最終更新日 2025-09-06

讃岐・高松(玉藻)城の戦い(1585)

天正十三年 讃岐・高松城の戦い—ある城の死と、新たなる時代の黎明—

序章:戦いの舞台—「二つの高松城」の謎

天正13年(1585年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が断行した四国征伐。この戦役において、讃岐国(現在の香川県)の要衝「高松城」が開城したことは、長宗我部元親による四国統一の夢が潰えた象徴的な出来事として知られる。しかし、この「高松城」が、今日我々が知る瀬戸内海に面した壮麗な水城、高松城(玉藻城)であると考えるならば、それは歴史の真実から一歩踏み外すことになる。

本報告書が主題とする天正13年の合戦の舞台は、現在の高松城(玉藻城)とは全く別の城である。その名は「喜岡城(きおかじょう)」 1 。この城は、鎌倉時代末期に讃岐守護職であった高松頼重によって、屋島の南方に築かれた 3 。当時、この一帯こそが「高松」という地名の発祥であり、喜岡城は紛れもなく「高松城」と呼ばれていた 1

一方、現在の高松城(玉藻城)は、この戦いから2年後の天正15年(1587年)、四国平定後に讃岐国主となった生駒親正が、全く新しい地に築城を開始したものである 1 。親正は、源平合戦以来の由緒ある「高松」の名をこの新城に冠し、それまでの高松の地は「古高松」と称されるようになった 1

この地名の移動と歴史の錯綜こそが、「讃岐・高松城の戦い」の実像を捉える上での最初の関門である。本報告書は、この歴史的混同を解きほぐし、天正13年における「喜岡城の戦い」こそが、讃岐の戦国時代の終焉を告げ、近世の幕開けを象徴する決戦であったことを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。内陸の丘陵に築かれた古の城の死と、海に向かって開かれた新たなる城の誕生。その背景には、単なる軍事衝突に留まらない、讃岐という国の統治パラダイムそのものの劇的な転換があった。在地豪族による防衛を主眼とした「陸の論理」から、中央集権体制下における海上交通と商業を重視する「海の論理」へ。喜岡城の炎は、一つの時代の終わりを告げる狼煙だったのである。

第一章:四国制覇への道—長宗我部元親の台頭と秀吉との対立

喜岡城の悲劇を理解するためには、まず、その引き金を引いた二人の傑物、長宗我部元親と羽柴秀吉の関係性の変遷を遡らねばならない。

「姫若子」から「土佐の出来人」へ

土佐国(現在の高知県)の小領主に過ぎなかった長宗我部氏に生まれた元親は、幼少期、その色白で物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されていた 6 。しかし、22歳という遅い初陣「長浜の戦い」で、自ら槍を手に敵陣へ突撃する獅子奮迅の活躍を見せ、周囲の嘲笑を驚嘆へと変える 7 。この日を境に、彼は「鬼若子」と畏怖される存在となった。

父・国親の急死により家督を継ぐと、元親の才能は完全に開花する。土佐国内の宿敵であった本山氏、安芸氏を次々と滅ぼし、天正3年(1575年)の「四万十川の戦い」で土佐一条氏を破り、ついに土佐一国の統一を成し遂げた 7 。その勢いは留まることを知らず、阿波の三好氏、讃岐の十河氏、伊予の河野氏へと侵攻を開始。「土佐の出来人」と呼ばれた彼の目標は、四国全土の制覇にあった 8

旧三好勢力との死闘と讃岐平定

元親の四国統一事業において、最大の障壁となったのが、かつて畿内に覇を唱えた三好長慶の一門、とりわけ讃岐を本拠とする十河氏であった。三好義賢の次男で十河家に養子に入った十河存保(そごう まさやす)は、元親に対する抵抗の旗頭であった 10

当初、存保は織田信長と結び、元親の勢力拡大に対抗していた 12 。しかし、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、強力な後ろ盾を失った存保は急速に劣勢へと追い込まれる 12 。元親はこの好機を逃さず、阿波の「中富川の戦い」で存保を破り、讃岐へと敗走させた 13

その後も存保は十河城や虎丸城に籠って抵抗を続けたが、元親の猛攻の前に讃岐の国人たちは次々と長宗我部方になびいていった。そして天正12年(1584年)6月、ついに十河城、虎丸城が陥落。讃岐は完全に元親の支配下に入った 13 。命からがら讃岐を脱出した存保が頼った先こそ、亡き信長の後継者として天下人の道を歩み始めていた羽柴秀吉であった 12 。この亡命は、単なる一個人の逃避ではなかった。それは、秀吉に四国介入の絶好の口実を与えると共に、元親の四国支配が未だ盤石ではないことを示す象徴的な出来事であった。

天下人との対立、そして決裂

信長存命時、元親と秀吉の関係は決して険悪ではなかった。しかし、信長の死後、両者の立場は大きく変わる。秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を、小牧・長久手の戦いを経て織田信雄・徳川家康を事実上屈服させ、天下統一事業を急速に進めていた 16 。一方、元親も天正13年(1585年)春には伊予の河野氏を降し、四国全土の平定をほぼ完了させていた 8

二つの巨大な権力が隣接すれば、衝突は避けられない。秀吉は、天下の秩序に従う証として、元親に臣従と領土の割譲を要求した。その条件は「伊予・讃岐両国の返上」という厳しいものであった 13 。長年の苦闘の末に獲得し、多くの家臣の血で贖った土地を易々と手放すことは、元親の誇りが許さなかった 19

交渉は決裂した 20 。秀吉は、亡命してきた十河存保を庇護下に置き、彼を「長宗我部氏に不当に領土を奪われた者」として立てることで、討伐の大義名分を確保した。天正13年6月、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍に、四国への出陣を命じた 7 。元親が一国規模の「戦国大名」としての論理で領土を守ろうとしたのに対し、秀吉は全国規模の兵站と方面軍を動員する「天下人」としての論理で、その野望を打ち砕こうとしていた。戦いの次元そのものが、もはや異なっていたのである。

第二章:天下人の軍勢、讃岐へ—四国征伐の全体戦略と侵攻部隊の編成

秀吉の四国征伐は、その周到な計画と圧倒的な物量において、旧来の戦国時代の合戦とは一線を画すものであった。

秀吉が描いた三方面同時侵攻作戦

秀吉が立案した作戦は、長宗我部軍の兵力を分散させ、同時に複数の戦線でプレッシャーをかけることを目的とした、大規模な三方面上陸作戦であった 21

  1. 阿波方面(主攻): 総大将・羽柴秀長と甥の羽柴秀次が率いる約6万の主力軍団。淡路島を経由し、阿波の玄関口である土佐泊へ上陸する 17
  2. 伊予方面: 毛利輝元の叔父である小早川隆景と吉川元長が率いる毛利軍約3万。安芸から伊予へ上陸し、西から長宗我部領を切り崩す 21
  3. 讃岐方面: 備前・美作の宇喜多秀家が率いる軍団。備前から海を渡り、讃岐へ上陸。阿波の主力軍の側面を確保し、敵の注意を引きつける陽動の役割も担う 13

この多方面からの同時侵攻は、四国全土を防衛線とせざるを得ない長宗我部方にとって、兵力の分散を強いる悪夢のような戦略であった。一つの方面が膠着しても、他の方面が突破口を開くことで、作戦全体の停滞を防ぐことができる。これは、豊臣軍が単なる兵力の集合体ではなく、方面軍ごとの役割分担と連携を前提とした、近代的な軍事システムとして機能していたことを示している。

讃岐方面軍の陣容

讃岐方面への侵攻を担った軍勢は、総兵力約2万3千 4 。その陣容は、秀吉の巧みな人事戦略を如実に物語っていた。

  • 総大将:宇喜多秀家
    秀吉の養子であり、備前・美作57万石を領する若き大名 24。彼を総大将に据えることは、豊臣一門の威光を示すと共に、背後に控える毛利家への牽制という政治的意図も含まれていた。
  • 軍監・参謀:黒田孝高(官兵衛)、蜂須賀正勝
    実戦の指揮は、秀吉が最も信頼を置く二人の宿将に委ねられた。稀代の軍師として知られる黒田官兵衛の戦術眼と、阿波の地理・情勢に精通する蜂須賀正勝の知見は、この方面軍の頭脳であった 13。
  • 先鋒格:仙石秀久
    かつて淡路・讃岐で長宗我部軍と戦い、引田の戦いで敗北を喫した経験を持つ武将 26。彼にとってこの戦いは雪辱戦であると同時に、讃岐の地理に明るい案内役としての役割も期待されていた 13。

この布陣は、若き貴人を総大将として権威付けしつつ、実務は歴戦のプロフェッショナルに任せるという、極めて合理的かつ効果的なものであった。

迎え撃つ長宗我部方の防衛戦略

一方、長宗我部元親は、秀吉軍の主力が阿波から侵攻してくると予測していた。そのため、阿波と土佐の国境に近い白地城に本陣を構え、主力を阿波方面に集中させていた 13

讃岐方面の防衛については、東讃の喜岡城や香西城といった既存の城に加え、防衛ラインの要として新たに「植田城」を築城 13 。ここには、元親の従兄弟にあたる猛将・戸波親武(へわ ちかたけ)を配置し、豊臣軍を迎え撃つ態勢を整えていた 27 。元親の狙いは、植田城で敵主力を引きつけ、その隙に別動隊が背後を突くという挟撃策にあったとされる 27 。しかし、この戦略は、敵がこちらの想定通りに動くことを前提としたものであり、圧倒的な物量と複数の侵攻ルートを持つ秀吉軍の前には、あまりにも脆い計画であった。

第三章:喜岡城、炎上す—讃岐平定戦のリアルタイム・クロニクル

天正13年6月、讃岐の運命を決定づける戦いの火蓋が切られた。それは、圧倒的な力の差の前に、古き時代の武士たちの誇りが砕け散る、壮絶な殲滅戦であった。

【天正13年6月】屋島上陸、進軍開始

6月中旬、備前国を出航した宇喜多秀家率いる2万3千の大船団が、讃岐東部の屋島沖に姿を現した 4 。海を埋め尽くす無数の帆船と、そこから次々と上陸してくる輝く武具をまとった兵士たちの姿は、沿岸の村々や城砦に立てこもる長宗我部方の将兵に、抗いようのない脅威と絶望感を与えたであろう。上陸を完了した豊臣軍は、一切の躊躇なく、最初の攻略目標である屋島南方の喜岡城へと進軍を開始した 1

絶望的な対峙と軍師の策

豊臣軍が包囲した喜岡城は、小高い丘に築かれた平山城であった。城主は高松左馬助頼邑(たかまつ さまのすけ よりむら) 3 。彼の手勢はわずか100人余り。主家である香西氏から派遣された唐渡弾正(とうど だんじょう)、片山志摩(かたやま しま)らの援軍を合わせても、籠城兵の総数はわずか200名程度に過ぎなかった 2 。対する豊臣軍は2万3千。その兵力差は100倍以上という、もはや戦いと呼ぶのも憚られるほどの状況であった。

攻城軍(豊臣方)

籠城軍(長宗我部方)

総大将

宇喜多秀家

高松左馬助頼邑

主要武将

黒田孝高、蜂須賀正勝、仙石秀久

唐渡弾正、片山志摩(香西氏援軍)

総兵力

約23,000人

約200人

力攻めでも一瞬で陥落させることは可能であったが、軍監の黒田官兵衛は、味方の損害を最小限に抑え、かつ迅速に城を無力化するための策を講じた。それは、かつて秀吉が備中高松城を水攻めにしたように、地形の不利を逆手に取るものではなく、力と物量で地形そのものを変えてしまうという、合理的かつ非情なものであった。官兵衛は兵に命じ、周辺の山から木々を伐採させ、それを次々と城の堀へと投げ込ませた 19 。数多の兵士による人海戦術の前に、城の防御機能の要である堀は、瞬く間に埋め立てられていった。

総攻撃、そして玉砕

堀という最大の防御線を失った喜岡城は、もはや裸の城も同然であった。豊臣軍は鬨の声を上げ、四方から怒涛の総攻撃を開始した。

高松頼邑をはじめとする200余の城兵は、絶望的な状況を理解しながらも、武士としての意地と誇りをかけて最後まで奮戦した。城主の高松頼邑、援軍の将である唐渡弾正、片山志摩らは、自ら刃を振るい、押し寄せる大軍の中に討って出た。しかし、多勢に無勢。一人、また一人と城兵は討ち取られていく。

この戦いは、讃岐の他の国人領主たちに対する、豊臣政権の冷徹なメッセージであった。抵抗すれば、たとえ小城であっても容赦なく根絶やしにするという「見せしめ」である。降伏勧告の記録はなく、殲滅が当初からの目的であった可能性が高い。喜岡城の200名の命は、讃岐平定全体の時間とコストを削減するための「戦略的犠牲」とされたのである。

やがて抵抗の力も尽き、城内に攻め入った豊臣軍によって、籠城兵は文字通り最後の一人まで討ち取られた 1 。高松頼邑以下、将兵約200名全員が玉砕。喜岡城は落城し、炎上した。この壮絶な全滅をもって、讃岐における戦国時代は事実上の終焉を迎えた 1 。後年、この悲劇の地に喜岡寺が建立され、討死した高松頼邑、唐渡弾正、片山志摩の三将の墓が、今も静かにその壮絶な最期を伝えている 28

第四章:軍師の慧眼—植田城迂回と讃岐平定の完了

喜岡城の殲滅戦は、豊臣軍が意図した通り、讃岐の国人たちの戦意を根こそぎ奪い去る効果を発揮した。しかし、讃岐平定を決定づけたのは、武力による制圧以上に、一人の軍師の冷静な判断であった。

喜岡城陥落の衝撃と降伏の連鎖

喜岡城がわずか一日で、しかも城兵全員が討死するという壮絶な形で陥落したという報は、瞬く間に周辺地域に伝播した。豊臣軍の圧倒的な兵力と、抵抗する者への容赦ない仕打ちを目の当たりにした諸城は、恐慌状態に陥った。喜岡城の主家筋にあたる香西城主・香西伊賀守は、豊臣軍が城下に迫ると、戦わずして降伏し、城を明け渡した 19 。これに続き、牟礼城をはじめとする東讃の諸城も次々と豊臣方に帰順。讃岐東部は、ほとんど抵抗を受けることなく平定された。

長宗我部元親の罠を看破

東讃を制圧した宇喜多・黒田軍は、長宗我部方が讃岐防衛の最後の砦と頼む植田城へと軍を進めた 27 。しかし、本格的な攻城を前に、軍師・黒田官兵衛は自ら城の様子を偵察した。そこで彼が目にしたのは、不可解な光景であった。2万を超える大軍が目前に迫っているにもかかわらず、城の守りが意図的に手薄にされているように見える 27

常人ならば好機と捉え、一気に攻めかかるところだが、官兵衛の慧眼は、その不自然さの裏に隠された敵の意図を見抜いた。これは、城内に敵主力を誘い込み、潜ませておいた伏兵と、阿波から駆けつける元親の本隊とで挟み撃ちにするという、長宗我部元親が仕掛けた巧妙な罠であると看破したのである 27 。後に元親は「黒田官兵衛に見破られ、はかりごとが水泡に帰したのは無念千万」と、その智略に舌を巻き、嘆いたと伝えられている 27

元親の戦略の核は、この植田城における「決戦の強要」にあった。しかし官兵衛は、元親が望んだ土俵で戦うことを拒否し、戦いの主導権を完全に手中に収めた。元親は、自軍が最も効果を発揮するはずだった場所で戦う機会を、永遠に失ったのである。

戦略的転進と讃岐平定の完了

官兵衛は、植田城の罠にはまることなく、諸将に対して「植田城は守りが堅固であり、攻略は困難」と報告。この城をあえて放置し、軍を西へ転進させることを進言した 13 。その真の目的は、讃岐・阿波国境の大坂越え(現在の香川・徳島県境の峠)を経て阿波国へ入り、総大将・羽柴秀長が率いる主力軍と合流することにあった 13

この判断は、讃岐という一戦域の勝利を確定させただけでなく、四国全体の戦局をも決定づける神算であった。元親の讃岐防衛戦略は完全に無力化され、組織的抵抗は終焉した。さらに、讃岐方面軍が阿波の主力軍に合流することで、豊臣軍はさらに増強され、元親は自らの本拠地で、より強大になった敵と対峙せざるを得なくなったのである。

日付(天正13年)

場所

行動内容

戦略的意義

6月中旬

讃岐国・屋島

宇喜多秀家軍(約2万3千)が上陸を開始。

四国征伐、讃岐方面作戦の開始。

6月下旬(推定)

讃岐国・喜岡城

黒田官兵衛の策により堀を埋め、総攻撃。城兵約200名全員が討死し、落城。

圧倒的戦力を見せつけ、讃岐諸勢力の戦意を喪失させる。

7月上旬(推定)

讃岐国・香西城

喜岡城陥落の報を受け、無血開城。

「見せしめ」の効果が現れ、平定が加速。

7月中旬(推定)

讃岐国・植田城

黒田官兵衛が長宗我部元親の罠を看破。城を攻撃せず、迂回を決定。

元親の讃岐防衛戦略を完全に無力化。無用な損害を回避。

7月中旬以降

讃岐・阿波国境

大坂越えを行い、阿波国へ転進。総大将・羽柴秀長軍との合流を図る。

讃岐平定を事実上完了させ、四国征伐の主戦場である阿波へ戦力を集中させる。

終章:戦後の新秩序—讃岐国の再編と玉藻城の誕生

喜岡城の陥落と植田城の迂回により、讃岐の戦いは終わった。それは同時に、四国全土の戦局が、長宗我部氏にとって絶望的な方向へと決定づけられた瞬間でもあった。

長宗我部元親の降伏と「四国国分」

阿波では、豊臣本隊の猛攻の前に木津城、一宮城といった要衝が次々と陥落 29 。伊予でも毛利軍が快進撃を続け、長宗我部方の拠点を制圧していった 30 。本拠地である白地城に豊臣の大軍が迫る中、家臣・谷忠澄らの必死の説得を受け、元親はついに降伏を決意した 19

天正13年8月、講和が成立。その条件は、元親に土佐一国のみを安堵し、苦心して手に入れた阿波・讃岐・伊予の三国は全て没収するというものであった 13 。四国統一の夢は、わずか数ヶ月で潰え去った。

讃岐の新領主たちの栄光と没落

戦後の論功行賞、いわゆる「四国国分」により、讃岐国は仙石秀久に与えられた 20 。秀吉子飼いの武将である秀久は、聖通寺城を居城とし、讃岐の統治を開始する 5 。一方、秀吉に味方し、長宗我部氏打倒の旗印となった十河存保も、旧領の一部である十河周辺3万石を与えられて大名への復帰を果たした 10 。しかし、その立場は仙石秀久の与力(配下)という、かつての讃岐の雄にとっては屈辱的なものであった 12

しかし、この新体制は長くは続かなかった。翌天正14年(1586年)、九州征伐に従軍した際、軍監であった仙石秀久は無謀な作戦を強行。戸次川の戦いで島津軍に歴史的な大敗を喫し、長宗我部元親の嫡男・信親と共に、十河存保もこの戦いで討死してしまう 5 。この大失態に秀吉は激怒し、秀久から讃岐国を没収、改易のうえ高野山へ追放した 5 。豊臣政権下では、戦での失敗、特に「天下の軍」の秩序を乱す行為は決して許されなかったのである。

新たな時代の象徴「高松城(玉藻城)」の誕生

仙石秀久の失脚後、新たに讃岐17万石の国主として入府したのは、生駒親正であった 5 。武功派というよりは、検地や城下町建設に長けた吏僚派の大名であった彼の入府は、讃岐が「戦いの時代」から「統治と経営の時代」へと移行したことを象徴していた。

親正は、旧来の中心地であった内陸の聖通寺城や、廃城となった喜岡城ではなく、海上交通の要衝である香東郡箆原(のはら)の地に、全く新しい城と城下町の建設を開始する 1 。これが、海水を引き込んだ堀を持つ壮麗な水城「高松城(玉藻城)」である 32

この築城は、単なる居城の移転ではなかった。それは、豊臣政権が志向する新たな世界秩序の現れであった。大坂城と海路で直結し、瀬戸内海の物流と軍事を掌握する拠点として、高松城は計画された。在地勢力の防衛拠点であった内陸の喜岡城の時代は終わり、中央政権に直結し、海に開かれた経済拠点としての高松城の時代が始まったのである。

天正13年の喜岡城の戦いは、讃岐における戦国時代の終焉を告げる壮絶な鎮魂歌であった。そして、その戦いを経て誕生した新たな高松城(玉藻城)は、豊臣政権という巨大なネットワークに組み込まれ、近世へと歩みだす讃岐の夜明けを告げる、希望の象徴となったのである。一つの城の死と、もう一つの城の誕生は、時代の大きな転換点を、今に静かに物語っている。

引用文献

  1. 二つある高松城|ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=657
  2. 喜岡城 - ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/sikoku/kagawa/kioka.html
  3. 讃岐 喜岡城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/sanuki/kioka-jyo/
  4. 喜岡城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kioka.htm
  5. 高松城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/shikoku/takamatsu.j/takamatsu.j.html
  6. 長宗我部元親 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/motochika.html
  7. 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
  8. 四国攻めとは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81-3132294
  9. 現場の声に耳を傾け、四国を統一した長宗我部元親|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-036.html
  10. 十河存保- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
  11. 十河存保- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
  12. 十河存保 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
  13. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  14. 十河城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%9F%8E
  15. 土佐武士の讃岐侵攻⑥(東讃侵攻) - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2840
  16. シリーズ秀吉②四国攻めと長宗我部元親 - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_48/
  17. [合戦解説] 10分でわかる四国征伐 「秀吉に打ち砕かれた長宗我部元親の夢」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=yymhdsME8Kk
  18. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  19. 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
  20. 四国平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11099/
  21. 四国平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  22. 四国征伐- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%9B%9B%E5%9C%8B%E5%BE%81%E4%BC%90
  23. 喜岡城 http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20kioka.htm
  24. 宇喜多秀家- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
  25. 宇喜多氏- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F
  26. 仙石秀久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%A7%80%E4%B9%85
  27. 知将・黒田官兵衛の「状況に応じて戦略を立てる力」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-099.html
  28. 古高松の歴史ー喜岡寺 https://contest.japias.jp/tqj19/190331/htm.furutaka/kiokaji/kiokaji.html
  29. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  30. 四國征伐- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%9B%9B%E5%9C%8B%E5%BE%81%E4%BC%90
  31. 秀吉軍と戦った讃岐武士 - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2875
  32. 四国国分 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%88%86