城を拠点として高天神城を包囲し、同年6月、ついにこれを陥落させることに成功した。諏訪原城の存在が、武田軍の兵站を安定させ、長期にわたる攻城戦を可能にしたことは疑いようがない 9 。
4. 甲州流築城術の粋
諏訪原城の縄張り(設計)は、甲州流(武田流)築城術の完成形とも評される優れたものであった。牧之原台地の北端に位置するこの城は、台地の突端部を利用することで戦闘正面を限定し、敵の接近を困難にしている 4 。防御の要となる正面には、巨大な空堀と高く険しい土塁が幾重にも巡らされ、鉄壁の守りを固めていた 15 。
特に注目すべきは、甲州流築城術の代名詞ともいえる「丸馬出(まるうまだし)」と「三日月堀(みかづきぼり)」の巧みな配置である 16 。丸馬出は、城の弱点である虎口(出入り口)の前に設けられた半円形の曲輪で、三日月形の堀と組み合わさることで、敵の突進力を削ぎ、側面からの攻撃を可能にする高度な防御施設である 17 。同時に、城兵が打って出る際の出撃拠点としても機能し、防御一辺倒ではない攻撃的な性格をも備えていた 17 。諏訪原城は、まさに攻防一体の思想を体現した、当時の最先端の要塞であったといえる 9 。
ただし、留意すべき点がある。長らくこれらの遺構はすべて武田氏によるものと考えられてきたが、近年の発掘調査の進展により、現在見られる壮大な丸馬出や空堀の多くは、後に城を奪取した徳川氏による大規模な改修の産物である可能性が指摘されている 15 。この事実は、諏訪原城の歴史が一度の築城で完結したものではなく、敵対する勢力の手によって変容し続けたダイナミックなものであったことを示唆している。
第三章:天正三年の攻防 ― 諏訪原城、落日の刻
長篠での大勝により、武田・徳川間の力関係が劇的に変化した天正三年(1575年)、徳川家康は失地回復に向けた反攻作戦を開始する。その最初の主要な目標となったのが、遠江における武田支配の象徴であり、高天神城への生命線でもあった諏訪原城であった。
【表1】諏訪原城攻防戦(天正三年)における両軍の編成比較
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項目 |
徳川軍(攻城側) |
武田軍(守備側) |
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総大将 |
徳川家康 |
(武田勝頼 - 後方支援不能) |
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城将 |
- |
今福虎孝、室賀満正、小泉昌宗 |
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推定兵力 |
数千~一万程度(長篠の戦勝後の遠江・三河方面軍) |
数百~千程度(城の規模からの推定) |
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状況・士気 |
長篠の戦いで大勝し、士気は最高潮。遠江失地回復の絶好機。 |
長篠で主力が壊滅。援軍の望みは薄く、孤立無援の状態。 |
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戦略目標 |
諏訪原城を奪取し、高天神城への補給路を遮断。駿河侵攻の足掛かりとする。 |
可能な限り時間を稼ぎ、徳川軍の攻勢を頓挫させ、勝頼の体制立て直しを待つ。 |
1. 前夜:長篠の敗報と徳川の反攻
天正三年五月二十一日、設楽原において織田・徳川連合軍と武田軍が激突した長篠の戦いは、武田軍の歴史的惨敗に終わった 19 。この一戦で、諏訪原城の築城者であった馬場信春をはじめ、山県昌景、内藤昌秀といった信玄以来の宿老たちがことごとく討死し、武田軍団は屋台骨を揺るがすほどの甚大な被害を被った 9 。
この千載一遇の好機を、徳川家康が見逃すはずはなかった。彼は直ちに反攻に転じ、三河・遠江に点在する武田方の拠点に対する奪還作戦を開始したのである 4 。諏訪原城の戦いは、独立した合戦というよりも、長篠の戦いという巨大な軍事イベントがもたらした直接的な帰結であり、その「戦後処理」の第一幕であった。武田方にとっては、戦場での敗北が即座に領土の喪失へと繋がるという冷徹な現実を突きつけられた最初の事例であり、徳川方にとっては、戦勝を具体的な戦略的優位へと転換するための最初の重要な一歩であった。
2. 包囲網の形成(同年7月中旬)
長篠の戦いからわずか二ヶ月後の七月中旬、徳川家康は自ら軍勢を率いて諏訪原城に進軍。『当代記』によれば、七月二十日頃には城を完全に包囲したとされる 4 。徳川軍は牧之原台地の地形を巧みに利用し、城への兵糧や水の補給路を完全に遮断する包囲網を敷いたと考えられる。
3. 一ヶ月の攻防(同年7月下旬~8月中旬)
包囲下に置かれた諏訪原城であったが、その守りは決して脆弱ではなかった。城将の今福虎孝、室賀満正、小泉昌宗らの指揮のもと、武田方の城兵は士気高く、頑強な抵抗を続けた 4 。馬場信春が築いただけあって、城の防御機能は極めて高く、徳川軍の攻撃を容易には許さなかった。
徳川軍は力攻めを敢行し、家康自らの指揮のもと、城の防御の要である巨大な空堀を埋め立て、突撃路を確保しようと試みたという記録が残っている 21 。また、近年の発掘調査では、城の防御拠点である重ね馬出などから多量の鉄砲玉が出土しており、両軍の間で激しい銃撃戦が繰り広げられたことが物理的な証拠として裏付けられている 22 。
しかし、籠城側にとって状況は絶望的であった。籠城が始まって一ヶ月が経過しても、主君・武田勝頼からの援軍が到着する気配は全くなかった。長篠の敗戦で軍の主力を失った勝頼は、領国の体制再編に追われており、さらに東方では北条氏との関係も緊張状態にあったため、遠江の一城に援軍を派遣する戦略的余力を完全に失っていたのである 4 。援軍なき籠城は、城兵たちの士気を日増しに蝕んでいった。この戦いの趨勢は、七月の攻防が始まる以前、五月の長篠の時点で、すでに決定づけられていたと言っても過言ではなかった。
4. 落城(同年8月下旬)
援軍の望みが絶たれ、これ以上の抵抗は無意味であると判断した今福虎孝ら城将は、ついに開城を決断する。落城の日付については八月中の日付で諸説あるが、約一ヶ月にわたる攻防戦の末であった 4 。
武田の将兵は、ただ降伏するのではなく、城に自ら火を放ち、徳川軍の城内への突入と追撃を妨害しながら、東方に位置する武田方の拠点・小山城へと組織的に退去していった 4 。この城兵による放火の伝承は、城の本曲輪付近から焼けた土や炭化した米が出土しているという考古学的発見によっても裏付けられており、落城時の壮絶な情景を現代に伝えている 17 。
第四章:城の変容と新たな役割 ― 徳川の牧野城
1. 「牧野城」への改名と徳川による大改修
諏訪原城を奪取した徳川家康は、ただちにこの城を対武田戦略の重要拠点として再編する。まず着手したのは、城の改名であった。武田氏の守護神である「諏訪」の名を冠した城名を忌避し、新たに「牧野城」と命名したのである 3 。
改名は単なる象徴的な行為に留まらなかった。家康は、この城を対武田の最前線基地として、より一層強固な要塞へと生まれ変わらせるべく、大規模な改修工事に着手した 17 。現在、国指定史跡として残る諏訪原城跡の壮大な土塁や空堀、そして複雑な構造を持つ馬出といった遺構の多くは、この徳川時代に行われた改修によって形成された可能性が高いことが、近年の発掘調査で明らかになっている 4 。具体的には、敵兵の行動をより阻害しやすい箱堀への堀の形状変更や、防御施設の増強など、実戦的な改良が随所に施された痕跡が確認されている 22 。
2. 武田の築城術の継承と発展
この徳川による改修で特筆すべきは、その手法である。これまで甲州流築城術の典型とされてきた巨大な丸馬出が、実は徳川による改修・増築の産物である可能性が高いという研究成果は、徳川家康の驚くべき合理性と学習能力を物語っている 15 。家康は、敵であった武田氏の優れた築城技術を破壊したり否定したりするのではなく、その設計思想を積極的に研究・模倣し、さらに自軍の運用思想に合わせて発展させたのである。
この事実は、戦国時代の技術や戦術が、敵味方の垣根を越えて伝播し、相互に影響を与えながら改良されていくダイナミズムを象徴している。家康にとって、城はイデオロギーの表明ではなく、あくまで勝利を収めるための道具であった。敵の長所であっても、それが実利に繋がるのであれば躊躇なく取り入れるという、彼の徹底したプラグマティズム(実用主義)が、牧野城の遺構には刻み込まれているのである。
3. 今川氏真の城主就任とその政治的意図
天正四年(1576年)三月、家康は一見不可解な人事を断行する。かつての駿河・遠江の支配者であり、武田信玄に領国を追われて家康を頼っていた今川氏真を、この最前線の牧野城の城主として任命したのである 26 。
武将としての器量に恵まれなかったとされる氏真を、軍事的な最重要拠点に据えるというこの人事は、高度な政治的・軍事的計算に基づいたものであった。その狙いは、武田に駿河を奪われた旧主・今川氏を「駿河奪還の旗印」として最前線に掲げることにあった。これにより、武田の支配下にあった駿河国の旧今川家臣や国人領主たちの心を揺さぶり、徳川方への寝返りを促すための、巧みなプロパガンダ(宣伝工作)だったのである 27 。牧野城は、単なる軍事拠点であると同時に、敵の支配体制を内側から切り崩すための情報戦・心理戦の拠点という、新たな役割を担うことになった。戦国大名が軍事力だけでなく、権威や正当性といったソフトパワーをも駆使して戦っていたことを示す、非常に興味深い事例である。
4. 高天神城攻略の拠点として
徳川の手に渡り、牧野城として生まれ変わった諏訪原城は、その後の対武田戦略において決定的な役割を果たしていく。最大の目標は、依然として武田方が保持する難攻不落の要塞・高天神城の攻略であった。
牧野城は、徳川軍が高天神城を包囲し、兵糧攻めにするための「高天神城包囲網」の重要な一角を担った。特に、大井川沿いから高天神城へ至る武田方の補給路を完全に遮断する上で、この城の存在は致命的であった 4 。かつて武田が高天神城を攻略するために築いた城が、時を経て、今度は徳川が高天神城を孤立させるための拠点として機能するという、歴史の皮肉がここにあった。この執拗な兵糧攻めの結果、高天神城は天正九年(1581年)に落城し、武田氏の遠江支配は完全に終焉を迎えるのである。
結論:諏訪原城が物語る武田氏衰亡の序章
天正三年(1575年)の諏訪原城の戦いは、その規模こそ長篠の戦いのような大会戦ではなかったものの、戦国後期の勢力図を決定づける上で極めて重要な意味を持つ出来事であった。この城の陥落は、単なる一城の争奪戦に留まらず、長篠での敗北が武田氏にとって回復不能な戦略的後退の始まりであったことを明確に示した。それは、武田氏が遠江における支配権を完全に喪失し、衰亡へと向かう長い坂道を転がり始める、その序章を告げる鐘の音だったのである。
今日、静岡県島田市に残る国指定史跡「諏訪原城跡」は、訪れる者にその歴史のダイナミズムを雄弁に語りかける。武田氏による独創的な築城思想の痕跡と、それを奪取した徳川氏による合理的かつ大規模な改修の跡が、壮大な土塁や空堀となって重層的に残されている。これらの遺構は、文献史料だけでは窺い知ることのできない合戦のリアルな実像や、戦国期における築城技術の発展、そして徳川家康という武将の冷徹な戦略思想を、我々に示してくれる貴重な物証である。
さらに、近年の継続的な発掘調査は、これまで定説とされてきた歴史認識に再考を迫る新たな知見をもたらし続けている。諏訪原城の研究は、歴史が固定された過去の物語ではなく、新しい発見によって常に再構築され、より深く、より豊かな姿を現す生きた学問であることを示す好例といえよう。この土の城は、戦国の世を生きた人々の知恵と、国家の存亡をかけた激しい攻防の記憶を刻み込み、今なお歴史の真実を探求する我々に多くの問いを投げかけているのである。
引用文献
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- 諏訪原城>”家康”のでき事と所縁ある”お城”-武田から奪取して高天神城攻めの拠点に(16) https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12837639610.html
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- 【続日本100名城・諏訪原城編】城の役割はたった20年!なのに歴史ロマン溢れる絶賛の城 https://shirobito.jp/article/584
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- 【静岡県】諏訪原城の歴史 武田から徳川へ。熾烈な戦いの最前線となった城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1898
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- 第二次高天神城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97916/
- 武田勝頼が滅亡したのは信長と同盟を考え高天神城を見捨てたから? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/takeda-sengoku/katuyori-takatenjin/
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- 諏訪原城跡発掘調査(平成21年~平成27年) - 島田市公式ホームページ https://www.city.shimada.shizuoka.jp/shimahaku/docs/suwaharajyotyousakeeka.html
- (2ページ目)信長・家康が庇護した今川氏真が浜松城にいた理由とは 歴史学者が推察する役割 https://dot.asahi.com/articles/-/200766?page=2